第八章 前夜祭 後編
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秋の風は肌に涼しくも、ふとした拍子に冷たく吹きつけるときがある。部屋の空気が十分に入れ替わったところで、部屋の窓が閉められた。ベルガモットの香が焚かれ、爽やかな香りが寝室に広がってゆく。
「いい香りだ」
グラディスは感心しながら、静かにドアを閉めた。
「気に入ると思ったよ」
ベルガモットがイグニスの一番好きな香りだと、レイはあえて言わなかった。
そしてイグニスといえば、今なおベッドで眠っている。レイは暖炉の火を燭台に移しかえた。傍らで揺れる蝋燭の炎が、イグニスの頬をうすぼんやりと照らした。
「この子は今でも暗闇を怖がるのかい?」
「あぁ。寝る前は必ず蝋燭を灯すんだ」
「昔の癖ってゆーのは、なかなか変わらないものだな」
「変わった子だよ。気づけばいつも床で寝てるんだ。ベッドで眠ればいいのに、暖炉の前が一番落ち着くらしい。まったく、変なところが似てしまったよ」
グラディスの知るイグニスは眠りが浅く、よく夜中に目を覚ました。そのたびにミルクを温めたり、添い寝をしたりしたものだ。目を頑なに閉じ、眉間に皺を寄せて眠る顔は、あまり穏やかとは言えない。唸り声はしないが、時折り首を横に振り、汗を掻いている。
「きっと荷が重過ぎたんだ。たった半日で王様になって、それから父親と再会して、育ての親は伯父ときたもんだ。誰だって動揺するよ」
「いつかは乗り越えなきゃいけない。それが今日だったのさ」
しばらくはイグニスも目覚めないだろう。済ませておくべき話があるなら、今がそのときである。
「兄さん、実はね。前に一度、アンを見かけたことがあったんだ」
遠い目をしながら、グラディスはそのときの様子を語った。それはグラディスがティボスへ赴いて三年目のこと。森に残した子供たちは十三歳になる年である。馬に乗り、仲間と街を巡廻している昼のことだった。グラディスの目に、一人の女が目に入った。見覚えのある臙脂色のローブ。彼女は八百屋に積まれたオレンジを手に取り、しげしげと眺めていた。そして鼻に近づけ、その香りを嗅いでいた。
「アン!」
大勢の前で名前が呼ばれる。彼はもう一度、アンの名前を呼んだ。
「アン、僕だ!」
馬を降り、彼女の傍に駆け寄る。女は自分が呼ばれているのだと知り、やや酷薄な顔を向けた。
「なんのご用でしょうか?」
「アン、僕だよ、グラディスだ」
必死で訴えかけるグラディスを、女はさも怪訝そうに目を細めた。
「誰かと間違えていらっしゃいますよ」
「なにを言ってるんだ。僕が君を間違えるはずがない」
女はグラディスを無視し、その場を去ろうとした。
「子供たちは? 二人とも変わりないかい?」
背を向けた彼女の前にまわり込み、じっと目を見据えた。
「この辺りに引っ越したのかい? それならそうと、便りの一つもよこしてくれればよかったのに」
「いい加減にしないと私、大声出しますよ?」
女はそう言って走り去り、あっという間に見えなくなった。狭い小路に駆け込まれ、馬に乗っては追いかけられない。
「アン! 待ってくれ、アン!」
オレンジの山がゴロゴロ崩れたが、女は振り向きもしなかった。
「すまないが先に戻ってくれ」
グラディスは手綱を強く握り、踵を返して馬を走らせた。彼の頭にあるのは、森に置いてきた子供たちのことである。戻らぬつもりであったが、今しがたの異変を目の当たりにしては、その信念もさすがに揺るいだ。
———いったいどうなってるんだ
底なしの不安が腹の底から込みあげ、グラディスは今にも吐きそうになった。ラクトリエの稽古でも、こんなに気分が悪くなったことはない。境界線の小屋を目指し、風を切る速さでグラディスは森へと向かった。薄暗いネブラの森。静かなこの場所に響くのは、愛馬の駆け抜ける蹄の音ばかり。
