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ブライア・ローズ 第一巻 デュークレイザー  作者: 貴琉亜
第七章 預言者キリエス
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第七章 預言者キリエス

本書の著作権は著者に帰属します。著作権者の事前の書面による許可なく、本書の全部または一部を複製、転載、翻訳、要約、電子的配信等いかなる形式においても使用することを禁じます。

本書の内容に関するいかなる権利も、著作権者の明示的な許諾なしには譲渡されません。

 隣町のペタロからさらに南へ歩くこと三日。そこにネパルナという街がある。ネパルナは内陸の奥まった場所にあり、四方は山岳に囲まれている。海風が山に遮られ、乾いた大地には大麦などの穀物が豊かに実ったので、ネパルナはビールとウィスキーの名産地としても名を馳せている。

 ティボスからペタロまでは船に乗るが、そこからネパルナまでは歩かねばならない。川もない場所で暮らすと決めた先代は、一体どうしてこの場所を選んだのか、不思議である。

 道中、一面にアヤメの連なる名所がある。湿った海風が山にぶつかり、アヤメの湿原は言わば、ペタロとネパルナの境界線でもあった。

 その絶景を一目見ようとネパルナを訪れる者も多い。薄ぼんやりと霞みがかる、青紫のアヤメ畑。それらは一際見事であり、実に幻想的な光景であった。

 季節は初夏にかかる頃、うってつけの行楽日和である。雲の動きを眺め、しばらく雨が降らぬと認めたレイは店を閉めた。目的のネパルナへ向かうべく、エリシオとともにティボスを発った。エリシオが十八歳を迎える日に合わせてのことである。

 お抱えだった弟子はみな暖簾分けを果たし、今やエリシオがレイの一番弟子だった。マリクだけが独りで留守番だが、こんなときネコは手がかからぬ分、気も楽である。

「お師匠、今日はどこに連れてってくれるのさ?」

「古い友達に会いに行くんだよ。そこでお前の未来を視てもらおう」

「それってどうやって?」

「目を見れば分かるらしい。少なくとも本人はそう言ってるがね」

 さすがに店を閉めるとなり、エリシオもただの外出ではないと察した。レイは最後までエリシオに行き先を伝えず、努めて陽のあたる道を選んで歩いた。山々の陰になる場所があれば避ける。遠回りになると分かっても、結局のところ、それが一番安全であった。道を知らぬエリシオは師の後ろにつくしかないのだが、薬草を探しているのだろうぐらいの気持ちでしかなかった。

 

 これから二人が会いに行く男の名前はキリエスといい、ネパルナでちょっとした商いをしている。カードや水晶玉を使う占い師とは異なり、キリエスのそれは相手の目を見るだけでよかった。過去、現在、未来をズバリ言い当て、本人ですら気づけぬ心の奥に触れることができた。殊に未来を見通すなら、この男の右に出る者はいないと言われている。

 レイが故郷のナラベルを離れてより、はじめて心を許した悪友がキリエスだった。キリエスがネパルナで腰を据えると決めてより、彼がティボスに来るとあらば、レイは必ず宿の世話をした。それにしても、レイが誰かを連れてネパルナを訪れるのは、はじめてのことであった。

「占いは気休めでしかない」が持論のレイも、これから会うキリエスには信頼を寄せている。この男もまた、マッセンであった。月を崇める者同士、決して嘘偽りを申さぬ信頼もある。言葉にするまでもなく、二人は今日も不思議な友情と縁で繋がっている。

 手紙のやり取りから、つい数ヶ月前にキリエスが引っ越したことを知ったレイは、地図を頼りに彼の館を探した。なんでも商売上の都合とやらで、前より広くて大きな場所に店を移したらしい。

 粉挽きの風車が建ち並ぶ街を抜け、地図の指す場所に見つけたのは、石塀と煤けたボロ家があるだけだった。敷地は広そうだが、目に見えるボロ家以外、特筆すべきものはないかに見える。お世辞にも繁盛してるとは言えなさそうである。

