『終章:堕ちた光』序曲:種明かし
太平は乱れ、世に暗雲立ちこめる。
人々は夜を畏れ、闇を畏れ、そして鬼を畏れた。
陰奇術士――。
かつて人であった者、あるいは人ならざる者。
夜陰に紛れ、闇に蠢き、無辜の民を弄ぶ外道の徒。
その跳梁により、夜はもはや人の時ではなくなった。
されど、人々もただ手をこまねいていたわけではない。
夜を再び取り戻し、人の手に平穏を呼び戻すため――それは設立された。
国防組織、『陽気寮』。
陰奇術士を討ち、太平を築くことを目的として築かれた組織である。
陰気に拮抗する陽気――人の明朗な感情や、太陽の加護を源とする力。
それらを操る術士を育成し、討伐の任にあたらせる。
とはいえ、術士の育成には歳月と労力を要し、それだけでは到底追いつかぬ。
ゆえに陽気寮は、その下部組織として『道場』を置いた。
術士よりも育成が容易な剣士を数多く集め、広く民を守るために。
それすら叶わぬときは、民を逃がす時間を稼ぎ、術士到着までの盾となる――すなわち、命を賭して前に立つこと。
それが道場の役割であった。
崇高でありながら、端的に言えば生贄である。
それでも、多くの若者が道場の門を叩いた。
少なくとも、死ぬまで飢えずに済むからだ。
死を前提とした剣士志願者が後を絶たぬほどには、世は荒れ果てていた。
『清嶺館』――。
その道場もまた、他と同じくかかる使命を担い、剣術を代々伝えてきた。
二人の剣士が出会った場所。
数多の美しき記憶が息づく、望郷の念尽きぬ愛しき故郷。
その清嶺館に――悲鳴が響き渡っていた。
「ど、どうして……夜ではないのに! 夜ではないのに……!」
泣き叫びながら、男――否、少年は逃げ惑った。
日々の鍛錬を怠らず、心構えも持ち、既に幾度かの実戦を経験している。
だが、それでも土壇場で覚悟を決められるほど、少年は強くはなかった。
ことさらに清嶺館は彼らにとって家であり、不可侵の安全地帯と信じて疑わなかったからである。
――この世に、絶対の安息など存在しない。
だからこそ、各地に道場が築かれたということを、少年は忘れていた。
「ひ……ひぃ……」
股を濡らし、泣き叫び、必死に必死に走って――そしてとうとう、壁際に。
少年は壁を背にし、震える手で刀を握った。
それは己の刀ではなく、足元に転がっていた誰かのもの。
握り手にこびり付いていた《《手》》を引き剥がし、拾い上げた代物だった。
半刻も経たぬうちに、道場は既に血の海と化し、悲鳴も叫びも次第に途絶えつつあった。
「う、うわぁああああああああ!」
少年の中にある恐怖が限界を超え、破れかぶれで大きく剣を振りかぶる。
だが、その刃が振り下ろされることはなかった。
――ごとり。
鈍い音とともに、背後で何かが落ちる。
それは腕であった。
剣を握る手と、両腕そのもの。
それが己の身体の一部であったと悟ったのは、何も握れぬ両腕を目にしてからだった。
「あ……ああ……あぁああああああ!」
絶望と恐怖が入り混じった慟哭。
刀だけを振り続けた人生だった。
その刀を奪われ、両腕を失い、絶望の淵に立たされる。
更に、腕を奪った刃は少年の喉を貫いた――。
すぐには命を奪わず、じわり、じわり。
少年は、痛みと恐怖の中で、緩やかに命を手放していった。
その一部始終を、一人の剣士が見ていた。
助けねばと思った。
殺された少年は『弟弟子同然』であり、護る義務があると信じていたからだ。
それでも護れなかったのは、恐怖のためでもあったが――何よりも、身体が動かなかった。
そこに立つ《《陰奇術士》》の姿を見てしまったから。
「何を……何をしているのですか、志紀様!」
男は、襲い来る陰奇術士の名を呼んだ。
陰奇術士は眉一つ動かさず、男の傍らに歩み寄る。
そして、先程の少年と同じく、腕を切り落とし、喉を貫き、絶望の中でその命を摘み取った。
たとえその相手が、かつて親しく語らった知己であろうとも――もはや何の意味もないことだった。
かつて、雨隆と呼ばれる男は、一つの恐るべき未来を危惧した。
『志紀という男は、術を操る才に溢れており、下手をすれば容易く陰奇術士に堕ちる』――と。
しかしその危惧は、残念ながら的を射たものではなかった。
