第三章 甘いお菓子の誘惑
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つつがなく勤めを終えると、グラディスは寄り道もせずに我が家へ戻る。片親の子供がどれほど寂しい思いをするか、グラディスはそれをよく知っていた。アンと出逢った頃からそうだったが、グラディスはかれこれずっと、サンツァルザーマから出ていない。
「お父様、お帰りなさいませ!」
「さぁ、おいでお前たち、よいしょっ」
子供たちは声を揃えてグラディスに抱きつく。力持ちのグラディスは両腕に二人をぶら下げ、そのままグルグルまわって戯れた。
「これが基本の構えだ。自分が木になったつもりで、体に重心を置いてごらん」
「ハイ、お父様」
子供用の小さな木刀を拵え、ラウアとイグニスは父から武術の奥義を教わった。二人は同じことを教わり、同じように導かれる。戦士の血を引いた子供たちは、父の教えを忠実に受け入れた。だが時が進むにつれ、ラウアとイグニスの力の差はどんどん開いていった。なんと武術に長けたのは、ラウアのほうだった。母が案じるまでもなく、ラウアの持って生まれた天性といえば、正義感が強く、負けず嫌い。気位の高さは天下一。ラウアがグラディスの血を濃く受け継いだことは、少なからずアンを安心させた。
「フン、また僕の勝ち」
「まだこれからだもん!」
グラディスは男勝りな娘を微笑ましく見守った。女の子らしくとか、もっとお淑やかにとか、グラディスがそんなことを一切言わぬのも、アンにとっては都合がよかった。ラウアは大好きな父に褒めてもらおうと、毎日のように弟との決闘話を報告する。
「お父様、今日もイグニスと決闘して、僕が勝ったのですよ」
護身術も格闘技も、武器の有無を問わずラウアは抜きん出ていた。自分の子供時代と比べると、今のラウアには負かされていただろう。グラディスにはそれが容易く想像できた。
「ラウアは本当に強くなったな」
意気揚々と父に自慢するラウアの横で、イグニスが決まりの悪そうに俯いている。そんな息子を連れて、グラディスは時々二人だけで散策に出た。
「僕にはきっと、剣術は向いてないんです」
「ラウアに勝てないからって、気にすることはない。イグニスにはラウアにないものがある。父さんにはちゃんと分かっているよ」
イグニスは首を傾げた。
「ラウアになくて、僕だけにあるもの?」
「あぁ、そうだ。今は分からなくても、いずれ分かる日が来るだろう」
イグニスの小さな頭は益々混乱した。だがなんとなく、漠然とした感覚はあった。そしてその直感は、あながち間違いではなかった。日々逞しく成長するラウアは確かに期待の娘である。されどグラディスが密かに気にかけたのは、むしろイグニスだった。剣を握るより、今は動物と触れあったり、子供らしく思いっきり甘えたがっている。小柄な息子が稽古に励む姿は、まるで昔の自分を見ている気分だった。かつて自身が歩んだ道が思い起こされる。表立っては言わぬが、試練を乗り越えた者が達する極地に、イグニスにも立って欲しいと、グラディスはそう願っていた。
幸せな生活は十年続いた。サンツァル暦 二百十年———
季節はめぐり、子供たちが十歳を迎えたとき、グラディスの元へ一羽のハヤブサが舞い降りた。嘴には一通の召喚状を携えている。ラクトリエから新たな任務が下されたのだ。乱れたサンツァルザーマの民をまとめ、軍隊を鍛えよとの指令である。「ヴァロアの剣士」が長らく現れずにいるサンツァルザーマは混乱の渦中。
騎士気取り———そう呼ばれる連中が都に屯し、まとまった数の壮士団と名乗るほどの数に膨れあがったことが、近頃の都で悩みの種となっていた。若ければ不良、大人ならゴロつき、タチが悪ければ半グレと呼ばれる輩である。
ヴァロアの剣士が現れるまでに、国王に仕える部隊の育成が求められた。早い話が、先ほどの騎士気取り達を上手く軌道修正せよとの御達である。
