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第八章 前夜祭 前編

本書の著作権は著者に帰属します。著作権者の事前の書面による許可なく、本書の全部または一部を複製、転載、翻訳、要約、電子的配信等いかなる形式においても使用することを禁じます。

本書の内容に関するいかなる権利も、著作権者の明示的な許諾なしには譲渡されません。

 今日からティボスでは大規模な収穫祭が催される。前夜祭、本祭、後夜祭の三日間。各地から大勢が集まるため、一年でティボスがもっとも賑わいをみせるのが、この収穫祭であった。お祭りの準備で街は大忙し。どの宿屋も、遠方からの宿泊客でいっぱいだった。

 前夜祭の朝、エリシオは市場へ仕入れに出ようとしていた。

「市場に行くならカブを忘れないでおくれ」

「分かってるよ、お師匠」

「選び方は分かってるな?」

「大ぶりなのより、小ぶりで形がいいのを選ぶこと。ややピンク色を帯びてれば完璧。だろ?」

「大いに結構」

「大いに結構」

 長いローブを翻し、エリシオは勇んで市場へ出掛けた。今夜の前夜祭では、エリシオも屋台を出すことになっている。おかしな声になるビックリ水や、自分が一番好きな味に変わるキャンディ、噛むたびに色が変わる風船ガムなど、とっておきの工夫を凝らして、子供たちを楽しませる準備をしていた。

「おはよう、エリシオ!」

「おはよう! いい朝だね」

 その見た目で誰もがそうと分かるように、丈長のローブは月信仰の象徴である。敬遠されがちなマッセンもいる中、エリシオはどこへ行っても人気者だった。レイの一番弟子ということも大いに影響力が大きい。

「お、今朝は早いね、お弟子さん」

「おはよう。カブをもらいに来たんだ。いいのあるかい?」

「ウチの野菜はいつでも採れたて新鮮さ。アーティチョークでもなんでも、好きなのを持ってけばいい」

「ありがとう。お代はこれでいい?」

 この市場では物々交換で取り引きが成り立つ。カバンから取り出した小瓶は、軽めの頭痛薬だった。

「要らないよ。前に風邪を引いたとき世話になったからな。またよろしく頼むよ、師匠によろしくな!」

「ありがとう!」

 レイが無償で薬を処方するお陰で、エリシオはいつでも誰からでも品物をもらうことができた。パイを食べたそうに立つ子供がいれば、エリシオは目配せ一つで屋台の店主にお願いをする。子供は嬉しそうにパイを受け取った。

「ありがとう、エリシオ!」

「どういたしまして!」

 朝の市場は活気に満ち満ちている。野菜や果物を積んだ荷車が行き交い、香辛料や、紅茶や、コーヒー豆の匂いが立ち込める。夏用のキトンや冬用のトーガ。アロマの蝋燭、お香、天然石のアクセサリー。見ているだけでウキウキしてしまう。

 エリシオは見違えるほど立派な青年に成長していた。スラリと伸びた長身に丈長のローブがよく似合う。それでいながら少年の心を持ち続け、純粋無垢で元気いっぱい。なにより、愛嬌たっぷりの笑顔が万人を癒し、その不思議な魅力が周囲を惹きつけてやまなかった。年頃の娘たちはエリシオを見るなり胸をときめかせる。なんとか話しかける口実を作り、今夜のお祭りで一緒に踊りたいと考えているのだ。

 そんな朝のことだった。普段は気にならぬ鐘の音が妙に大きく聞こえ、エリシオは帰り道に聖堂の前を通った。天まで届くような石造りの聖堂。完成してからずいぶん経つが、彫刻や装飾の細やかな修正は今でも続いている。この聖堂がティボスの象徴であり、サンツァルザーマきっての建造物であるのは、今でも変わらない。

———エリシオ、エリシオ

 誰かが自分を呼ぶ声がする。エリシオは振り向いたが、誰とも目があわない。そこではじめて、今しがたの声は自分にしか聞こえていないと悟った。

 導かれるように聖堂の中へ歩みを運ぶ。ビャクダンの香が満ち、両側にずらりと並んだ席には、所々で祈りを捧げる者たちが座っている。

 ビロードの敷物を真っ直ぐに進む先には、柵で覆われた、かのサーベルがあった。ステンドグラスの光を透かし、地面に刺さったサーベルがエリシオの目に留まった。煌々と輝くサーベル。いつにも増して剣は光を放つのに、俯いて祈りを捧げる者にはそれが見えていない。エリシオも何度かこの聖堂を訪れている。無論サーベルの話も、ヴァロアの剣士の話も聞いていた。これまでなんとも思っていなかったが、このときばかりは彼の中に不思議な感覚がみなぎってきた。

