第四章 ヴァロアの剣士
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今でこそ、誰もが知る大都市・ティボス。ユアン海に臨み、ネブラの森の南西に位置する。サンツァルザーマの中心にして、主護神たちがもっとも多く住まう街である。長蛇の市場が立ち並び、どこもかしこも活気に溢れていた。
この街には一際大きく、荘厳な聖堂がある。竣工後、これを手がけた建築家のルウィーンが、ヴァロア大聖堂と名前をつけている。大理石の柱が天を支え、ステンドグラスが光を踊らせる。細やかな彫刻が施され、広場の前には湧きあがる噴水が実に見事である。サンツァルザーマの各地に聖堂はあるが、ティボスの規模には至らない。
この聖堂には祭壇がない代わり、サーベルが一本、地面に刺さっていた。赤いロープで四方を囲まれ、安易には触れない。外観の絢爛さと比べれば、この一画だけが別次元にも見える。
サーベルの柄の下には、金文字で次のように彫られていた。
《汝、この剣を手に平和をもたらさん》
このサーベルこそが、ヴァロア大聖堂をヴァロアたらしめる所以にほかならぬ。無論、これは主護神たちの創造物ではない。そしてこのサーベルを引き抜く者こそがヴァロアの剣士と呼ばれ、サンツァルザーマの王に相応しき者と信じられていた。
まことに遺憾ではあるが、誰もがその到来を待ち望む剣士は、いまだ姿を現していない。
*
世界が隔たれたばかりのこと、サンツァル暦 元年———
もといた世界が切り離されたとき、誰の記憶にも足元から地が裂け、水が押し寄せた。それが海となり、水平線の彼方まで追いやられた末に、今のサンツァルザーマがある。
大地の変動がようやく収まったあと、主護神たちは浜辺にテントを張り、しばらくは寄り合って暮らした。暮らしたと言うより、その場を凌いだと言うほうがいいかも知れない。世界はすぐ元に戻ると考える者が圧倒的に多かったのだ。世界が再び一つとなる暁には、今いる場所の真っ直ぐ先に家族がいる。それが辺境の森や山よりも、海沿いにテントの張られた、最たる理由だった。大いなる再会の日は近いと、誰もが信じて疑わなかったのだ。
しかし待てど暮らせど、世界は元に戻らなかった。せめてもの気晴らしにと、ヨガや瞑想に興じる者もいた。そうでなければ焚き火を熾したり、ただただ大海原を眺めて過ごした。
一週間が経ち、一ヶ月が経つ。テント生活が長引くほど、主護神たちは不安になりはじめた。子供たちが渚で戯れ、砂で城を作って遊んでいる。彼らのほうがずっと早く新しい環境に慣れていた。そんな姿を見ると、大人たちはこう思う。
̶̶̶———まだ世界は元通りにならないのか
̶̶̶———いつまでこの状態が続くんだ
̶̶̶———もしかすると、ずっとこのまま元に戻らないのではないのか
誰も口には出さぬが、憂いの色が目に浮かんだ。これまで当たり前にできたことが、彼らにはなにもできなくなっていた。一杯のお茶を飲もうにも、焚き木を集め、火打ち石を探さねばならない。お湯が沸いたところで、あぁそうだったと、ようやく茶葉がないことに気づく。試しに土へ向かって手をかざしても、茶の木は生えてこない。
ある夜のこと、パチパチはぜる焚き火を囲み、一人の男がふいに歌を口ずさんだ。誰もが知る、懐かしい歌だった。故郷を偲んで歌っているのだ。誰とはなしに調子をあわせ、唱和する声が聞こえる。流木を楽器に見立て、音を出す者が現れる。とうとう我慢できずに踊り出す者も現れた。煌びやかな舞台も、目もあやな衣装もない。楽器は流木か手拍子だけ。それでも目を閉じれば、懐かしい故郷がありありと浮かびあがる。そのとき誰かが立ちあがり、こう叫んだ。