真に才ある者へ向けるには、あまりにも言葉が軽すぎた。
否――既に手遅れであったと言うべきか。
あの時、弟と殺し合う宿命を背負った瞬間、この未来は確定してしまっていた。
とはいえ、これを雨隆の不明として責めるのは酷であろう。
想像すらできるはずがない。
己の気をも凌駕する、相性の良い気がこの世に存在するなどと。
陰奇術士と堕した最愛の片割れ――その陰気を全身に受け入れ、生涯を追体験して、絶望を味わった。
ただそれだけで、藤守志紀は陰奇術士へと成り果てた。
儀式の過程を一切踏まず、生贄すら不要のままに。
それこそが、志紀の真の才能であった。
――『陰奇術士となる才能』。
弟は陰奇術士でありながら正道の剣を極め、人類の天敵たり得た。
だが志紀は異なる。
彼は純粋に陰奇術士として、そして化外として人知の及ばぬ存在となった。
陰奇術士の実力は、成ってからの時間と蓄積した陰気によって定まる。
人の恨みを糧に育つと言い換えても良いだろう。
ゆえに成り立ての陰奇術士は、人と大差ないのが常である。
だがその法則は、志紀には通用しなかった。
蓄えた陰気の量も質も、既に比肩する者は存在しなかった。
しかもそれに留まらない。
欠けていた才能の全てを、彼は弟から授かっていたからだ。
『全てを捧げる』
弟の言葉は、決して虚言ではなかった。
剣士としても、志紀は既に二段、三段と上を行っていた。
あの最後の交わりの時、何故志紀が勝てたのか。
理由は至極単純であった。
弟の陰気を取り込み、その力を完全に己のものとしたから。
あの瞬間、志紀は二人分の力をもって戦っていたのだ。
そうでなければ、あの美しい剣に己が勝てるはずもない。
そうでなければ、凡庸たる自分が奥義を凌駕する魔剣など編み出せるはずもない。
――もっとも、それに気づいたのは最愛を失い独りの絶望を受けてからだったが。
何もかもを失い、孤独に震える志紀が最初に為したのは――故郷、清嶺館の襲撃であった。
まるで、すべての想い出を自らの手で葬り去らんとするかのように――。
剣士たちは、ただ怯え続けていた。
全身を血に染めながらも、顔色一つ変えぬ仏頂面のまま、無造作に刀を振るう剣鬼。
陰奇術士――魔人『藤守志紀』。
これまで相対した陰奇術士とは、次元が異なる。
剣術家としても格が違い過ぎ、技は通用すらしない。
剣の型を知られているという不利さすら、もはや些事にすぎぬほど、その差は圧倒的であった。
逃走も叶わない。
道場全域は、完全に隔離されていた。
空間を閉ざす術は極めて高位であり、陰奇術士には不可能とされる。
これを行えるのは、一部の陽気寮術士が数人がかりで挑む場合のみ。
それを、この男は学びもせず、いとも容易く成し遂げた。
二人分の才を持つがゆえである。
陰奇術士としての理想的資質と、譲り受けた『万物の天才』としての資質。
太陽として愛されたことを知った、《《堕ちた光》》。
ゆえに、この存在は暴力的なまでの怪物であった。
戦を決意しても嬲り殺しにされ、逃げることさえ許されず。
必然、剣士たちの選択は隠れることのみとなる。
だが、それすら無意味であった。
この陰奇術士は、もはや知覚に目を頼る必要すらない。
彼は、人の気を視ることができた。
迷いなく引き戸を開け放つ。
そこには、小さく身を丸めて潜む老人の姿があった。
「ひ、ひぃっ……!? な、なぜだ……!? なぜ!?」
恐慌に駆られ、心臓が止まりかけるほど狼狽する老人。
男はその襟首を掴み、無造作に引きずり出すと、柱へと向け投げ放った。
突き立つ刀が、その身を貫き、壁へと縫いつける。
しばし苦悶の表情で震えていたが、やがて動きは途絶えた。
弛緩とともに刀が抜け落ち、己が糞尿に塗れた床へと崩れ落ちる。
凄惨たる光景が続く中でも、男の表情は微動だにしない。
ただ淡々と、そこにある命を、自らの意思にて苦しみ抜いた肉塊へと変え続けた。
気づけば悲鳴は消え、感じ取れる《《気》》も残り僅かとなっていた。
奇妙なことに、己が手にかけた数よりも、死者の数の方が多い。
男は、殺した数をすべて数えていた。
奪った命を、一つ残らず覚えていた。