サンツァルザーマの平和を守るべく、もっとも適任の戦士が十二名選ばれ、その中にグラディスが含まれていたのだ。
「アン、」
「なにも言わないで。分かっていますとも。遅かれ早かれ、この日が来ると分かっていましたから」
眼差しに強い信念が宿っている。てっきりアンに泣きつかれるとばかり思っていた。「片親の子供がどんなに寂しい思いをするか、アナタが一番よく知っているではないか」と責められ、「任務より家族を優先して欲しい」と縋られるに違いない———しかしながら、アンは気丈な態度でグラディスを送り出さんとしていた。
「すまない、君たちだけが心残りだ」
「崇高な任務には犠牲が伴うものよ。子供たちなら大丈夫。どうか心配なさらないで」
これがきっと、道ならぬ恋を続けた対価なのだ。口には出さぬが、内心では二人ともそれを気にかけていた。アンは仕舞っておいたレイピアを奥から取り出し、グラディスへ渡した。彼女と出逢った日が、まるで昨日のことのように思い起こされる。ラクトリエを離れたときも、これほど後ろ髪を引かれる思いはしなかった。
「これを預かってくれるかい?」
グラディスは剣を受け取る代わりに、首から提げたペンダントの紐を解き、アンへ渡した。
「なにかあったら、これを持ってすぐに子供たちと境界線を越えるんだよ」
選ばれた戦士だけに託される、雷水晶のペンダント。これを手に持つ者は、境界線を越えることができる。その大事な御守りを、グラディスはアンへ渡した。
「いけないわ、これはアナタに託されたものなのに」
「いいんだ。しばらくラクトリエに戻れそうもないし。それに君にもしものことがあったら———」
「もしものことがあったら?」
グラディスは俯き、言葉を詰まらせる。だがすぐに顔をあげ、彼女の目を見つめ直した。
「僕は生きていけないよ。君を愛しているから」
様子を案じた子供たちが擦り寄って来た。
「お父様、どこか遠くへ行ってしまうの?」
ラウアが眉を顰める。
「あぁ、しばらく戻って来れないかもしれない」
「しばらくって、どれくらいなの?」
イグニスも不安そうな顔をしている。
「それは私にも分からない。でも私が留守の間は、イグニス、お前が私の代わりだ。母上と姉上をしっかり守るのだよ」
「二人は僕が守ってみせます、お父様!」
ベソを掻くイグニスの横で、ラウアは涙も流さず勝気な様子で言いのけた。
「ラウア、お前にも期待しているよ。私が教えられることはすべて授けたつもりだ。あとはそれを糧として、お前がどれだけ強くなれるかだ」
同じサンツァルザーマにいるのだから、会い来ようと思えばいつでも会えるだろう。されどグラディスは、子供たちへ行き先を教えなかった。自分を追って来られては、森に隠れて暮らした十年が無駄になってしまうからだ。
こうしてグラディスは都へ発ち、残された三人は森で暮らした。体の一部を失ったような生活。心に穴の空いたような毎日。それでも、悲しみを乗り越えねばならない。よく晴れた日など、アンは子供たちを連れ、湖にボートを出した。ずっと前にグラディスが拵えた、思い出のボートである。陽の射す場所までボートを漕ぎ、子供たちに本を読む。今ではそれが、大切な日課の一つとなっていた。
「大きくなったら、きっとお父様に会えるわ」
本を読む手をとめ、アンは時折り思い出したようにそんなことを言う。
「それって、あとどれくらい?」
「そうね、ラウアもイグニスも十八歳になったら、この森を出てお父様の所へ行けるわ」
「じゃあ境界線を越えればいいんだよ。あっという間に大人になれるから」
「いけないわ。私たちは境界線を越えてはいけないの」
「どうして? お父様は線のあっち側へ行けたのに」
「それがお父様の仕事だったからよ。お父様が境界線の怪物を見張ってくれたから、私たちは安全に暮らせたの」
「じゃ今は、誰が僕たちを守ってくれるの?」
「アナタたちはなにも心配しなくていいわ。お母様が守ってあげますとも」
「バケモノなんか、この剣でぶった斬ってやるんだ!」