———さぁ、こっちへ

 誰かの声が耳元で囁く。男の声だった。振り向いたが、やはり誰もいない。みなが心静かに座り、敬虔けいけんに祈りを捧げるだけだった。エリシオは真っ直ぐサーベルへ向かって進んだ。

———その剣を抜きなさい

 天窓から一筋の光が降り注ぐ。サーベルの金文字が光に浮かびあがった。

「汝、この剣を手に———」

 呟きながら文字を見入る。祈りを捧げる者たちが徐々に顔をあげ、エリシオの後ろ姿に注目しはじめた。そしてサーベルの柄に触れると、エリシオの手はピタリと護拳にあわさり、そのままスルリとサーベルが引き抜かれた。

「見ろ! 剣を抜いたぞ!」

 聖堂のあちこちから歓声があふれ、一人が一目散に外まで走ると、剣が抜かれたことを大声で叫んだ。エリシオは半ば放心し、剣を元に戻そうとしたが、体がこわばって思うように動けない。

 外から老若男女が堰を切ったようになだれこんできた。エリシオは押し問答となり、カゴのカブを全部落としてしまった。揉みくちゃにされ、右往左往しながら、必死の思いで聖堂を出ようとした。誰もが口々になにかを叫ぶが、エリシオにはまったく聞き取れない。目の前の光景が、時間が止まったようにさえ感じた。聖堂の外でエリシオを待ち受けたのは、自分に集まる畏敬の眼差しと、眩しい光だった。

「我らの国王だ!」

「ヴァロアの剣士だ! ついに現れたぞ!」

 さっきまで市場にいた八百屋のオヤジまでもが駆け寄り、エリシオを神々しく称えている。加護にあやかろうと手を伸ばし、ローブに触れようとする者もいた。

 この短時間に、なにやら自分が大変な快挙を成し遂げてしまったのは分かるが、さっきまでとは打って変わった群衆の興奮と熱気にどう対処してよいのやら、戸惑いを隠せない。

 聖堂の鐘がいちどきに鳴り響き、このめでたい知らせを世界中に知らしめた。少し遅れて、話を聞きつけたレイが雑踏を掻き分けながら、広場に到着した。

「エリシオ! エリシオ! ここだ!」

 遠くから自分を呼ぶ声に、エリシオはようやく安堵した。

「お師匠! あぁどうしよう、俺、とんでもないことしちゃったみたいだ。ただカブを仕入れに来ただけなのに———早くこれを元の場所に戻さないと」

「いや、これでいいんだ。これでいいんだよ。よくやったとも。こうなる定めだったんだ。見なさい、この喜びにあふれた街を」

 誰もが手を合わせ、エリシオを押し包み、そして泣いている。カブを買った帰り道には、草笛でも吹きながら川べりを歩いて帰ろうか———そんなことを思ったエリシオだが、どうやらそれは叶いそうもない。

 そこへ掛け声も荒々しく、四頭の早馬が広場へ疾駆しっくしてきた。そのうちの一頭は目の覚めるほど白い馬で、背中に誰も乗せていない。

「道を開けろ! 道を開けてくれ!」

 現れたのはラクトリエの騎馬隊である。鐘の音を聞いた彼らはすぐさま広場へ駆けつけた。ごったがいする群衆は時ならぬ早馬を見つめている。

 騎馬隊は群衆を押し退け、当人のいる場所まで辿り着くのに必死だった。騎馬隊がようやくエリシオの前で馬から降りた。一人が兜のひさしをあげ、サーベルを認めると、エリシオにたずねた。

「其方、名はなんと申す?」

「エリシオです」

 すかさずレイが話を遮った。

「いいえ、訂正願います。この者の真の名は、イグニスです。このことを一刻も早く、城にいるグラディス大佐へお伝えください」

 それを聞き届けた騎士の一人が早合点し、一足先にサンツァルザーマ城へ馬を走らせた。残った騎士はエリシオを馬に乗せ、もう一人は手持ちの木箱へ大切にサーベルを納めた。再び群衆を掻き分けながら城へ向かう準備を整うと、その後から、借りた馬でレイが続いた。

 ヴァロアの剣士がエリシオであったことに、不満を抱く者は誰もいなかった。むしろ「やはりそうだったか」と篤信の眼差しでエリシオを拝む者ばかりである。ティボスの外から来た者はローブだけを見て、

