第五章 魔法使いの弟子
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数多の術使いがいたとて、歴史に名を残せる者は少ない。まして現代まで語り継がれるとあらば、その者は定めし高潔か邪悪か、二つに一つ。
その最たる術使いといえば、レイザーだろう。この男もまた、時と共に呼び名が変わり、必要に応じて姿を変えてきた。偉大なる魔法使いと呼ばれる、かの《・・》マーリンも、レイザーの一部に過ぎない。その生涯は謎に包まれ、彼の生い立ちを知る者は少ない。
やがて預言の通り、サンツァルザーマには王が現れる。されどその王を語る前に、やはりこの男の話をせねばなるまい。
ほがらかな春の季節。陽だまりに包まれながら生まれた少年は、レイザーと名づけられた。大きくなってからはもっぱら短くレイの愛称で呼ばれた。
かの審判の日、十歳だったレイは母のカハナと共にサンツァルザーマで暮らす道を選んだ。当時は誰もが苦難を乗り越えんとしたように、片親と育つ寂しさを、レイもなんとか紛らわせようとしていた。
カハナはそんな息子が不憫でならなかった。
「ツラいときは泣いてもいいのよ」
そう諭されても、レイは決して涙を流さなかった。泣きたいのはカハナのほうであったに違いない。
サンツァルザーマで暮らしはじめてより、レイはすっかり口を利かなくなった。実の母親でさえ、時折りレイの声を思い出せぬほどである。挙句には周囲から「口が利けないのか?」とまで心配される始末。されど言いつけは守る子であり、カハナもカハナで、努めて過保護にはしなかった。
ナラベル港より続く、なだらかな丘。あちこちを転々としたが、二人の親子が選んだ場所は、その丘の上だった。穏やかな海風が風車をまわし、ヒツジは自由に戯れる。牧歌的な環境のもと、レイは常に自分自身と向きあう子供に育ち、その観察力と洞察力は日増しに鋭さを増した。大自然こそが彼の師であり、父親の代わりであった。
なかんずく、薬草の持つ摩訶不思議な魅力は、少年レイの心を掴んで離さなかった。
「この時期に花を咲かせるのはフェンネル。こっちのほろ苦い香りがするのはオレガノ」
レイは数え年十一にして、自然界にある草木の名前をすべて覚え、植生や特徴を誰より把握するまでに成長した。その並外れた才能から、大地の申し子とまで称され、ナラベルではちょっとした有名人だった。
「昨日からどうも体が重くてね、思うように足腰に力が入らないのよ」
「それならレイに聞いてみるといいよ。あの子は物知りだからね。なにかいい知恵を貸してくれるかもしれない」
事実、彼は生涯を薬草とともに歩んだと言っても過言ではない。そんなレイは成人を迎えるとすぐに故郷を離れ、ティボスの都へと移った。
———もっと活気に満ちた街へ行こう。自分を必要とする街へ出発するんだ
己の力を試すにはティボスを置いてほかにはないと、十八歳のレイはナラベルを後にした。そしてティボスの街は彼の期待通り、大変賑やかな街だった。かの大火事から一気に街は再建され、今ではサンツァルザーマ随一の都にまでなっていた。
レイの才能はすぐに頭角を現し、二年も経たぬうちに弟子を取った。街ではお茶の葉占いや夢占いが罷り通っていたが、それらは一時の気休めでしかないことを、レイはちゃんと分かっていた。
「いいかい? 占いなんてものは弱い心が生み出した、ただの逃げ道でしかないんだよ。そこに真理はないのだから。どんなに世界が混乱しても、自然から受ける恩寵を忘れてはいけないんだ」
レイは事あるごとに弟子へそう諭した。依頼に応じた薬の調合を生業としたが、レイの薬は苛立ちや不安に苛む者へ大いに安らぎを齎した。その腕前から、他方より応援の依頼が来たこともある。それでも彼はあえてティボスに留まる道を選んだ。理由は漠然としていたが、レイはティボスへ残らねばならぬ気がしてならなかったのだ。
*
あれはいつだったか———レイはあの夜の出来事を今でもはっきり覚えている。