アンがしっかり読み書きを教えたお陰で、子供たちは難なく本が読めるようになった。森に棲むだけでは決して手に入らぬ紙やペン。どういうわけか、家の中でそれらを切らしたことはない。それを思ったのはイグニスである。母が紙作りをする姿も見たことがない。試しに自分で紙を作ってみようともしたが、これがなかなか難しい。それなりの道具と材料なしには無理だと、イグニスは紙作りを諦めた。
暗くなる前に薪を集め、水を汲み、食事の用意がなされる。子供たちができることを、アンは率先して手伝わせた。炊事場の高さが苦にならぬ歳になると、摘みどきの薬草や食べ頃の山菜を見分けさせる。自慢のレシピを教えるときは、隠し味や煮出しのコツを教えた。
そして夜になると子供たちを寝かしつける。アンは鶏小屋から卵を取り、毎晩子供たちの枕元に置いた。
「どうしていつも卵を置くの?」
「この卵が、アナタたちを怪物から守ってくれるからよ」
子供たちが眠りにつくまで、アンは決して枕元から離れなかった。本を読み聞かせ、子守唄を歌う。子供たちがスヤスヤ寝息を立てると、戸口には静かに鍵がかかった。黒いローブをまとったアンは集会へと向かう。篭いっぱいの捧げ物を用意し、危険から子供たちが守られるよう、月に祈りを捧げた。
「どうか、息子二人をお守りください」
祈りを捧げるとき、間違っても娘と言ってはならない。
多くのマッセンの中でも、アンの地位は今や不動のものであった。悩める者へのよき相談役となり、集会のまとめ役も務めている。
彼女は子供たちが寝ついてから出かけ、目覚める前には必ず帰宅した。お陰で子供たちは淋しさを感じず、夜を恐れることもなかった。いつでも母親が傍にいると、アンは見事に子供たちへ信じさせたからだ。
*
そこかしこが美味しそうな匂いに包まれている。その日は朝から大忙しのアンは、鍋で野菜を煮込み、釜戸でパイを焼く。子供たちも手伝ったが、それが今夜の夕食ではないとすぐに分かった。二人は母親の目を盗み、つまみ食いをしながら、
「もしかして、お父様が帰ってくるのかな?」
「それにしては量が多すぎる。きっと今夜、なにかあるんだよ」
鼻歌を歌うアンを横目に、ラウアとイグニスは囁きあった。
「ラウアが聞いてみてよ」
「気になるなら自分で聞けばいいじゃん」
「僕はパイが食べたいだけもん」
二人がそんな話をしていると、アンは鍋を掻き回しながら、
「お喋りしてるなら、外でコケモモを探して来てちょうだい。そろそろジャムがなくなるから、ついでに作っちゃいましょう」
「ねぇお母様、今夜お父様が帰って来るの?」
アンは手を止めることなく答えた。
「いいえ、そうじゃないわ。今夜は大満月のお祭りがあるのよ。これはその準備をしてるの」
「僕たちも一緒に行ける?」
「アナタたちはまだ行けないわ。でも大きくなったら、好きなだけ楽しめるわよ」
だから言ったじゃないかと言わんばかりに、ラウアはしたり顔でイグニスを見やった。料理がすべてできあがると、アンは子供たちが欲しがる分だけ別皿によそい、残りはバスケットに詰めた。
その日はいつもより早めに子供たちを寝かしつけ、アンは出かけて行った。
なにやら耳元で、大きな羽虫がブンブン飛んでいる。どうやらそれは、昼のうちに家へ入り込んだアブだった。幸い刺されはしなかったが、その羽音に驚き、ラウアはハッと目を覚ました。隣ではイグニスがスヤスヤと寝息を立てている。目を閉じれば眠れたろうが、ラウアはそれをしなかった。それというのも、外から獣の声が聞こえたからである。最初は遠くに聞こえた遠吠えでも、それに応える仲間の声が次第に近づいてくる。そしてそれは、もうすぐそこまで迫っている気配を感じた。
それにしても気味の悪い声だった。遠吠えに聞こえたものが、今は呻き声にも聞こえる。それも窓のすぐ傍で聞こえたかと思えば、床下の地面から聞こえるようにも感じる。実を言うと、こんなことは今夜がはじめてではない。ラウアはこの哭き声の正体を突き止めねばと常々思っていた。今夜ほどお誂え向きの夜はない。
