4章:完全理解・最大出力
空が「青い」などという、そのあまりに初歩的で、あまりに甘美な瞞着から世界の崩落は始まった。
空は青いのではない。私の矮小な視神経が、その奥底に潜む「無」の深淵に焼かれ、発狂することを防ぐために、あつらえ向きの色彩の檻へとそれを封じ込めていただけなのだ。
震える足で丘の上に立ち、肺の奥底に空気を流し込む。喉奥を冷たい針が通り過ぎ、肺胞の隅々にざらついた砂が沈殿していくような、抗いようのない拒絶反応と不快感。
「ルナ」
『はいっ!』
即座に返る応答。それは記号化され、安全に滅菌された、電子の安らぎ。
「【完全理解】を最大出力にする」
『えっ!? だ、だめです! それは――』
「強くなるためだ」
私は自身の言葉を、まるで誰かが綴った戯曲の台詞をなぞるように発した。
強くなる。無双する。魔王を殲滅する。そのWeb小説的な大義名分は、もはや内臓を抜かれた剥製のように、中身の伴わない虚飾に過ぎない。
私はただ、確認したかったのだ。
この世界が、本当に神の摂理による整合性を持って存在しているのか。それとも、私の壊れた脳髄が描き出した、精巧で惨酷な塗り絵に過ぎないのかを。
「出力、上げろ」
ルナの声が、細く、悲鳴のように震えた。
『あわわ……! 勇者さま……!お願い、待って……!』
その瞬間、女神の口調が、張り付けた偽善の仮面の裏側を覗かせるように変質した。それは女神の慈愛などではなく、私自身の、底なしの恐怖を増幅させた自問自答の声に酷く似通っていた。
私は、気づかないふりをした。
視界の端で、冷徹な演算装置が狂ったように数値を刻み続ける。
【完全理解:同期率 72%】
【完全理解:同期率 85%】
【完全理解:同期率 93%】
世界の表面が、炎症を起こした腐肉のように浮き上がる。
ぺりぺりと音を立てて剥がれ落ちた景色の下から、別の「真実」が、どろりとした粘膜を帯びてこちらを覗き込んでいた。
村は、もはや村ではない。
素朴な木材の家々は、巨大な生物の肋骨を無理やり継ぎ合わせた檻。
窓が目になる。だが、その目は私を見ているのではない。ただ「眼球の形」に穿たれた虚無の欠落が、そこに口を開けているだけだ。
“村人”がこちらへ友愛の手を振る。
それは意志を持たぬ肉塊の切片が、機械的な反復運動として空を掻いているに過ぎない。
そして、私がこれまで“モンスター”と呼んで蹂躙してきたもの。
刃が触れるたび、美しい光の粒子に昇華されると信じて疑わなかったもの。
それは――かつて私と同じ遺伝子の配列を持っていたであろう、同胞のなれの果てであった。
泥に汚れた背広の袖。爪の間に詰まった、安っぽい生活の痕跡。
恐怖に赤く充満した液体に、それであったモノの眼球が浮かんでいる。
震える指先が、救いを求めて虚空を掻く。
命乞いをするように歪められた、その口腔であったはずの裂け目。
だが、同時にそこには「肉塊」があった。
名状しがたい、ぬめりを帯びた触手の群れ。垂れ下がる内臓。
そのさらに内側には、宇宙の深淵を煮詰めたような、昏い暗黒が渦巻いている。
【完全理解】は、これら矛盾する二つの視覚情報を許容しない。
理解とは、一義的な真理への到達だ。
私は矛盾を統合しようとする。理解する、とは、対象と「同じになる」ということだ。
同期率が、臨界を突破する。
【完全理解:同期率 98%】
「ルナ、お前の顔が――」
私は、女神の顔を想起しようとした。
銀髪。白いワンピース。背中の羽。そして、私を全肯定するあの笑顔。
だが、その顔だけが、どうしても、膿が溜まった傷口のようにぽっかりと抜け落ちている。
どれほど精緻に輪郭を描こうとしても、筆が滑り、異質な線が混ざり込む。
女神は、看板を持っていたはずだ。【GODDESS】と書かれた、あの滑稽な立て看板を。
その文字が、熱を持った鉛のように溶け出す。
Gの形が崩れ、黒い亀裂になり、その亀裂から、無数の這いずる虫のような何かを産み落とし始めた。
『安心して』
声がした。
それはルナの声であり、
私自身の独白であり、
そして世界そのものが発する、低周波の断末魔であった。
「……ああ、安心して、か」
その音は、私の脳漿を直接愛撫する。
撫でられた場所から、人間としての記憶が薄い皮を剥ぐように露わになっていく。
【同期率 100%】
「鈴木洋介」という矮小な個体。その脆弱な輪郭を「現実」という名の狂気から隔てていた防波堤は、今や跡形もなく決壊した。
――ああ、そうか。
「完全理解」に到達した今、私がこれまで「理解」と呼んでいた営みは、単なる汚染というプロセスの完遂に過ぎなかったのだと、私は「理解」した。
しかし、理解しきったその刹那、理解を司る主体という名の重荷は、剥落というよりは壊死に近い速度で、私の魂から削ぎ落とされた。
私は、笑った。
いや、それはもはや私の喉という生体組織から発せられたものではない。どこか遠い次元の彼方、あるいは肉の隙間に生じた極めて近しい空間の裂け目から、物質的な理を無視して鳴り響いた「異質な振動」だ。
深淵を覗き込み、その底知れぬ深さを測ろうとした愚かな試みの果てに――私自身もまた、光をも吸い込むその暗黒と同じ色に塗り潰されていたのだ。
世界は静かだ。
あまりに静寂が過ぎて、鼓膜の奥で脳髄が濁流のように唸りを上げ、思考の残滓を洗い流していく。
網膜を覆っていた偽りの風景が、冷たく磨き抜かれたガラス細工のように、粉々に砕け散る。
砕け散った破片の向こう側に、ただ在るべき姿で在る「虚無の真理」があった。
私はそれを見た。
……いや、それを見たという観測的な行為さえ、もう遅すぎた。
私は既に、その巨大な狂気の機構を満たす、汚濁した歯車の一部へと変質していたのだから。
私はただ、全天を埋め尽くす、冒涜的なまでに甘美な宇宙の不協和音の中に溶けていった。