毎日のように土砂降りの続いた夏の夜のこと。地面を叩く雨音は一段と激しくなるばかり。間もなくやむと言われているが、かれこれずっと、雨のやむ気配はない。
夜の雨に濡れるティボスの街で、小さな灯りがチラチラ揺れるのが見える。軒先にカンテラを灯すのは、レイの営む薬屋であった。街に薬屋は二軒あるが、夜中も開いているのは、レイの店である。
誰もいない店頭には、小さな呼び鈴が一つ置かれている。もっとも、それは夜だけの話しだが、客がそれを鳴らせば、奥から誰かしらが出てくる按配である。
そんな雨の夜。入り口のドアが開く音が聞こえ、呼び鈴を三回もチリン、チリンと鳴らす音が響いた。
「ごめんください」
女の声が店に響いた。あと少し反応が遅ければ、女はもう一度呼び鈴を鳴らすところであった。
「遅れて申し訳ない。いつもは弟子が店番を勤めるのですが、今夜はあいにく出払っておりましてね」
レイは暖簾をくぐり、呼び鈴の方へ向かって返事をした。見れば若い女と、彼女に手を繋がれた、息子らしき少年が立っている。
「今日はどうされましたか?」
女はソワソワしている。レイの問いかけに、母親はしばらく答えなかった。傘も差さずに来たのだろうか、二人はずぶ濡れの格好で、絞るほど雨水が垂れている。
「ご子息は、どこか具合が悪いのですか?」
差し出したタオルを、女は受け取ろうとしない。
「アナタ様にお願いしたいことがあって参りました。実は、しばらくこの子を預かって頂きたいのです」
突拍子もない申し出に、レイは目を瞬かせた。
「一体どういうことですか?」
「訳あって、今いる場所を離れねばなりません。この子は生まれつき病を抱えており、これまでずっと薬が手に入る場所で暮らしておりました。困ったことに、これから行く場所には薬師がいないのです」
よほど切羽詰まった状況と見える。深刻な状況なのは分かるが、はたから見れば妙に映ったろう。それにしても、目の前の母親はなぜ自分に子守りを任せようとしているのか。レイには解せなかった。
「いきなりそう言われましても」
母親はうつむき、今にも泣きそうな声で言う。
「お願いです。他に宛てがないんです」
かつては自分も病弱であった。熱を出すたび、母は隣町まで走らねばならず、薬を調達するのに苦労をかけた。その苦労を知るレイは、目の前の二人が他人ではないように思えてきた。
「なにか込み入った事情のようですね。しばらく預かりましょう」
その言葉に女は感嘆の声を漏らし、何度も頭を下げて礼を言った。その隣りで、少年はなにも言わずに立っている。見ず知らずの、しかも初対面の男にいきなり預けられ、この子は不安ではないのだろうか。レイの脳裏にはふと、その思いが過ぎった。
「まぁとにかく、立ち話もなんですから、奥にどうぞ。今お茶を———」
確か戸棚にアプリコットのお茶があったはず。それが頭に浮かんだレイだったが、彼が振り返ったとき、すでに女の姿はなかった。
パタリと扉の閉まる音がし、雨音と湿った風が入ってきた。彼女の口調には、決してノーと言わせぬ不思議な力があった。妖か幻とも思えたが、残された男の子は独り、ぽつねんと立ち竦んでいる。レイは少年の傍に寄り、背を屈め、声をかけた。
「お母様は最後になにか言っていたかい?」
「この方の言うことをよく聞きなさいって、言ってました」
少年はこともなげに言った。薬屋の中で、少年とレイの二人だけが残された。このまま追い出すわけにもいかない。
「さぁ、中へお入り」
レイは少年の手を引き、奥間へと案内した。レイの自宅、兼仕事場である。夏も間近とはいえ、海沿いの街は意外にも肌寒い。びしょ濡れの少年を気遣い、レイはすぐに暖炉へ火を興した。
少年は妙に落ち着き払っており、楽にするよう勧められたが、座ろうとはしなかった。
「はじめまして、私はレイザー。それからこれは、ウチで飼っているマリクだ」
マリクとは灰色の毛並みをしたネコである。濡れた髪をタオルで拭いてやるうちに、マリクは少年の足元に擦り寄り、ミャアと一言鳴いた。
「君の名前は?」
「エリシオと言います」
