2章:拝啓、俺は異世界で元気にやってます
肺いっぱいに、草の匂いが流れ込んできた。
まぶたの裏側が白から緑に塗り替えられる。ゆっくりと目を開けると、そこには絶景が広がっていた。
「うわ……マジで異世界だ……!」
見渡す限りの大平原。遠くにはエメラルドグリーンの深い森、さらにその先にはのどかに煙を上げる村のシルエット。空は抜けるように青く、雲は綿菓子のように白く、吹き抜ける風が肌を優しく撫でる。
何より驚いたのは、身体の軽さだ。
現実世界では正直運動は得意な方ではなかったが、ここではなんだって思いのままだ。
しかも、もう、肩に食い込む重いカバンはないし、嫌な上司の顔も、加齢臭が充満した満員電車もないので、心まで軽いときたもんだ。
そして――何より、俺には「最強の力」があるのだ。
「よーし……やるか。ステータスオープン!」
異世界転生者なら誰もが一度は叫びたい魔法の言葉。
すると、網膜にパッと鮮やかな青い半透明のウィンドウが出現した。
【名前:エルフリート=レオンハルト】
【職業:勇者】
【レベル:1】
【スキル:完全理解】
【装備:聖剣ルミナス(仮)】
「名前がカッコよくなってんじゃん。……って、(仮)ってなんだよ、ルナ」
思わずツッコミを入れると、脳内にあのポンコツ女神の陽気な声が響きわたった。
『あ、勇者さま! 無事に着きましたね!(仮)は(仮)です! まだ名付けの儀式が終わってないので、とりあえず暫定的なネーミングですよぉ。かっこいい名前、あとで一緒に考えましょうね!』
「なんだ、頭の中に直接聞こえるのか。便利だな」
『もちろんです! それが私の“サポート機能”ですから! 攻略のアドバイスから、勇者さまのメンタルケアまで、二十四時間体制で完全サポートしちゃいますっ。私、勇者さまが一番リラックスできる存在を目指してますから!』
「メンタルケア、か……」
その言葉が、社畜としてボロボロに使い潰された心にやけに深く刺さった。
ルナの声を聞いているだけで、ストレスが溶けていくのがわかる。そうだ、俺はもう、戦わなくていいんだ。……いや、モンスターとは戦うけど。
ふかふかの草地を踏みしめて歩き出すと、すぐに“敵”が現れた。
森の縁から、がさがさと音を立ててぬっと現れたのは――ゴブリン。
「ギギィッ!」
三匹のゴブリンが、粗末な棍棒を振り回しながらこちらを威嚇してくる。
普通の人間なら足がすくむ場面だろう。だが、俺は一ミリも怖くない。
だって、もう“見えて”いるのだから。
「【完全理解】、発動」
意識を集中した瞬間、視界が変容した。
世界から余分な色が消え、敵の身体に鮮やかな「赤い線」が走る。
関節の隙間、心臓の位置、筋肉の動きから予想される次の動作。
それらすべてが、熟練のゲーマーが用意した攻略ガイドのように、視覚的に“理解”できてしまう。
「つまり、ここだ」
腰の聖剣を抜き放つ。
鞘から溢れ出した白い光が視界を埋める。
例の赤いガイドラインに沿って、流れるように一閃。
ズバァッ!
手応えは驚くほど軽い。豆腐でも切ったような感覚。
斬られたゴブリンは、真っ赤な血を流す代わりに、キラキラと輝く美しい光の粒子になって消えていった。
『すごいすごーい! 勇者さま、初戦で見事なパーフェクト勝利です!』
「ははっ、マジかよ。これ、俺が強いのか、聖剣がすごいのか……」
『両方ですよぉ! 勇者さまは特別な存在なんですから! さあ、どんどんレベルアップしちゃいましょう!』
一歩踏み出すたびに、身体の奥から力が湧いてくる。
ゴブリンを倒すたびに、脳裏に心地よいチャイムが鳴り、ステータスの数値が上昇していく。
気づけば、俺は平原の先にある村へとたどり着いていた。
そこはまるでおとぎ話に出てくるような、石造りの家が並ぶ平和な村だった。
村人たちは俺の姿を見るなり、涙を流して歓迎してくれた。
「勇者さま……ああ、伝承の通りだ! どうか、どうかこの地を脅かす魔王軍を追い払ってください!」
言葉は、何の問題もなく理解できた。ルナの翻訳機能が完璧に働いているおかげだ。
『ピコーン! クエスト発生です!【近隣の怪物を掃討せよ!】。クリアすれば豪華報酬と、村の看板娘との素敵なイベントがあるかも……ですよ?』
「看板娘、ね」
俺はふっと少しだけ笑った。
目の前にいる村長は、ひどく熱心に俺の手を握りしめている。
もういいよ、早く放してくれ暑苦しい。
「任せろ。俺が全部、解決してやるよ」
そうだ。もう、俺を縛るものは何もない。
この美しくて優しい世界で、俺は俺として生きていく。
薄皮一枚で繋ぎ止められていた、あの灰色の日常。
そんなものは全部、この聖剣で切り刻んで、光の粒子に変えてやればいい。
俺は眩しい太陽を仰ぎ見た。
……太陽の真ん中に、一瞬だけ、真っ黒な「穴」が開いたような気がしたけれど。
すぐにルナが「わあ、日差しが強いですね! サングラス機能、オンにしますか?」と可愛く囁いた。
ほんと便利な女神だな、ルナは。