「そうだ、この場所に街を作ろう。一から作り直すんだよ」
明る朝から早々に街づくりがはじまった。パン屋は小麦粉を挽くのに、まずは小麦から育てる。陶芸家はタイルを焼くために粘土をこねる。
女たちは歌を歌いながらミルクを搾り、糸を紡ぎ、はたを織った。サンツァルザーマの土はよく肥えており、作物を育てるのに不自由はしなかった。共同農園のトマトやパプリカが見事に実をならすのが、なによりの証である。川から水を引き、あちこちで用水路も整えられた。
時が経つにつれ、内陸へ拠点を広げる者もいれば、海岸を伝って方々へ散らばる者もいた。山でも谷でも、自分がもっとも居心地よいと感じた場所が、彼らの新しい故郷となった。
*
サンツァルザーマに暮らす主護神は、大きく分ければ二つの派閥のうちどちらかに属している。それが太陽信仰と月信仰である。太陽と月は昼と夜を司り、絶えず世界を見守っている。だがそれらは象徴に過ぎない。詰まるところ、太陽神か、月の君。どちらへより忠誠を捧げているかにより、身なりや習慣へ顕著にそれが現れた。
殊に太陽信仰の信徒たちは芸術肌であり、ティボスの街づくりには大いに手腕を振るった。これは彼らが元いた世界で、シュクリアという国で暮らしていたことに由来する。シュクリアは芸術を愛する太陽神が治めた国。太陽神の加護をなによりの糧とし、日々暁光へ感謝を捧げている。
太陽信仰が芸術肌なら、月信仰は肉体派である。彼らの故郷はトラレシア国と呼ばれ、そこに暮らした民がトラレシアンである。シュクリアに対し、トラレシアは武技と体術の国であった。この国を治めたのが、かの月の君にほかならない。繊細で清らかな月の印象とは相反し、トラレシアンには力仕事が向いている。勝負事や賭けが大好きで、腕力で優劣をつけたがるのが、トラレシアンの典型であった。
両者が街づくりの目的で共に働けば、どんな問題が起こるか、おおかた想像がつくかと思う。力自慢のトラレシアンたちは丸太を削り、石を運んだ。ありていにいえば、それしかぐらいしかできなかったのだ。建築家や彫刻家のシュクリアンから細かな指示を受け、仕事をする。最初は割り切って働いていたが、これが長引くとそうもいかない。一筋縄ではゆかぬ上下関係が、ときにトラレシアンの癪に触り、自尊心が逆撫でされたのだ。
一方でシュクリアンとしても、大雑把で荒っぽいトラレシアンの仕事ぶりには頭を抱えていた。大男が*チゼルを手に持ったまま、*鑿のこと
「旦那! 久しぶりじゃねぇか、元気してたか!」
と勢いよくハグを迫る。力を入れ過ぎて柱が倒れたり、梁が水平でないのは日常茶飯事。トラレシアンが関わると、画竜点睛が台無しになるのは、もはや周知の事実。かといって「なにもせずにじっとしてろ」とも言えない。街づくりは皆が協力してはじめて成し得るものなのだ。
ほんの些細な積み重ねが、徐々に両者の確執を動かしがたいものにする。そこで不満の種を解消したのが、神の子たちであった。神の世界にとどまれたにも関わらず、あえてサンツァルザーマに渡る決意をした子供たちだ。彼らの力を以てすれば、手をかざすだけで足元から巨木を生やすことができる。少なくとも木材には困らなかった。
「君がいてくれて、本当に助かるよ」
「そんな。気にしないでください」
誰もが口々にそう感謝を述べた。仕事がはかどることを言っているのではない。両者がいがみ合わずに済んでいることを———特にシュクリアンは子供たちに感謝した。彼らもまた、自分たちが妬まれていることを知っていたからだ。
今、二人の青年が石塊を担ぎ、でこぼこ道を歩いている。森林の木漏れ日は涼しいが、歩きにくいこと、この上ない。
「なぁ、俺らばっかり損じゃないか?」
