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第六章 君が眠るまで

本書の著作権は著者に帰属します。著作権者の事前の書面による許可なく、本書の全部または一部を複製、転載、翻訳、要約、電子的配信等いかなる形式においても使用することを禁じます。

本書の内容に関するいかなる権利も、著作権者の明示的な許諾なしには譲渡されません。

 蝕の晩に、それから大満月の夜———それは月信仰にとってお祭りも同然の、特別な夜である。青みがかった銀色の月や、怪しげな赤い色をした月。それらにかさのかかるときもある。太陽とは異なり、形と色を変える月の姿に、誰もが神秘を抱かずにはいられない。いつとはなしに、特別な宴は決まってティボスで催されることとなった。

 レイが正式に月信仰を名乗りだしたのは、少なからず彼の母親が影響していた。幼い息子は病弱、頼りの夫は海の向こう。女手一つで困難を乗り切る力欲しさに、彼女は夜な夜な月に祈りを捧げた。息子の体調が回復するたびに「月の君から加護を賜った」と、再び感謝を捧ぐ。それは当時のサンツァルザーマにおいて、どこにでもありふれた光景だった。無事に幼少期を過ごせたのも、成人を迎えられたのも、おのずと月信仰に結びつく。レイ本人も、その恩に報わねばと思っていた。


 サンツァル暦 二百十年・秋———

 レイがエリシオと暮らしはじめる前のことである。十年に一度の大満月の夜。ティボスで開かれた宴でのことだった。各々が仮面を持ち寄り、素顔を隠す。黒いローブも、この日ばかりは紫や紺に変わり、相変わらずネコやフクロウに扮する目立ちたがりもいた。エッグノッグやピーチフィズが至る所で配られている。

 入り口でウェルカムドリンクを振る舞うアンはふと、こちらに近づいてくる一人の男に目がとまった。彼を一目見るなり、アンは男から目が離せなくなった。それが他でもないレイであった。

 仮面からはみ出た耳の形と、重心の偏った歩き方が、どうにも気になって仕方ない。

「こんばんは。なにをお召しになりますか?」

「あいにくお酒の気分ではないんですが、別のものはありますか?」

「それならアップルタイザーか、グレープビネガーもありますよ」

「どっちも飲んだことがないな。どちらがお勧めですか?」

 アンの胸は張り裂けそうだった。男の口調に混ざる特徴的な抑揚と、独特のアクセント。トラレシアンの出自に間違いないが、それが他でもないグラディスを彷彿とさせた。

「グレープビネガーがお勧めかしら。色が葡萄酒と同じだから、はたから見てもジュースだとは分かりませんよ」

 一方レイはというと、アンを愛嬌のある女性と思うぐらいだった。仮面の下でも微笑みが声から伝わってくる。

「それはいいですね。じゃあそのグレープ・ナントカをお願いします」

「すぐにお作りますわ」

 ビネガーとはお酢のことである。カウンターで後ろを向き、アンはわざと倍の量のお酢をマドラーで掻きまわす。案の定、それを口にしたレイザーは喉を焼かれ、その場でゲホゲホと咽せてしまった。

「ヤダ! 私ったら分量を間違えちゃったかしら」

 口からジュースを吹き出し、レイは仮面を取った。

「だ、大丈夫です、お騒がせしました」

 まだ咳が止まらない。レイは仮面をとり、差し出されたタオルを受け取った。そのとき、アンはレイの素顔をしかと見届けた。

———やっぱりだわ。間違いない

 言わずもがな、レイがアップルタイザーを選んでも、アンはお酢を入れるつもりであった。

 交代の者が現れ、ようやく持ち場を離れると、アンはレイを捜しに出た。この混み具合からたった一人を見つけ出すのは、砂漠に咲く一輪の花を見つけるほど困難極まりない。それでももう一度、彼と話す必要があった。手がかりは仮面とローブの色。派手な羽根飾りの仮面なら救いだが、レイの装いは驚くほどシンプルだった。

