第二章 湖の乙女
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道ならぬ恋と知りながら、二人の絆は、時が経つほど強くなっていった。グラディスはオルス湖の湖畔に小屋を立て、そこでアンと暮らしはじめた。壁際には薪がうず高く積まれ、小さいながら鶏小屋も養蜂箱もある。小屋の中には小さな椅子と大きな椅子。テーブルにはキルトのクロスが掛けられた。中でも厨は特に手の込んだ仕上がりだった。料理上手なアンのため、水回りや釜戸は彼女の腰の高さに統一されている。グラディスが巡回を務める間、アンは編み物をしたりジャムを煮詰めながら、彼の帰りを待った。
晴れた日には二人して陽だまりの下に寝そべり、交代で詩を詠み、互いの身の上話や夢を語った。
「こんなに幸せでいいのかしら」
「どうしてそんなことを思うんだい?」
「誰もが怪物やら闇夜を恐れているというのに、その世界を守るアナタを私が独り占めしているなんて」
「こうなったことも全部必然なんじゃないかな。そうでなければ、二人はこうして出逢わなかったと思うんだ」
「幸せを素直に喜べないのも、悲しい歴史の生んだ運命なのね、きっと」
「こうなったことを後悔しているのかい?」
「そんなはずないじゃない。アナタはどうなの?」
「誰かをこんなに愛したのははじめてだよ。僕は昔から少し変わってて、体も強くなかったんだ。僕は寂しかったんだと思う。でもそんな想いをしてるのは僕だけじゃないし、みんなツラい思いをして、なんとか生きようとしてた時代だったから。稽古をしているときだけは、余計なことを考えずに済んだんだ。世界を守るったって、それもなんだか漠然としすぎててさ。でもこの世界で、はじめて君を守りたいって思えた。君は僕に、生きる意味を与えてくれたんだよ。僕の心に空いた隙間を、君が満たして、埋めてくれたんだ。だから後悔なんてしてないよ。むしろ感謝しているくらいさ。いつかきっと、僕は君をラクトリエに連れて帰るからね」
サンツァル暦 二百年・夏———
空には数十年ぶりに流星群が降り注いだ。特別な存在が世に誕生する前触れである。シュプールサーマの民も、サンツァルザーマの民も、この流星群を大きな期待とともに眺めていた。
一糸まとわぬ姿となったグラディスとアンは、漣を立てながら、静かに湖へ入った。
「怖くない?」
「えぇ、アナタが一緒ですもの」
二人は自身の中にある渾身の光と愛、そして命を分けた。目を閉じながら、重ねた手にすべてが注がれる。言葉には出さぬが、グラディスが男の子を望んでいることをアンは知っていた。オルス湖が金色に染まってゆく。抱き合う二人の間に光と影が生まれ、徐々に顔と胴体が形を成した。ゆっくりと紡がれる愛の結晶。流星群の輝く空の下、境界線を越えた愛の末に、はじめて子供が儲けられる。それは両界の歴史に残る、運命的な夜だった。
奇跡の子供たちは男女の双子だった。子供たちを見た二人は驚きのあまり顔を見合わせた。
「アン! この子たちを見てくれよ、男の子と女の子だ!」
抱き合う二人の間には、父親譲りの瞳をした娘と、母親と同じ髪の色をした息子が抱きとめられていた。どちらもグラディスとアンのよいところを受け継ぎ、愛くるしく、賢い顔立ちである。
「名前はどうしようか?」
グラディスは感動のあまり声を震わせている。
「私に訊くまでもないわ。アナタはもう決めているはずよ」
自分にもし息子が生まれたら、そのときはイグニスと名づけよう。グラディスはずっと前からそう思い描いていた。
「イグニス。この子の名前はイグニスだよ」
アンは微笑む。イグニスは目にとまった父親の首に手を伸ばし、その小さな手で頬に触れた。
「この子はきっと、誰よりも偉大なことを成し遂げるわ。私たちの息子ですもの」