そう溢す青年の名はラキアといった。珍しい銀色の髪をしており、遠くからでもすぐに彼だと分かるほどである。
「俺も同じこと思ってたとこだよ」
大理石は海岸にない。木材とは異なり、もっと内陸の、山岳地帯まで出向かねば手に入らぬ代物である。この二人は、採石場で掘り出された大理石を運ぶ仕事を糧としていた。
「あっちは喋りながら座って彫り物。こっちは石が割れるの心配しながら、汗水垂らして石運びだぞ」
石塊が肩にのしかかるたび、鎖骨がグイとせり出る。
「しかも彫刻が失敗したら、俺らの石運びもやり直し」
「せめて失敗しないようにだけは気をつけて欲しいもんだぜ」
こんなときは必ず追い風が汗を拭い、背中を押してくれるのだから不思議である。ときには足がもつれ、つんのめりながらも、青年たちは慎重に石を運んだ。
ラキアはかつて、トラレシアでは名うての弓使いであった。だが新世界ではいくら弓が上手くとも、なにかの役に立つことは少ない。お呼びがかかるのは、木の高い場所に生る実を射落とすときぐらいである。今は隣町のブラムに住んでいるが、わけあってティボスへ働きに出ていた。
———これからは手に職をつけないとだな
技術を持たぬ者からも、徐々に立派な大工や石工が現れ、街づくりに貢献していた。彼らの任された採掘場は同郷の者ばかりで、気兼ねなく働ける。ちょっとぐらい長めに休憩しても、誰もなにも言わない。ラキアがティボスを選んだ理由は、まさにそれだった。自分も石工になると決めたラキアは、今はひたすら石塊を運ぶのである。
*
サンツァル暦 五年———
手探りからはじまったティボスは順調に街らしく形を整えていた。トラレシアンとシュクリアンの、目には見えぬ確執はあるも、さして取り沙汰するほどではない。
されど七年目を迎えた冬の夜、サンツァルザーマを揺るがす大事件が起こった。一軒の家屋から炎があがり、あっという間に街中へ火の手がまわったのだ。木枯らしは風向きのままに炎を煽り、容赦なく家々を焼き尽くした。
「こっちだ! 早く逃げろ!」
「まだ中に子供がいるの!」
「誰か! 誰か助けて!」
燃え盛る炎はメラメラと黒い煙を立たせる。街はほとんどが木造の藁葺き屋根だった。警鐘が打ち鳴らされ、いちどきに危険が知らされた。この大火災を神々が見過ごすわけがない。すぐさま風が止まり、夜空を雨雲が覆い、大雨が降り頻いた。
民は一人残らず川を渡り、対岸から燃え盛る街を眺めるしかなかった。激しい雨に打たれながら、これからどうすればよいのだと、誰もが明日を案じた。怪我人はおらず、誰の命にも別状はなかったのはもっけの幸い。だがここで、沈黙を破るように誰かが叫んだ。
「俺は見たぞ! アイツが火を放ったんだ!」
指さされた一人の男へ一斉に視線が集まった。見習い石工となった、かのラキアである。火事の起こる前、怪しい男が近所をうろつくのを見たと、声があがったのだ。
「なに言い出すんだよ、そんなはずないじゃないか!」
「だいたい隣町に住むお前が、なんでこんな夜更けにティボスにいるんだ? おかしいだろ!」
その日の昼間、ラキアが親方からひどく怒鳴られるのを数人が見ていた。大事な仕上げを誤り、完成間近の彫刻を割ってしまったのだ。運悪く、最初に燃えたのは、その親方の住む家屋だった。
ラキアはサンツァルザーマへ独りで渡り、ここには家族も恋人もいない。意外かも知れぬが、ラキアと同じように依り辺のない者は多い。
自慢の息子と誇らしく肩を並べる親方が、ラキアの目に妬ましく映ったのではなかろうか———夜の闇に溶け込み、家屋に火が放たれる光景が、誰の脳裏にもありありと浮かんだ。ここでラキアを擁護する側と、責める側が見事に別れた。対岸で燃える街を背後に、積もり積もったトラレシアンとシュクリアンの鬱憤がついに衝突したのだ。両者は口論の末に取っ組み合いの喧嘩となり、殴る音や蹴る音がそこらじゅうに響いた。