 記憶が薄れぬうちにレイを見つけたとき、彼は噴水のわきに座っていた。アンは迷わず彼に話しかけた。

「こんばんは」

「どうもこんばんは」

 それとなくレイの反応を窺う。一方でレイは、仮面の女性が妙に親しげに話しかけてくるのをいぶかった。

「先ほどはどうも失礼しました」

 そこでアンは仮面を取り、素顔をレイに晒した。

「あぁ、さっきの。いいんですよ、気になさらないで下さい」

「私はメルヒナのニニアンと申します」

「私はティボスのレイザーです」

 住む場所のあとに名前を名乗るのは、マッセンにとって基本の挨拶である。

「実はアナタ様にお話があるのです」

「はて、なんでしょう?」

「ここではお話できません。どこで誰に聞かれているやも知れませんから。どちらにお住まいか教えて下されば、改めて私から伺いしますわ」

 噴水の音にかき消されそうなほど、女はやけに小声で話す。この女は自分を試しているのだろうか? 妙な空気を感じたレイは仮面の下で眉間に皺を寄せた。普段なら用心深いレイだが、

———せっかくのお祭りの夜だ。堅苦しいことは考えないことにしよう

 楽しげな雰囲気にかまけ、レイはすんなり家の場所を教えた。

「すぐそこの角を曲がったところで薬屋を営んでおります。ティボスに薬屋は二軒ありますが、夜にはカンテラを灯しております」

 アンはそれだけを聞き出すと会釈をし、あっと言う間に姿を消した。

———まぁいいか。仮面をつけるのは今夜だけだし。普段の集会で会ってたら、はじめから素顔も見られてたわけだし

 深いことは考えず、レイはこの夜を楽しむことにしたのだった。

           *

 アンがレイを訪ねたのは、それから二週間後の、新月の夜だった。

 薬屋の表玄関には魔除けが施されている。手まめなレイは常々、蹄鉄ていてつのドアノッカーを磨くのを習慣づけている。塩も都度新しく盛り直した。

 大抵のお客は表玄関から薬を求めて来る。それならばさして問題ない。用心すべきは、裏口をノックをする者である。ここから入らんとする者は厄介な問題を抱えているか、生半可な気持ちで弟子入りを望む者が多い。音が聞こえてドアを開けたが、誰もいなかったことも数回あった。裏口のノックには少々気構えが必要である。

 かの大満月から数えて最初の新月の夜。軒先のカンテラに明かりが灯されたあとだった。

———コン、コン、コン

 夜の帳を破り、ノックの音が響く。裏口だった。やや忙しげな叩き方である。もう一度耳を傾けてみる。

———コン、コン、コン

 今度は一回目よりもゆっくり叩かれた。拳を強く握り、骨をぶつけた大きな音だった。

「ごめんください」

 レイは立ちあがり、身なりを整え、裏口へ向かう。扉を顔半分だけ開くと、そこに女が一人立っていた。

「どなた様ですか?」

 そこに佇むのはアンだった。彼女の印象は先週とずいぶん違う。

「おや、アナタでしたか」

 こんな夜更けの訪問とは思いもよらず、レイは彼女を家に入れるか迷った。よほど火急のことと思われる。前に見たアンの印象はどこにもなく、覇気がないばかりか、怯えの色さえ滲んでいる。だが次に彼女の発した言葉に、レイは度肝を抜かれた。

「アナタ様はグラディスの兄上にあらせられますね?」

 唐突のあまり、レイの顔が強張った。アンもまた、以前の陽気な晩とは打って変わり、かなり思い詰めた顔している。

「どうしてそれを? 弟をご存知なのですか?」

「私はネブラの森でグラディスと暮らしておりました」

 消え入るような声でアンは答えた。あるいはまた、誰にも聞かれぬよう、わざと囁くように呟いたのかも知れない。

「なんですと」

 レイの目が急に輝いた。レイの生き別れた弟とは、他でもないグラディスだった。

「まぁとにかく立ち話もなんですから、どうぞ中へお入り下さい。今お茶を入れますね」

 思わず叫んだ自分の声で我に返り、レイはようやく、自分たちがずっと立ち話をしていたことに気づいた。あと少し遅れていれば、アンはその場にくずおれていただろう。気丈を振る舞ってはいたが、彼女はすでに壁にもたれ、立っているのもやっとなていであった。