だからこそ気づいた。
理由は、足元にあった。
己の腹に刃を突き立てた剣士が、そこにいた。
死に怯え、自ら命を絶つことにためらいを失うほどに追い詰められていたのだ。
男にとって、それは誤算であった。
命を奪ったことに変わりはない。
だが――苦しませて殺すことができなかった。
その一点を、男は悔いた。
男には、一撃で絶命させる技量がある。
それでも全ての剣士に、最低二度は斬撃を浴びせ、誰一人として即死させなかった。
すべては意図的な行為。
苦痛を与えるため、男は故郷に戻って来た。
恨みはない、憎しみもない。
この故郷に抱くものは、感謝と愛情のみ。
それでも、男は悪意を撒き散らし、故郷を滅ぼそうとしていた。
男が感知している気の残りは、四つ。
そのうち三つは、すぐ目の前にあった。
男と同年代か、やや若い剣士たちが、勇気を振り絞り刀を構えている。
その先を通さぬために――残る一つの《《気》》を護るために。
彼らからは、濃い陰の気が立ち昇っていた。
全身が墨に染まったかのように。
気が視える男には、そのように彼らが映っていた。
それは彼らだけではない。
陰気は人の負の感情と結びつく。不安、恐怖、怒り、憎悪――。
その感情に囚われた者、襲撃された道場の者が、陰気に傾くのは必然であった。
それほどまでに怯えていながら、彼らは陰奇術士である男の前に立ち塞がった。
仲間と手を取り合い、たった一つの命のために死をも顧みず立ち向かう。
それはすなわち、正義――。
彼らは間違いなく、純然たる正義であった。
男は顔を歪め、笑った。
それは、己を嘲る笑みである。
彼らの行いは尊く、美しい。
であるならば、絶対的な正義と対峙する己は何者か――。
考えるまでもない。
邪悪だ。
己は邪悪。
善意を喰らい、人を貶めねば生きられず、美しきものを壊さずにはいられない。
なんと醜き存在であろうか。
その歪んだ笑みが恐怖を煽ったのか、三人の身体がびくりと震える。
それでも彼らは退かない。
命よりも大切なものが、そこにあった。
なんと美しき心か。
もしこれが勧善懲悪の御伽噺であれば、三人は勝利し、幸せを得るのだろう。
男は、そんなことを考えた。
そうであったなら、良かったと――。
――『助けてくれ!』
――『許して!』
――『もう殺してくれ!』
嗚咽と絶叫が交錯する中、男は淡々と彼らを壊していく。
悪鬼にふさわしい、邪悪な笑みを浮かべながら。
それが、男にできる唯一のこと。
悪を為す者は、悪であらねばならぬ。
だから男は――。
残りの気配は、ただ一つ。
それが誰であるか、男には理解できている。
また同時に、胸の奥に小さな疑念も芽生えていた。
男は、常に人の気を感じられた。
それは視覚に近い感覚で、そして色で状態が判断出来た。
陰の気に包まれれば黒。
陽の気に包まれれば白。
喜びや優しさといった正の感情を抱けば、陽が現れる。
哀しみや怒りといった負の感情を抱けば、陰が現れる。
ゆえに男は、この道場の人々を常に把握できた。
どこに潜もうとも、気を覆い隠すことはできない。
だが――残る一人、彼女の気は、そのいずれにも属していなかった。
正の感情がないのは当然だ。
虐殺の場で陽を帯びる者など、人の外に堕ちた化外に等しい。
だが、自分以外が皆殺しにされても、負の感情を抱かぬことがあるだろうか。
疑念と不安を胸に、男は辿り着く。
そこは――神代沙夜の部屋であった。
手を掛け、ふすまを開けようとした瞬間、男は動きを止めた。
何をしている。なぜ生前の振る舞いを繰り返そうとしている。
自分はもはや道場の一員ではない。
邪悪に堕ちた身、悪鬼、人を喰らう陰奇術士であろうに。
己を嘲り、歪んだ笑みのまま、ふすまを叩き斬る。
崩れた板戸を蹴り飛ばし、荒々しい音と共に、踏み込んだ。
そこに、沙夜は正座してこちらを見ていた。
「お待ちしておりました……志紀様」
微笑みながら、静かにそう告げる。
何も変わっていなかった。
道場を去る前と、彼女は。
こんな自分にも慈愛を向けてくれているのだろう。
命を賭しても、平然を装い説得しようとしているのだろう。
そう、思っただろう。