「女の子は? もちろん君も名前を考えていたんだろ?」
アンは娘の顔を覗き込み、その澄んだ瞳を見つめた。
「ラウアよ。この子の名前はラウア」
「ラウアとイグニス、お前たちは悲しい歴史でさえ乗り越える力を持っている。これからすべてがいい方向に変わるよ。今夜の奇跡は永遠に語り継がれる」
イグニスはグラディスが、ラウアはアンに抱かれている。濡れていた髪も体も、不思議な湖水はすぐに四人を乾かした。あらかじめ編んでおいた産着が二着、湖のほとりに準備してあった。青い産着に子供たちが包まれる。
「二人でこの子たちを育てていこう」
「えぇ、家族みんなで幸せに暮らしましょう」
小屋の増築が必要になると考えながら、グラディスは双子の手を引いて家に入る。生まれたばかりのイグニスは空を仰ぎ、まるで星の一つを掴もうとするように、その小さな手のひらを天の一角へ伸ばした。
空に月がないのを確かめ、アンは静かに玄関の鍵を閉めた。それからなぜか、嵐の日にしか閉めぬ鎧戸が閉められた。まるでなにかを隠すように、アンは部屋の中からカーテンを二重に引いた。
*
シュプールサーマには三つの国がある。一つはラクトリエと、もう一つはシュクリア。そして最後の一つにエスメラルダ国がある。元を辿れば、ニニアンの家族はエスメラルダ国に住むエスメラルディスであった。
世界の分断が決まったとき、四人家族の中で別れを告げねばならなかったのは、アンだけだった。どうにかシュプールサーマに残れる道はないかと奮闘したが、特例が認められるはずはない。アンは母方の伯母とともに、この新世界へ渡ったのだった。
エスメラルダで成人を迎える頃、彼女には思いを寄せる青年がいた。そして青年のほうもまた、アンを憎からず思っていた。されども世界は間もなく分たれ 、二人はあえなく離れ離れとなった。愛しい彼を思い、来る日も来る日もアンは水平線を見つめた。
まもなくアンは月信仰の信徒となった。この月信仰とは文字通り、月を崇める者たちの集まりで、その頂点には「月の君」と呼ばれる女神がいる。月の君はシュプールサーマの最高峰に君臨し、この世のすべてを司る。サンツァルザーマに住まう、特に女性たちから絶大なる信仰の的であった。
サンツァル暦三十年———時代はまさに月信仰の黄金期。月信仰の規模は日増しに大きくなり、各地へと広まった。アンは集会へ顔を出すようになり、同じような境遇にある者たちと交流を深めた。集まりでは祈祷師や占い師と話せる機会もあり、今後の行く末を知りたがる女性の中には、アンの姿もあった。
「アン、残念だけど、君の未来に彼の姿は見えないよ」
占星術師が言いづらそうに呟く。
「そんな———もう一度よく見て下さい」
「ウソじゃないよ。それにやり直しなんかしたら、俺の信頼がガタ落ちだ」
その言葉を聞いたアンはすっかり希望を失ってしまった。水晶玉でも、タロットでも同じことを言われた。一縷の望みを星に託していたのに———可憐な花の蕾が、一度も咲くことなく、朽ちてゆこうとしている。
それでもアンは世界の統一を信じ続けた。それほどまで、海の向こうにいる彼が忘れられなかったのだ。結ばれる日に備え、アンはみずからにできる限りのことを尽くした。料理や手芸は言うに及ばず、子供を心豊かに育てたいと願い、歌や楽の師のもとへ通い、芸事に励んだ。
周りの者たちがそうするように、アンもまた、待ち続けた。信じ続け、願い続け、祈り続けた。されど運命は無情にも、彼女を時の流れに飲み込んだ。周りではサンツァルザーマで新たに生を享けた子供たちが健やかに成長してゆく。そしてその子供たちが大人になり、彼らに子供が生まれるまでになった。さほどの歳月が流れたとき、アンはようやく、薹が立ったことを思い知ったのだ。
———私はきっと、このままずっと一人なんだわ
