外法の業
『陰奇術』
それは人の道理に背く外法の業。
陰奇術とは、陰の気を己に宿し、肉体も精神も邪悪へと作り変える術である。
その変化は術者ごとに異なり、才能や特性、内に秘めた欲望により千差万別。
ただし一つ、すべての術者に共通しているのは――いずれも、人を弄ぶ外道に堕ちるという点だ。
術者ごとに力や特性は異なるが、ひとつだけ共通する能力がある。
それが、屍を操る術。
陰奇術は人体に作用するものであり、最も陰の気が強く宿る存在――それが『屍』。
ゆえに、陰奇術と最も相性のよい対象は、常に死体である。
中でも、最も広く使われ、そして人にとって最大の脅威となる術がひとつ――。
それが、《死鬼化の術》。
その効果は、死者を、化け物として蘇らせるというものだ。
朔矢の目の前に、ボロボロの衣をまとった女性がいた。
ただ違うのは、血走った目をし、涎をながしながら大口をあけ、そして肌が青いことくらい。
これが『死鬼』。
人から死ぬ事さえ奪った、天魔外道の業。
人としての記憶など何もなく、意識も理性も失い、己が体が壊れる事も厭わず、目の前にいる生きる者のみを襲う屍傀儡。
女の死鬼は両手をぶんまわりながら、朔矢に襲い掛かってきた。
死鬼の厄介なところは二つ。
強大な身体能力と、陰気の汚染。
脚力は五間(約九メートル)を一瞬で跳躍するほどで、木々の間を姿をほとんど見せず飛び交える程。
腕力は女の身体でも人を八つ裂きに出来、その咢は岩を砕く。
もう一つの特性である陰気の汚染は、死鬼の爪や牙にて傷が作られると、その傷より体内に陰の気が送り込まれる。
人の身体は陰と陽、両方の気が循環するよう整えられている。
だが陰の気が増えその均衡が崩れることによって理性が揺らぎ、我欲が心を支配し、果てには心を壊す。
そうして陰の気を充満させながら死鬼に殺されることにより、理性なき化物……つまり『死鬼』となる。
死鬼に殺されると死さえも奪われ、悍ましきその姿と同じものにされる。
だからこそ死鬼は無辜の民から殿上人まで、ありとあらゆる人に畏怖されてきた。
ただし、例え敗北しようとも朔矢が死鬼になる事はない。
正しく言えば、朔矢たち道場の門下生は――。
襲い来る陰鬼の鋭き爪を、朔矢は後方に飛びのき回避する。
その動きは、陰鬼に負けず劣らず人間離れしていた。
陰鬼に人としての感情はない。
故に、目の前の存在がどれだけ強大であろうと気にする事はなく、怯える事もない。
ただ、引きずり堕とそうとするだけ。
生者を汚し……死さえも奪われた屍に。
己と同じような、冥府魔導の果ての闇に。
だが……。
「知らんな。そんなの」
嘲笑し、朔矢は女を見下す。
飛び交う死鬼の、更にその上。
朔矢の斬撃は天より降り注ぎ、死鬼を真っ二つに叩き斬った。
「お、お見事!」
「お見事!」
「お見事にございます!」
部下達はその働きに見とれ、拍手をする。
朔矢は死鬼に怯え、戦うそぶりさえ見せない同胞に何とも言えない気持ちを覚える。
この無能でも派閥に組みこもうと思えるくらいマシだったというのだからもう本当どうしようもない。
「さ、朔矢様! おみ足に……」
部下の一声で怯えが一気に加速し、皆が朔矢から離れた。
「おみ足言うな気持ち悪い」
そう言って、その足とやらを見る。
なんてことはない。
ただかすり薄皮一枚が切れ血が滲んでいるだけだった。
「……はぁ。まあ良い次行くぞ。着いて来い」
何ともない朔矢の様子を見てから、彼らはおずおずと朔矢の後方に付き従う。
「全く……。誰も先陣を切ろうとしない辺り我が派閥は優秀で大変結構」
誰にも聞こえぬよう、そんな自嘲めいた呟きを朔矢は口にした。
清嶺館は任務時には正装――陽気寮より与えられし『白の隊服』が与えられる。
白装束の様な衣に白の鉢巻き。
ご丁寧に履物の紐までも白。
それはその全てに『陽の気』が練り込まれている。
陰の気が増大することを防ぎ、陰陽の均衡が保たれる。
だから、これを身に纏う限り、清嶺館隊員の死は保証される。
悍ましき化物になることなく、同胞を襲うような屈辱に耐える必要もなくなる。
貴重な服装を与えられる理由は別に清嶺館の皆の為じゃあない。
そうではなく、ただ単純に身体能力の高い死鬼の方が厄介であるからだ。