こんなとき父ならどうするだろう。困ったとき、ラウアはいつもそう自問する。
「イグニスを守るんだ。お父様と約束したんだもん」
凶暴な獣に襲われたら———そんなことは露ほども考えず、ラウアは外の様子が気になって起きあがった。夜に出歩いてはいけないと言われているが、今夜はついに、好奇心のほうが勝った。
右手には、ベッドの下に隠した木刀が握られている。ドアの外になにもいないのを確かめてから、ラウアは湖で水を汲み、それを素早く一口だけ飲んだ。
明るすぎるほどの大満月が、空の高いところにさしかかる。これほど大きな月を、ラウアは見たことがなかった。降り注ぐ月の光に照らされ、森全体が青く浮かびあがる。夜露にしなう草むらのどこかに、スズムシが姿を顰めて鳴いていた。木刀を握り締め、ラウアは夜の森をさまよった。
———もし一人で怪物退治ができれば、その噂がお父様に届いて、きっと僕を迎えに来てくれるはず
ラウアは常々そう信じてやまない。夜の森を一人歩くのは気が挫けそうだった。それでも父との再会を考えれば勇気も湧き、基本の構えをとらずにはいられなくなった。
この日の夜は実に幻想的だった。高く聳えた木々の梢から射す月の光。お陰で手元に灯りがなくとも、夜の森を歩くことができた。ラウアのしなやかな身のこなしが月明かりに照らされ、鮮やかに映える。それが今のラウアにとって、自身を表現する一番の方法だった。
木刀が月明かりを受け、鈍い光を照らし返す。一心同体の動きを見せるラウアと木刀は、一分の無駄もないしなやかさをみせる。その姿はまるで、森に突如現れた精霊の化身さながら。踊るようにも、舞うようにも見えるのは、剣の腕前が優れているからに他ならない。
木刀を振るたび、冷たい空気が鋭く斬られる。その振動が宙を伝い、葉や幹までも斬れてしまうかに見えた。
「十一歳になれば、今すぐでもラクトリエに入隊できる———そうか! だから僕は男の子に育てられたんだ! 僕がラクトリエの戦士になれば、お父様も褒めて下さるに違いないもん」
まだ見ぬラクトリエはラウアの想像力を大いに掻き立てた。めげそうなとき、挫けそうなときはラクトリエに思いを馳せる。そう、ラクトリエこそが、今のラウアにとっての理想であり、目標であった。
そんな妄想をしているうちに辿り着いたのは、銀色に浮かびあがる湖だった。それがオルス湖でないのはすぐに見てとれる。大きさも違えば、水の色も違う。風が湖面を撫で、漣が光を散らしていた。
「おやおや、こんなところでなにをしているんだい?」
唐突に、天から降ってきたような声がした。ラウアはビックリ仰天し、木刀を声の方に向けて身を固くした。
「だっ、誰だ!」
見やる先にはふくふくと太った、腰の曲がった妖婆がいた。
「そんなオモチャは仕舞いなさいな。むやみに振りまわすと危ないよ」
子供のおふざけと物怖じせず、妖婆はポケットからリコリスキャンディを取り出した。にっこりと微笑み、キャンディがラウアに差し出される。
「あ、ありがとうございます」
正直なところ、ラウアが家族以外で誰かを見たのは、これがはじめてだった。月の光に透ける妖婆の肌は、まるで死に化粧をしたように白々と浮かびあがった。自分は薬草を摘みに来たのだと、聞いてもないのに妖婆は話しだした。満月の下でしか見つけられない、特別な薬草なのだという。
「この森に住んでるのかい?」
「ハイ、そうです」
「こんな夜中に一人でいるなんてねぇ。お父上と母上は?」
「お父様は遠くに行ってしまいました。お母様は夜になると出かけてしまうんです」
「そうかいそうかい。それは寂しかろうに。それにしても剣なんか持って、坊やはまるで戦士のようだね」
「そうなんです! いつかきっと、お父様みたいな戦士になるのが夢なんです」
真っ直ぐな瞳を見て、妖婆はなにかを感じとった。少年の使った「戦士」という言葉。それに、どこかで見え覚えのある瞳である。