「アナタは見てはいけません、こっちへ来なさい!」
一人の母親が遠ざかろうと、娘の目を手で覆い、もう片方の手で背中を押してその場を離れた。少女はなにも見えぬが、目蓋の裏に、さきほど自分の見たものが浮かびあがった。火の手から逃れる際、振り向きざまに一頭のキツネを見たのだ。見間違いだと言われるだろう。だがあれは確かにキツネだった。細面の顔つきに、尖った口吻。そのキツネが炎の揺らめきに合わせ、楽しげに飛び跳ねていたのだ。跳ね回る先から柱が倒れ、隅々まで火の手がまわる。周りは逃げ惑うあまり、誰も火影に目もくれない。火神の少女だけが、キツネと目が合わさったのだ。キツネは一瞬身動きを止め、不気味に笑ったかと思えば、炎の揺らめきに姿を消した。
彼女が勇気を出して証言していれば、事態は大事にならなかったかもしれない。大人たちが罵りあい、殴りあう音が直近に聞こえる。ある者は目蓋を腫らし、ある者はくちびるから血を流している。少女はついに恐ろしくなった。自分が見たものを打ち明けようとしても、くちびるがわなわな震え、声が出ない。
「お母様、お母様、」
ここまでは言える。だがキツネの話をしようとした途端に口ごもり、話せなくなるのだ。母親は娘を抱き寄せる。喧嘩に怯えているのだと思い、今度は両耳を塞いでやるのだった。
すべての火が消えたのは、朝を迎えてからだった。陽が昇った頃には誰もが落ち着きを取り戻し、みなで街へ向かって川を渡った。七年かけて築いた街の半分が、たった一晩で灰に変わった。慌てて逃げたので裸足の者も多い。焼け跡の地面は剥き出しとなり、使えそうなものはなにも残っていない。
「なんだ、あれは?」
辺り一面が黒焦げの景色に、光るものが見えた。それが朝陽を受け、眩しく輝いている。近寄ればそれは、地面に突き刺さった一刀のサーベルであった。金の柄の下には文字が刻まれている。
《汝、この剣を手に平和をもたらさん》
サーベルを一目見ようと、主護神たちが集まってきた。地面はどこも煤で黒焦げであるのに、サーベルの刺さる場所だけが、溶岩の湧き出たように盛り上がっている。その神々しさは、見るだけで心が洗われるようだった。望郷の念にも似た懐かしさが、心の奥に立ち現れてくる。急に胸が熱くなり、思わず涙を流す者が後を絶たなかった。
———これを抜いた者が、我らを導いてくれるのだ
サーベルを見た誰もがそう思った。この六年ではじめて全員の意見が一致した。天から贈られたサーベル。醜い争いを戒め、悔い改めるべく、神々が見るに見かねて策を練られた徴。
「ここに立派な聖堂を建てよう。また一から街を造りなおすんだ」
心が乱れるときこそ、祈りを捧ぐ場所が必要であると唱えたのが、ルウィーンだった。主護神たちは、さっきまでボコボコに殴り合った愚かさを大いに恥じ、その意見に賛同した。
「おい! あれを見ろ!」
一人が指差す空にハクチョウの群れが飛んでいる。青空に映えるように、嘴に黒い瘤が見える。エルメティ湖にいたハクチョウに間違いない。その姿を久しく目にした主護神たちはよくやく気づいた。
———この世界は、時の流れすら変えられたのだ
世界が分たれてより七年。だが、神々の世界では、つい先ほど秋が終わったばかりなのだ。
「神々は、まだ私たちを見捨ててなぞいなかった」
「我らの七年は、あちらでは一季の移ろいに過ぎなんだ」
その事実を、越冬するハクチョウたちが知らせてくれたのだった。