若さも盛りを過ぎ、愛でさえ失われた。恋焦がれた青年がどんな顔で、どんな声だったか? 近頃はそれすら思い出せない。失ったものを取り戻そうと、アンは毎晩のように祈りを捧げた。集会や催しには以前にも増して参加し、捧げ物も誰より多く用意した。
———月の君よ、どうか愛する彼と会わせてください。もし願いが叶うのなら、私はなんでも致します
サンツァル暦 百九十七年———
ついに、アンの夢枕に月の君が立ったのだ。
「妾を呼ぶのは、其方か?」
キラキラ輝く白い薄絹のドレスをまとい、月の君はアンの前に現れた。
「まさか本当にお目にかかれるとは思っておりませんでした」
その姿を一目見るなり、アンは跪き、顔を伏せた。
「いやしくも、其方は気高き月信仰の信徒。その願いとあらば、妾に届かぬはずはなかろう」
「ありがたき幸せにございます」
夢の中とはいえ、恐れるあまり、アンは顔をあげることができずにいる。
「かれこれずっと願をかけておったのう。その心に、今も変わりはないか?」
その問いに、アンは心ときめかせた。だが恋人との再会は、月の君とて叶えられぬと断言されてしまった。他にも同じく悲恋の恋人たちがいる中、アンだけを特例として扱うわけにはいかない。
「その代わり、新たな恋を芽生えさせることはできよう」
悲しみに暮れるアンの表情を見届けてから、月の君はそう付け足した。
「私にはなんの取り柄もありません。ですが幸せな家庭を築く自信はあります。いつも夢みておるのです。仕事から戻る夫を温かい料理で迎えて、可愛い子供たちとテーブルを囲めたらと」
聞いているだけでも、まるでその光景がありありと広がる話しぶりだっだ。
「小さな庭で野菜に水をあげながら、傍で遊ぶ夫と子供の遊ぶ姿を眺めたいのです。もしも愛する誰かと巡り逢って、この身を捧げられるのなら、私はなんでも致します」
そう語るアンから、月の君は片時も目を逸らさなかった。
「よかろう。その願い、この月の女神が聞き届けよう」
「それは誠にございますか?」
「日頃の善行を称えてのことじゃ。よいか、この話はくれぐれも他言無用。来るべき日に備え、メルヒナから森へ移るがよい。俗世から離れ、身を清めるのじゃ。月が満ちし頃、其方の前に一人の殿方が現れる。このご縁、ゆめゆめ無駄にするでないぞ」
柔らかな風が足元をすくった。甘酸っぱい香りがふわりと鼻を掠めたかと思うと、月の君の体は次第に透けはじめた。無数の花びらが舞い散り、月の君を包み込む。最後の一枚が宙に消えたとき、アンはようやく眠りから覚めた。現実としか思えぬ鮮明な夢だった。叔母には適当な理由を話し、次の日からアンは森で暮らしはじめた。
ほどなくして、アンは神託通りに一人の青年と出逢った。見ればその姿はシュプールサーマから遣わされた戦士である。青年を一目見るなり、彼女の体に稲妻が走った。季節が冬から春に変わる頃、二人はすっかり恋に落ち、夢のようなひとときを過ごした。アンのほうが随分歳上だったが、男のほうはちっとも気にしてない様子である。それどころか、彼女の醸す大人の魅力は青年を癒し、日増しに夢中にさせた。
長らく待ちわびた歳月が、アンの幸せをいっそう甘やかに熟させた。メルヒナにいた頃は、望み薄の日々を憐れまれ、囁かれたのも知っている。それも今となっては取るに足らぬ囁事。マッセンたちの集会でも、彼女の変わりようは明らかだった。
「ねぇアン、最近なにかあった?」
「なにかって、なにが?」
「とっても顔色がいいし、鼻歌なんか歌っちゃって、幸せなオーラが伝わってくるわ」
「あら、本当に? 普通よ、普通」
ごまかす声が弾んでいる。そしてまた、アンは鼻歌を歌った。二人の関係を誰にも言えぬ秘密が、アンの慕情をなにより昂らせる。
これも一重に、月の君から賜った贈り物。その恩を告げずして、どうして過ごせようか。アンはグラディスが見張りで戻らぬ夜を見計らい、月夜の晩に湖へ向かった。オルス湖とは別の場所にある、小さな湖である。
