《全》と《一》
あまりにも皮肉な結論に行き着き、朔矢は思わず、乾いた笑みを零す。
志紀の携える刀は二尺六寸。
刀としてはやや長めではあるが、特筆すべきものではない、いわば標準的な長さである。
しかしそれは、清嶺直心一刀流においては寸足らずとされる。
それをあえて用いるということは流派を捨て去ったも同然――否、それ以上に質が悪い。
清嶺直心一刀流という剣術の基盤を踏みにじり、解体し、捻じ曲げ、もはや誰にも継ぐことの叶わぬ、虚無の剣へと変じてしまったことを示すのだから。
その理由は、ただ一つ。
志紀が最愛の弟を、自らの手で殺すと決めたからだ。
それが善意か覚悟かはどうでもよい。
彼が見出した結論は、清嶺直心一刀流では届かぬという確信だった。
剣術としては、あまりにも歪で、愚かな選択である。
だが視点を変えれば、それは殺傷の機能を極限まで追い詰めた結果とも言える。
すなわち――殺すという目的に立ち返ったとき、二尺六寸という長さこそが《答え》であった、ということになる。
朔矢の剣もまた、かつてのような長大なものではなかった。
戦いを重ねるうち、己に最も馴染む形を求め、結果として刃は少しずつ短くなり、今や二尺六寸をわずかに超える程度に落ち着いていた。
だからこそ、皮肉的であった。
まったく異なる経緯、真逆の思想、正反対の過程から導き出されたのが、同じ《答え》なのだから。
かくも多くの剣術において、二尺六寸が『標準』とされてきたその事実には、確かな理由があったということなのだろう。
――正道からも、邪道からも、等しくたどり着くべくして導かれた普遍の解。
だが、それでもなお、両者の剣には決定的な差がある。
あらゆる剣技を『使う』ための器として選んだ志紀と、清嶺直心一刀流そのものをこの寸法で『極めた』朔矢とでは、才能の質がまるで違う。
同じ地平に立っているように見えて、土俵が違う。
それでもなお、埋め難いはずの差が埋まっているのは、志紀の剣が、朔矢ただ一人を殺すためだけに作り上げられたものであるからに他ならない。
この一年、志紀はただそれだけを考え続け、生き延び、研ぎ澄ませてきた。
――殺意と、愛は、矛盾しない。
志紀はこの一年で、嫌というほどその事実を思い知らされていた。
相対する二人の剣が交錯し、澄んだ金属音が夜気を裂いた。
朔矢は、縦横無尽に舞うような動きのなかでなお、正道の剣をもって志紀へと刃を差し向ける。
志紀もまた、大きく身を捌き、朔矢の機先を制しつつ、わずかな隙を見極めようとする。
彼の剣は、あらゆる流派の技法を取り入れた複合の技。
いかなる局面においても、朔矢の命を穿てるように構築された、ただ一人のための殺人剣であった。
志紀の剣――それは想像と構成、研鑽と模倣の結晶だった。
脳裏で動きを組み立て、幾度も殺す手順を思い描き、その過程で必要な技を選び抜き、剣の中に溶け込ませた。
その副産物として、彼は朔矢の動きを読む術を得た。
肉体も、技量も、かつてよりはるかに成長した今の朔矢相手でさえ、それは有効であった。
朔矢の動きは――見えている。
それゆえにこそ、志紀は今の状況に奇妙な違和感を覚えていた。
動きが読めているというのに、何故、互角なのか。
彼らの戦いは、もはや殺し合いというよりも、精緻な舞踏に近い有様だった。
動きの予測が甘いという自覚はない。
むしろ、想定以上に正確に相手の意図を捉えている。
今の朔矢の構えから、その先が視える。
魔剣《咢》の二連を幾度となく繰り出し、揺さぶりをかけながら、本命の新技へと繋げる。
その意図が手に取るように理解できる。
二手先、否、三手先さえも――まるで将棋のように読めている。
それにもかかわらず、なぜ勝敗は傾かないのか。
志紀は、あたかも自分が何者かに操られているかのような、不気味な錯覚にとらわれていた。
――だが、その答えは至極単純なものであった。
未来が見えているのに拮抗している理由。
それは、条件が同じであるという一点に尽きる。
朔矢もまた、この一瞬のために生きてきた。
愛する兄との対決。
その刹那のためだけに、朔矢は命を繋ぎ、身を削り、力を研ぎ澄ませてきた。
道場の剣を志紀が手放していたことは計算外だったかもしれない。
それでも、彼には志紀の動きが見えていた。
志紀という男の本質を誰よりも理解しているがゆえに。
互いに、相手の動きを読む。
互いに、三手先を読む。
そして、その未来が一致する。
まるで操り糸の引かれた人形のように、二人は呼吸すら同調し、互いの刃筋をなぞるように戦う。