おおよそこのような経緯があり、ティボスは予定より三年も早く完成を迎えた。すでに技術を習得した者が多かったのもあるが、トラレシアンとシュクリアンが一丸となって協力しあった功績こそ、なによりの徴であったのは言うまでもない。
*
さて、これで再び、世界に平和が訪れました———と言いたいところだが、それがそうもいかぬ。表に現れぬ確執もさながら、妙な怪物の存在も忘れてはならない。世の混乱に終焉はなかった。だからこそ、神々がこのサーベルを民に遣わされたのだ。
だがそれでも、サーベルを引き抜く者はいなかった。遠方に住む者たちも噂を聞きつけ、一目見ようとティボスを訪れた。「せっかく来たのだから」と、見物ついでにサーベルを抜こうと試してみるが、誰にも抜けない。
ある日、ティボスを訪れた隣町の子供が、
「なんだ、サーベルなんてないじゃないか」
こともなげにそう言い放った。この子供は両親に連れられ、長い道のりを経てここまで来た。だが期待した奇跡がそこに見えず、がっかりしてそう漏らしたのである。自分にも見えなかった者は内心安堵し、そうでない者は唖然とした。
またある者が———これはトラレシアンに多かったのだが、サーベルに手を伸ばした先から護拳が透け、触れることすら許されなかったのである。
「俺は誰より重い石を運び、復興に貢献したからな」
そう豪語する者ほど恥をかいた。それを冷ややかな目で見るシュクリアンもしかり、
———お前ごときに抜けてたまるか。あの剣は、我らが太陽神の御手より賜りしもの
睥睨する横から、もう一人が肘で小突く。
———お前、心の声が筒抜けなんだよ。いい加減その芝居じみた話し方やめろ
舞台出身の二人は、沈黙しながら目で会話をする。トラレシアンへの冷やかしを牽制し合うが、そんな彼らは恥をかくのを恐れ、はじめから傍観者に徹する側だった。
———剣を抜けぬなら、せめて剣士に仕える騎士になろう
そう考えるトラレシアンも次第に増えはじめた。件の怪物を仕留めれば、それだけで英雄になれる。自身が輝ける場所を探すのは、いつの時代も至極当然の流れである。無理してシュクリアンを倣うとき、なんともいえぬ劣等感が、彼らをそう駆り立てたのだ。やたら剣把を低く構える者。剣身を立てて構える者。正しい指導者に恵まれぬ環境では致し方あるまいが、自己流の武術はお世辞にも節制があるとは言えなかった。
男たちはまだそれでもよかった。彼らは武器を手に、自分なりの道を模索できたからだ。その一方、武器という選択肢を持たぬ女たちは、やがて静かに手を取り合った。男ほどの腕力もなく、平和と無事を月の君に祈るばかりの毎日。月の君に導きを乞うその姿は、男たちとは別の力の形である。彼女たちは似た境遇の者同士で親睦を深め、絆を強めた。かつて月の君がそうしたように、黒のローブに身を包み、夜な夜な集会を開いたのだ。
彼女たちの言動は日を追うごとに妖しさを増した。決まった家に黒衣の者たちがそぞろと集まり、まもなく煙突から黒い煙が昇る。そして必ず、メンドリが一羽姿を消した。中でなにが行われているか、誰も知らない。
「一体なにをコソコソしてんだか」
シュクリアンたちは一線を置きながらも、好奇心を隠せない。
「さぁな。お前、中の様子を見て来いよ」
「冗談じゃないわ、なにされるか分かったもんじゃないもの」
「まったく、きな臭せぇったらねぇぜ」
それを知るには、彼女たちの仲間になるほかない。
やがてこの集団は月の信徒と呼ばれるようになる。最初は少人数の集まりであったが、三年も経たぬうちにトラレシアンのほとんどがマッセンとなった。
月の君と密かに交信を図り、特別な力を授かる噂が、シュクリアンの間でまことしやかに囁かれている。中には降魔術で闇の力と結託しているとも囁かれたが、マッセンたちは誰一人、集会の外で真実を語ろうとはしない。一つ確かなのは、彼らがもう普通の隣人ではないという感覚だった。