 レイが外観に関心を示さぬ傍で、エリシオの目は門に刻まれた六芒星に釘づけだった。エリシオの頭が次第に重くなり、ぼんやりしてきた。

「———はいけないよ」

 返事がない。

「エリシオ? 聞いてるのかい?」

「あ、ごめんなさい」

「中に入ったら言う通りにするんだ。質問されるまで、お前から喋ってはいけないよ」

「分かりました」

 レイの言葉が冗談か否かは声色で分かる。今のは真面目に聞かねばならぬそれであると、エリシオは聞き分けていた。先ごろからツバメが忙しく飛び交うのが目に入る。このボロ屋のどこかに巣を作っているのだろう。ツバメの選ぶ場所に危険はないと聞く。

———幸先のいい徴だ

 エリシオは素直に思った。

 門をくぐると、さきほどの目眩はすっかりよくなった。レイは口元に手を添え、そのよく通る声で、中に向かって叫んだ。

「キリエス! ティボスからはるばるレイザーが会いに来てやったぞ! 友を出迎えぬとはずいぶんなご身分だな!」

 その問いに返事はなく、赤々と実をならした南天の枝葉が風にそよぐだけである。あたりはしんと静まり返っていた。

「お留守なのでは?」

「そんなはずはない。前もって文を飛ばしたからな。それにしても、客人が来る時間も予知できぬとは、腕が鈍ったか」

 しばらくすると、柱の陰から見習いと思しき娘が現れ、慇懃いんぎんに挨拶をしてきた。

「レイザー様、お待ちしておりました。さぁ、こちらへ」

 娘は表情を変えず、そのまま背を向けて中に入った。

 レイはエリシオの背を優しく押し、先に中へ入らせた。それから娘の案内するままに、エリシオは薄暗い部屋へ通された。昼間でも窓は閉ざされ、部屋には蝋燭の明かりだけが灯されている。

———この家には絵が一枚もないんだな

 絵の代わりにめずらかなる柄のタペストリーが飾られ、ビャクダンの香が満ちていた。ゾウが二頭、鼻を掲げて対に向きあう置物もあった。なにやら水の張られた水瓶も置かれている。

 それらを興に任せて見物するエリシオの目に、ようやく男の姿が映った。いつからそこに座っていたのかと思うほど、男の気配は部屋に溶け込んでいた。言わずもがな、男は先に部屋で待ち構えていた。先程までいたはずの娘は、音も立てずに姿を消していた。

「眩しいのが苦手でね」

 そう言ったのが、キリエスその人であった。

「君がエリシオだね。待っていたよ。さぁ、そこに掛けて」

 質問以外は喋るなと言われたエリシオは、挨拶を会釈だけにとどめ、ぎこちなく椅子に座った。部屋の薄暗さも手伝い、キリエスの縮れた剛毛は、さっき見た石塀よりも硬そうに見える。

「リラックスして、私の目を見るんだ」

 対座するキリエスは指という指に沢山の指輪をしていた。キリエスの目が無言でエリシオの顔を覗き込む。蝋燭の揺らめきが瞳に宿ると、その色が時折り変わってゆくようにも見えた。

———お師匠から聞いたのと全然イメージ違うな。とっても真面目そうだけど

「よく言われるよ。でも仕事となれば至って大真面目なのさ」

 エリシオはビックリ仰天し、思わず椅子にのけぞった。読心術まで心得てるとは聞いてない。

「君はなかなか正直だね。あ、今のは質問じゃないから答えなくていいよ」

「す、すみません。なにか失礼なことを考えてたら———」

「大丈夫だよ。心の声が全部聞こえるわけじゃないんだ。そうなったら私の頭も混乱してしまうからね」

 手を揉みしだき、ヒゲを撫でる。目の前の男は、なかなかどうしてじっと(・・)していない。それがエリシオの抱いた、キリエスの初印象であった。

「そうだなぁ。聞きたいことは色々あるが———まず手はじめに、天気を操ることはできるかい?」

「いいえ、そんなまさか」

「感情がたかぶると急に曇り空になって、稲妻が走ったり、自分を囲むように旋風つむじかぜが起こったり———そんな経験はない?」

 考えるまでもなく、そんな大それた力は自分にない。

「まったくないですね」

「ふむ、そうか。よろしい」

 その返事がやや期待はずれの息遣いを含んだ気がした。エリシオは、自分が天気を操れないのを申し訳なくさえ思えた。

 キリエスはエリシオの瞳をじっと覗き込み、手相を見ると、親指の爪だけ伸びているのを見つけた。指の皮が厚くヒビ割れ、黒ずんでいる。普段から素手で薬草を摘み、見分けている証である。

