堕ちた太陽
その刃は、一見すれば何の変哲もないものだった。
斬撃が飛ぶわけでもなければ、二つ三つに割れて放たれるわけでもない。
ただ、奇怪さがないだけでなく、剣術といても見るべきところのない……本当に何でもない、ただの一太刀であった。
刀の振り方もまるで素振りの延長に過ぎぬような、極めて常識的な斬撃。
だが、その一撃は驚くほどに重く、手の芯を痺れさせる。
避けることすら叶わぬほど鋭く、朔矢は瞬く間に守勢へと回っていた。
二手、三手――次第に防戦一方となり、先ほどまでの拮抗が嘘のように崩れ去っていく。
決して力が強くなったわけでも、実際に斬撃が重くなったり鋭くなったりしたわけでもない。
元から刀は重かったが、それでも陰奇術士と化した朔矢の腕を痺れさせる程恐ろしいものではなかった。
何故こうなるのか。
そこには、いかなる種も仕掛けも存在しない。
ただの斬撃――それだけのはずなのに、なぜ、この一太刀に抗えないのか。
理解できぬまま、朔矢の背筋に戦慄が走る。
全力で抗っている。それでもなお、かろうじて防ぐのが精いっぱい。
しかも、その一太刀一太刀が、確実に命を奪う意志を宿していた。
斬撃を長くは防げない。
そもそも抗うこと自体が、許されていないような圧に満ちていた。
だから、終わりは近い。
――終わらせたくない。
ようやく分かり合えたというのに。
ようやく自分を見てくれるようになったというのに。
ようやく、求めることが赦されたというのに――。
嫌だ。まだ終わりたくない。
もっと知りたい。もっと欲しい。もっと永く、交わっていたい。
この一瞬こそ、永劫となるべく時間なのだから。
だが、その切なる願いが強くなる程に反し、志紀の刃はなおも鋭さを増していく。
――死にたくない。
その本音を胸に、朔矢は恐怖に打ち震える身体を、力づくで抑え込む。
でなければ、恐怖に呑まれ、戦うことさえできなくなる。
だが、絶望の底に沈みゆく心とは裏腹に、朔矢の表情はどこか淫靡な笑みへと歪んでいた。
そう、ずっと――この時を、待っていた。
必死に抗い、抵抗し、それでも避けられぬ終わりの時を、ずっと、ずっと――。
いくら抵抗しても、どれほど抗っても、ついに兄が自らを《《奪って》》くれるその瞬間。
己のすべてを委ねることのできる、唯一無二の時間。
死という恐怖は、朔矢にとってこのうえなく甘美な毒であった。
その技の源は、かつて陰奇術士が操った魔剣――《心要らず》。
刃とは異なる位置に剣筋を生み出すという、常識を超えた奇術。
志紀はそれを模倣、応用することで、わずかに斬撃の軌道をずらすことを可能にしていた。
――だが、それは過去の話。
この技は、もはやただの模倣に留まらない。
模倣の先、真を捉え、自らの術理として昇華し、想いを乗せた、志紀だけの剣技。
その刃は、斬撃をずらすこともなければ、数を増やすこともない。
ただ、自然のままに斬り下ろされるのみ。
――ただし、そのすべてが、朔矢にとって最も返しづらいもの。
戦いの最中、『ここを狙われたくない』と望んでいない箇所を確実に穿つ。
それこそが、この技の真骨頂。
朔矢の願いに応えるかのように生み出されたその技は、
《宵月巡り》と対を成す、志紀の魔剣であった。
名を付けるとすれば――《心交わし》。
すなわち魔剣《心交わし》。
その刃鋼が重いのは当然だ。
それは、志紀の魂が籠っているのだから。
朔矢の願う《理想《死》》を与える、ただそのためだけに、魂を宿し、命を潰し、生涯を賭した。
抵抗し続ける朔矢の姿を、志紀は最後まで見届ける。
その勇姿を胸に深く刻み――そして、最愛の弟の胸を、その刃で貫いた。
「はは……ほんと、すげぇ。やっぱり……にいさんは、最高だ……」
不敵な笑みと共に、口元から血が零れ落ちる。
そのまま朔矢は崩れ落ちようとし、志紀は急ぎその身を抱きとめた。
――だが、支えきれない。
確かに抱いたはずの身体が、自らの腕の中で滑り落ちていく。
力が、入らない。
まるで、腰が抜けたかのようだった。
志紀は、己の異変に、ようやく気づく。