「いい名前だね。私のことは、なにか聞いているかい?」
少年は申し訳なさそうに首を横に振った。見れば、服の合わせ目がズレている。よほど急いでいたか、慌ててここまで辿り着いたのだろう。
「そうかい。実を言うと、私も君のことはなにも知らないんだ。だからいろいろ聞かせて欲しいと思ってる。いいかな?」
少年は首を縦に振った。
「君はどこに住んでいたのかな?」
「森の中です」
「じゃあ草花がたくさん咲いていただろうね。お父上は?」
「お父様は遠くへ行ってしまいました。お母様は、しばらくお父様は戻れないだろうと言ってました」
柔らかで品のある言葉付き。エスメラルダのそれである。
「なるほど。歳はいくつだい?」
「十一です」
「そうかい。君の兄弟は?」
「分かりません。多分、お父様と一緒にいるかもしれません」
実に賢い話し方をする子である。言葉は少ないが、地頭の良さを感じる。答える前に吟味し、最小限の言葉で伝えんとする姿勢がうかがえる。それがレイの抱いた、エリシオの第一印象だった。
「すまない、私ばかり質問してしまったね。私もずいぶん昔に家族と別れてしまった。弟もいるが、今は父と一緒にシュプールサーマで暮らしているよ」
暖炉に照らされたエリシオの表情が、かすかに動いたような気がした。
「僕はなんとお呼びすればいいですか?」
ためらいがちにエリシオは訊いた。
「そうだなぁ、弟子は私を師匠と呼ぶが、君は私の弟子でもないし———」
とはいえ、父親でもない。難しい質問である。それでもエリシオは、はじめて会った気がしないような、どこか他人とは思えぬ気配をまとっている。そしてその不思議な感覚は、少なからずエリシオにも芽生えていた。
「慣れるまでは、無理に名前を呼ばなくてもいいさ。あのう、とか、すみません、とか、はじめはそれで構わないさ。呼び名なんて、これから考えればいいことだからね。でも私は君のことを、これからエリシオと呼ぶよ」
エリシオは小さく頷いた。ふっくら頬っぺが緊張して赤らみ、まるでリンゴのようである。
「さぁ、まずはタオルで体を拭くんだ。このままじゃ風邪をひいてしまうからね。温かいココアを淹れるけど、エリシオ、君も一緒にどうだい?」
互いにソワソワしていたが、エリシオはレイの優しい口調に安心し、レイもまた、少なからず自分と共通点のあるエリシオを愛らしく思った。
二人はしばしの団欒を楽しみ、ココアを飲み終える頃、エリシオはすっかり元気を取り戻した。
*
少年はよほど閑静な森で育ったと見えた。騒がしいのに慣れぬエリシオは、しばらく外に出るのを敬遠していた。
「市場へ出かけるのは嫌かい?」
「あまり行きたくないです」
「そうか。なにが好きか分かれば、美味しい朝食を作れると思ったんだが」
気持ちはよく分かる。肩がぶつかるほどの喧騒はレイとて遠慮したいところであった。
諸々の仕入れは弟子へ頼み、代わりに二人は静かな場所へ散策に出かけ、いろんな場所を見てまわった。エリシオが特に興味を持ったのは、海であった。湖しか見たことのないエリシオは、丘の上から水平線を見渡したり、夕陽に輝く波打ち際を裸足で小躍りしながら駆けた。
「すごい! これが海なんですね!」
「そんなに気に入ったなら、明日から毎日ここへ来よう」
はじめての景色に新鮮な反応を見せる姿は実に子供らしく、エリシオがティボスに慣れるのに時間はかからなかった。
———この子には弟子にないものがある
言葉で表すのは難しいが、確かにそれは少年の中に息づいていた。レイの見込み通り、エリシオは幼いながら非常に聡明であり、レイが糧とする仕事に興味を示した。手先もなかなか器用である。
自白の薬を使えばエリシオの過去を知るのも簡単だろう。されどレイはそれをしなかった。彼の成長を見守り、新たな発見を見つけるほうが、レイにとっては何倍も楽しかったからだ。
子育てとはこれほど喜びに満ちたものかと、レイは毎日のように思い知らされた。
「僕も同じローブを羽織りたい!」