 アンを椅子に座らせ、レイは手際よく茶葉を選ぶ。お湯の沸いたヤカンがピューッと蒸気を鳴らした。リラックスにはニルギニのお茶が効く。アンが飲みやすいよう、オレンジピールとブレンドさせたニルギニのお茶を、レイはまだ淹れたてのうちに彼女へ勧めた。

「それにしても、どうして私がグラディスの兄だと分かったのですか?」

「歩き方と耳の形。そしてなにより、澄んだ瞳がそっくりでしたから」

 なるほどそういうことかと、レイは納得した。長年連れ添ったからこそ分かるものである。

「ラクトリエの戦士となった彼は特別任務を任され、境界線の見張りをしていました。彼と出逢ったのはそのときです」

 アンは安心したせいか、ようやく落ち着きを取り戻した。両手でカップを持ちながら、アンは手を温める。レイはほとほと感服した。

———さすがは我が弟、ラクトリエで一目置かれるにまで成長したとは誇らしい

「私はシュプールサーマに恋人を残してこの地へ参りました。若さの失われる中、もう一度誰かを愛し、愛されたいと願ってしまった私は、月の君に祈りを捧げたのです」

「その相手がグラディスなのですね?」

「そうです。ですが願いには大きな犠牲が伴いました。私は自分の娘を差し出す約束をしてしまったのです。あのときの私はどうかしていました。息子さえ授かればなにも失わずに済むと、安易な考えでいたのです。やがてグラディスとの子を授かりました。珠のような娘のラウアと、息子のイグニスです。奇跡としか言いようがありません。ですが娘を手放したくない一心から、私はラウアを息子として育てました。あろうことか、月の君に嘘をついたのです。その嘘が十年越しにバレてしまい、ラウアは連れて行かれました。このままでは息子まで失うかもしれないのです」

 彼女の話が嘘とは思えなかった。それでも念には念を押す必要がある。

「アナタの話を信じたいのは山々ですが、まだ知り合って日も浅いですし、互いに信頼関係も十分に築けておりません」

 もっともな意見である。しばし事を急かし過ぎた自分をアンは恥じた。

「そこでどうでしょう。今から薬を一つ持ってきます。自白の薬です。それを飲めば、しばらく嘘がつけなくなります。それを飲んでから、続きを聞かせてもらえませんか?」

「分かりました」

 自白の薬を飲めば、まことしやかに嘘をつく者も、それができなくなる。毒でないことを証明するため、レイはアンの見ている前で自分のお茶にも薬を混ぜ、それを二人で飲むことにした。そしてレイは静かに質問をした。