スギの梢に透かした満月から、斜めに光が射してくる。静かな初夏の夜が、次第に冷え込んできた。どこからともなく白い靄が漂い、湖の水面をゆっくりと撫でる。
———来られた
アンは湖畔に立ち、静かにときを待った。
「久方ぶりじゃのう」
「お陰様で、御言葉通りの出逢いがございました。今はとても、幸せに暮らしております」
「さようか。其方がそれほど幸せなら、妾もまた嬉しゅう思うぞ」
「月の君、このご恩はいかに報いればよろしいでしょうか? どうぞ、私にできることでしたら、なんなりとお申しつけ下さい」
月の君はためらいを含ませ、一呼吸置いた。
「其方にもし娘が生まれたら、その子を妾に預けてはくれぬか?」
アンの背筋が凍りついた。口調をあらげ、
「それは! 他のものならなんでも捧げます。どうか子供だけは、」
縋る目が懇願する。アンの言葉を最後まで待ち、月の君は淡々と語った。
「其方はなにか勘違いをしておるようじゃ。これはすべて、其方の幸せを願ってのことよ」
言葉の意味が、アンには解せなかった。
「其方の未来を、妾はこの瞬間にも見通しておる。其方の前に現れた殿方は、この上なく其方を愛し、深く結ばれよう。だがそれは娘が生まれるまでのこと。娘は其方に似て賢く、美しく育つであろう。その愛らしさに心奪われ、父親の愛情は其方から娘へと傾く。そうなれば、其方の幸せも長くは続かぬ」
アンは唖然とした。そんなことが起こり得ようか。
「妾は子供が産めぬ。一度くらい、この手で我が子を抱いてみたかった」
月の君は遠い目をしながら、両腕でゆりかごを作り、子供を抱くように体を揺らした。
「其方の娘とあらば、我が子のように育てると誓おうぞ」
月の君には子供がいない。言わばそれは、誰にとっても周知の事実である。愛する者と寄り添い、子をもうけたく願う思いは、アンも痛いほど分かる。自身の幸せより民を重んじ、世の平安に最善を尽くした月の君。
———その女神様が、私なぞに幸せをもたらしてくださったのに
生まれる子供が息子か娘か、こればかりは月の君とて与り知らぬ領域。息子なら自分で育てられるが、娘なら手放さねばならない。
「三日だけ、考える時間を頂きとう存じます」
「よかろう。よい返事を期待しておるぞ」
出過ぎた望みを叶えてもらい、みずから恩に報いたいと願い出た。今さら月の君の望みを退けるなぞ、できるわけがない。
———息子さえ生まれれば、なにも失わずに済む
息子を生んですべてを手にするか、娘を生んですべてを失うか。もはやアンの頭に残るのはそれだけだった。
遠い昔。あれはまだ、アンが十三歳の時分———
エスメラルダにいたときの話である。母と妹の二人が私用で出かけ、アンは父と二人で過ごす日があった。母の手伝いは日常なので、家のことをこなすのはアンにとって難しいことではない。久しぶりに父と二人の時間を過ごせると、アンは胸を弾ませていた。
父の好物のラタトゥイユを作るため、さっそく準備に取りかかる。火を熾し、湯を沸かし、パンを焼く。菜園からルッコラとインゲン豆を採り、手際よくサラダを拵えた。
「ずいぶん張り切ってるな」
「もう少しでできるから、今のうちに手を洗ってきて」
「なにか手伝おうか?」
「ダメよ、今日は私が全部おもてなしするんだから」
皿を出そうとする父を、アンは微笑みながら嗜めた。
夕食の準備が整うと、二人はテーブルについた。二人の間に、湯気の立つ皿が並ぶ。
「ねぇ、お父様、聞きたかったことがあるの」
ずっと気になっていた質問を、アンは父に問うた。
「なんだい?」
「私が生まれたとき、なにを思った?」
「どうした、いきなり」
「いいから聞かせてよ」
父は少し考えてから、
「お前は、まさに奇跡だったよ」