こんな話がまことしやかに語り継がれている———あるとき、たまりかねた野次馬が、興味本位でマッセンたちの集会を覗こうとした話だ。
月夜の晩、集会の場所を突き止めた野次馬は、時を見計らって耳をそばだてた。中の会話は壁が厚くてほとんど聞こえない。メンドリの悲鳴も聞こえない。それでも確かな収穫があった。
《汝、偽りの証言をする者は、その身を以って裁かれるべし》
大勢が声を併せて復唱したので、これだけはハッキリ聞こえたのだという。どうやら合言葉らしい。
「誰だ!」
中からそう叫ぶ声に驚いた野次馬は飛びあがり、そのまま逃げ帰ったという話だ。これはどこかの街に伝わる笑い種として、今でも残っている。
この話の信憑性については諸説ある。マッセンたちの狂信と秘匿ぶりを象徴する作り話かもしれない。だが最後の逃げ帰ったオチが、やがて「そのまま姿を消した」と変わり、ついに「彼は存在ごと消されてしまった」とまで話が変わっていた。マッセンたちがいかに秘密主義であったかが、話をここまで変えたのだろう。
実際はどうだったかと言えば———神秘性が誤解を招いただけで、シュクリアンが案ずるほどの危険はなかった。ただし、一握りの篤敬なマッセンたちが、月の君から特別な力を授かっていたのは確かである。
星の動きから命運を知る術。はたまたカードや水晶玉を通し、過去から未来を見通す力。これらすべてをマッセンたちへ授けたのが、月の君だった。ただ、いかにしてそれが伝わったか? その手段はマッセンだけの秘密であった。月の君ともあろう女神が、境界線を越えて集会に現れるはずはない。瞑想中に彼女の声を聞いたか、夢枕にでも立ったのだろうが、それだけは今日も謎とされている。
魔法———悪魔や闇の存在と取引し、代償と引き換えに力を得る術。運命や因果律をねじ曲げ、世界に異常をもたらす禁術。希望を与えるように見せかけ、結果的に破滅を招くこともある〜『リュクス・アバナの禁呪索引録』より
この物語において、マッセンたちの用いる術を、今は「祈念術」という言葉で代用しようと思う。祈念術は、のちに蔓延る魔法の礎ともなるが、この時代はまだ、祈念術は善良に使われていた。
これら祈念術はサンツァルザーマを発祥とし、王が不在の今、まさに黄金時代を迎えていた。祈念術は、病に伏せる子に花を捧げ、星を仰ぎながら祈ることで命運を繋ぐ術であった。ある者は農の実りを占い、またある者は遠方の旅人の無事を念じたという。ほかにも数多、神通力に頼るところにて、万事を見透さんとする者たちが現れた。彼らの影響力は非常に強く、どの町にも、誰かしらの術使いがいた。
《玉兎の影を浴びしとき、己が身を真珠のごとく輝かす者。数奇なる運命の渦中にありて、幾多の災いに苛まん》
こんな謂が囁かれたのも、ちょうどこの頃ではなかったろうか。
剣士の不在は長く続いた。彼はどこにいるのか———よもや、まだ生まれてすらいないのかもしれない。剣士の行方を言い当てんと、多くのマッセンが血眼になって彼を捜した。ある者は、
「彼は北の外れに生まれ、秋の嵐と共に現れる」
と予言し、またある者は、
「彼はすでにティボスの街に来ておる」
とも主張した。剣士は彼と呼ばれ、その手がかりは性別のみ。なかんずく、マッセンたちの間では、予言が一致していた———剣士は王であり、女王ではなかったのだ。
大聖堂の完成を祝うべく、サンツァルザーマ中の主護神たちが一堂に介した。鐘楼の鐘が鳴り渡り、その音に呼ばれた白いハトが空を舞う。誰もがその完成度の高さに目を奪われた。讃美歌が響き、典士が聖水を分けるとき、入り口に佇む集団が注目をさらった。マッセンの中でも極秘主義の者たちである。