以前までの、愚直なだけの志紀ならば。
志紀は、最愛の力を受け継いだ。
才能も、思考も。
人の心を覗き、転がすことを得意とした、その力を。
弟のその、謀や政を行うその才が、男に危機感を与えていた。
そいつは――普通じゃない。
冷静になって考えたら――彼女が善意だけで動いているはずがないと理解出来た。
もし善意ならば、色は白となるからだ。
また反対に、今恐怖を押し殺し勇気を奮っているなら、色は黒となっているだろう。
白でも黒でもない。
すなわち虚無――。
何の感情も示していない場合。
だが、もう一つの可能性があった。
気の色を制御し、隠す。
つまり、擬態である。
「お前は――何者だ」
初めて志紀が口を開く。
沙夜はくすりと微笑む。
「私は私ですよ、志紀様。偽物でもなく、変わったわけでもない。不思議なことを仰るのですね」
愉しげに笑う彼女に、志紀は眉をひそめる。
「私は変わった。なのに、何故お前は、私の前で変わらずにいられる」
「いいえ、私にとって志紀様は志紀様。変化など、些事に過ぎません」
その言葉に、憎悪が宿った。
この女は言った――前と同じだと。
欲のため命を奪い、尊厳を踏みにじったこの己が、かつて正道を歩んだ自分と同じだと。
「お前は白知か? 私がお前を殺さないと、何故思い込む」
志紀は歩み寄り、抵抗させる間もなく首を掴む。
花茎のように細く脆い首に、軽く力を込めるだけで息が詰まるはずだ――それでも、彼女は笑みを崩さなかった。
背筋を這い上がる寒気。
何かを、大きく見誤っている。
嫌な予感が、確かにあった。
「お願いが……ありま……けほっ」
僅かな力でも、その喉はあまりに華奢で、傷を負わせたらしい。
志紀が言葉を発するより早く、沙夜が口を開く。
「今、どのようなお気持ちですか?」
「……は?」
「正義を愛した志紀様が陰奇術士となり、愛した道場を己の手で壊し尽くした今の感想を! 慕ってくれた人を殺したお気持ちは!? 破滅を迎えて高揚しましたか? 血は甘美でしたか? 命を奪う瞬間は、やはり絶頂に至りますか!?」
興奮に満ちたその一瞬、彼女の気に白が差した。
「お前は……何者だ」
「私を知りたいのですか? ならばお話ししますよ。だから、貴方のことも是非教えて下さい」
胸に手を当て、微笑む沙夜。
今すぐ殺すべきだ――と、頭では理解している。
だが、志紀の口は自然と開かれていた。
「私が、罪悪感を覚えることなど許されようはずもない。だから、私は何も感じなかった」
それが虚勢であることは、志紀を知る者なら皆わかるだろう。
ある意味、彼女の言は正しい。
志紀は堕ちても尚、正道を求め正しきであろうとする心は、変わっていなかった。
正道の心を持ったまま、邪悪に堕ちていた。
「まさか……陰奇術士となっても感性はそのままなのですか。あの正義を愛した志紀様が、その心のまま惨劇を……なんと、なんと美しいのでしょう!」
沙夜は陶酔したように叫び、純白の気を放った。
「恥ずかしながら、私は志紀様を好いてはおりませんでした」
「わかっている。お前が好きだったのは……」
「はい、朔矢様です。叶わぬ恋に足掻く、その姿が美しかった」
「――なに?」
沙夜の言葉は、放置できないものだった。
そして彼女は――朔矢の気持ちを最初から知り、その上で彼を孤立させたと告げた。
父にも、志紀にも相談できぬよう仕向けたのだと。
志紀の脳裏に、あの事件が蘇る。
朔矢の部屋から出てきた半裸の二人。
偶然と思っていた光景が、今や意図的な罠に思えてならなかった。
「貴様……あれは、わざとか」
怒りに震える男の言に沙夜は否定せず、静かに笑う。
その魔性は、覚悟をもって行われたものだった。
あの日、あの夜、彼女は汚されることも、殺されることさえも厭わぬ――その覚悟を持っていた。
それだけの覚悟を持ち、彼を破滅に誘った。
そしてその覚悟を、誰にも悟らせなかった。
志紀は己こそが邪悪だと信じ、覚悟を決めていた。
だが今、理解した。
本物には、覚悟すら不要なのだと。
彼女は、本物であった。
むかしむかしのおはなしです。
彼女は、自分が普通の子と何か違うなと思っておりました。
だってそうでしょう?