「君も薬師になりたいと思っているんだね」

「はい」

「なるほど。でも君には別の未来が用意されてるよ。もう少しでそれが視えそうだ」

 それからも幾つかの質問がなされ、エリシオは一つ一つをていたらいなく答えた。言葉の通じる動物はいるかとか、願いが叶う瞬間はどんなときかとか、夢を見る頻度はどれくらいかとか———大方それらはエリシオの内に秘めたる力を問うものであった。

 時折りキリエスが口元を綻ばせると、なにを探られたものかとエリシオはドキドキした。

「レイと出会う前のことで、一番鮮明に覚えていることはあるかい?」

「あります」

「どんなことか、聞かせてくれるかな?」

 エリシオの頭に最初に浮かんだのは、とある雨の日の朝だった。

「母が———ある日泣いていました。家には母と僕の二人だけで、とても淋しくて。理由は分からないですけど、あの日の雨は無性に悲しかったのを覚えてます。母は懸命に平然を装ってました。でも確かに泣いていたんです」

 その様子があまりに悲しそうだったので、聞き手のキリエスにまで悲しみが移りそうだった。

「それからすぐにティボスへ連れて来られました。今思えば、あのときは雨の日が多かった気がします」

「雨が降れば、今でも当時のことを思い出すかい?」

「ハイ。忘れたことはありません」

 二人の邪魔をせぬよう、娘が音を立てずに部屋に入ってきた。淹れたばかりのお茶を静かに添え、すっかり灰の落ちた香を取り替え、新しいものを焚く。そしてまた、御簾みすの奥へと姿を消した。

 一言一句がこぼれるたびに、エリシオの心が解けてゆく。その純粋無垢な心根は、まるで清きロメナの泉であり、水源深くに輝く水晶のようでもある。とめどなくあふれ出る、優しさや慈しみ。エリシオの未来もさながら、キリエスの口からなされる質問は、いつしか個人的な興味へと変わっていた。

           *

 一連の流れを終え、エリシオは部屋を出た。ほどよい緊張感を残しつつ、心は晴れ渡る空のように清々しかった。

 終始案内を務めた娘を見つけると、エリシオは勇気を出して話しかけた。

「あ、あの———さっきのお茶はなんというお茶ですか? とても美味しかったもので」

「バーベナの花から煎じたものですわ」

「バーベナ、ですか?」

 戸惑うエリシオの表情を察し、娘は答えた。

「えぇ。特殊な技法を加えてから、美味しく飲めるように配合してるんですよ」

 娘がはじめて笑顔を見せた。

「ハチミツを入れるともっと美味しくなりますけど、個人的にはレモンを少し入れるのがお勧めです」

 頬をほんのり赤く染め、娘は俯いた。

「よければもう一杯お持ちしましょうか?」

「えぇ、是非」

「こちらに掛けてお待ち下さい」

「あ、あの!」

 慌てて呼びとめるエリシオの声に、娘は振り返った。

「レモンでお願いします」

 娘はほほえみ、なにも言わずに去った。別室に通されたエリシオは、今しがたのキリエスとの会話を一言一句思い起こしていた。


 エリシオとすれ違いにレイが部屋へ入ると、キリエスは再び席を勧めた。

「遠路はるばるご足労だったな。元気そうでなによりだよ」

「お陰様で。商売もずいぶん軌道に乗ってるようだな」

 自分たちのほかに誰もいないのを、皮肉を込めてレイは言った。

「お前が来るって言うから休みにしたんだ。いつもは長蛇の列なんだぜ」

「それは手を煩わせたな。一つ借りができたよ」

 キリエスの口ぶりは先ほどと違い、すっかりリラックスしている。

「それより本題はあの子だ。一体どこで見つけた?」

「いい子だろ? 一番弟子さ。素直だし、なかなか筋がいい」

 含んだ水で口を潤し、キリエスは声を抑えて話を続けた。

「レイ、あの子だよ。ヴァロアの剣士はあの子だ。間違いない」

 キリエスの目が輝いている。この男の場合、嘘はつかぬが大袈裟なところがある。そのうえ複雑で、ややこしい話が大好きな性分であった。薬草学も繊細ではあるが、キリエスのそれとは異なる。もったいつけたような言い種が、レイをさらにソワソワさせた。