と、ちょっぴり背伸びしてねだる仕種は実にいじらしく、愛らしい。そのうちに紅茶の濃さやミルクの量まで好みが似てくるのだから、不思議なものである。
エリシオは母親恋しさに喚いたり、どうにもならぬことに駄々をこねたりしない子供だった。子育ての経験がないレイにとって、それはなによりの救いであった。
ある日、レイはたくさんの薬を抱え、エリシオとともに家々を訪ねまわった。常連客の中でも子供のいる家である。
「まぁ、レイザーじゃない。どうしたの?」
「いえ、近くまで用事があったものですから。その後お加減はいかがですか?」
「お陰様ですっかりよくなったわ」
「それはよかった」
玄関先で立ち話をしていると、奥から子供が顔を覗かせる。レイは屈んで彼らと目を合わせ、手を振った。よほど内気な子供でない限り、彼らは手を振り返し、挨拶をしてくれる。
「やぁ、君がネミオだね。ウチのエリシオを紹介しよう」
エリシオに同世代の友達を作らせようと考えたレイは、薬の配達を口実に近所をまわっていたのであった。
「それからこれは、前に頼まれた薬をさらに改良したものです。常備されておくのもいいかと思いまして」
「まぁ、助かるわ。よかったら中でお茶でもどう?」
「どうする、エリシオ?」
そう訊かれると、エリシオは首を縦か横に振る。その家の子と仲良くなれそうなら首を縦に。ちょっとでも難しそうなら横に振る。この家では横に振ったので、次の家に向かわねばならない。
「せっかくですが配達が残ってますので、またの機会に」
感じよく断ってから、レイは玄関を閉めた。
「今の家はどうしてダメだったんだい?」
「なんとなくです」
「なんとなく、か。便利な言葉だ」
エリシオの洞察力はまんざらでもなかった。問題を抱える家の子供ほど、エリシオは仲良くなれなかった。
あるときなど、とある家の前を通りかかったとき、エリシオはレイのローブを引いて立ち竦むときがあった。不思議に思ったが、そこの住人が風変わりなので有名だったのをレイは思い出した。エリシオは直感だけでそれを見抜いたのだ。
仲良くなれば返事を待つまでもなく、子供同士すぐに公園へ駆けてゆく。そうなればしめたもので、レイは心置きなくお茶の招待を楽しめた。子供とは器用なもので、名前を聞くよりも先に仲良くなれてしまう。大人になれば、なかなかそう簡単にはいかない。まず互いに名乗り合い、敬意を示さねば、先へは進めないからだ。
エリシオの社交性は日増しに開花され、健やかな少年時代を取り戻す毎日を送った。自分もかつてはその子供の一人だったこともすっかり忘れ、レイは微笑ましくエリシオを見守った。
*
三年後、エリシオは十四歳となった。レイとの信頼関係は十分に築かれている。それよりも前から、レイは不定期に家を空けた。決まって夜のことである。この日は今年一番に冷え込む夜だった。
手紙を何通か書きあげたレイは、いくつかの文書にさっと目を通し、手際よくサインをする。どうやら今夜が、その出掛ける晩のようである。レイはいそいそとエリシオを呼びつけた。
「家にあるものは好きに使って構わない。本を読むなら、知らない言葉を控えておくこと。あとで一緒に勉強しよう。途中までのスケッチを完成させるのも悪くない。火に掛けた鍋を時々掻き混ぜるのを忘れないでおくれ。使い勝手は分かってるね? それから———えぇっと———」
言い忘れがないか、レイは頭を傾げる。
「それから、今朝摘んだヨモギの仕込みを済ませてくれると助かるんだが———でしょ?」
エリシオは眉をさかしげに動かし、得意げに言ってのけた。
「よろしい。夜はむやみに出歩かないと約束しておくれ。出掛ける理由もないとは思うが、どうしても必要なときは、セシュに相談すること」
セシュとは離れに住む弟子の愛称である。
「心配しすぎですよ、お師匠」
「大いに結構」
「大いに結構」
そう言って、レイは行き先を告げずに家を出た。今ではエリシオも立派な弟子の一人。レイを師と仰ぎ、多少なら店番を任せてもらえるほどだった。