「ほう。するとお父上はラクトリエの戦士なんだね。名前は分かるかい? もしかしたら、私も知ってる戦士かもしれない」
「父の名前はグラディスと言います」
その名前を聞いたあと、妖婆の片眉がぴくりと動いた。そんなことにも気づかず、妖婆に気を許したラウアは、なにも疑わずに話を続けた。
「なんたる偶然だろうね、グラディスなら私もよく知ってるとも。お父上が若い頃に、私もラクトリエにいたんだよ」
「本当ですか⁉︎」
「あぁ本当だとも。私にも、お父上の話を聞かせてくれるかい? 近くに私の家があるから遊びに来るといい。お互い知らないことを教えあいっこするのさ。お菓子もいっぱいあるよ」
面白い話が聞けると分かり、ラウアは有頂天だった。少しくらいなら大丈夫かと高を括り、ラウアは疑いもせず妖婆について行くことにした。腰は曲がっているが、暗い夜道も足取りは確かだった。妖婆の行く手から左右に霧が分かれ、道が現れる。妖婆は時折り振り向き、ラウアがちゃんと背後にいるかを確かめた。そして彼女の言った通り、まもなく大きな屋敷が見えた。妖婆がなにかを小さく呟くと、バラの石垣からスルスルと扉が現れた。
「なんてキレイなお庭———」
「そうさ、私の自慢の庭だよ」
見たことのない花ばかりが、嗅いだことのない香りを放っている。ラウアが妖婆に続くあとから、花はみずから振り返り、顔の向きを変えた。
居間に案内されたラウアは、その奥行きと天井の高さに驚いた。この家には、自分の家にないものがあふれている。隅々に敷かれたゴブラン織りの絨毯や、緑のガラス板が嵌った猫足のテーブル。銀細工の燭台や、陶器の盛り皿に飾られた果物もある。
それにしても、この屋敷は妙に寒い。ハーッと息を吐けば白く濁りそうである。冬はまだ先のはず。そんなラウアを横目に、暖炉へ火が焚べられた。見るものすべてが珍しく、ラウアは興味津々である。
「ところでお前さん、名前はなんと言うんだい?」
「ラウアです」
ココアを入れる妖婆の手が止まった。
「ラウアだって?」
妖婆は名前を聞き返した。目の前の少年には女の子の名前がつけられている。今夜は本当に驚かされることばかりだと、妖婆は心の中で思った。
確かに中性的な顔立ちは少年と見違う。それでもよくよく観察すれば、長い睫毛やほっそりした手の形は、少女らしい特徴がうかがえる。取ってつけた不自然さが臭うどころか、男っぽく振る舞う仕種はより凛々しさを引き立てているではないか。それでいて、本人は少しもそれを自覚していない。
ラウアを火の傍に座らせ、薄着の肩に肩掛けを被せてやる。
「さぁ、たんとお食べ」
「これはなんですか?」
「特製のブラウニーだよ」
「うわぁ、こんなにたくさん! いただきます!」
ラウアは暖炉の前に、妖婆は揺り椅子にもたれた。ブラウニーから溶け出るチョコレートが、暖炉の炎でテカテカと光る。あまりの美味しさに、ブラウニーを頬張る手が止まらない。
「これすっごく美味しい!」
「そうだろうとも。私の作るブラウニーは世界一だからね」
一切れ、また一切れと、ラウアは夢中でブラウニーを頬張る。手も口もチョコレートにまみれた。そこにつかつかと擦り寄る黒ネコを見て、ラウアはその愛らしさに感激した。
「可愛いだろ? ここで一緒に住んでるのさ」
妖婆は自慢げにそう言った。チョコレートもネコも、ラウアには目新しいものばかりである。少なくとも、今夜は父が去ってから一番心ときめく夜であった。
「父上はラクトリエでどんな戦士だったのですか?」
「今のお前さんそっくりだったよ。空のように澄んだ瞳をしていてね。蒼き獅子と呼ばれていたのさ」
グラディスは決して自慢話をしなかった。他のことならなんでも話してくれたが、個人的なことは話さなかったのだ。
「自分より仲間を優先する子でね。誰かが怪我をしたら真っ先に手当てに駆けつけていたよ。どんな怪物が現れても決して動じず、勇ましく立ち向かったものさ」