「本当に言ってるのか? 客寄せに色づけされたんじゃたまらんぞ」

 その唇に笑みを浮かべ、キリエスは話を焦らす。預言者らしく、明らかに優越感に浸った様子だ。ゆっくりと水を含み、レイが痺れを切らす様を楽しんでいる。

「あの子がサーベルを抜いて、頭に王冠を載せた姿を、俺は確かにこの目で視た。こりゃエラいことになったぞ!」

 話すうちにすっかり熱が入り、興奮を抑えきれぬキリエスは、椅子から立ちあがって部屋を歩き回りはじめた。ここからはもうキリエスの一人演説である。

「まったく。そうもったいつけるところはお前の悪い癖だぞ」

「そう言うなって。俺も長いこと視てきたが、こんなに胸の躍る日はそうそうあるもんじゃない」

「私はこれからどうすればいいんだ?」

「そうさな。まずは大事おおごとにならんよう準備しておくことだ。くれぐれも内密に。大方の宿命は変わらんが、あの子に知れれば思わぬ邪魔が入るやも知れん」

「準備ったって、こんなことには慣れてないんだよ。子育てだって手探りでなんとかやってきたんだ」

「ほう、子育てか。ずいぶん小さいときから面倒を見てきたんだな」

「あぁそうさ。あの子は母親から置き去りにされた気の毒な子なんだよ。でも他人とは思えないんだ。父親にはなれなくても———」

 キリエスは話を遮った。

「ちょっと待て。今、父親と言ったか?」

 口から出た父親の言葉を聞き、キリエスの目になにかが横切った。

「ティボスの北側にはなにがある?」

「境界線だ」

 キリエスは両目を閉じて顔を顰める。もう少しでなにかが明瞭になりそうなのだ。

「いや違う。もっと手前だ」

 目を閉じたまま、キリエスは顎をしゃくる。

「確かサンツァルザーマ城が完成するはずだ。未来の国王の住居だよ」

「それだ。切り立つユイネス山脈に囲まれて、アルディアの湖畔に臨む建物が視えたんだ。そこに行けばなにかが起こる。俺に視えたのはそこまでだ」

「デタラメなら笑えないぞ」

「そのデタラメを聞くためにわざわざ来たんだろ? それに大袈裟に伝えるほうが評判いいんだぜ。記憶にも残るしな。でもあの子に関しては俺も驚いた。マッセンからヴァロアの剣士が現れ、その子をお前が育てた。第一発見者の俺もマッセンだ」

「あの子はマッセンじゃない。私を真似てローブを羽織ってるだけだ」

 その言葉を聞き、キリエスは驚きを隠せぬ様子だったが、反面、さも感じ入った顔で頷いていた。

「それなら今のうちにマッセンにしとくべきだ」

「それは私が決めることじゃない。もっとも、お前ならバケモノにも魂を売りそうだがね」

「褒め言葉をどうもありがとう。それにしても、これから忙しくなるぞ。事が動き出すのも時間の問題さ」

「なにからなにまでありがとう。感謝するよ」

 本当に今日帰るのかと、キリエスは口惜しそうにした。レイとて一泊したいのは山々だが、明後日までにはティボスに戻らねばならない。再び門の前に立つとき、三人ははじめて一堂に介した。