物心ついた時から、仮面を被って生きて来たんですから。
対して好きじゃないものを、好きだと言って生き、どうでも良いものを、大切そうにして暮らす。
普通の人なら、苦しいでしょう。
普通の人なら、悲しいでしょう。
でも、彼女は平気だったのです。
さして、好きなものがなかったから。
自分と、他の子がどう違うかいまいちわかりません。
自分と、他の大人とどう違うかもいまいちわかりません。
そこは少しだけ、困りました。
それと、毎日がとても退屈でした。
退屈で、退屈で、退屈で、退屈で……。
退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で……。
退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で……。
それだけは、彼女は辛かったようです。
そんな彼女がある日、己を知る出来事が起きました。
彼女のお母さんが、病で倒れたそのまま帰らぬ人となってしまったのです。
道場は、哀しみで包まれました。
誰もが涙を流しました。
彼女も、涙を流していました。
だけど、彼女の涙は感涙の涙でした。
彼女はようやく、己という存在の器を知りました。
彼女は、自分は普通の人とは違う頭の造りになっていることを知っています。
だから、何が起きてどうして母が死んだのか、彼女だけは気付きました。
道場の師範代が当主を毒殺しようと手土産を用意して、その手土産があまりにも素晴らしいから当主は身体の弱い妻に食べて欲しいと願って、そして妻は旦那の愛に感謝し、頂いた。
そういう流れ。
なんとも誰も幸せにならない流れだろう。
その流れが――あまりにも、美しかった。
そうです。
彼女が人と違うのは、感性。
どんなことにも感情を揺さぶられなかった彼女は、ついに感動するものを見つけたのです。
それは、嘆き。
苦しみ、藻掻き、思い悩み、そして堕ちる。
その瞬間だけが、人が壊れるその時だけが、彼女に生を実感させる。
辛いことや苦しいこと、悲しいことを、彼女は美しく感じていたのです。
その後、彼女は毒を送った師範代を《《壊し》》ました。
誰にも気づかれず、一応は復讐という建前を持って。
言葉だけで人を壊すことは、彼女にとってそう難しいことでは御座いませんでした。
最終的に首をくくったその男の姿を見て、正直、彼女は思いました。
なんか、あんまり美しくないな、と――。
ただ苦しめば良いわけではないのです。
その過程を丁寧に、その結末を刺激的に。
そうでなければ、美しくない。
悲劇的だからこそ、感動出来るのです。
だから結局、彼女は退屈でした。
ずっとずっと、退屈でした。
今すぐ死ねば、楽しい想いが出来ますよと言われたら、迷わず自分の胸に守り刀を突き立てる程度には――。
「さあ――今の御心をお聞かせください! 護る者であるはずの私が、貴方様の感性からすれば邪悪であると気づかれた。その刹那の感想は如何なるものですか!? 朔矢様の愛を踏みにじり、追い詰め、陰奇術士へと堕としたこの私に、どれほどの怨嗟を向けてくださいます!? ――いえ、そればかりではございません! 知りたいのです……一体、いかなる想いで――最愛の弟君に刃を突き立てられたのですか!? もしその心情を知ることが叶うならば……私は、私は何でも致します!」
はぁ、はぁ、と浅く乱れた息を吐き、狂おしいまでにまくし立てる。
彼女だけが、彼らは相思であると知っていた。
だからこそ、聞きたかったのだ。
幸せに生きる二人の未来を台無しにされて、どれほどの感情が渦巻いているかを。
彼女だけが、事件の詳細に気づいていた。
――長年の退屈が、崩れ去った。
己に強い憎悪を向ける者が現れた。
それは彼女にとって、何よりの歓びであった。
つまらぬ人生の末期にして、ようやく胸の奥底が沸き立つ。
私の所為で、苦しんだ。
私の所為で、追い込まれた。
挙げ句には陰奇術士となり、愛すべき故郷すら破壊した――。
最高だ。
本当に、あまりにも美し過ぎる。
どうしてあの時、彼と夫婦にならなかったのかと、悔やまれるほどに。
彼と契っていれば、きっと彼の苦痛は今の何倍にも膨れ上がったであろうはずなのに。