「我らマッセンに栄光あれ!」

 そう叫ぶお調子者もいた。

 通りすがりの百姓も、踊り子も、小鳩にパン屑をあげていた男も、全員がそぞろに片膝をつき、城に向かうエリシオを見送った。

———一体なにがどうなってるんだ

 戸惑うエリシオの横で、レイだけが目元をほころばせている。はじめて目にする騎馬隊もさながら、男たちの体高は熊ほどもあった。前後を屈強な男たちに囲まれ、これから自分は見ず知らずの場所へ連れて行かれようとしているのだ。


 世界が統一された暁には、両界の行き来も頻繁になるだろうとされ、国王の城は境界線に近い場所が選ばれていた。

「のどかだな。ここなら薬草も豊富に手に入りそうだ」

「お願いですから、傍から離れないで下さいよ」

「そんなことより背筋を伸ばすんだ。これから戴冠式だのなんだので、やることが沢山控えているのだから」

 なにせ馬に乗るのもはじめてのこと。手綱を両手でしっかりと握りながら、エリシオは身の竦む思いでいる。

「まったく、どうしてそんなに平然としていられるんだか」

「私にはこうなることが分かっておりましたからね、陛下殿」

「それならそうと、もっと早めに教えてくれれば、心の準備ができたのに」

 今朝目覚めたとき、こんな風に一日がはじまろうなど、エリシオは夢にも思っていなかった。騎馬隊に導かれながら、レイとエリシオは並んで城へと向かう。デコボコ道の窪みに馬がつまずこうものなら、エリシオはその度に尻をモゾモゾさせた。

           *

 ユイネス山脈には今なお冬の雪が溶け残り、その峰々は白く染まったままである。眼下にはペリエ河口から繋がるアルディア湖が隅々まで広がる。今は穏やかな水面を讃える湖だが、冬には越冬に舞い戻るハクチョウたちで賑わいを見せる。この雄大な景色を背景に、サンツァルザーマ城は国王の誕生を静かに待っていた。一足先に吉報を知らせた騎士により、城壁には大急ぎで垂れ幕が飾られ、ラッパ手と鼓手にも呼び出しがかかった。伝使が急ぎ足でグラディスに駆け寄る。

「グラディス大佐、ヴァロアの剣士が遂にサーベルを抜きました。ただいま護衛とこちらへ向かっております」

「それはまことか?」

「はい。レイザーきょうもご一緒にあられます」

「して、剣士の名は?」

「はい、イグニスと申しております」

 グラディスの全身に稲妻が走った。

「大佐、大佐? いかがなされましたか?」

———なにかの間違いだろうか

 あのとき兄は言っていた。十八年前の夏、流星群の降りしきる夜に生まれた男子。それなら息子の生まれた日と一致する。グラディスは飽くまで冷静を装い、伝使に問うた。

「其方はそのイグニスの顔を見たか? どんな風貌だった?」

「胡桃色の髪をした、背の高い若者にございました」

 間違いない。息子がここへ向かって来る。あのとき兄がためらったのも、それが理由なら納得がいく。

———もう秘密にしてはおけない。なにもかも曝け出し、すべてを受け入れよう

 泰然を装うが、グラディスの心は大きく揺さぶられていた。


 城へ続く一本道を、騎馬隊がそぞろと歩いて来る。それを遠目に見つけたやぐらの兵士はファンファーレを鳴らし、合図とともにに跳ね橋が降ろされた。この日のために用意したと言っても過言ではない薄絹の垂れ幕が降ろされ、真新しいベルベットの絨毯も敷かれた。その両側にずらりと整列する騎士たち。先導を任せた騎士たちへは目印として、ヴァロアの剣士だけを白馬に乗せるよう指示が出されていた。到着を待ち侘びる誰もが白馬を目で追う。

「エリシオ、私がいいと言うまでフードを被っていなさい。誰にも顔を見せてはならないよ。お前自身も、誰とも目を合わせてはいけない。いいね?」

「わかりました」

 跳ね橋を渡り終えた白馬が、ついにサンツァルザーマ城の敷居を跨いだとき、あたりの緊張は極限を迎えた。左右に並ぶ騎士たちの敬礼といえば、今しがたティボスの群衆の払ったそれより格段に凄みがかって(・・・・)いる。白馬とエリシオが通るたび、左右の騎士は示し合わせたようにピッタリのタイミングで片膝をつき、頭を垂れる。

 それもそのはず。彼らはこの日を迎えるべく、武術ならず礼儀作法や言葉遣い、はたまた語り尽くせぬ忠誠心を捧ぐべく、徹底された教育を受けてきたのだ。エリシオはそれを横目に見ながら、旗竿に縛られたつもりで背筋を張るのに必死だった。