「あはは……。まだ、幸せなことが……あったんだ。にいさん、お願い……俺を……」
「――わかっている。このまま、抱きしめていよう」
そう言って、志紀はただ、静かに腕の中の彼を見つめていた。
変わらぬ仏頂面のまま、しかしその目だけは、どこまでも真摯であった。
「ああ……ありが、と……ごぼっ……」
赤黒い血の塊が、朔矢の口元から零れる。
限界は、とっくに超えていた。
陰奇術士であろうとも、死を逃れる術はない。
朔矢は、命を限界まで使い切っていた。
その胸の中で、ただ兄の温もりを受けるためだけに。
朦朧とする意識の中、朔矢は最後の言葉を探していた。
――だが、言葉は尽きる。
あらゆる言葉を言いたいが、あらゆる言葉が感情を表すに足りない。
だからこそ、最も強い一語を、彼は選んだ。
「にいさん……俺の月……誰よりも、愛してました」
そう告げ、朔矢は穏やかに微笑み――静かに、命を終えた。
志紀は、そっと頭を縦に振る。
その想いを受け止め、感謝し、別れを告げるように。
ポタリ……。
一粒の雫が、朔矢の頬に落ちた。
雨かと思い、空を仰るが夜空には雲一つない。
静かに、満月が浮かんでいた。
その滴が己の涙であると気づいたのは、二粒目が視界を滲ませたときだった。
「あ……ああ………………ああ……」
言葉が、出ない。
感謝の言葉も、労わりの言葉も、見送る言葉すら浮かばない。
頭が、真っ白になる。
それは、哀しみの涙ではない。
それは、《《知ってしまった》》がゆえの涙だった。
――最後の最後で知った、ちっぽけな一つの真実。
何故、朔矢がこんなにも愚かな手段を選んだのか。
より良き選択肢は、幾らでもあった。
にも関わらず、何故罪なき人々を殺め、陰奇術士となったのか。
戦いたいのであれば、道場で挑めばよかった。
真剣勝負を申し込む機会も、何度でもあったはずだ。
志紀が刀を手放した隙を突けば、それでよかったのだ。
――殺されるのでも、殺すのでも、結末はそう変わらないのだから。
真に愛するのであれば、殺し、己が物にしても良かった。
その後自害でも選べば良い。
だが、朔矢はそれができなかった。
志紀を、殺せなかったのだ。
それ、何よりも恐ろしい地獄であるから――。
『愛する者がいない世界を、一瞬たりとも生きたくない』
それこそが、朔矢が真に恐れた絶望。
志紀が世界に居てくれるから、この世界に生きる意味があった。
志紀がいないのなら、ほんの刹那をも、耐えらようはずもなし。
だから、殺せなかった。
志紀のためではない。
自分が、その苦しみに耐えられぬとわかっていたからだ。
それが、最後の秘密。
そして今――その想いを、志紀は痛いほどに理解出来ていた。
朔矢の恐れたその《孤独》を、今まさに味わっているのだから。
「待て……待ってくれ。行くな。私を置いて、行くな、朔矢……お願いだ……」
涙が溢れ、叫び、無言の弟の身体を抱き締め、揺らす。
まるで、己が殺したということさえ忘れているかのようだった。
当然、返ってくるものなど、あるはずもない。
刹那が、永遠のように長い。
すべてが嘘であって欲しい。
いまだ自分達は交わりの中にあり、共に称え合い凌ぎ合い、この刹那を永劫のものに。
そう願ったはずだ。
だが、現実は違う。
永劫は終わり、刹那は地獄へと堕ちた。
他の誰でもない。
――朔矢を殺したのは、自分なのだから。
「あ……ああ……あ――あああああああああああああああああああああああ!」
志紀は今、己の本当の想いに気づいた。
朔矢のための兄でもなく、陰奇術士と相対する剣士でもなく、ただ一人の男として――。
だが気づくが――あまりにも、遅すぎた。
耐えられるはずがなかった。
あの朔矢が恐れたものを。
長年の理性も、人としての道徳、責任感も――そして、弟を想う心さえも。
『愛する者がいない世界を、一瞬たりとも生きたくない』
抵抗することなど出来ようはずもない。
――朔矢が恐れ逃れたその地獄に、志紀はただ独りで堕ちていった。
ありがとうございました。