その結果、決死の覚悟をもって臨んだ殺し合いは、いつしか一糸乱れぬ、狂おしいまでに美しい舞踏と化していた。
斬り結ぶこと、すでに四半刻《三十分》。
命を賭した真剣勝負でありながらも、未だ決定的な一撃は交わされていない。
戯れではない。
ましてや油断など微塵もない。
互いに、相手の命を本気で奪おうとしている。
それ以外の意図は一切含まれていない。
そうでなければ、この邂逅に意味はなくなる。
畜生と畜生による殺し合いに、本気以外の価値など存在しないのだから。
それは、あまりにも皮肉な帰結であった。
長きにわたり共に日々を過ごし、兄弟分として慈しみ合い、数多の苦難を肩を並べて越えてきた二人。
その果てに至ったのが――互いを殺すためだけに、ただ相手のこと《《だけ》》を想い、生き延びてきたという現実。
だからこそ、こうなるのだ。
己以上に、相手を知りすぎてしまっている。
志紀の刃が朔矢に届いた――かに見えた瞬間、それは淡く揺らぎ、虚無に融けた。
《影を宿さぬ写し水》。
清嶺直心一刀流に伝わるれっきとした奥義でありながら、その性質はまるで幻術のよう。
だがそれはあくまで技であって、術でもなく、ましてや陰奇の業でもない。
朔矢はすでに人ではなく、陰奇術士として魔に堕ちている。
しかしその実、彼の本質は今もなお剣士であった。
むしろ、今や正統を逸脱した志紀こそが、異形であり、外道に近い。
唐突に、志紀は乱雑な剣を振るうようになる。
剣というよりは棍棒のように、乱雑に、荒々しく、志紀は刀を叩きつけてくる。
切ろうともしていない。刃を庇おうという意識もない。
稚い子供が、力任せに玩具を振るうような、不格好で粗野な振る舞い――しかし。
それでも、圧倒的で朔矢は守りに集中し攻勢に出れずにいた。
身体能力を極限まで強化し、刃を破損させぬ術を施し、さらには刀そのものも折れず、撓まず、屈強なる名刀。
その扱い方こそが、むしろ理に適っていると言える。
刀とは本来、かくも重く、かくも凶悪なものであった。
人を超えた存在たる陰奇術士。
中でも、もとより怪力の朔矢は、今や握力一つであらゆるものを粉砕できる。
その朔矢の動きさえも鈍らせる――志紀の刃は、それほどまでに重かった。
ただ乱雑なだけではない。
ときに刃が奇妙に揺れ、奇術のごとく挙動を変え、またある時は正統の剣術として刃を振るう。
刃筋の一つ一つが、まるで別人の意志を宿しているかのように、戦い方を自在に変貌させる。
――まさに、器用過ぎるほどに。
だが、それは表面にすぎない。
そうではなく、ただ不器用な男だったがゆえにそれしかなかったのだ。
一つの流儀を極めることも出来ず、ひたすら、朔矢を殺すためだけに必要なものを取り込んだ。
対抗できる技術は全て吸収し、必要とあらば己を捨てることも厭わなかった。
その剣は、すべてが必殺。
すべてが特攻。
ただ一人のために、全てを注いだ剣だった。
――恨みだけでは届かない。
憎しみだけでは、ここまで研ぎ澄まされない。
その刃の根源が『想い』であるがゆえに、乱雑な技と未整理な心のすべてを内包しながらも、志紀の剣は《一》へと収束していた。
朔矢は、この時代における最も恐るべき陰奇術士である。
術者としては未熟、技術的には未完成。
だが彼は――対陰奇術士剣術を、極めてしまった。
人が、陰奇術士を殺すために磨き上げた剣。
それを、怪力の陰奇術士がそのまま継いでしまったのだ。
しかも――握力だけで骨を砕くような、圧倒的な肉体をもって。
それだけではない。
朔矢は、人の心を見抜く力を持っていた。
一度、心を砕かれたからだろう。
朔矢は誰よりも人の内心を見抜くのに長けていた。
その眼で、罠を見抜き、理性で危機を回避し、そして――
その剛力をもって、磨き抜かれた剣術を振るう。
それが、朔矢という陰奇術士である。
人と、魔と、獣。
その全ての長所を余すところなく取り込み、その上どの種族よりものびしろが多く素早く成長していく。
もはや、人類にとって最も恐るべき異形とさえ言えるだろう。
――そして、志紀はその化物に、たった一人で立ち向かう術を得ている。
命の届く、喉元まで刃を研ぎ澄ませた。
あらゆるものを備えた男に、たったひとつ――《一》で迫っている。
ゆえに、今この場において――彼らは、対等。
戦局は均衡し、崩れない。
二人は、どこまでいっても対等であった。
否――ようやく、真の意味で対等に“成れた”のだ。
――この血と想いを削り合った果て、ようやく二人は、抜き身のまま並び立つことを許された
ありがとうございました。