パンをちぎる手をとめ、父親はあらぬほうを見つめながら、当時を懐かしんだ。
「それまでは、お前の母さんだけを愛していた。世界には私と母さんの二人だけしかいない気持ちだったよ。でも二人の娘が生まれて、それまでの私は一変した。娘とは、こんなにも際限なく愛せるものかと、自分でも驚きだったよ。そしてもっと不思議なことは———」
小さく溜め息が漏れた。なにかを含んだ言い方である。間を取る父の沈黙に耐えられず、アンは続きを急かした。
「不思議なことは?」
「お前の輝きが今でも衰えていないことだ。アン、お前は世界で一番美しい私の娘だ。素晴らしい贈り物だよ。この世に生まれてきた喜びを、この私に与えてくれた。それがお前なんだ」
しげしげとアンを見つめ、父親は娘の手を取った。
「それにしても、本当に美味しいな、このラタトゥイユ。母さんより上手になったんじゃないか?」
「本当に?」
「あぁ。でも母さんには秘密だぞ。全部食べていいかい?」
「大丈夫よ、二人の分はちゃんとよそってるから」
父はパンを大きく千切り、皿のソースをぬぐうと、最後のラタトゥイユを食べ切った。
そんな昔の思い出を辿りながら、アンは今、ラタトゥイユを作っている。菜園で野菜を摘み、火打ち石で火を熾し、井戸から水を汲む。あの頃と違い、手間も暇も倍かかる。それでも考えごとをするには、動きながらのほうがよかった。
エプロンを畳み、フォークを並べる。陽が暮れた頃、グラディスが帰ってきた。
「ただいま、いい匂いがするね」
「おかえりなさい。すぐできるから、手を洗ってきて」
鍋の料理を皿によそい、それを二人で食べる。口直しに水を飲み、また静かに食べる。
「———アン?」
返事がない。
「ニニアン?」
二度目の呼びかけでアンは我に返り、椅子にもたれた背筋をピンと伸ばした。
「大丈夫かい?」
「あぁ、ごめんなさい。なんか味が足りないと思ったら、バジルを入れ忘れてたわ」
「そんなのなくても十分美味しいよ」
しばらく経っても、心ここにあらずといった様子で、アンは無造作に皿を片付け、テーブルを拭いた。
《お前は世界で一番美しい私の娘だ》
最高に嬉しい言葉だったのに、今のアンは複雑な心境だった。月の君の示唆した通り、どうやら男親とは、娘を贔屓するものらしい。
———そうだ。私もお父さんっ子だったっけ
父と娘の間に存在する、特別な絆。それはアン自身が一番知るところだった。その絆が、やがて夫婦の弊害になりうるというのだろうか。
明後日には月の君と会わねばならない。恐れ多くも自分から呼び立てながら「やはりやめておきます」とも言い難い。皿を洗うグラディスの後ろ姿を見ながら、アンの決意は次第に固まりはじめた。
———男の子さえ授かれば、なにもかも上手くいく
空に月が昇る頃には、彼女の決意は揺るがぬものへと変わっていた。
そして、かの流星群の夜。二人の間に子供が生まれた。待ち望んだ瞬間に、彼の喜びようは手放しであった。だがアンは素直に喜べずにいる。運命は悪戯にも、彼女に娘と息子の両方を授けたのだ。子供を授かった喜びも束の間。娘を失う不安がアンを襲った。
———どうしよう。グラディスに真実を話すべきだろうか。いや、そんなことはできない。彼は運命の出逢いだと信じているのに、それが仕込まれたものだったと知ったら? その裏に娘を差し出す約束があると知ったら? 子供たちを連れてラクトリエに帰るかもしれない。呆れた女だと、それでも母親かと、二度と顔も見たくないと怒るだろう。あぁ、私は一体どうすればいいの
このままでは娘を失いかねない。取り返しのつかぬ約束をしてしまった。しかしその約束がなければ、今の幸せな暮らしはなかった。考えれば考えるほど分からなくなる。そうしてとうとう、アンはイチかバチかの賭けに出た。
———そうよ、息子として育てればいいんだわ!