「今さきほど、アナタが私に話したことは事実なのですか?」

「はい。間違いありません」

 その言葉に安堵したが、すぐに冷静を取り戻した。伯父になったと喜んだのに、姪を失ったのを思い出したのだ。

「私にできることがあれば、全力で力になりますとも」

「頼まれて欲しいことがあるのです。私たちの息子であるイグニスを、伯父であるアナタに育てて頂きたいのです」

 自分の耳を疑った。話が急展開すぎて、内容を噛み砕くのに時間がかかる。

「ちょっと待って下さい! まずラウアは無事なのですか?」

「月の君は、私の娘を誰より愛おしむと約束して下さいました。あの子の身柄は無事でしょう」

「グラディスはそのことを知ってるのですか?」

「グラディスはすでに森を離れました。ティボスで軍隊を鍛えるため、シュプールサーマから戦士が遣わされたのはご存知ですか?」

「えぇ」

「その中にグラディスがいるはずです」

「じゃあグラディスは———」

「今このティボスにいます」

「だったらまずはグラディスに相談すべきでしょう。今からでも事情を話せば、まだ遅くはないはずです」

 アンは激しく首を横に振り、身を乗り出した。

「それはできません。私たち家族の存在を知られてはならないと、今までひっそり身をひそめておりました。境界線を越えるのは任務のためで、色恋沙汰にうつつを抜かした自分自身を戒めておりました。彼は私との出逢いを運命だと信じています。でもすべては偽りにすぎません。捻じ曲げられた運命の上を生かされていただけなのです。考えたくもありませんが、グラディスには他に結ばれる相手がいたはずなのです。私のような嘘つき女が、あんな素晴らしい青年と添い遂げる資格などないのです。これ以上、彼を傷つけることはできません」

 レイは唇を噛みしめ、最後に付け足した。

「そして事が公になれば、戦士の称号も剥奪されるに違いない。そういうことですね?」

 アンは両手で顔を覆い、声を漏らして泣き崩れた。集会の宣言がレイの頭に繰り返し響いてくる。

《汝、偽りの証言をする者は、その身を以って裁かれるべし》

「ラウアが連れて行かれたのは大満月の晩です。私が家を空け、このティボスでアナタ様とお会いした晩に、娘は拐われました。森へ戻ったときにはもう、ラウアは姿を消していました。本当はグラディスの朗報を伝えるつもりでいたのですが、状況が急変し、いきなりこのような相談に至った次第です」

 あの大満月の晩、彼女は飲み物を濃く作り、話しかけるきっかけを作った。偶然に見せかけた装い———そう考えれば、目の前のアンは計算高く、一筋縄ではいかぬ相手ともいえよう。

 レイは努めて明るい面だけを見ようとした。どんな手段を使ったとしても、弟との間に愛が芽生え、命が生まれたことに変わりない。そして今、彼女は自身の過去を打ち明け、義兄ぎけいの自分に助けを求めている。目の前にいるのは他人ではなく、もはやかけがえのない家族なのだ。

           *

 とにかく気持ちを鎮める必要があった。レイは何度も手を組み換えたり、立ちあがって歩いたり、髪を掻きあげたりと、落ち着かぬ様子である。見ればいつの間にか、外は土砂降りの大雨となった。いつから降りはじめたか分からない。それほどレイは頭を抱えていた。

———考えろ。考えるんだレイ。落ち着いて考えるんだ

 アンに救いの手を差し伸べるべく、レイは一計を案じることにした。あざむく相手は、恐れ多くも月の君である。

 レイは小さく溜め息を漏らし、ゆっくり話しはじめた。

「さきほど裏の戸口が叩かれたとき、少なからず私はアナタを不審者かと疑いました。まさかそんな事情を抱えていたとも知らず、お恥ずかしい限りです」

 アンは黙ったまま、静かに首を横に振った。絶望に打ちひしがれた焦りの影が、彼女の表情から漂っている。身を切り刻む後悔に苛まれているのが、切ないほど伝わってきた。

 彼女がどうして今夜の新月を選んだか、これでようやく理由が分かった。

「さぁ元気を出して。幸い、薬作りには自信があります。勿忘草わすれなぐさから忘却の薬を作りましょう」

 その言葉を聞き、アンの涙が嬉し涙に変わった。レイはわざと口調を荒げる。ここからはツラい宣告をせねばならないのだ。

「問題がいくつかあります。この場合、もっとも優先すべきはイグニスの幸せです。当然ですが、アナタや私じゃない。両親との離別が子供にとってどれほどツラいものか、私はよく知っています。もちろんグラディスもです。私の顔を見るたびに、イグニスは父親の面影を私に探すでしょう。アナタがそうしたように。イグニスには父親の顔を忘れる薬を作ります。まずはそれでいいですか?」

 レイから一瞬も目を逸らさず、アンは頷いた。

「それから、秘密を隠し通すには、私自身も大芝居を打たねばなりません。私が自分で飲む用の薬がもう一瓶。それを飲んで、今日ここでアナタと口裏を合わせた秘密を忘れます。さすれば、たとえ拷問を受けても白状はできない。はじめから忘れてますからね。この二つの薬の効力は『グラディスの顔を見たときまで』。つまり、私は弟と、イグニスは父親と再会したとき、すべてを思い出すカラクリに調合します。グラディスのことだ、世界が統一されるまで家族に会わぬつもりに決まっています」