———ちっとも変わってない
昔のままに佇む丸太小屋が、そこにはあった。薪を割る切り株、養蜂箱、鶏小屋。煙突も昔のままだが、夕食を作る煙りは昇っていない。
グラディスは胸の締めつけられる思いだった。微かに残る夕陽を頼りに、燻んだ窓ガラスから中を覗いてみる。返事はなかった。
すると突然、中から玄関が開けられ、見知らぬ男がニコリともせずに顔を出した。グラディスは一呼吸置き、乾いた唇を舐めてから、
「あの、失礼ですが、こちらにお住まいで?」
「あぁそうさな、お宅は誰だい」
精一杯に怪しまれぬよう家の中を覗く。
「以前ここに住んでいた者です」
それを聞き、男はなにやら思い当たる節があったようで、小さく頷いた。
「そういうことかい。じゃあアンタがこの家を?」
「えぇ、まぁ」
「中に入ってくかい?」
グラディスが害をなそうとしないのを知り、警戒心は解かれたようだ。
「いえ、いいんです。お邪魔しました」
男が独りなのは一目瞭然だった。ここに自分の家族はいないと分かっただけで、グラディスは十分だった。
———もっと早く帰っていれば
家を去る前、もう一度だけ振り返ると、カシとブナの木が目に入った。ラウアとイグニスが五歳の誕生日に植えた木である。子供たちは、いったいどこへ行ってしまったのだろう。得体の知れぬ心細さが込みあげてくる。
どこからか流れた風に、カシの梢がふわりと揺れた。それなのに、グラディスには今この場所が見知らぬ土地のように思え、急に恐ろしくなった。
グラディスは蝋燭の炎に記憶を映し、そこで話を終わらせた。最後に見たアンの瞳。グラディスを不審者と訝る、他人の眼差し。かつて相思相愛と疑わなかったその瞳に、もう愛はなかった。グラディスはそれを思い起こし、涙を浮かべている。
レイの脳裏には、アンが裏口を叩いた日が思い出された。うつむき加減で向けられた、すがるような眼差し。その彼女に忘却の薬を渡したのは、誰でもない自分なのだ。
「あのときはもう忘れてたんだよ。子供たちのことも、なにもかも」
気持ちを落ち着けようと、グラディスは大きく息をついた。せめてシュプールサーマへ逃れていればよかったが、どうやらそうはしなかったらしい。
「兄さん、どうしたらいいんだ? これまで家族だけを支えに生きてきたのに」
「それが彼女の選んだ道なんだ。手紙にも探さないでって、そう書いてたじゃないか。それに今はイグニスがいる。あの子がこれから必要なのは父親の導きだ。傍にいてあげるんだよ。そして力になるんだ」
「頼むから、兄さんまで消えたりしないでくれよ。イグニスもきっとそれを望むはずだ」
ウーン、ウーンとうなされる声が聞こえた。イグニスが目を覚そうとしている。二人が寝台に駆け寄ると、イグニスは回らぬ舌で静かに話しはじめた。
「お師匠、変な夢を見たんだ。俺が礼拝堂のサーベルを抜いて、それから王様になってさ、お城に着いたらお師匠がいて、実は自分が父親なんだって言ったんだよ」
「いい知らせと、もっといい知らせがある。いい知らせは、その夢が半分真実だということ。もっといい知らせは、お前には父親が二人できたということだ」
「あぁ———なんてこった」
目の焦点が次第に合ってきた。枕元にいる師匠の一歩後ろで、神妙な面持ちのグラディスが立っている。
「お師匠、悪いんだけど、少し席を外してくれないかな」
レイが気を利かせる前に、イグニスから先に願い出てきた。
「あぁいいとも。お前の好きなお茶を入れて来よう。すぐ戻るよ」
残った父と子はしばし身の置き場を探した。やはりレイが傍にいてくれたらと、内心では二人とも思っていたが、それはもう遅い。先に沈黙を破ったのはグラディスだった。
「本当に立派になったな。見違えたよ」