 秋も終わりに近い季節だというのに、エリシオは滝のように汗を掻き、湿った服が肌に張りつくと、全身が泥濘ぬかるみに浸った気分であった。すぐそこにある城の入り口が、何里も先のように見えて仕方ない。

 列を外れたレイは、グラディスめがけて馬を走らせる。それを見つけたグラディスもまた駆け寄った。

「グラディス、あの子はまだ父親がここにいると知らない。対面すれば激しく動揺するだろう。その前に話さなきゃならないことがある」

「本当に、本当にイグニスなのか?」

「あぁそうだ。息子のイグニスだよ」

 レイはひとまずグラディスへ身を隠すよう促した。だがグラディスがチラリと白馬を見やったとき、フード越しに見えた青年と目が合ってしまった。

「お父様?」

 エリシオはフードを脱ぎ去り、馬を降りた。ほんの数秒のうちに、あらゆる思い出が押し寄せてきた。エリシオの体から薬の効力が消え、イグニスの記憶がすぐに戻った。

「イグニス———」

 なにやら様子がおかしい。嬉々として再会に涙するどころか、イグニスの顔は青ざめ、オロオロ後退りをしている。三日前にレイを襲ったパニックがイグニスにも起こっていた。

「なにがどうなってるんですか? どうして父上がここにいるのですか?」

 声が必死に抑揚を抑えている。まわりにも緊張が走った。沈黙していた騎士たちもソワソワしだし、何事かと騒ぎだす。

「こんなに近くにいたのにっ! どうして———どうして会いに来てくれなかったんですかっ! どうして僕たちを置いて———」

 ガックリ膝を折り、唇を震わせ、イグニスは力なくくずおれた。グラディスは息子を抱きとめるが、イグニスはその腕を振り解こうともがいた。

「すまない、息子よ。全部私が悪いんだ」

 大声をあげ、イグニスは泣きに泣いている。

「許してくれとは言わない。そんなこと言えるもんか。こんなにツラい思いをさせて、私はヒドい父親だ。父親失格だとも。本当にすまなかった」

 胸板を叩くイグニスの手がはたと止まり、ぐったりと滑り落ちた。あまりのショックに気を失ってしまったのだ。

「オイ、イグニス! しっかりしろっ!」

 レイはすぐさまイグニスの鼻下に指をあてた。

「大丈夫、気を失ってるだけだ。しばらく安静にしておけば、じきに目を覚ますよ」

 気付け薬を持参して正解だったと、レイは内心ホッとした。だが考えようでは丁度いい時間稼ぎかもしれない。

「すまない君たち、ちょっと手を貸してくれないか。この子が横になれる所まで運んで欲しい」

 早合点はやがてんした中佐が声を張りあげた。

「国王を寝室へ運ぶのだ!」

 騎士たちは呼びかけにピシャリと正気を戻した。手足をぐったりさせ、担架で運ばれるイグニスを眺めながら、兄弟は次になにをすべきかを考えた。さすがの双子も、こんな状況で以心伝心とはいかない。

 離れた場所にいた兵士たちは、一部始終こそ見ていたものの、会話までは聞き取れなかった。歴史の動いた瞬間を一目見ようと、身をよじりあげる。その期待とは裏腹に、

「予定より早いが、諸君にはこれから休暇に入ってもらおう。収穫祭もあることだし、今日から三日間、ゆっくり羽を伸ばそうではないか」

 かてて加えて、今しがた見聞きしたことは、声明のときまで口外せぬよう、中佐から言い渡しがされた。

 首を傾げる者もいたが、久しぶりに家族に会えると、予期せぬ展開に誰もが喜んだ。こうして、兵士もラッパ手も給仕係も、一人残らず休暇が出された。

 ヴァロアの剣士到来は、サンツァルザーマ中の話題を掻っさらった。ティボスはお祭りムードでありながら、エリシオの話で持ちきりである。本来の収穫祭はすっかり忘れられていた。あとは日が沈むのを待つばかり。

 休暇を出されたばかりの兵士たちが、列をなして前夜祭に到着した。久しぶりにハメを外そうと息んだ兵士を囲み、野次馬たちが次々と群がる。誰もが城へ向かったエリシオの詳細を知りたがっているのだ。されど兵士らは秘密を漏らす前にビールを煽り、

「そんなことよりよ、俺様がどれだけ強くなったか見せてやるよ! 誰か俺様と腕相撲で勝負したいヤツはいねぇか!」

 そう言って、酔って舌がまわらぬフリをしたのだった。


 サンツァルザーマ城は一気に閑散とした。ついさっきまで騒々しかった分、静けさがかえって落ち着かぬ空気を際立たせる。城に残されたのはグラディスとレイ、そして今はベッドで眠るイグニスの三人のみである。