 レイの言葉には力強い説得力があった。アンはこのとき、レイが義理の兄で本当によかったと、心からそう思った。

「私はなにをすればいいんですか?」

「実は一番厄介な問題があります。薬に効力を持たせるには、グラディスのなにか(・・・)が必要なんです。一番効果を示すのは血です。あとは涙か、髪の毛でも構いません。それを薬に浸せば完璧です。ただグラディスはティボスにいるのに会えないときた。家になにか残ってますか?」

 キレイ好きなアンの家は掃除が行き届いており、塵一つ落ちていない。それから思い出したように、バッグの中から一冊の手帳が取り出された。昔グラディスが愛用した手帳である。

「これはどうでしょう? ずいぶん昔のものですが、ところどころインクが汗で滲んでるところがあります」

 間違いない。弟の筆跡である。細やかな草花のスケッチ、斜めに書かれた走り書き。最後のページには出会った頃のアンと、二人の子供たちも描かれていた。この子供たちが、レイにとっては姪と甥ということになる。どちらも両親に似て、愛らしい顔をしていた。

 昔を懐かしむ目をしながら、レイはしばしかずに手帳を眺めた。

「ずっと持ち歩いてたんですね」

「えぇ、私の宝物ですから」

「これならなんとかなりそうです」

 しばらく待つように伝え、レイは奥の部屋で薬の調合に取り掛かった。手帳をパラパラ捲る。探しているのは、グラディスの汗が染み込んだ場所である。すると、一枚の花びらが挟まれているのを見つけた。どうやらバラの花びらであるらしい。レイはこれを使うことに決めた。

 レイは慎重にピンセットで花びらをつまみ、切れ端を薬水に溶かした。無色透明だった薬水が、ほんのりピンク色に染まってゆく。調合に調合を加え、ようやく薬が出来あがった。

 時間はかかったが、レイは薬瓶とハサミを持って現れた。薬をアンに握らせ、その上からレイは手を握った。

「よく聞いて下さい。この街でイグニスが住むとして、どこかで彼の名前が広まれば、グラディスの耳に届く恐れもあります。時が来るまで名前を変えたほうがいいでしょう。この薬を彼に飲ませたら、新しい名前で息子をお呼びなさい。そうすればイグニスは自分の名前を忘れ、呼ばれた名前が本名だと思い込みます。いいですか? チャンスは一度きりです。薬を飲ませたら二度とイグニスと呼んではいけませんよ」

 話を強調するたびに、アンの手にギュッと力が込められた。一つの薬に、父親の顔と自身の名前を忘れる効力が調合されていた。

「この雨はしばらく続くでしょう。月がすっぽり隠れた日を見計らって、薬を飲ませたイグニスをここへ連れて来るのです。ツラいでしょうが、それがしばしの別れになります。合図として、表玄関の呼び鈴を三回鳴らすこと。その音を聞いたら、私は薬を飲み、記憶を消してからアナタの前に現れます。アナタが演技をするのはここからです。店に現れたアナタと私は初対面ということになります。なにかしら理由をつけて『どうしても息子を預かって欲しい』と私に頼んで下さい。もし私が拒んだら、無理にでもイグニスを置いて店を去るのです。上手くいけば、世界が統一されたときにすべて思い出されるでしょう」

 そしてレイはハサミを渡し、アンに髪の毛を一本切らせた。髪の毛の浸された先から薬水が淡く光った。それをしかと見届けてから、レイは大切にそれを戸棚へ仕舞った。

「この薬を飲んだら、イグニスは私のことも忘れてしまうのですか?」

「それは心配ありません。これまでの記憶はそのまま残ります。でもなぜか父親の顔だけ思い出せない感覚に陥るだけです」

「本当にありがとうございます。なんとお礼を申しあげてよろしいのやら」

「アナタはこれからどうするおつもりですか?」

 レイの口調が元に戻った。穏やかな、優しさを含む話し方である。

「まだ考えておりません。あの子たちが幸せに暮らせるのなら、私はどうなっても構いません。ただ、もし許されるのであれば、忘却の薬を私にもう一つ用意してくれませんか?」