寂しがるどころか、エリシオはむしろ独りの時間を楽しんだ。森にいた時分、夜は必ず眠るよう言われたが、ここでは口喧しく言われない。パンケーキが食べられなくても、少年を惹きつけてやまぬものが、この家にはたくさんあったからだ。
短くなった蝋と封蝋印。凝ったデザインの便箋に封筒。それを上回る、何百通もの手紙の山。ちなみにこれらはすべて開封済みなので、読もうと思えばいつでも読むことができた。時折り母からの手紙はないかと探してみるが、今のところ届いたことはない。中を読まずとも、宛名の筆跡でそれと分かるからだ。
分厚いスケッチブックには何千何万と書き溜められた薬草の詳細が記されている。いつかこれが本になる日が来るのだろう。エリシオは手にした手紙を静かに戻した。束が乱雑に積まれたお陰で、自分が触ったことはバレるまい。
レイがティボスへ来たとき、荷物といえば風呂敷に包んだ数冊の本と杖、古びたマントを除けば、これといった荷物はなかった。それが今では、こんなにたくさんの調度品にあふれている。
中でもエリシオのお気に入りは、粗削りの台にズラリと並んだ調剤器具の数々であった。細長く枝を伸ばしたフラスコ、乳鉢、天秤計り。これらを使い、レイは器用に薬を調合する。
散らかっているように見えるが、今日はまだ片付いているほうである。夏になればあらゆる薬草の刈り入れどきを迎えるため、床下はおろか天井まで薬草が堆く積まれる。そうなっては身動きもとれない。
———いつか自分も一人前の薬師になって、世界中を旅してまわろう。困っている街や村に、いくらでも必要なだけ薬を作ってあげるんだ
それが十四歳になった、エリシオの夢だった。
数々の器具を観客に見立て、エリシオは一人芝居をはじめた。その真ん中を陣取るのは、ネコのマリクである。レイの口ぶりを真似るのは、エリシオにとってお手のものだった。
「いいかい? 薬を扱うに当たり、もっとも気をつけることはなにか? それはみんなの秘密を守ることだ。この店に来るお客は誰もが悩みを抱えている。その悩みへ真摯に耳を傾け、相応しい薬を処方すること。それが私の仕事だ」
耳にタコができるほど聞いた言葉だ。ブカブカのローブに袖を通し、椅子の上に乗ってみせる。一言一句を事細かに思い出し、こましゃくれた物真似をしてみせる。
「オイ、聞いてるのか、マリク?」
当のマリクはまさか自分が諌められているとは思ってない。エリシオはムスっとして、ネコは気楽なもんだと独りごちた。
「いいかい? どんな悩みでも相談に乗っていいわけじゃないんだ」
レイは必ず冒頭に「いいかい?」と言って一呼吸置く。本人は無意識だろうが、それが口癖だった。エリシオの芝居はまだまだ続く。
「怨みを抱えた男から『復讐に使う毒薬をくれ』と言われても、耳を貸していけないし、手を貸すのはもっと許されない。なぜならその毒薬が、ちゃんとこの店にあるからだ」
長らくレイと過ごしたお陰で、すっかりラクトリエの口ぶりが板についている。
「一口に毒と言っても様々だ。一番強力なのはヘビの毒。苦痛を感じる隙も与えず、一瞬で死に至らしめるものだ」
いつもなら触らせてもらえぬ試験管を掲げ、軽く振ってみせる。明かりに透かした試験管の中で、赤い液体が揺れている。
「サソリにもタコにも、体に毒を持つ生き物は多い。もっとも、お前は見たことはなかろうがな。植物にだって毒を持つものがある」
エリシオは舞台を移し、今度はキャビネットの前に立った。鍵の掛かったガラス扉の奥には薬瓶がびっしりと並んでいる。手を伸ばしても届かぬ場所に、毒の入った瓶があった。危険な薬瓶は暗闇でも蛍光色を放つよう細工がされいる。されどもその鮮やかさがかえって目を惹き、エリシオは食い入るように戸棚を眺めた。
「誰もが毒を恐れるが、実はどの薬にも少量の毒が入っているのだ。不思議に思うだろうが、薬と毒は表裏一体。光と影のようなものだ。これはくれぐれも秘密にしておくこと。みんなが怖がるといけないからね」
それを言い終えると、エリシオの動作はピタリと止まった。一つの疑問が彼に芝居をやめさせたのだ。
———でもなんでここに毒があるんだ?