イグニスはなにも言わなかった。目を逸らし、あらぬほうを見つめるばかり。こうする間にも、記憶を塞いでいたものが溶けだし、滲み、再びイグニスのものになろうとしているのだ。目の前の息子は、その課程を必死に乗り越えようとしている。刺激の強い話はすべきではないかもしれない。どこから話すべきか迷ったが、グラディスは思いつくことから語りはじめた。
「お前のお母様と私は、正式に結婚してなかったんだ。誰にも知らせず、祝福も受けなかった。そしてお前たちが生まれた。お前たちの存在を知る者は、この世で誰もいなかったんだよ。だから成人を迎えるまでは森の中で育てようと、お母様と二人で話しあったんだ」
沈黙ののち、イグニスは顔をあげた。それでもまだ、自分から話そうとしない。グラディスは話を続けた。
「本当にすまない。今からでも間にあうなら、親子の時間を取り戻したいと思ってる。ほら、昔みたいに焚き火を囲んだり、ボートに乗ったり」
懐かしい記憶が、イグニスに甦る。片手でクシュッと卵を割り、パンケーキをひっくり返してくれた、幼き日の父親像である。
「たまには会いに来て欲しかったです。一か月に一回でも。半年に一度でも」
「もちろんそうしたかったとも。だが私は弱いんだ。家族恋しさに、任務を疎かにはできなかった。三年後に一度だけ森へ戻ったら、もうそこにお前たちはいなかった。レイザーが同じ街に住んでるとも知らず、そこに息子が引き取られたのも知らなかったんだ」
「お母様は今どこにいるのですか? ラウア姉さんは?」
「お前をレイ伯父さんに預けたとき、お母様は行き先を告げなかったそうだ」
「きっと僕のことが嫌いになったんですよ」
「そんなことがあるものか。お母様は誰よりお前を愛していたとも」
「じゃあどうして」
「これはお母様が最後に書いた手紙だ。私宛てに書かれたものだが、お前にも読んで欲しい」
これを読めば、息子はさらに傷つくに違いない。それでも息子は真実を知る権利がある。グラディスは手紙をイグニスに渡した。認められた一言一句を目で追い、イグニスは噛みしめるように手紙を読んだ。知られざる両親の過去と秘密。何度も何度も、イグニスは手紙を読み返した。涙でインクが滲み、便箋がクシャクシャになるほど、イグニスは母の言葉を胸に刻みつけた。
「息子よ、教えてくれないか? お前は父さんと母さんの元に生まれて、後悔はないかい? 森の中という、誰とも違う環境で育って、それでも幸せだったかい?」
そのとき、レイがカートにお茶を乗せて運んできた。完成間近の城には、厨にも応接間にも、入り用なものはすべて取り揃えてあった。温められた空のカップが三つ。それから銀のサモワールと、ミルクに砂糖壷。ビスケットも添えられている。発狂したイグニスがトレイごとひっくり返す修羅場を覚悟したが、穏やかな二人の表情に、レイは安心した。
「お茶が入ったよ。少し気分を落ち着けよう」
三人は湯気の立つお茶に口をつけ、まずは一口。そして二口目からミルクを入れ、三口目で砂糖が入った。
「お父様、お気づきでしたか? このお茶にはわずかですが、ミントが入ってるんですよ」
たった一滴の隠し味を、イグニスはそのまま言い当てた。そればかりか、そのミントはネパルナ産のマルバハッカとまで聞かされ、グラディスは目を丸くした。
イグニスはカップに視線を落としたまま続ける。
「僕はお師匠の弟子を卒業したら、世界を旅してまわろうと思っていました。家族を捜すつもりだったんです。でもまずは、サンツァルザーマを平和に治めなくてはなりません。僕みたいな思いをしてる子供たちが、ほかにも沢山いるはずですから。力を貸してくれますか?」
お茶を一口飲むごとに、イグニスの体に少しずつ気力が甦ってきた。