 きっとそう言うだろうと思ったレイは、深い溜め息をつき、静かに答えた。

「お望みなら、アナタ用に薬をもう一つ用意しましょう。悲しみを忘れるために、忘却の薬を求める者はあとを絶ちません」

 キャビネットから小瓶が一つ取り出された。

「なにを忘れたいかを思い浮かべたら、一気に飲み干しなさい。向こう十年は記憶が消えます」

「お願いします」

 くれぐれも薬をたがえぬよう、アンが飲む薬の瓶には青いツユクサの染料が垂らされた。

「必ず迎えに来ると約束して下さい」

 言いたくはなかったが、レイはその言葉を言わずにはいられなかった。アンは大きく顎を引き、声を出さずに頷いた。そのまま頭を下げ、

「息子をくれぐれもよろしくお願い致します」

 ひとしきりお礼を告げ、アンは夜陰の中へ溶けるように去って行った。彼女の後ろ姿をほうけたように見送るレイは、複雑な心境の狭間に、身の置き所を探している。

 一晩で薬作りに集中するあまり、レイは精も根も尽き果てていた。アンの前で気丈に振る舞ったのも、なおのこと拍車がかかっている。

 果たして彼女は自己犠牲の母親か、救いようのない咎人とがびとか。もしかすると、両者に明確な違いはないのかもしれない。答えの出ない問答を繰り返し、レイは雨の降りしだく空を眺めた。

           *

 静かな夜道を独り、従者も連れずに歩く女がいる。身にまとったローブは、ともすれば夜の闇よりも黒い。見事に闇の中に溶け込んでいる。義兄の家を去ったばかりのアンである。

 家路を急ぐ彼女は、これから自分がやるべきことを何度も繰り返し思い起こしていた。土砂降りだった空は勢いを鎮め、細く、柔らかな雨に変わっていた。風はない。森の樹々は葉先から雫を垂らし、泥濘ぬかるみに足をとられることもしばしば。水気をたっぷり含んだ夜気を掻き分け、アンは息を切らし、森を進んだ。

 肌寒い森の空気に、冬の兆しが感じられる。新月の夜に降る雨。手元の灯りがなければ、進める道ではない。

———レイザー殿は本当にグラディスそっくりだった。彼になら安心して息子を任せられる。

 いい加減に考えるのをやめたかったが、それができたのは、愛息子の寝顔を見てからだった。

 静かに玄関が開けられる。眠るイグニスを起こさぬよう、忍び足でくりやへ向かう。一人の女から、母親に戻る瞬間であった。雨でびしょ濡れだったが、アンは静かに手を洗った。石鹸を泡立て、指の付け根を入念に擦る。なぜだか分からなかったが、そうせずにはいられなかった。それから顔を洗い、髪を絞った。

 眠るイグニスをそっと抱きしめる。その柔らかな髪の毛から、健康的ないい匂いが香った。静かにコルク栓を抜くと、息子の髪の毛が薬水に浸された。さっきと同じように、瓶が淡く光る。居ても立っても居られなくなったアンは、夜が明けるのを待ちかね、イグニスを優しく起こした。