それが、悩みあぐねた末に捻り出された、精一杯の解決策だった。話を聞けば他のマッセンたちも、なにかを差し出す条件で願いを叶えてもらったと聞くではないか。そのうち誰かが娘を差し出せば、自分の約束は忘れられるだろう。子供たちが大人になるまで凌げればいい。
———イグニスを連れていけば、それで信じてもらえるはず
そう思いたったアンは早々に、ラウアを前にこう言った。
「ラウア、これから大事な話をするからよく聞いて。アナタは今日から男の子になるの。イグニスと同じよ。お人形遊びもおままごともしちゃダメ。お外でいっぱい遊んで、お父様みたいに強くなるのよ」
「どうして? どうして私は男の子にならなきゃダメなの?」
「家族みんなで暮らすためよ。でもこれは、アナタとお母様だけの秘密。誰にも話しちゃダメよ」
これが、生まれてはじめてラウアの交わした、母との誓いだった。アンはラウアを手放すまじと、その手にハサミを取り、髪を短く切り揃えながら、アンの夢が一つ消えた。愛娘の髪を櫛で梳いたり、可愛らしく結わえる楽しみが、彼女の中から消えたのだ。
流星群から二週間後、追いかけるように夜が訪れた。なにかが起こるなら、今宵の満月ほどお誂え向きの夜はない。アンはそう感じていた。
「アナタ、イグニスと一緒に薬草を摘んでくるから、少しだけラウアをお願いね」
「こんな夜更けにかい?」
「えぇ、あの薬草は月明かりの中でしか見つけられないのよ」
「そうかい、気をつけるんだよ」
イグニスを連れて出掛けるアンを、グラディスは訝ることなく見送った。アンは髪をとかし、身繕いを済ませ、静かに戸口を閉めた。しばらく歩き、丸太小屋が見えなくなると、アンはイグニスを抱っこして、足早にかの湖へ向かった。
「どこに行くの?」
「薬草を摘みに行くのよ。少し歩くから、しっかり掴まっててね」
導かれるように森の小道を抜ける。スギの梢から覗く月が、前に来たときより高い位置にあった。アンは腰をかがめ、イグニスと視線を合わせると、
「イグニス、よく聞いてちょうだい。これからとっても大事なお方と会うから、お行儀よくするのよ」
「うん!」
「それから、お母様がいいと言うまで声を出してはダメよ。約束できる?」
イグニスは大きく頷いた。乱れてないイグニスの襟を正し、撫でるように息子の髪を整えた。
真夏の熱帯夜なのに、吐いた息が淡む。
「お母様、寒い———」
アンは前触れをすっかり忘れていた。脱いだローブを急いでイグニスに着せると、素早く自分も髪を束ねた。
「少しだけ我慢してね」
どことはなしに、月明かりからヒラヒラ舞う花びらが現れた。花びらは次第に数を増し、やがて一塊になると、ついに月の君が現れた。白い薄絹のドレスをまとい、肌がキラキラと輝いている。アンは仰々しく両腕を平らに重ね、イグニスにもそれを真似させた。そして声がかかるまで顔を隠し、跪いた。
「そこにおるのは誰ぞ?」
「メルヒナのニニアンにございます」
「顔をあげよ」
アンに促され、イグニスも月の君を拝することを許された。
「隣におるのは、其方の子か?」
「はい。夜道はいささか危険ではございましたが、感謝の気持ちとご挨拶も兼ねて、連れて参りました」
けどられまいと、アンは必死に声色を装った。頭を垂れて奏すアンを前に、月の君は表情を変えずにいる。
「もう一人はどこにおる?」
「ここまで道のりは暗く、幼子二人を引き連れるのは、容易ならぬことにございます。今は夫とともに、私の帰りを待っております」
しばし流れる沈黙が、アンにとっては何時間も重苦しいものに感じられた。脂汗がじっとりと背中を伝う。
「よかろう。其方、本当に運がよかったのう。幸せに暮らすがよい」
「ありがたき幸せにございます」