「あぁ、もちろんだとも。お前のために鍛えた軍隊だ。ここにいる全員が私に忠誠を捧げている。私はお前の父親だが、今日から私の主人でもある。誰もが国王に忠誠を誓い、命令に従うだろう」
「ありがとうございます。それからお師匠、」
「なんでしょう、陛下」
「まだ作り方を教わってない薬があります。それを教えてもらうまで、僕は永遠に半人前です。この城の専属薬師として、そして僕の相談役として、教え導いてくれますか?」
「身に余る光栄にございます」
レイは二つ返事で快諾した。そうと決まればグズグズしている暇はない。三人は馬を走らせ、ティボスの広場へ向かった。颯爽と馬に跨るイグニスに迷いはない。今夜は盛大なる前夜祭。国王の誕生を世に知らしめるのに、これほどお誂え向きの夜はなかった。
遠くに華やぐ街の明かり。そこには何十万という主護神たちが集まっていた。近づくにつれ、楽の音がはっきりと聞こえ、いい匂いが鼻を掠めた。砂糖菓子や焼きトウモロコシの匂いである。
「オイ、コラッ! 花火を持って走っちゃ危ないだろっ!」
「え? なに? 聞こえないよぉ!」
例年にも増し、屋台がずらりと軒を連ねている。物売りに客引き、それらに引かれる大衆の流れで溢れ返っている。大人も子供も顔にペイントアートを描き、みなが一緒になって輪投げや九柱戯を楽しんでいる。中央に位置する巨大な舞台では、今まさにアップルボビングの最中であった。
街の入り口に三人が到着すると、彼らを目にした者から順に口をつぐんだ。先頭にグラディス、真ん中にイグニス、その後ろにレイが続く。三人は馬に乗ったまま、中央にある舞台へゆっくり進んでゆく。演奏部隊も手を止めると、とうとう何十万もの民が一斉に静まり返った。鞍を降り、イグニスは一歩一歩を踏みしめ、舞台にのぼり詰める。そして民衆の視線を一身に集めると、先に待つ父の前に、イグニスは跪いた。
軍人であるグラディスに、正式な王位を授けることはできない。ましてここは大聖堂でなく、材木で組み立てただけの、祭り用の舞台。彼にできるのはそう、息子に剣士の称号を与えることだった。
イグニスは片膝をつき、サーベルの護拳に額をつけてグラディスの前に跪いた。グラディスは腰に挿した剣を平らに捧げ持ち、イグニスの左肩と、それから右肩に触れた。主護神たちは片時も目を逸らさず、固唾を呑んで見守っている。
「これでもう、お前は正式な剣士の一員だ」
耳元で囁かれた父の言葉を合図に、イグニスは立ちあがった。そして手にしたかのサーベルを、天高く掲げた。
ウワァーッという歓声が怒涛の勢いで起こり、国王の誕生がいちどきに知らしめられた。あえかな少女が一人、群衆を掻き分けて舞台に駆け寄ってきた。スープ屋台の少女は月桂樹を一枝持ってくると、そこにスルスルと葉を繁らせ、王冠を見立てて冠を作った。それを受け取ったグラディスは声高らかに宣言した。
「今ここに、ヴァロアの剣士が現れた。青年エリシオは今日の日よりその名を改め、イグニス王を名乗るものとする。国王イグニスに栄光あれ!」
冠が頭に載せられ、再びイグニスが立ちあがる。歓声はより大きなものとなり、夜空には花火が盛大に打ちあがった。楽器という楽器が打ち鳴らされ、あちこちで乾杯の音が響く。それからみんなが舞台を囲み、何重にも輪が重なると、右回りと左回りの交互でポルカがはじまった。これほど賑やかで楽しい夜を、イグニスはいまだかつて経験したことはなかった。前夜祭は夜通し続き、足がほつれてフラフラになるまで、サンツァルザーマは踊り続けた。
正式な戴冠式は明くる日の昼に執り行われた。厳かな雰囲気に包まれた聖堂で、声高らかに言上が読み上げられる。身廊の先で厳かに待ち構えるのはティボスの長である。昨日の今日で急遽典士の役を担い、やや緊張した面持ちである。
