ただ彼の為に
「おはようございます! 次期当主様!」
笑顔で、門下生がそう声をかけてくる。
それに邪気も嫌味もない。
純粋な好意だからこそ、志紀は困った顔を見せた。
「そのような失礼な戯言を口にするようなら、素振りを倍に増やすぞ」
志紀がそう呟くと、門下生は慌てて謝罪し、逃げるようにその場を後にした。
「……ふぅ」
小さく、志紀は溜息を吐く。
最近、こういう事が増えてきた。
自分に対し媚びへつらうような人や、暖かい目で応援する人。
それ自体は嬉しくないとは言わない。
期待されているのなら、応えたいとは思う。
だが同時に、自分なんかで本当に良いのかという気持ちは拭えない。
それに、最近ずっと漂っているどこか不穏な空気も、きっと気のせいではないだろう。
それが何なのか、志紀にはわからないが。
愚直で正直者な志紀に政治がわかる訳がなかった。
そしてもう一つ……志紀には、気になる事があった。
「あー。にいさん。おはよー」
そう言って、弟分である朔矢が手を振り声をかけてくる。
辛い過去を背負いながら、それを表に出さない強い男。
天賦の才を持ちながら、どこか本気になれないふざけた男。
子供のように純粋で、邪気がなく、それゆえに孤独に陥りやすい男。
大切な――弟分。
そんな彼の様子が、ここ最近変だった。
「朔矢。正直に言え」
「な、何にいさん。少し怖いんだけど」
顔を寄せながら、志紀は凄んだ。
「お前、今、何をしている?」
「へ? 何って言われても……散歩? べ、別に怠けている訳じゃないよ!? 今は俺自由時間だからさ!」
慌てた様子で、朔矢は弁明する。
その態度は確かにいつも通りだろう。
だけど――行動そのものがおかしかった。
朔矢が早朝に起きている。
それだけでおかしい。
その上、最近修練を怠けていない。
それで何もないとは言わせない。
そんな簡単に鍛錬を怠けるのを止めるような男ではないと、志紀が誰よりも深く知っていた。
「――私は、そんなに頼りない男だろうか?」
落ち込みながら、志紀は囁くように呟いた。
朔矢の表情が一変し、唇を噛む。
だけど、誤魔化すようすぐ元の笑顔に戻った。
「にいさん以上に頼りになる男は知らないよ」
「なら、頼ってくれ。お前が苦しむ姿は――見たくない」
「――俺もだよ」
「……何?」
「何でもない。にいさんはにいさんのままで居て。それが、俺が一番元気になるかさ」
そう言ってから、朔矢はとっとっと走っていく。
「待て。答えに――もう、いない。……無理を、していないと良いのだが……」
志紀は自分が愚直な男であると知っている。
誰かに支えられねば生きられない、惨めな存在だと理解している。
だからこそ――せめて弟分の朔矢くらいは、自分で護りたいと願った。
例え届かずとも、そうである己で居ようと志す位には。
愛しき兄の元を離れ、朔矢は息を整える。
兄の泣きそうな顔は、あまりにも心臓に悪かった。
嬉しいという意味でも、辛いという意味でも。
わかっている。
きっと今自分がしていることをあの人が知れば、哀しみ、必死で止めようとする。
それがわかっていても、やるしかなかった。
そもそも、既にこの手は汚れてしまっている。
死人こそ出していないが、愚かな馬鹿共と同じことをしているのだから。
事が露見すれば、ここを追い出されることもあるかもしれない。
それでも……やるしかない。
兄が当主となり、幸せに生きる。
それを叶えることだけが、今自分に出来る事。
そう……それで良い。
それで良いのに……。
「苦しい……なぁ……」
嘆くよう、泣き言が口から零れる。
謀略を行い、影で馬鹿と戯れる度に、己が穢れ純粋さから遠くなるように感じる。
二人だけで完結していた世界が、今は余りにも、広すぎる。
穢れること自体は構わない。
馬鹿と同等になる事も受け入れよう。
だけど、そのたびに、自分という存在が弟として相応しくないように思えて来る。
それだけが、心の底から辛かった。
もう、あの人の傍に居たらいけないのかもしれない。
あの人の傍にしか、居場所はないのに……。
にいさんだけだった。
にいさんだけが、俺を俺にしてくれた。
にいさんさえいれば他に何もいらなかった。
そうでありたかったのに……そうでいられない。
本当に、にいさんは現当主にそっくりだった。
