第二十六話 崩壊の夜
その日、ミナとチロルは買い物に出かけていた。
パン屋の横を通りかかったが、店は閉まっていた。
「昼間なのに閉まってるって、ベイクドかい!」
ミナは肩をすくめて笑った
「あはは、また今度だねー」
二人は軽く笑い合いながら、村の広場へと歩いていった。
――それが、平穏な最後の時間だった。
チロルが露店でハーブを選んでいる間、ミナは少し離れた道の脇で花を見ていた。
そのとき、背後から声がした。
「お嬢さん、一人かい?」
振り返ると、そこには粗野な男――トロイと、その部下たちが立っていた。
ミナは反射的に杖を構えたが、その首筋に冷たい刃が当てられる。
「動くなよ。こいつを殺されたくなかったら……大人しくついてこい」
見ると、チロルが捕まっていた。
ミナの顔から血の気が引いた。
「チロルを離して!」
「静かにしな。言うことを聞けば、誰も傷つかねぇさ」
ミナは唇を噛み、抵抗をやめた。
チロルの涙が光る。
「……大丈夫。すぐ戻るから」
そう言い残して、ミナは連れ去られた。
「ミナおねーちゃん……!」
「おチビちゃんは、家に帰って、この紙を渡すんだよ」
チロルは紙を渡され、泣きながら翔太の居る宿屋へ戻る。
ーーー夕暮れ、みんなの元に戻ってきたチロルは翔太に紙を見せて一部始終を話す。
それは、汚く書きなぐった文字の脅迫状。
『女が欲しければ、一人で森の旧井戸まで来い。』
翔太の拳が震えた。 しかし、心は静かだった。
「罠だ……!」
ジルクが考えるよりも先に口にでる。
「ああ……でも行くしかない。それしか方法が……」
―――森の奥、旧井戸のほとり。
霧の中にミナの姿が見えた。鎖に繋がれ、首にはナイフが突きつけられている。
カマルが艶やかな声で笑った。
「まぁ、やっと来たわねぇ……勇敢な坊やぁ」
その姿は女のような妖艶さを帯び、長い舌で唇をなめた。
「ミナを離せ」
翔太の声は低く、抑えられていた。
「やぁ~ねぇ……怖い顔して。あたしはちょっと遊びたいだけなのに」
カマルはミナの髪を撫でながら、軽く刃を押し当てた。ミナが小さく呻く。
「やめろ!!」
「動くなって言ったでしょ?あれ…言ってなかったっけ?」
その隙に、トロイが後ろから翔太に襲いかかった。
翔太は一撃目をかわしたが、反撃をためらった。
ナイフがミナの喉に触れている。
「どうした? 戦えねぇのか? この前の威勢はどうしたぁ!」
トロイの鎖鎌が翔太の肩を裂く。血が飛び散る。
さらにもう一撃。翔太は地に膝をついた。
カマルはそれを見て楽しげに笑う。
「ふふっ 弱いわねぇ。もっと楽しませてよぉ」
翔太は歯を食いしばる。怒りが、胸を焦がしていく。
だが、ミナの命が――。
「翔太ぁー! 反撃して!私は大丈夫だから!」
ミナの叫びが届く。
その瞬間。
ミナは、カマルが突きつけていたナイフの刃を――歯で噛んだ。
「なっ……!」
カマルの顔が一瞬、驚きに歪む。
だが次の瞬間、慌てたカマルは力任せに刃を引いた。
――ブシュッ。
血が霧の中に舞った。
(……あれ?わたし死んじゃうの?)
「翔太っ!」と叫びたかったが声にならない。
ミナの体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
「あら……殺しちゃったぁ~」
カマルは肩をすくめ、まるで花を摘んだような軽い口ぶりで言った。
その言葉が、翔太の中で何かを完全に壊した。
右手の紋章が、灼けるように光を放つ。
血が逆流する。
脳の奥で、黒い声が囁く。
――怒れ。――憎め。――殺せ。
「……カマル」
翔太の震える声が低く響く。
「お前を――殺す」
次の瞬間、翔太の体から黒い炎が吹き上がった。
トロイが叫ぶ間もなく、視界から翔太の姿が消えた。
「ドシュッ」
トロイの胸に風穴が開いた。
彼の体は、まるで糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「ひっ……!」
カマルが後ずさる。
翔太の顔は、もはや人のものではなかった。
片目は紅く染まり、右半身が黒い角と鱗に覆われている。
「化け物……!」
カマルは舌打ちし、闇に溶けるように姿を消した。
翔太はミナの亡骸に手を伸ばそうとしたが、血に濡れたその手を見て、崩れ落ちた。
「……ああああああああああっ!!!」
森に、絶叫が響く。
理性を失った翔太は、黒い翼のような力を広げ、夜空へと飛び去った。
―――数時間後。
森に入ったジルクが、地面に倒れたミナを見つけた。
「ミナ……!? 嘘だろ……!」
彼は震える手で抱き上げた。まだ温もりが残っている。
だが、その瞳はもう開かない。
「翔太は!?……どこに行った……」
ジルクの胸に、鈍い痛みが走った。血の匂いと、遠くで揺れる二つの月。
世界が、少しずつ崩れ始めていた。
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次回、第二十七話 偽りの王と黒き再生