月明かりにその身を絡ませると、ドレスは花びらと舞い、月の君もまた、光となって月へと昇って消えた。やり取りは呆気なく、実に簡潔に済まされた。辺りが静寂に包まれても、アンはそこから動けずにいた。
「お母様、大丈夫ですか?」
ようやく腕を下ろし、アンはその場にフラフラと頽れた。
「大丈夫よ。アナタは大丈夫? なんともない?」
「ボクは平気です」
———終わったんだ。これで家族四人で暮らせる
そう自分に言い聞かせるながら、真っ先に頭に浮かんだのは、もちろんラウアだった。すぐにイグニスの手を引き、もと来た道を引き返した。
「薬草は摘まないの?」
「えぇ、薬草はもういいわ」
薬草を摘みにと出掛けたのに、籠すら忘れたのを今さら思い出した。いずれにせよ、夜道でイグニスを抱っこするのに、片手を籠で塞げない。
「それからイグニス、今あったことは誰にも言わないで」
「ラウアにも?」
「えぇ、絶対言ってはダメよ。ご褒美に、明日イグニスの好きなものを作ってあげる。なにがいい?」
「ブルーベリーマフィンがいい」
手の震えを気づかれまいと、アンはイグニスを抱っこしながら体を揺らし、あやしながら歩いた。我が家の窓からあふれる光を見たとき、彼女はどれほど安心したことだろう。
「おかえり、早かったね」
にっこり微笑むグラディスの手に、ラウアが抱かれている。壁に寄りかかり、グラディスの読み聞かせる絵本に、ラウアは夢中の様子であった。
「お母様!」
玄関に母を認めたラウアはベッドから飛び跳ね、アンに駆け寄った。
「ただいま、私の可愛いラウア」
百年ぶりの再会を喜ぶように、愛娘が抱きしめられる。この夜だけで、彼女はいくつの嘘をついたか知れない。
———これでよかったのよアン、これでよかったの
この幸せを守るためなら、どんなことでも成し遂げてみせる。アンは心にそう誓ったのだった。ビーズで刺繍をしたり、気になる男の子の話をしたり、お化粧の仕方を教えたり。そんな夢は叶わない。あるときなど、テーブルに飾る花をラウアが摘んできた日があった。
「ハイこれ、お母様に」
「ありがとう。でもね、男の子はお花を摘んだりしないのよ」
「そうなの? お父様も、ときどき花を摘んで本に挟んでるのに」
「生きてるお花を摘んだら可哀想でしょ? お花だって、きっと痛い思いをしてるわ。今度キレイなお花を見つけたら、どんなお花だったか、お話だけ聞かせてちょうだい。ね?」
アンは事あるごとにそう言い聞かせねばならなかった。男の子らしい遊びとは? 女の子らしい仕種とは? 考えるほど分からなくなる。まち針の代わりに木刀を持たせたのはよいが、門限は最後の夕陽が沈むまで。そうでなければ月が昇ってしまう。
「お外で遊ぶのは夕方までよ。日没までに必ず家に戻りなさい」
「イグニスはいつでもいいのに、なんで僕は夕方までなの?」
「今は分からなくても、これはアナタのためなの。黙って言うことを聞きなさい」
ラウアの口答えが重なると、頭ごなしな言い方になってしまう。ラウアの帰りが少しでも遅いと、アンは血相を変えて戸口に立ち、
「ラウリアーネ・エミリア!」
森中へ響かんばかりに声をあらげ、ラウアを家に引き入れた。
———イグニスより自分のほうが厳しく叱られる
なにをしても許される弟と、なにをしても叱られる自分。幼きラウアは次第に母を敬遠しはじめ、父を慕うようになった。
母娘の溝が、だんだんと深まってゆく。
張り裂ける思いのアンは、愛娘とのわだかまりを胸の内に仕舞い、それでも厳格に徹し続けた。ラウアを少女ならしめる純真が、日増しに塗り替えられてゆく。アンがどんなにピンクが好きでも、その色で娘を着飾れはしない。靴下でもハンカチでも、ラウアの持ち物はすべて赤に変えられた。そのお陰で、ラウアの一番好きな色は生涯を通して赤一色となった。




