夜の帳
志紀の荷は遠出しているとは思えない程に少なかった。
それは、《《片道分》》だけの荷だった。
たとえ如何なる結果を迎えようとも、もはや帰ることはない。
必要なのは帰りの荷ではなく、万が一生き延びた時、その場で自害するための短刀の方。
ゆえに、その背に背負う荷は、驚く程に軽かった。
……それでも。
そこは、彼にとって『生まれ故郷』とも言える場所だった。
記憶の数々が刻まれた、懐かしくも苦い世界だった。
道場の門をくぐり、一歩目を踏み出したその瞬間――志紀の足は、まるで鉛のように重くなって……まるで引きずるように、あゆみを進めた。
およそ十日ほどの徒歩旅を経て、目的地に辿り着いたときには、予想通り日はすでに沈み切っていた。
黄昏のような曖昧な時間帯ではなく、完全なる夜の帳が世界を覆っている。
引き返すことが許される、狭間の時間――。
そのような猶予は、もうとっくに過ぎ去っていた。
人の世と夜の世、その境界はとうに越えている。
否――志紀自身が、越えねばならぬと決めていた。
あちらにいる、弟と決着をつけるために。
兄弟分としての責務。
家族としての、最後の責任。
そのために人の世界を捨てることに、未練がないとは言えない。
だとしても、志紀は躊躇うことなく世界を捨てた。
人ならざる世界を歓迎するかのように、志紀の目は明りなき夜を正確に映し出していた。
それが『陽気を宿した視覚』によるものだとは、術指導を行った雨隆でさえ知らぬことだった。
身体強化の応用――視覚器官に陽気を集束させることで、極めて微細な光さえも捉えられるようになる術。
それは確固たる理論から生み出されたものではなく、志紀がかつて訓練時、陰奇術士との戦いの中で窮地に陥った時……『まだ死ねない』という死に物狂いの一心から身体に刻み込んだ、反射に近い技術であった。
明りなき道を進み、彼は廃村の奥へと進んでいく。
建物の朽ち具合から見て、ここ数年で滅びたものではない。
屋根の崩落、焼け焦げた痕跡から判断するに、おそらく十年以上前に滅んだ村であろう。
それでもなお、当時の苛烈な状況は、崩れ落ちた廃墟から手に取るように読み取れた。
おそらく、こここそが――彼の生まれ故郷だったのだろう。
彼――朔矢の。
「……そう思ったのだが、どうだろうか。ここが、生まれ故郷で、あっているのか?」
志紀がそう問うと、まるで最初からそこに佇んでいたかのように、闇の中から影が現れる。
小柄な男のその顔には、暗がりに染まったとは思えぬほど明るい、昔日のような笑みが浮かんでいた。
「さあ? 知らね。どうでも良いから忘れちまったよ」
「そうか。……言い方は妙だが、壮健であったか?」
「うーん……どうかな。つかさ、俺のこれ、生きてるのか死んでるのかもよく分からんなぁ」
「生きているとも。ああ、お前は生きている――朔矢。そうでなければ、殺せない」
「――ははっ。そりゃ、そうだ。……良かったよ、にいさ……いや、《《あんた》》が、変わってなくて」
「変わったさ。……変わらずにはいられなかった。そのために、私は今日まで生きてきた」
「そうか。それは嬉しいねぇ。……じゃあ、さっそく始めるかい?」
微笑を浮かべる朔矢の顔は、志紀の記憶にあるものとは明らかに異なっていた。
陰鬱で、淫靡で、どこか儚げで――
もはや人とは思えぬその様は、まるで幽鬼か、妖異かと見紛うほどだった。
とりわけ、今の様相は――。
「その前に、一つだけ問いたい」
「ん? なんだ? 心残りがあるなら早めにな」
「すぐに済む。……“約束”は、破っていないか?」
「どの約束かわからないけど、一応、誰との約束も破ったつもりはないけど。そりゃ何の話だ?」
「――その血だ。一体、何人の血を浴びた」
志紀の眼差しが、凍てつくように鋭くなる。
朔矢の衣服は、元は白であったと思われる。
思われるというのは、そのほとんどは変色した血に染まり元の色がわからなくなりつつあるそう表現するほかない。
それはまるで、血の雨の中を歩いたかのようだった。
「んー、避けられなかったんだよね」
「……何の話だ?」