「今日が誕生日だったね。成人おめでとう。これは私からの、ささやかな贈り物だよ」

 そう言って、キリエスは中指に嵌めた指輪の一つを外し、エリシオに差し出した。半透明の青い石が輝く指輪である。

「こんな貴重なもの、頂いていいんですか?」

「もちろんだとも。この石はね、持ち主の力を最大限に高めてくれるんだよ。いつかきっと、君の役に立つ日が来るはずだ」

「ありがとうございます。きっと大切にします」

「今度は一人で来るといい。君ならいつでも大歓迎だよ。くれぐれも、このキリエスが君の味方であることを忘れないでおくれ」

 レイの顔つきが穏やかなのが見てとれる。エリシオは安心して握手を交わし、預言者に別れを告げた。

「一つ俺からも頼みがあるんだが」

 横からレイが割り込んだ。

「一つと言わず、遠慮なく言えよ」

「このがティボスに住めるよう面倒見てくれないか? どうしても都に出ると聞かないんだ」

 終始無表情であったあの娘が、キリエスの後ろで顔を赤らめている。

「お安いご用意さ。時期を見て、こちらから連絡しよう」

 娘はその言葉を聞き、さも嬉しそうにお辞儀をした。大人びた顔から少女らしさがこぼれたのを、エリシオは見逃さなかった。

 ティボスに帰る途中、行きと帰りでレイの様子が違うのは明らかだった。浮かれた様子で、機嫌がよさそうである。その半面、急に真剣な顔をしたりするのだ。

「ところでお師匠はなんて言われたのさ? 俺にも教えてくれよ」

「お代を払ったのは私だ。お前も自分で払えるようになったら、自分で聞くことだ」

「一体なにを払ったのさ?」

「あの男がいかにも欲しがりそうな薬さ。お前もそのうち求められるかもしれんな」

「とゆーことは、俺にはまだ作れない薬ってことかい?」

 エリシオはだいぶ不服顔である。

「当たり前だ、それを作れるのは私だけだからな。キキョウが咲いていたら摘んで帰るぞ」

 その口ぶりから、レイの機嫌のよさは相当なものであると分かる。

 夕陽はとっぷりと傾き、幾人もの旅人や商人の一行とすれ違った。彼らとは反対方向に進む師弟の影が、どこまでもまっすぐ延びている。楽しく語らいながらも、二人はキキョウを探した。そうしているうちに、レイとキリエスの密談も、エリシオには気にならなくなった。

 アヤメ畑の遥か向こうに霞むのはユイネス山脈である。雄大な尾根の向こうに太陽が沈み、オレンジ色の夕陽が漏れてくる。それを横目に見ながら、二人は歩き続けた。

 アヤメに戯れるアマガエルが喉を震わせ、ケロケロと鳴いている。響く音は空気を伝い、葉上の露を微かに揺らす。そのさまが夕焼けと相調和し、なんとも言えぬ心地よさを奏でていた。

「なんて綺麗なんだ。心が洗われるみたいだ」

「あぁ、そうだな」

「またこの景色を見に来たいな」

「来年はもう少し長く休みを取って、避暑に来るとしよう」

「本当に?」

「あぁ本当だとも」

「約束だよ」

「あぁ約束だとも」

 いとめでたき気持ちと、これより為すべき役目とを胸に、レイは久しぶりに酒など飲みたい気分だった。

———帰りついたなら、あの葡萄酒で杯を交わすとしよう

 この日のために、レイはエリシオと同じ年に作られた葡萄酒を密かに取り寄せていた。十八年前の葡萄は不作として世に知らるる年である。されど神の采配か、奇跡的にひと樽のみ、発酵に成功したという。その希少なる一瓶が、まもなく封を解かれんとしていた。

 折りしも今宵は満月の晩。ティボスのどこかでマッセンたちの祭りが開かれる頃だろう。だがここにあるのはカエルの鳴き声と、夕焼けの照らすアヤメ畑ばかりだった。

 もらった指輪はエリシオには大きく、どの指にも嵌まらなかった。それでもエリシオは、時折り青い石を触ったり、夕陽にかざし、めつすがめつ、指輪を眺めた。

 結局、エリシオにとってもっとも要となるお告げを、本人だけが知らされぬまま一日が終わった。それでもエリシオは、目には見えぬ大きな力が自分に味方している感覚に包まれていた。体の芯がジンジンと熱くなり、それが全身を駆け巡る。夜空に夫婦星が輝くのを見つけると、それがまるで宿命を導く道標のように思われた。己の中から恐れや迷いが嘘のように消えてゆくのを、エリシオは心地よく感じていた。