「お寝坊さん、もう朝よ。起きて」

 囁かれた声に薄目を開けたイグニスは、窓の外がまだ暗いのを不思議に思った。

「まだ暗いよ?」

「外は雨が降ってるからよ。さぁ、起きたらこれを飲んで」

「これなぁに?」

「早く大きくなれるお水よ」

 イグニスは眠そうに半身を起こし、目を閉じたまま瓶を飲み干した。空になった瓶を受け取り、アンはもう一度息子を抱きしめた。

「エリシオ———私の可愛いエリシオ———」

 そう呼んだとき、イグニスの閉じた目蓋が微かに動いた。だがそれ以上はなにも起こらず、苦しむ様子などはなかった。

「ごめんね、まだ朝じゃないのに起こしちゃって———ダメなお母様で、本当にごめんね」

 息子の温かみを肌に感じながら、アンは必死で涙を堪えた。

「お母様、どうして泣いてるの?」

「なんでもないのよ。さぁ、もう少し寝たほうがいいわ。目が覚めるまで傍にいるからね。起きたら朝食にしましょう。アナタが大好きなパンケーキを焼いてあげるわ」

「ブルーベリーソースもある?」

「えぇ、もちろんよ」

 悲しい朝だった。雨垂れが窓ガラスを優しく撫でる。まだイグニスを抱えながら、見るともなしに、アンは外に視線を向けた。どこまでも深いネブラの森を、雨と霧とがしっとり濡らしている。だんだんと雨音が遠のき、夢の続きに息子の頬が緩む。もうイグニスとは呼べない。アンは息を押し殺し、二度とイグニスと呼べぬ息子の寝顔を見つめるばかりだった。

 どこか遠くから、雷の轟く音が聞こえてきた。誰かが境界線を越えようとしているのかもしれない。あらぬほうを見つめながら、アンはぼんやり考えた。もう後戻りはできない。このままイグニスを抱え、シュプールサーマに逃げてしまおうか———そんなことさえ考えていた。

 まもなく空は晴れ渡り、本格的な夏の陽射しが雲間から届くだろう。深い森は十分に潤され、樹々や土が匂い立ってくる。緑は艶やかさを増し、ますます鮮やかに、森の深さを際立たせた。

           *

 レイと、アンと、それからイグニス。少なくともこの三人は、これから大きな転機を迎えようとしている。アンの訪問を機に里心のついたレイは、数年ぶりに故郷へ里帰りをした。

 ティボスからナラベルまで、歩けば一週間はかかる。それを見越したうえで、レイは店を弟子に任せた。ルベル渓谷からニーア川を渡り、ウォラーレ峠を越えるまで二日はかかる。三日目の日没前にはノモス半島に着きたいところである。ようやくワスティコ湾までやって来たときには、五日目の月が昇っていた。満月には一日足りぬ、ふっくらと蒼い月である。夜は宿屋に厄介になる考えでいたが、別に野宿でも構わなかった。ナラベルに近づくにつれ、懐かしい海風が吹いてくるのが感じられたからだ。

 一方その頃、事前に手紙を受け取った母のカハナは、息子の到着を今か今かと待ち侘びていた。一本道の遠くから一人、見覚えのあるマントを翻し、男が杖を突きながら歩いてくる。長い杖を突きながら、丘を目指して来る青年の姿。よく見れば、擦り切れたマントには穴も空いている。どんなに遠くからでも、息子とあらばすぐに見分けがついた。

「遅かったわね!」

 聞こえているのかいないのか、レイは呼びかけに大きく手を振った。久しぶりの再会に親子は抱擁し合う。海を臨む丘にある、石造りの家。中に広がるわらの匂い。暖炉の暖かさ。昔とちっとも変わっていない。それらが一瞬にして、大人のレイを少年に戻した。

「やぁ、ノンノ。元気にしてたかい?」

 そうヤギに語りかけ、レイはその場に屈むと、乳の張り具合を手で確かめた。

「シチュー用のミルクはもう搾ってあるから安心なさいな」

 母の作るシチューは格別であった。幼い頃、乳搾りはレイの仕事だった。いつも美味しいミルクを出してくれるノンノが元気で、レイはホッとしている。お陰で今夜は大好物にありつけるのだ。家の中が、なんだか昔よりも狭く感じる。