 グラディスはひとまず馬たちを納屋で落ち着かせ、レイは荷解きをした。今夜の祭りでエリシオ、もといイグニスが開くはずだった屋台の品々が、木箱の中でごったがいしている。慌てて駆けつけた拍子に中身が乱れ、もはや元の姿を留めていなかった。この日のために準備に勤しむイグニスだったが、これでは満足な出し物は無理だろう。割れたガラス瓶を片付けるレイだが、それにかまけている場合ではない。

 なにからどう話してよいか分からないといった顔をしながら、グラディスが納屋から戻った。

「これは本当に現実なのか? もう少しでこっちが卒倒するところだ」

「三日前に話せなかった事情がこれなんだよ」

 レイザーは胸元から手紙を一通取り出し、グラディスへ渡した。

「手紙を預かってる。この日に渡すよう頼まれたものだ」

 未開封の封筒にはニニアンのサインがしてあった。グラディスは大急ぎで封蝋を開けた。


———愛するグラディス


この手紙を読むとき、アナタのお兄様と、イグニスの三人は一堂に介していることでしょう。あまりのことに混乱してると思います。なんと喜ばしいことでしょう。待ち望んだ瞬間です。ですが私はそこへ行けません。

 グラディス、アナタにずっと隠していたことがあります。私たちの出逢いは運命ではありません。私が月の君にお願いして、意図して巡り合わせ頂いたご縁だったのです。その幸せと引き換えに、私は娘を月の君に捧げる約束をしました。アナタがラクトリエの命でティボスへ立ったあと、ラウアは月の君へ引き取られました。私はイグニスまで失うことを恐れました。そして偶然見つけたお義兄様へ、イグニスを養子にしてもらうようお願いしたのです。無理を承知で、お義兄様は私たちの息子を引き取って下さいました。

 イグニスには、記憶が一時的に消える薬を飲ませています。アナタと再会を果たしたとき、薬の効果は切れるそうです。そしてお義兄様までも薬を飲み、時が来るまで記憶を消してくださいました。彼は私たちのために最善を尽くしてくださったのです。もしかすると、お義兄様とイグニスの薬が切れるのに時間差があるかもしません。そのときアナタは思うでしょう。

「兄さんはずっと知ってたのに、どうして教えてくれなかったんだよ」って。

 だけどどうか、この件でお義兄様を責めないで下さい。すべて私がお願いして、お義兄様を巻き添えにしてしまったのです。彼は私たちに代わってイグニスを育ててくれました。きっとイグニスも立派に育ってくれたと信じています。

 グラディス、最後のお願いよ。どうか私を探さないで欲しいの。もし仮に見かけたとしても、決して声はかけないで。この手紙を書き終えたあと、私はすべての記憶を白紙に戻します。アナタに合わせる顔がなくて、私は逃げる道を選ぶのです。アナタが愛したニニアンは、はじめから愛される資格などない女だったのよ。幸せになりたいと欲張った挙句、すべてを失った憐れな女。ずっとアナタを騙していた、愚かな女。妻にも母親にもなれない、惨めな女。今の私は、アナタを愛していたことさえ忘れているわ。だからアナタも、こんな救いようのない女はすぐに忘れて。イグニスとともに歩む未来だけを信じて。絵心に満ちた少年の心、詩を紡ぐ優しい唇。アナタと過ごした日々は最良のときでした。

  イグニスに愛してると伝えて。さようなら———


 ニニアンがレイを訪ねた日のことである。レイが薬を調合する間に彼女は手紙を書きあげた。これを読めば余計な手間が省けると言い残し、手紙はレイに託されたのだ。長らく屋根裏で埃を被り、忘れられたように保管された手紙。

 やがて鼻を啜る音が聞こえた。便箋をクシャクシャに握り、恥も外聞もなく、グラディスが泣いている。

「ありがとう。あの子を育ててくれたのが兄さんで本当によかった」

「お礼を言うのはこっちの方だ。それより問題はイグニスだ。さっきの様子だと、喜びより怒りがまさっている。まだ気持ちの整理がついてないだろうからね。こればかりは薬でなんとかなる問題じゃない。きちんと話し合わないと」

 遠くの空から号砲のあがる音が響いた。いよいよ前夜祭がはじまった合図である。イグニスの屋台だけが無人で空っぽ。だがその周りではきっと、剣士の話が飛び交っているに違いない。そんな光景が、レイにはありありと想像できた。

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