           *

 エリシオがヴァロアの剣士と判明してより、準備は秘密裡に進められた。すべからくシュプールサーマへ報告したいところだが、サンツァルザーマきっての薬師とて境界線は越えられない。

———ならばシュプールサーマの使者に伝えるべきだろう。キリエスがサンツァルザーマ城を視たのはこのことに違いない

 レイは馬に乗り「二、三日で戻る」と言いおいて、エリシオに店を任せた。向かった先はラクトリエの戦士がいる稽古場である。そこでは何百という男たちが武器を手に汗を流していた。サンツァルザーマの津々浦々から集まった志願者たちである。

 あつらえたてのシルクのローブが眩しい。レイを見た門番は槍をクロスに交え、部外者を通すまじと構えた。

「何用か?」

 野太い声はいかにも戦士らしく、部外者を警戒している。

「大事な話があって参りました。ここを取り仕切るラクトリエの戦士殿にお目通り願いたいのです」

 ローブで目深く顔を隠したレイはうつむき、口元だけを覗かせた。門番が難色を示すのを察したレイはさらに付け足す。

「ヴァロアの剣士が見つかったとお伝えください」

「なんだと? それはまことか?」

「月を崇める者として、嘘偽りは申しませぬ」

 門番はなにやらヒソヒソと顔を突きあわせ、それから一人が勝手口へと入っていった。残ったもう一人はいぶかしげにレイをすくい見る。間もなく扉が開かれ、先程の門番と、甲冑を着た戦士が現れた。

「入られよ。案内する」

 ほぼ完成を迎えるサンツァルザーマ城の中。応接間ではすでに戦士たちがレイを待ち構えていた。ニヤニヤしている兵士が数名いる。互いを肘で突きあい、オイあれ見ろよと薄ら笑いを浮かべる。厳しい稽古で忍従を叩き込まれ、鬱憤を溜めているのだろう。変わった風采ふうさいの訪問者は彼らにとって格好の憂さ晴らしであった。少しでも妙な真似をすればコケおろしてやろうと、機会を狙っているのだ。

「その者、何用でここへ参った?」

「ヴァロアの剣士が見つかりました。間違いありません。月信仰の信徒は決して嘘の証言は致しませぬ」

「その剣士はなぜこの場におらぬ? その証言を裏づけるものはあるのか?」

 野次とも言わぬ冷やかしが飛んでくる。レイは少しも物怖じせず、静まるのを待ってから宣言した。

「十八年前の夏、空に降りしきる流星群の夜が一晩だけありました。特別な存在が世に生まれた兆しです。彼はその晩に生を享けました。そしてなんの因果か、少年は私の元に来たのです」

 レイは被っていたフードを取り去り、素顔を公然に晒した。その場にどっとざわめきが起こった。戦士の一人がレイの前に歩み寄った。

「グラディスなのかっ?」

 そう言ったのは、レイだった。

 二人は驚愕のあまり言葉を失った。失われた記憶が怒涛の勢いでレイへ甦った。頭をガツンと殴られたような衝撃と目眩めまい

 自分の前に現れたニニアン、のっぴきならぬ事情の告白、忘却の薬、預かった甥、そして雨———すべての過去が怒涛のように押し寄せ、レイは竜巻に飲まれた気分だった。消された記憶に真実が上塗りされ、最後の仕上げにグラディスが現れたのだ。

「あぁグラディス———グラディス———」

 いつとはなしに二人は抱き合い、臆面もなく目を涙でいっぱいにした。大の大人がまるで子供のように泣いている。胸が張り裂けて息ができない。燃えるように熱い背中を、互いの拳がゴスン、ゴスンと叩き合う。もう一ミリも動けなかった。レイを追い出そうと構えた兵士たちは口をあんぐり開け、気まずそうにその場から退いた。


 積もる話は山積みである。これまでの経緯を話すだけでも一日では足りない。グラディスはラクトリエの戦士となり、大佐にまで精進。レイは独学で薬学を極め、今やティボスいちの薬師となった。恐らくはこの二人が、統一前に再会した最初の家族であろう。グラディスは兄が訪問中まで休暇となり、軍の指揮は中佐に任せた。