身振り手振りを使い、妖婆はラクトリエのあらゆる話を聞かせてみせた。引き込むような話し方をするものだから、ラウアはまるで自分がラクトリエにいるような気分に浸った。
剣の達人を次々と渡り合い、騎馬試合では百戦錬磨。目の前にありありと広がる円形闘技場。はっしとぶつかり合う剣に、大地を駆る馬の蹄。そして自分の頭に載せられる月桂樹の冠と、湧きあがる歓声、拍手喝采の音。
「でもグラディスはいつも寂しそうだったよ。今のお前さんみたいだったさ」
「え?」
ラウアの声がくぐもる。そのとき、燭台で燃えていた蝋燭の火が消えた。首から上が陰に隠れた妖婆は、暗がりの中で話を続ける。
「お前さんはラクトリエに行きたがってるようだが、女はラクトリエには行けないんだよ。私以外はね」
徐々に目の焦点が合わなくなる。頭がぼんやりして、ラウアは眠たくなってきた。
「そんな———でも———」
「嘘をついてまでラクトリエに行くつもりかい。お前の母親のように、願いを叶えるためなら嘘をつくつもりなんだね」
ついに絨毯へ横たわったラウアは、そのままぐっすり眠ってしまった。寝息が立つのを聞き届けるまで、妖婆はまじまじとラウアを眺める。それにしても、どこからどう見ても男の子にしか見えない。決死の思いでラウアを育てた母親の苦労がうかがえた。
妖婆は改めて、ラウアを見つめた。陽によく焼けた褐色の肌を眺めながら、妖婆は独り言を漏らした。
「心中穏やかなときなどなかったろうね」
妙薬入りのブラウニーをたらふく食べたラウアは、ちょっとやそっとで起きはしなかった。ラウアは肩掛けごとゆっくり抱えられ、妖婆とともに二階へと運ばれて行った。
*
夜が白みはじめる。朝目覚めたとき、ラウアは自分のベッドにいた。見やる厨では母が朝食の用意をしている。鍋からコトコト湯気が立ち、オニオンスープの匂いがした。窓の外では小鳥が囀り、いつもと変わらぬ一日のはじまりに思えた。
「おはよう、よく眠れた?」
「うん」
「あら、どうかしたの?」
「僕、ここで寝てたの?」
家中を見渡し、怪訝そうにラウアは訊ねた。
「そうよ。おかしなこと言うのね」
「昨日の夜ね、外でお婆さんに会ったの」
口の中に残る、チョコレートの後味が、あれは夢ではなかった証であった。野菜を切る手を止め、母は振り返った。
「アナタ、外に出たの? あれほど夜は出歩いちゃダメだと言っておいたのに」
「でも外でなにかが呻いてたから、気になって」
とは言ったものの、記憶が朧げでよく思い出せない。ラウアは叱られるのを覚悟した。だが母の口からこぼれたのは、優しい微笑みと、理解のある言葉だった。
「ラウアはお父様に似て勇敢だから、それも仕方ないかもしれないわね」
今朝の母はやけに優しい。食事を作る後ろ姿から鼻歌が聞こえ、動作も身軽でかろやかだった。
「怒ってないの?」
「ラウアは逞しく成長したもの。自分で考えてそうしたのなら、もう誰もアナタを責められないわ」
言いつけに背けば食事抜きか、反省文を書かされるのに、今朝に限ってその気配がない。
「これからは厳しくしないわ。ラウアが好きなことをしていいのよ。今日からは夜でも、森の外に出ていいわ」
「本当に⁉︎」
「えぇ本当よ。そうだ、それが本当だという証拠に、ラウアにプレゼントがあるのよ」
母はスープを火にかけたまま、娘の手をひいて外に出た。弾んだ声とウキウキした仕種に、ラウアも思わず期待を膨らませる。小屋の外でラウアを待ち構えていたのは、一頭の黒い馬だった。艶やかな毛並みが陽に照らされ、尻尾を左右に振っている。
「うわぁ! この馬を僕に⁉︎」
「そうよ、さっそく乗ってみたら? 森を出て、外の世界を見てらっしゃいな」
黒々と潤んだ眼が、ラウアをじっと覗き込む。彼女を自分の主人に受け入れるか見極めんとする眼である。ラウアはゆっくり馬へ近づき、心に浮かんだ名前を一言囁いた。
「ヒラフ———」
それは昔、グラディスが愛馬につけたのと同じ名前だった。名前を呼ばれた馬は腰をかがめ、ラウアを背に乗せようと身構えた。誂えたようにぴったりの鞍が乗せてあり、手綱も繋がってあった。鞍にひょいと跨り、ラウアとヒラフはすぐに呼吸が合わさった。