清嶺館の総代や師範代格が死鬼になるとどれほどの怪力になるか想像も出来ない。
故に、黙って死ぬよう隊服が与えられていた。
皆が顔を青ざめさせながら、教本通り丁寧に、何度も確認しながら衣服を着る中でも朔矢だけは雑に着崩していた。
朔矢は他の皆と違い、陰の気に怯えていなかった。
確かに、黒い靄のような陰気を見るとぞわぞわ来るものは感じるしあまり長時間触れたら死ぬだろうなとは思う。
だけど、それだけ。
死んだあとなどどうでも良いし、多少体に陰が増えてもだからどうしたという程度。
一々こんな服装着る必要があるのかと思うくらいである。
とはいえ、それは自分が特別であるからだと朔矢は知っている。
正しく言えば……自分は既に一度堕ちているから。
朔矢はかつて自分が壊れたという自覚があった。
治った訳でもなければ戻った訳でもない。
壊れた器は二度と元に戻らない。
自分の心は間違いなく、あの時壊れた。
だから……自分はあの時死ぬはずだった。
苦辱と絶望の果てに、憎しみだけに支配され命を絶たれるはずだった。
だが、そうはならなかった。
器は壊れて戻らない。
だけど壊れた器の代わりに、新しい器が生まれた。
朔矢は再び心を手にする事が出来た。
他の誰でもなく、最愛の兄、志紀の力によって。
道場の連中は全員、志紀を勘違いしている。
愚直なまでに真面目で堅物、品行方正で常に冷静沈着、声を荒げることなどない。
それは間違いない。
それは確かに志紀の側面だ。
だが、志紀はあの道場の中で最も熱い心を持っている。
それを知っているのは、朔矢だけだった。
壊れた朔矢の面倒を見ていたのは、志紀だった。
大人達は志紀が子供で何も知らないからそんな無茶が出来た。
無知故の奇跡で朔矢は蘇ったと……そう思っている。
だが、実際は違う。
志紀は大人達の空気が読める程度には賢い子だった。
そして心が壊れるということの意味を悟っていた。
もう駄目だと何度も諦めた。
それでも尚朔矢の世話を焼いたのは、その心が戻るまで友達の様に寄り添い声をかけ続けたのは……『それでも!』という気持ちだった。
現実という不安と恐怖に負けない為に、常に負けん気で心を燃やし続け、壊れた子供が本当の友達になれると必死に信じ込み、抗い続けた。
大人が諦めた事を、志紀は諦めず心の中で叫び続けただけ。
その心の声が、熱さが、再び朔矢に生を取り戻させた。
だから……朔矢は死鬼に怯える事はない。
あの程度の絶望など、この心に宿る兄の炎が燃やし尽くす。
死鬼になどなるわけがない。
そう……自分は全てを使い果たしても尚返しきれぬ恩がある。
その恩が消えるまで、決して死ぬ訳にはいかなかった。
「で、出ました! 死鬼です!」
部下の叫びに朔矢はすぐさま反応する。
本音を言えば村人の死鬼一匹程度何とかして欲しいと思う。
それでもあの道場の門下生かと。
とはいえ……そんなのでも派閥の一人。
今消えて貰うのは少しだけ、困る。
「下がれ! 後は俺がやる!」
叫び、件の死鬼に目を向けた。
手前に一匹、倒れた死鬼がいる。
そしてその奥に三匹、こちらを見据え飛び掛かろうとしていた。
「一匹殺ったのか?」
「は、はい! 無我夢中でしたが……」
「ああそうかい。やるじゃねーか。褒めてやるよ」
ニヤリと笑い、朔矢は部下の一人の頭をぽんと叩く。
部下の中には師範代も居たのに、死鬼を倒せたのは単なる門下生のこいつ一人。
朔矢にしては珍しく、他人である部下を本気で褒めていた。
三匹の鬼と目が合う。
交差する中、たんっと、一歩。
その一歩で、朔矢は鬼の懐に立っていた。
邪悪な笑みを浮かべ、そのまま力任せに剣を横に振り抜く。
横並びに立つ三匹を一網打尽とする為に。
一匹目の胴体を、真っ二つに切断する。
だが二匹目は後方に飛び、三匹目はあらぬ方向に。
振り抜かれる斬撃。
その最中――朔矢は刀から手を離した。
するりと、抜けていく刀。
そして持ち手の端、限界いっぱいのところでまっすぐ手を伸ばし親指と人差し指で掴んだ。
朔矢は非常に小柄であり、遠目から女性に間違われる事がある。
そしてその剣が器用で軽い事もあり力が弱いと勘違いされるが、実際は違う。
朔矢は、道場内にて最も力が強かった。
例え力が強くても、指先だけで剣が振れるのか?
怠け癖の強い朔矢にそんな力があるのか?