「知らせてくれればすぐにでも会いに来たのに」

「どこに住んでるかも知らないのにハヤブサは飛ばせないよ。困って戻って来るだけさ」

「母さんが知ったらどんなに喜ぶか。もちろん一緒に行くだろ?」

「悪いがそれはできないよ。ほかの仲間も家族に会いたいのを我慢してるんだ。兄さんから無事を伝えてくれないか」

 そう言ったものの、グラディスはすぐに首を横に振った。

「ダメだ、やっぱり言わないでくれ」

 これまで守り抜いた信念を変えることはできない。自分だけが家族と再会を果たすなぞ、許されてはならないのだ。

「そうか、残念だな」

 グラディスの意志は見事に固い。遠くから母を連れて来ても会いはしないだろう。積もる話は夜通し続き、とうとう一晩が明けた。十八歳で境界線を越えたグラディスは三十代半ば。一方でレイは二百歳を優に超えている。時の進みは容姿を変えたが、双子の心は十歳で別れたときに戻っていた。

 そろそろレイには気になることがあった。弟の口からニニアンと子供たちの話が出ないのだ。エリシオの話をするなら、陽が昇っているうちに済ませねばなるまい。

「なぁグラディス、実は話さなきゃいけないことがあるんだ」

「その台詞、さっきから百万回は聞いてるよ」

「ヴァロアの剣士のことだ」

「そうだ、そうだ、そうだった。すっかり忘れてたよ。元を正せばそのことで来たんじゃないか。聞かせてくれよ」

 グラディスの目が、とたんに戦士の目つきに変わった。思えば未来の国王を迎えるために尽くしてきたのだ。だがこのあとに控える告白は、そう簡単にはいかない。グラディスの心臓は張り裂け、今度こそ打ちのめされる。弟の気持ちを忖度そんたくすると、レイの胸が先に潰れてしまった。

「ダメだ、とても言えないよ」

 テーブルに顔を埋め、レイは額を押しつけて泣いた。再会してからも随分泣いたが、それでも泣き足りないほど泣いている。グラディスはレイの肩を優しく摩った。

「いいんだよ、無理して話さなくても。かれこれずっと喋り通しだ。正直言って、もう胸がいっぱいでさ。これ以上はなにも頭に入らないよ」

「ありがとう。本当にありがとう」

「時間はまだいっぱいあるんだ。しばらく泊まって行くだろ?」

「いや、気持ちはありがたいけどすぐに家に帰らないと。あの子に会わなくちゃ。気持ちを落ち着けてからまた来るさ」

「そうか。とにかく剣士の話はまだ聞いてないし、これからの方向性を仲間内で話し合う必要があるから、必ずまたここに来てくれ」

「分かった。約束するよ」

「くれぐれも、ヴァロアの剣士によろしく伝えてくれよ」

 訓練生たちが剣を交え、槍を突きながら、エイッ! ヤーッ! と、そこかしこで声をあげ、木霊している。仲間の戦士たちも見送る中、レイは馬に乗って城をあとにした。


「おかえりなさい、お師匠。ずいぶん早かったね」

「あぁ。でもまた出掛けるよ。これから忙しくなるぞ」

 たった一日外出しただけで、エリシオを見る目が大きく変わった。グラディスの面影を宿しはするが、エリシオはアンとよく似ている。街を歩くときも「二人はまるで親子みたいだね」と声がかかった。挨拶代わりと聞き流していたが、どうして今まで気づかなかったのか。

 それにしても、エリシオにはまだ薬が効いている。本当の名前がイグニスであることも忘れ、師匠と敬う男が伯父とも知らず育ってきた。自分の調合した薬の正確さに、我ながらレイは嘆息した。

「これからは最後の修行に入るとしよう。まだ教えてない薬の作り方を伝授するとするかな」

「お師匠、それ本当かい? やった!」

 誰より手塩にかけた弟子は実の甥っ子だった。本音を言えば、いつまでも手元に置いておきたい。一緒に店を商い、交代で店番をする平穏な毎日。だが遅かれ早かれ、この子は父親の元へ帰る日が来るのだ。ともに過ごせる時間はいくらも残されてない。それを思うと、レイは急に寂しさに駆られた。

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