沙夜は志紀を、退屈な男だと見做していた。
父と同じく、全てを自己完結させ、安定を崩さず、心の揺らぎを表に出さず、強靭な理性で感情を押し殺す。
あまりにも退屈で、死にたくなるほどだった。
だから志紀だけはない、と思っていた。
だが、今は違う。
もしも結婚し、もっと傍らに在ったなら――もっと美しく壊れてゆく瞬間を、この目で見届けられただろうに。
「お前は……陰奇術士なのか。私と、同じ……」
ぽつりと志紀が問う。
姿も力も、見た目は人。
だが、その内に宿る邪悪は人の域を超えている。
――こんなもの、人であるはずがない。
そう信じ込みたかった。
「いいえ。私はちっぽけな、ただの《《人間》》でございます、志紀様、貴方と違って」
「では何故、貴様は陽の気ばかりを表にし、その強き陰の気を隠し通せる!?」
「何故、と問われましても……何となく、覚えたのでしょうか。ほら、昔から我が家に術士の方々が訪れていたでしょう? その折に見て、覚えたのです。内緒にしておりましたが、いくつか術も使えますよ」
志紀は「信じられぬ」とは言わなかった。
己だって、常人にはあり得ぬ才を持つのだから。
才能ある者は、本能的に術を修めることがある――雨隆からそう聞いたことがあった。
自分でさえ、多少は術らしきものをつかうことが出来る。
彼女は更にその上、その域にあったのだろう。
「狡うございますよ、志紀様。私ばかり語らせて。……今度は、志紀様がお聞かせください!」
恋する乙女のような、邪気のない煌めく瞳と輝かんばかりの笑みを向けてくる。
それが、何よりも悍ましいものに思えて仕方がなかった。
志紀は静かに刀を抜き放つ。
だが、沙夜の表情は微塵も変わらない。
「冥途の土産に、ぜひ!」
ぷんぷんと子供のように肩を怒らせるその姿に、志紀の意識は一瞬、錯覚を覚えた。
――あまりにも、昔と同じ。
普段はお淑やかに、恥じらいを宿しながらも、ときに無邪気に笑ったあの頃と。
自分さえも、昔に戻ったと錯覚してしまいそうになる。
だが現実は違う。
彼女は邪悪そのものであり、道場の外は血の海。
自分はもう、取り返しのつかぬところまで堕ちている。
錯覚はただ、苦く毒を含むだけだった。
「何を、聞きたい」
沙夜は瞳を星のごとく輝かせ、問いを選び始める。
どうすれば最も彼を苦しませられるか。
どの真実を引き出せば、美の極致を味わえるか。
その頭脳を惜しみなく解き放つ。
「……弟君を殺した時の気持ち……違う、では道場を襲った理由……そう。陰奇に呑まれたわけでも、欲に溺れたわけでもないのに、なぜ――」
ぶつぶつと呟きながら、高速で志紀の心を解析する。
陰奇術士となった理由、道場を襲った理由、そして殺害の際、何故わざわざ陰の気を高めるような苦痛を与えたのか――。
全てが、一本の線で結びつく。
沙夜は、がくりと膝を折った。
「ああ……なんて……なんてことでしょう……。美しすぎます……! あまりにも、美しすぎて……私、耐えられない!」
彼女は見たのだ――志紀という男の行き着く末路を。
それは彼女の想像するどんな悲劇よりも絶望的で、救いなど欠片もなく、故にこの上なく美しかった。
質問など、もはや不要。
ただ、一瞬でも長く彼を見ていたい。
この惨劇を招き、苦しみを耐え抜くその姿を――。
「ああ……私は初めて恋を知りました。貴方に……いいえ、貴方がたに恋をしてしまったのです。だから――」
彼女は、願った。
『ハヤク、コロシテ』
己の死が、彼らの破滅を加速させる。
その悦びを知る彼女が、願わぬはずがない。
志紀にとって、それは初めての経験であった。
純然たる嫌悪だけで人を斬る、ということは。
刎ね落とされた首から、大量の陰気が噴き出す。
道場を覆い尽くし、これまでの死者すべてを合わせてもなお及ばぬほどに。
もしも彼女が術士であったなら――世界は救われたであろう。
もしも彼女が陰奇術士に転じていたなら――世界は滅びたであろう。
理から外れた人間が、世界を左右するところであった。
――だがそんな真実は、もうどうでもよいこと。
志紀にとって彼女は、もはや大事でも、大切でもなかった。
ありがとうございました。