「さぁ、好きなだけ走ってらっしゃい」
「いってきます!」
鞭も打たず、轡すら必要なかった。互いの意思は通じており、ラウアが行きたい場所へヒラフは道案内をした。ヒヒンと挨拶代わりにいばえると、ヒラフは颯爽と森の道を駆け抜けた。風のように軽やかに、ラウアは森を突き進む。
想像していたよりも、世界はずっと広かった。山の裾野から差し初める曙。吹き晒しの荒野や、青々とした草に縁取られた丘陵。そしてはじめて見る大海原。木立ばかりの森しか知らぬラウアは、景色の一つ一つを目に焼きつけた。その途中、草原を馬で駆ける男が目に入った。一緒に走りたいと思ったラウアは彼に近づいた。
「やぁこんにちは、君の名前は?」
馬に乗ってると思いきや、男の下半身は馬そのものだった。はじめて見るその姿に戸惑いながら、ラウアは返事をする。
「えっと、ラウアといいます」
「はじめまして、ラウア。私はケンタウロスのデレクだよ」
自身をケンタウロスと名乗る男は、そう自己紹介をした。
「あ、あの、はじめまして」
「見たところ、君はとても馬に乗るのが上手だね。彼も君によく懐いてるみたいだ」
「ヒラフって名前なんです」
「どちらもいい名前だ。それじゃあラウア、また会おう」
その姿は勇ましく、気持ちいいほど清々しかった。馬の乗りっぷりを褒められたラウアはすっかり気をよくした。それからも先々で出会うのは半獣ばかりで、彼らの姿は実に様々だった。大抵共通するのは、下半身がなにかしらの獣であるということ。自分と同じ、二本脚を持つ者は見かけなかった。ラウアが彼らを不審に思わないのは言うまでもなく、森の外を見たのがはじめてだからである。彼女にとっては未知の世界を受け入れるというより、見るものすべてが常識になってゆく過程だった。
ラウアはその晩、自分が見てきた世界を母に話して聞かせた。夕食はシチューとパン、それにルッコラのサラダだった。
「それからソルに会ったんだ。ソルの脚はヤギみたいに毛むくじゃらでね、笛を吹くのがとっても上手なんだよ」
ラウアがヤギを引き合いに出したのは、動物はヤギかメンドリしか見たことなかったからである。
「それはきっとサテュロスね。ユニコーンには会った?」
「ユニコーンって?」
「角の生えた白い馬よ。清い心の持ち主しか寄せつけない、とっても神聖な生き物なの」
「へぇ、会ってみたいな」
楽しそうに話をするラウアを見れば、彼女がいかに狭い世界で生きてきたが分かる。そしてラウア自身も口には出さなかったが、自分がいかにちっぽけな存在で、強がっていたかを自覚した。
ラウアは一日を通し、一言も弟の話を口に出さなかった。昨日までの森とまったく同じに作られた家。そこに拐われたのも気づかず、目の前にいる母が偽物だとも、当然気づいてない。この奇妙で摩訶不思議な神話界に生き、誰かと話し、目新しいものに触れるたび、ラウアは記憶を一つずつ失くしていった。
「ねぇ、ラウア。一つ約束して欲しいの。もしもどこかで暗くて大きい穴を見つけても、そこに近づいてはダメよ。みんなアナタには優しいけど、穴の近くにいる怪物は容赦ないわ」
「穴って、そんなにたくさんあるの?」
「えぇ、至るところにあるわ。山にも、海にも。洞窟もそうよ。白い靄が漂ってるから、すぐ分かるはずよ」
興奮冷めやらぬといった様子で、このときのラウアは言いつけを聞き流した。それに今日見た限り、母の案ずるような穴など見かけなかった。だがこのとき交わされた約束はしっかりと、ラウアの胸に刻まれている。
それを裏づけるように、彼女が実の父親から発見されたときに覚えていたのはラクトリエの話と、この言いつけだけだった。自分に弟がいることも、字の読み書きも忘れ、ラウアは向こう千年をこのシャルンサーマで過ごすことになる。ずっと十一歳の姿のままで、ラウアの時間は止められたのだった。