答えは――ある、出来る。
確かに朔矢は怠け癖があるが、それでも、誰よりも志紀と共に訓練を行なって来た。
誰よりも志紀と模擬戦を重ねて来た。
才能だけで師範代になる事は出来ない。
朔矢は、正しく剣士であった。
指先だけの剣を摘み、斬撃範囲が拡張され、二匹目の鬼が引き裂かれる。
そのまま剣を手放し、無手にて三匹目の懐に。
向かい合う中、鬼は朔矢の首元に噛みつこうと大口を開き、力強く咢を閉じる。
だが、そこには誰もおらずガギンと歯は音を鳴らす。
虚空だけを噛みしめた直後、顎に強い衝撃を受け鬼は上空に吹き飛んだ。
朔矢は両足を天に向け、逆立ちの様な恰好になっていた。
そのままくるっと半回転し、地面に着地。
そして――。
「使って下さい!」
部下の一人から抜き身の剣が投げられる。
それを受け取り、木を三角跳びの要領で蹴り、上空に上がり鬼に追いつく。
そして、すれ違いざまに一閃――。
あまりにも素早く、本当に斬ったのかと隊員は思った。
だが、確かにその痕跡はあった。
袈裟斬りを受け、斜めに二分割される鬼は地面に叩き落とされていた。
「お、おみご――」
「それはもう良い! 次に行くぞ」
朔矢は言葉を遮り、部下に剣を返し、地面に刺さる本来の自分の剣を抜いた。
その傍にいる二匹目の鬼が、地面でまだ蠢いていた。
体が半分になってもまだ、死鬼は生きていた。
殺し損ねた事に苛立ちを覚えながら、朔矢は静かにトドメを刺し、その場を離れた。
数刻程の間死鬼を狩り続け、何もでなくなってからしばらく警戒を続ける。
そして本当にもういないとわかった瞬間……朔矢は小さく息を吐いた。
朔矢にとって死鬼なんてのはよほどの特殊な相手でない限り何の脅威にもならない。
正直獣と大差ない。
それでも朔矢が常に死を意識し任務に赴くのは、死鬼を生み出す本体に出会う事を想定してである。
『陰奇術士』
朔矢は彼らに数度程相対した事があるが、未だに一騎打ちで倒した事はない。
むしろ死にかけた事の方が多い位。
倒したことはあるが、それは相手が一人だった上にこちらは志紀と手を組んで。
それでようやくであった。
それでも、陰奇術士討伐によって陽気寮より褒賞があり、偉い人から二人に銘を持つ業物の刀が送られたくらいには大事であった。
「……さて、帰るか。俺は十分働いたから帰りはお前らが働けよ」
そう、朔矢は部下に告げる。
行きは馬が居たが、帰りはいない。
だからその代わり馬車を人が引いて帰るというのが清嶺館の習わしであった。
「は、はい!」
嫌がるそぶりを見せない部下たちの声が響く。
彼らは朔矢に心からの敬意を持っていた。
自分達を派閥に入れてくれ、そして今日は誰よりも前に立ち戦った偉大なる剣士として。
「やっぱり朔矢様の実力は違う。師範代の中でも随一だ――」
呟く部下は、周りの「おい止めろ」という小さな声と朔矢の睨みで押し黙った。
「わかってねーなお前らは。俺は確かに凄い。だけど……」
「志紀様ならもう一刻は早く終わりましたね」
また別の部下の一人がぽつりと呟く。
その声が波紋を呼び、皆が叫びだした。
「やっぱり朔矢様だ! 先程の腕を見てもまだ言えるのか! あんな事ご当主でさえ出来ぬわ!」
「いいやご当主様ならそのくらいは出来る!」
「志紀様は一度に何匹もの鬼を狩る!」
わいやわいやと騒ぎ出す彼らに朔矢は溜息をつく。
そして……。
「うるせぇお前ら! 黙れ!」
一つの怒声で、声全てを吹き飛ばした。
小柄な男から放たれたとは思えない、力強い声だった。
「……ったく。お前ら男なら俺が最強になるくらい言えないかね。他人のふんどしで相撲取ってんじゃねーよ。んで、最初ににいさんを褒めた馬鹿は……お前か」
そう言って、朔矢は『一刻は早く』と言った部下に目をつけた。
「は、はい!」
「――五十点だ」
「……え?」
朔矢はにいっと笑った。
「一刻なら、五十点しかやれんな。にいさんなら俺の半分の時間で仕事を終える。もっとにいさんの剣を見て学べ」
そう言って、遠くを見ながら微笑を浮かべた。
これは朔矢が過度に持ち上げているわけではない。
比喩でもなければ贔屓目で見ているわけでもない。
志紀の剣というのは基礎を極め、更に磨き続け、後世に伝える為の剣。
故に、死鬼に対しては絶対の力を発揮する。
一振りで数匹纏めて消し飛ばす程度はやってのける。
自分本位の朔矢の剣とは違い、誰かの為の剣。
だからこそ、残すべき剣はどれで、誰を主に据えるべきなのか、考える間でもないのである。
それなのに半年も時間をかけられたのだから朔矢としては本当に不本意な日々であった。
とはいえ、そんな苦労はもう厭わずに済むのだが。
「さて、さっさとにいさん……いや、新しいご当主様に会いに帰るぞ。お前ら気張ってひけー。早く帰られたお前ら全員に美味い飯と酒奢ってやるぞー」
気楽な声と共に、朔矢は馬車のなかにふんぞりかえり、片肘をつき、微笑を浮かべた。
ありがとうございました。