「ありゃなんだ?」
「俺が知るかよ」
夏の盛りに不釣り合いな漆黒のローブ。衣擦れの音と共に数十名が列を成し、大聖堂の身廊を進む。先にあるサーベルまで辿り着くと、配列は二手に分かれ、サーベルを囲んだ。なんだ、なんだと周りが騒つく。そのあとから、一人の淑女が遅れて登場した。
マッセンたちが黒いローブを羽織るのに対し、彼女だけが紫紺のそれを纏っていた。二人の付き添いを従え、周りの態度も恭しい。名前こそ明かさなかったが、文献によれば、彼女は「メルヒナの淑女」と呼ばれている。彼女が抜きん出た神通力を備え、多大なる影響力の持ち主なのは、誰の目にも明らかだった。
そのメルヒナの淑女がかのサーベルの前に立ち、フードを取り去った。
こぞりては 星くだちきて 地をうがち
剣うるわしく 兆しを照らす
それだけ言い終えると、淑女は再び俯き、フードで顔を隠した。従者が彼女を囲み、そのまま聖堂をあとにした。
———夜空に輝く数多の星が、大地を砕くように降りしきるとき。その夜こそまさに、王の降誕を告げる兆しよ
大方このような予言である。
サンツァルザーマ中がサーベルを見届けたというのに、ただ一人、この淑女だけが姿を現さずにいた。己が眼で視るまで、いかなる言葉にも耳を貸さぬ信念ゆえの予言。彼女こそが最後の証人だった。やや型破りだが、話題性には事欠かぬ演出である。秩序と慣例への挑戦とも揶揄されたが、どの予言とも異なり、淑女のそれには大いなる威厳があった。サンツァル暦 十年目の預言だった。
どこぞの笑い種のように歪曲されることはなく、この予言は一言一句違わずに、方々へ伝わった。メルヒナの淑女が生涯で遺した予言は百を超え、それだけで本が一冊書けるほどである。
《光の世、命満ちゆけば、闇の淵より影這い出でん。影の徒ら、手ぐすね引きて待ち侘ぶなり》
その予言の意図するところは当初、誰の耳にも明瞭ではなかった。だが不可解なる怪物の出現が続くにつれ、民は次第に予言の重みを知った。
光と影が均衡を保とうとするあまり、その歪みから怪物が生まれるのであらば、我らは果敢に立ち向かうべきであると、淑女はいち早くそう唱えていた。いまや現れんとする王。その御前で互いの影を疑い、剣なき争いを続けるは愚の骨頂。淑女は今日もそう諭し続けている。
月に一度訪れる満月の夜。マッセンたちは大いに祝い、歌い、踊った。ローブに身を包み、仮面で素顔を隠すのが習わしである。月の君がネコやフクロウを愛玩したことから、それらに扮する目立ちたがりもいた。どの屋台にも華やかな提灯が押し立ててあり、全部を堪能するのに、とても一晩では足りない。
満月が夜空の一番高い場所に昇るとき、宴は最高潮に盛りあがりを見せる。燃えあがる焚き火を囲み、陽気な節で歌を紡ぐお祭りは夜を駆けめぐった。中には酔った勢いで仮面を脱ぎ、シュクリアンであることがバレてしまった者もいる。だが誰も咎めたりはしない。それどころか胴上げがはじまり、さらに騒ぎ立てたりしている。
見よ、さきほどのフクロウ男が酔った勢いで、高台から両腕を広げて飛ぼうとしている。それを受け止めんと、すでに地面で身構える者たちもいる。
殊に酒造りに長けたトラレシアンの葡萄酒は、さすがのシュクリアンにも真似できぬものがあった。この酒にあやかるべく、こっそり紛れ込んだシュクリアンも多い。元来、トラレシアンは友愛を育むコツを心得ていた。彼らが毎度仮面を義務づける理由は、まさにここにある。
太陽信仰も月信仰も、シュクリアンもトラレシアンも、そして男も女も。この夜ばかりは月の下で、誰もが受け入れられたのだった。