イグニスきっての希望から、太陽のように燃える赤色でローブが仕立てられた。真紅のサテン生地がメラメラと眩しい。火の帯のごとく長いローブの裾を引きづりながら、イグニスはゆっくりと身廊の真ん中を歩いた。長と目を合わせ、イグニスは静かに跪いた。
「こ、こ———」
典士は今一度、小さく咳払いをし、深呼吸をする。
「ここに在すは、天の秩序を背に立つ者なり。そは剣によりて征す者にあらず、正しき心を以って民を導く者なり。汝、神々の御前にて問う———其方は、いかなる闇にも道を見失わず、王たるにふさわしき徳を、終生、貫き通す覚悟を持つか」
「然り、わが命にかけて誓います」
参列する子供が母親の袖を引き、その意味を問うた。
「なにをはなしてるの?」
母親は小声で耳打ちする。
「王様になっても頑張りますって約束されたのよ」
「ゆびきりげんまん?」
「そう、指切りげんまん」
典士は前もって預かったサーベルを捧げ持ち、それをイグニスへ渡したあと、王冠を頭に載せた。その手が密かに震えている。イグニスは目を伏せながら、口元に笑みを浮かばせた。
「今ここに、神と民との許しにより、正しき王が生まれたり。 我らはこの者を、サンツァルザーマ初代の国王として戴く」
その宣言と共に、身廊に並んだラクトリエの騎士たちがガシャンと鎧を軋ませ、一斉に傅いた。ステンドグラスの光が七色に射し、黄金の冠を眩く照らした。堅苦しい儀式を終えると、典士と国王は互いに目を合わせ、緊張の綻びから互いにホッと胸を撫で下ろした。
国王の声明が鐘の音とともに知らされると、白い小鳩が何万と羽ばたき、境界線を越え、シュプールサーマへと吉報を運んだ。
戴冠式が終わると、そのあとには収穫祭の本祭が控えていた。過去に類を見ぬほど盛大にお祝いされたが、実は民の記憶に残るのは昨晩の前夜祭であった。なにより、イグニス自身があの夜を忘れることはなかった。絵師が肖像画を描くとき、イグニスはいつでも王冠を脱ぎ、月桂冠を被りなおした。その絵を見た者たちは口々に語る。「あの月桂冠を授かった日こそ、我が国王がこの世に誕生した日なのだ」と———
*
イグニスが国王となってより、彼が一番最初にしたことは、ナラベルの町の訪問であった。レイが密かに願った家族の再会を、せめてもの恩返しに叶えてあげたかった。戴冠式後、向こう一週間はお祝いが続く。サンツァルザーマが浮かれている間に、こっそり動いておくのが得策であろう。
頑なだったグラディスも、国王の命とあらば逆らえぬ。ついにはレイとともに、母カハナを訪ねると承諾した。いきなり押しかけては母が卒倒しかねないので、経緯は事前に手紙で知らされた。連れの者はなく、ナラベルへ向かうのは三人だけである。カハナの喜びようがどれほど手放しであったか、想像するに容易い。
「夢じゃないだろうね。ほら見てよ、私の息子がこんなに立派になって、それに孫は王様だなんて」
感激のあまり、カハナはいっぺんに三人を抱きしめた。
「ここまで来たら、もうティボスに来るしかないよ、母さん」
「そうだよ、これは国王陛下からのお達しだからね」
はじめて対面する孫のイグニスからも挨拶がなされた。
「おばあ様、お初にお目にかかります」
「あらまぁ、そんな堅苦しい挨拶は抜きにして、もっと気を楽にしてちょうだい」
「ごめんなさい、僕、こんなときなにを言えばいいか慣れてなくて———」
カハナはまじまじと顔を近づけ、そして目を覗いて微笑んだ。
「まだ信じられないわ。私、とうとうおばあちゃんになっちゃったのね」
息子らのいいところばかりを受け継いだ孫の顔は、なににも替え難いほど愛おしい。
「おばあ様、どうかお城へ来てください。そしてお話をたくさん聞かせてください」
「息子の願いは聞かなかったけど、可愛い孫の願いなら聞くしかないわね。でもお城だなんて、私には贅沢すぎるわ。しばらくはレイのお家にお世話になりますよ」