「この椅子、こんなに小さかったっけ?」

 その手で一つ一つを触り、感触を確かめる。

「それだけお前が大きくなったのよ。なんでもかんでも昔のまま使ってるわ」

 大きな桶にお湯が注がれる。昔はこの桶に入り、小さなレイはよくみそぎをしてもらったものだ。肉刺まめのできた泥だらけの足を、レイはしばし足湯に浸して温めた。

「さぁ、できたわよ」

 寛いでいるうちに食事の準備が整えられた。ミルクたっぷりのシチューに、卵とジャガイモのガレット。デザートにはリンゴの包み焼きもある。長らくティボスに住むレイも、これに勝るものを食べたことがない。なにもかもが昔のままであることに、レイの口元は思わず緩んだ。

 食事を囲みながら、この数年で自分の身に起こったことを話した。自分の元で学ぶ弟子がいること。街の一角に店を開いたこと。

「ずいぶん見ないうちにすっかり垢抜けちゃって。こんなにお喋りが上手だったなんて、母さん知らなかったわ」

 食後のお茶を準備しながら、レイは照れくさそうに笑う。

「確かに昔よりは喋るようになったかな。毎日お客さんを相手にしてるからね」

「都じゃ田舎に比べて大変なことも多いだろうに。なにかと物騒な世の中だからね、うまく切り抜けるには要領のよさも大切よ。お前がティボスに行くと言い出したときは、一人でやっていけるか気を揉んでいたけどね」

 せわしく動き回っていた母がようやく椅子に腰かけた。それを見計らい、レイは例の話をすることにした。

「実はね、つい一昨日のことなんだけど———」

 息子の声色と目つきが変わり、カハナはすぐに話を遮った。

「待ちなさい、」

 そう言うが早く、パッと手が握られた。

「お前がこれからなにを話そうとしているのか、母さんには分からないわ。でも話す前にもう一度よく考えて欲しいの。それは本当に私に話していいことなのか」

 確かに母の言う通りかもしれない。グラディスがサンツァルザーマにいることも、甥を預かることになったことも。急にお婆ちゃんになったと知ったら、母は驚くに違いない。なにより、これからあの方(・・・)を欺かねばならない。それを打ち明けることで、愛する母が危険に晒されるやもしれないのだ。

「私はね、こうしてお前が無事に戻ってくれただけで胸がいっぱいよ。もちろんいくつになっても、息子のことならなんでも知りたいと思うのが母親。お前のことだから、なにか大きな転機が訪れたのね? だからそれを確かめにここへ帰って来た。そうでしょ?」

 安堵と懸念の入り混じる眼差しが、ジッと自分に向いている。すべてを話さずとも、母にはなんでもお見通しなのだ。こんなことを言われては、返す言葉も浮かばない。

「お前はみんなとは違っていたわ。だからきっと、なにか偉大なことを成し遂げると思ってましたとも。自分の信じるようにやってみればいいじゃない」

 喉まで出かかった告白を、レイはずっと奥まで飲み込んだ。

「本当に、お父様そっくりになったわね」

 息子の力強い眼差しが、生き別れた夫の面影を宿している。カハナは誇らしげに、器用にわらを編んだ。今日来たばかりの息子も、またすぐに旅立ってしまう。それも母には分かっていた。

 出発の朝、カハナは仕上げた草鞋わらじをレイに渡した。

「ハイ、これ。長旅でも疲れないように編んでおいたわ」

「なにからなにまでありがとう」

「今度は嫁さん連れて来なさい」

「いろいろありがとう。母さんもいつかティボスに来てよ」

 そう言っても、母がナラベルからは離れないのは分かっていた。ほつれたローブの裾は綺麗に縫われ、杖もピカピカに磨かれている。最後に息子を抱き寄せ、カハナは笑って息子を見送った。誂えられた草鞋わらじはピッタリとレイの足を包み、柔らかな履き心地が帰り道を軽やかに導いた。

 

 こうして、いくらもせぬうちに新月の夜が訪れ、約束通りにアンはイグニスを連れて店に来た。案ずるまでもなく、記憶を消したレイは、アンの申し出を断らなかった。それからの生活は前述の通りである。レイはイグニスを大切に育て、二人は互いにかけがえのない存在になってゆくのだった。

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