政治が全くわからないというところも。
いや、二人とも政治なんて物がこの道場にあるとさえ思っていないのだろう。
だから――馬鹿が蔓延っている。
どれだけ金が抜かれたか、どれだけ自分達が利用されたか、当主は知ることもない。
知れば知る程頭が痛くなる。
だから……自分がやるしかなかった。
にいさんの為、次期当主の為、掃除しておかなければならなかった。
動くたびに、策をめぐらせるたびに、一本ずつ、身体に蔓がまとわりつくよう感じる。
最初は大した事がなくすぐに蔓は切れたのに、一本、また一本と蔓が増え、最近ではがんじがらめになっている。
正直、全部投げ出してしまいたい。
だけど、出来ない。
大切な兄の幸せの為、これは背負うべき痛みであった。
兄の為に痛みを感じる事が出来る。
これが、今の朔矢の数少ない幸せを感じる時間でさえあった。
「あの……」
おそるおそる、沙夜は朔矢に声をかけてきた。
長いこと一緒にいるが、彼女が話しかけてきたのはこれが初めてのことだった。
朔矢は偽りの笑みを浮かべた。
彼女の前に、己の表情を出す事など出来る訳がなかった。
兄と将来共にするこいつに、どんな面を見せれば良いというのか……。
「はいはい。何ですお嬢さん?」
「いえ。その……辛そうですから、大丈夫かなと……」
尋ねる彼女の表情は、本当に不安そうだった。
それほどまでに顔に出ていただろうか。
「あーはいはい。色々忙しくてね。でも大丈夫ですよお嬢さん」
ニコニコ顔でそう言葉を投げる。
それは事実上の拒絶である。
どうしてかわからない。
投げて来た言葉はほとんど同じなのに、にいさんと違い不快感しか感じられなかった。
「そう、ですか。……申し訳ありません。お邪魔をしてしまいました」
ぺこりと謝り、うつむきがちに彼女は去っていく。
泣いているのか、それとも落ち込んだのか。
わからないけれど、朔矢にとっては、どうでも良いことに過ぎなかった。
沙夜が去った後、朔矢は空を仰いだ。
晴れ渡る空が、やけに痛々しかった。
――どうして、あの子を傷つけるような刺々しい言い方をしてしまったのか。
心の奥底では理解していた。
兄以外に優しさを向けられると、それが裏切りに近い罪悪感となる。
にいさん以外を、ほんの僅かでも心に入れてしまったら……。
それは、自分が『にいさんだけの自分』ではなくなったことを意味する。
それが、許せなかった。
誰よりも清廉で、誰よりも温かな兄。
その兄の為、この身のすべてを使う。
自分の中に、微かな『別の感情』が生まれることすら、赦せない。
蔓はさらに絡みつく。
呼吸すら苦しい。
それでも、進まなければならなかった。
朔矢は静かに歩き出す。
向かう先は、門下生たちの密会場所。
そこで、二人を斬り捨てる。
志紀の名を利用して、勝手な私腹を肥やそうとしている輩たちを。
殺しはしない。
けれど、再起不能にはなってもらう。
こんな方法しか、もう残されていなかった。
夜、密会場所に到着した朔矢は、壁際に身を潜めた。
中からは、汚らしい笑い声が漏れてくる。
「まったく、志紀様様だよな。あの鉄面皮で門下生を引っ張ってくれるんだからな。銭は俺達、仕事はご当主様ってか」
「次期当主が決まれば、俺たちも師範代か。楽なもんだ。正義の味方様の味方ってのはさ」
その言葉に、朔矢は静かに、静かに、瞳を閉じた。
怒りではない。
絶望でもない。
ただ、冷たく、冷たく、心を凍らせる。
――こんな奴らの汚れた称賛があの人の耳に届いてしまう前に。
朔矢は、歩み出た。
扉を蹴破り、薄暗い部屋に立つ。
「……誰だッ!」
男たちは剣を抜いて立ち上がり、声を荒げる。
朔矢は笑った。
酷く、酷く、優しい顔で。
「さ、朔矢様が、何故ここに――」
その瞬間、朔矢の空気が変わる。
血の匂いに似た、異様な緊張感。
それは紛れもない、殺意――。
夜の静寂を切り裂く、哀れな叫び声が上がるまで――そう、長くはなかった。
翌朝、志紀は何も知らずいつものように鍛錬に取り組む。
そんな兄を見つめ、朔矢はただ一人、胸を締め付けるような苦しみと共に微笑んだ。
――これでいい。
兄が幸せである。
それだけで、
それだけで、生きていける。
たとえ、この手が幾ら払おうとも濯げない程に、穢れたとしても。
ありがとうございました。