荷物をまとめ、ヤギやヒツジまで連れて行こうとする母を見たレイは、慌ててそれを引き留めた。譲れるものはご近所に譲り、身支度を鞄一つにまとめると、彼女は晴れてティボスの住人となった。
ナラベルからティボスまでの道中、親子三代は連れ立って馬に乗り、隙間を埋めるように語らいながら道を進んだ。なにせ積もり積もった話が三世代分あるのだ。イグニスはこの上なく幸せだった。殊にカハナは話し相手に飢えていたようで、レイとグラディスの子供時代から夫との馴れ初めまで、なにを聞いても、聞くに飽きぬ話ばかりである。そしてレイがイグニスを引き取る前に、一度ナラベルを訪れたことも話してくれた。
「そうだ、出発前に焼いたクッキーを忘れてたわ。さぁイグニス、クッキーをお食べ」
「母さん、宿屋に着いてからでいいだろ」
「なに言ってんの、クッキーは焼き立てが美味しいに決まってるんだから」
「母さんのクッキーは冷えても美味しいよ」
カハナが、馬に揺られながらも無理に手を伸ばすので、クッキーが今にも落ちそうである。
「美味しそうですね、いただきます!」
煎餅くらいに大きめで焼くのがカハナの拘りらしい。それを頬張りながら、一堂は陽が暮れる前に宿屋へ入った。ナラベルとティボスの中間に位置するノモス半島。この半島を見渡す岬に、小綺麗な宿屋があった。
「これはこれは国王陛下、お待ち申し上げておりましたよ。さぁ、中へお入りください」
出迎えるのは宿屋の主人である。行きがけに立ち寄ったのは成り行きだったが、帰りは四人で泊まると伝えてあった。行きの宿泊が唐突すぎたあまり、主人は準備不足をひどく悔いていたのだ。
「娘のタニヤでございます、先日はご挨拶ができませんで、いやはやお恥ずかしい」
再訪に向けた主人の準備は万端。その熱意たるや桁外れである。
「あら、可愛いお嬢ちゃん。夕食を作るの一緒に手伝ってくれるかい?」
主人はすぐに娘を後ろに隠し、
「いやいや、ご夕食でしたらこちらでご用意いたしますのに」
「孫に我が家の味を食べさせたいのよ。厨をお借りできます?」
カハナは笑ってタニヤの手を引き、レイと共に厨へ向かった。馬を引き連れ、グラディスとイグニスは裏の納屋へと向かう。
「王様になったら、みんなよそよそしくなるんですね」
どこか寂しそうにイグニスが呟く。
「国王になっただけが理由ではない。王たる自覚は責任を伴う。その緊張がおのずと伝わり、まわりも身構えてしまうのだ」
グラディスは此度の計らいを国王に感謝し、息子をさらに誇らしく思った。飼葉桶から水を汲み、鬣へ丁寧にブラシをかける。
「長旅お疲れ様だったね。ゆっくり休んで」
嘶く愛馬をなだめるとき、宿屋の少女が駆け寄ってきた。父に促され、ニンジンを持ってきたのだ。どうやら王の白馬を見て、イグニスが本当に王であるのを知ったらしい。少女はイグニスへ、何気なくこう訊ねた。
「王様はドラゴンを倒したのですか?」
「ドラゴン?」
イグニスは首を傾げた。どこかで聞き覚えのある響きである。そうだ、確か———
「バサエナ山に棲むといわれる怪物ですよ」
横からグラディスが助け舟を出した。四つ折りにされた竜の挿し絵がイグニスに差し出された。
「王の空位が続いたものですから、このドラゴンを倒せば王になれると、誰かが言いはじめたのです。サーベルを抜くより、ドラゴンを倒すほうが簡単と思ったのでしょう」
少女がいる手前、グラディスは慎重に言葉を選んだ。
「勇み足な話ですよ」
話についてゆけず、キョトンとする少女へ、
「そうだ、ニンジンのお礼にクッキーをあげるよ。ハイ、これどうぞ」
クッキーをもらった少女はお辞儀をし、嬉しそうにその場を去った。
「今でもドラゴンはその山に?」
ドラゴンの絵を再び丁寧に折り、グラディスはそれを懐に納めた。