ヒガンバナ、シャクナゲ、ヤマゴボウ。海の生き物から採取した毒もある。その昔、世界が隔たれた折に、毒を持つ動植物はこの世から消えたと聞いた。それらの毒がなぜここにあるのか。
よもや、師が夜な夜な出掛けて朝まで戻らぬことが、なにか関係してるのかもしれない。母もそうだった。夜になると祈りを捧げて眠りについたが、そのあと母はどこかへ出掛けていた。父は家を出たきり会っていない。そしてなぜか、父の顔が思い出せない。どの思い出にも、父の顔がないのだ。
「おぉっ、寒い、寒い」
それにしても、こんな底冷えする夜に、師匠はどこへ出かけたものか。そこまで考えると、エリシオはハッとなにかを思い出し、居間へ向かった。暖炉に掛けた鍋のことをすっかり忘れていたのだ。こってりした緑色の液体を、柄の長いヘラでゆっくり掬いあげる。汗が飛び散らぬよう、くれぐれも注意が必要だった。
まだ弟子として駆け出しの頃、ほんの少し汗を飛ばしただけで、鍋の中身を一から作り直したことがあった。一夏かけて集めた薬草が台無しとなり、そのときのレイは大層に渋い顔をしていた。以来、エリシオは鍋の前で息を止めている。
鍋の番をしながら、エリシオは暖炉の前でヨモギをちぎった。ヨモギの汁が滲み、指先が真っ黒になる。火が絶えぬよう薪を焚べ、井戸の水で手を洗い、また鍋を掻き混ぜる。キャビネットに並んだ毒の瓶と、父親の顔が思い出せぬ理由。異なる二つの要素が、交互にエリシオの脳裏に浮かんでは消えた。
*
ラウアの存在を知ってより、ラミュータはアンの嘘を悟った。境界線の屋敷へ戻り、ラミュータは鏡に向かって問いかける。鏡の前に立つも、そこに映るのは夜叉のような形相をした己の姿だった。
「出てきなさいよ!」
怒鳴りつけると、鏡は黒く染まり、その中から少女が現れた。鏡の中に棲むこの少女の名前は、イーディスという。
「このことを知りながら、今まで黙っていたというの?」
凄まじい剣幕のラミュータは、今にも鏡を叩き割る勢いである。されどイーディスは至って冷静そのものだった。
———いつ気づくかと思ってたけど、まさかこんなにかかるとは思ってなかったわ
「いい加減にしてっ! いくらなんでも度が過ぎるわ!」
———選り好みしないアナタが羨ましいわ。男も食事も雑食なんだから。でもね、アタシは堕落を糧に生きてるのよ。アンタの堕落っぷりがあってこそ、アタシは生きられるんだから
「お遊びはここまでよ。知ってることをなにもかも話してちょうだい」
イーディスはなにも言わず、あとは鏡にビジョンが映し出された。そこには丈長のローブを羽織った男と、胡桃色の髪をした少年が並んで歩いている。
「この二人は誰なの? 教えてちょうだい」
———グラディスの兄と、ラウアの弟よ。その二人がティボスで暮らしてるわ
「なんてことなの! こんなことって」
———ホント、驚きよね。ティボスの街で生き別れた兄弟二人が暮らしてるなんて。でもまだお互いそのことを知らないわ。こんなに近くにいるのにね。グラディスをティボスへ遷したのも、アンタの一存だってゆーのに
鏡を見ながら、ラミュータはニヤリと北叟笑んだ。
「素晴らしい。なんて素晴らしいのかしら」
彼女がそう讃えるのは、この数奇なる運命の采配である。アンに謀られ、煮え湯を飲まされた思いだったが、その怒りがスーッと鎮まるのを感じた。かつてグラディスに抱いた感情が、ラミュータの中に沸々と甦ってくる。
鏡はなおも未来を映し続ける。成長した少年がヴァロア大聖堂へ向かい、遂にはサーベルを引き抜いた。そして予言通り、サーベルを手にした青年は国王となり、雲の払われたサンツァルザーマは明るい陽射しに包まれている。
「そう、この子を育てる定めにあるのね」
玉座に構える国王の傍にレイがいる。みなが国王に平伏す中、レイだけが背後で立ったままでいた。よほど高い称号を与えられたのだろう。その立ち位置から察するに、二人は師と弟子にも見えれば、信頼しきった良友にも見える。
「さて、これで大方の未来が視えてきたわ」
安堵の色を浮かべるラミュータに、イーディスが釘をさした。
———そもそもアンタは詰めが甘いのよ。今は自分の思い通りでも、大雑把な仕事には必ずツケがまわってくるわ
「それもそうね。よく勉強になったわ」
———それで、これからどうするつもり?
「もちろん全部手に入れるわ。グラディスは堕ちなかったけど、娘のラウアは私のもの。息子は母親似ね、見てるとあの女を思い出すわ」
———アンタに目をつけられるなんて、この一家、全員呪われてるわね。本当にお気の毒だこと
「サンツァルザーマも私の支配下よ。そこに生きる者は一人残らず私のもの」
———お遊びもほどほどにしておきなさい。ラクトリエでも十分遊んでるでしょ? あのベラルドなんか、すっかり見る影もなくなっちゃって
忠告は届かなかった。ラミュータの関心はすでにレイへ向いている。この者には才能がある。その力を以てして、より多くの弟子を従えさせねばなるまい。
「レイザーの住まいを見せてちょうだい」
夜の帳に沈むティボスの街。軒先にカンテラを吊るした母屋が映された。レイの営む薬屋である。十字路の角に面し、クリーム色の壁に丸い窓が二つくり抜かれている。ラミュータは慣れた手つきで化粧を済ませ、薄絹の白いドレスに身を包んだ。