「あぁ、いるとも。不思議なことに、他の怪物は神出鬼没だが、こいつだけは山から動かない」
グラディスはドラゴンにまつわる話を淡々と済ませた。だが思いのほか、ドラゴンの存在はイグニスの好奇心を掻き立てた。そればかりでなく、彼はどうしても自分の目でドラゴンを見たいと思ってしまった。
「お父様、確かドラゴンのウロコで作られた剣をお持ちでしたよね? お母様からの贈り物だったという」
「あぁ、今でも大切に持っているとも」
「僕には不思議でなりません。どうしてお母様はドラゴンのウロコを持っていたのでしょうか?」
「それは私にとっても長年の疑問だった」
「剣を受け取ったときに、お母様はなんと仰っていたのですか?」
「懇意の鍛冶職人に拵えてもらったとだけ言っていた。だが不可解なことに、当時のメルヒナにそんな鍛冶屋は見つからなかったのだよ」
森の我が家に家族が居ないと分かり、グラディスはアンの足取りをたどることにした。これまで交わした思い出話を頼りに、グラディスはアンの父親を捜した。メルヒナにある鍛冶屋を手当たり次第に尋ねたが、手掛かりはなにも掴めなかった。試しに一軒の鍛冶屋へ入り「竜のウロコで剣は作れるか?」と訊いてみたが、冗談はよせとあしらわれ、収穫はなかった。
「それから、この剣が役に立つ日が来るとも言っていた。なにを意味するのかは分からない」
アンのことならなんでも知っているつもりだった。だがここにきて、実は知らないことのほうが多いのではないかと、申し訳なさげにグラディスは語った。
「お父様、そのレイピアをお借りしてもよろしいですか?」
「お前が望むなら返す必要はない。賢く使いなさい」
一行がティボスへ戻ったとき、グラディスは忘れずに件の剣を差し出した。目もあやな漆塗りの鞘。細やかな螺鈿細工で獅子が象られている。見た目の重厚さとは裏腹に、レイピアは羽根のように軽かった。これが怪物のウロコから作られているとは到底思えない。それがイグニスの抱いた剣の印象だった。試しになにかを斬ってみようと過ったが、その考えはすぐに打ち消された。傷でもつければ———もっともドラゴンのウロコなら傷なぞつきそうもないが———治せる職人はおるまい。それにこの剣だけが、母の残した唯一の忘れ形見なのだ。
———役に立つ日は近いかもしれない
その二日後、イグニスはドラゴンと対峙したことのある男を城へ招き、怪物の棲家を聞きただした。自分が城に召し出された理由は聞いたが、男は両手を揉みしだき、ソワソワしている。最初は警戒して口をつぐんでいた男が、ようやく話しだした。
「王様、悪いことは言わねぇ。やめといたほうがいいでさ。あれからずいぶん経ちますが、ヤツはますます強くなってるって噂ですぜ。生きて戻れる保証もないんでやんすよ?」
「其方がここにいることが、生きて戻った者がいる証拠。確かに力では勝てまいが、勝算がないわけではない。其方が私をバサエナまで案内してくれたら、とても助かるんだが」
王様の頼みでも、さすがにこればかりは引き受けらぬと、男は丁重に申し出を断った。そもそもあれは偶然通りかかっただけで、願わくば二度と出くわしたくない生き物だったと、男は語る。
「ただ、こっちからちょっかい出さなきゃ、大人しくしてるみたいでさぁ」
「そうか、貴重な話をありがとう」
「どうしても行くのであれば、くれぐれもお気をつけくだせぇ」
そう言い残し、男は城を後にした。
誂えたばかりの甲冑を当て、頼もしい従者を二人選び、イグニスはバサエナへ向かった。今回の旅にグラディスは付き添わない。それはイグニスきっての願いであった。父の支えなしで、自身の力を試したかったのだろう。グラディスは内心気を揉んでいたが、イグニスは意気揚々とドラゴンの棲家を目指して出発した。