「ちょっと、つい先日大勢に襲われてさ。まあまあ良い腕してた連中だったんでね、血を避けきれなかったんだ」
「……そうか」
「ん? ああ、そうだ。大したことないから忘れてたんだけど、こっちからも聞きたいことがあったわ。ちょっと待ってて」
そう言って朔矢は一度その場を離れ、すぐに戻ってきた。
そして、手に持っていた《《それ》》を、ためらいもなく放り投げた。
それは、生首だった。
人の頭部を、まるで毬か何かのように扱う朔矢。
それはまるで、自分がもう人であったことさえ忘れているかのよう。
それだけではない。
その頭部に宿した顔に、志紀は見覚えがあった。
だが、志紀の脳はその理解を拒んでいた。
投げられた球体。
二つの虚ろな眼が、彼をまっすぐに見つめている……。
「この一団の頭目らしいけどさ。あんたの匂いが残ってたよ。知り合いだったりする?」
朔矢は、軽い口調で尋ねた。
《《雨隆》》の生首を前に――。
地に転がったその顔を手に取り、抱き上げた瞬間……がくりと志紀の膝から力が抜けた。
崩れ落ちるその身は、叫ぶことすらできなかった。
「……なぜ……どうして、貴方が……」
理解できなかった。
雨隆が何故ここにいたのか。
そして、なぜこんな結末を迎えたのか。
いや、それ以前に――志紀にはもう『何かを考える余裕』すら失われていた。
「ん? やっぱり知り合いだったか。……うーん、やらかしたな。多少無理してでも、生かしておけば良かった」
朔矢は志紀の腕から生首を取り上げ、頬を、舌で這わせた。
「貴様……!」
「失敗だったなぁ。確信があったならさ、生かして、目の前で殺してやったのに!」
獰猛な笑みが、その顔に浮かぶ。
それは、かつての無垢な笑みとも、末期の陰鬱さとも異なる――
完全に“魔”に堕ちた者の、それだった。
「これは……私の罪だ。あの日、あの時……お前に引導を渡せなかったこと、そえrが、私の罪だった」
「そうだ、そうだよ志紀! あの時も、その前も、あんたは間違えてばかりだった! ――さあ、今度は間違えるなよ!」
「……ああ。朔矢、貴様は畜生に堕ちた。だから……私がお前に引導を渡す」
志紀は静かに立ち上がり、朔矢と向き合う。
その眼差しに宿っていたのは、戦いの覚悟ではない。
それは――最愛の命をこの手で奪うという決意だった。
「抜く時間くらいは待ってやるけど?」
朔矢の言葉に、志紀はゆっくりと首を振った。
「必要ない。準備は、常にできている」
あの時、当主を死なせたその後悔の日から、ずっと。
「……そうかい」
朔矢は苦笑し、そこいらに生首を投げ捨てる。
その後に、自らの手に剣を生成した。
己の陰気を凝縮し形にした、それが彼唯一の術式。
ただ、その刀はかつてのように、物干し竿のような長さではなかった。
「どうした朔矢? 短くなっているぞ。疲労か?」
「ははっ! そっちこそ、三本も刀持って、流派でも変えたのかと思ったぜ?」
互いに無表情のまま、ただ見つめ合う。
そして――志紀が、一歩。
ほんの一歩分だけ、すり足で間合いを詰めた。
「なあ。あんたは俺を畜生と呼んだ。だったら、お前は何だ? その畜生に人生を壊された、畜生の兄弟分であったお前は、一体どれほど上等なものなんだ?」
「……畜生の兄弟は畜生に決まっている。……いや、家族を殺すためだけの剣を持つ私は、きっとそれ以下の外道に成り果てた」
「落ちたもんだな、あんたも」
「ああ。その通りだ」
志紀は一瞬だけ俯き、視界を反らす。
そして再び視線を合わせ、問答が終わったのを互いに確認する。
それが、《《始まり》》だった。
朔矢は微笑を浮かべながら、悠然と剣を構える。
相も変わらず、その構えは一切の型に囚われぬ『自由』そのもの。
かつて彼の剣は、縦横無尽に舞い、空すらもその進路とすることから、「剣術ではなく奇術だ」と評されたこともあった。
だが今の志紀は理解出来ている。
その、『自由の本質』が。
それは、我流に見えるが確かな骨子がある。
奇術に見えるような行動であっても、剣術理論を外れた行動を取ったことはない。
――清嶺直心一刀流、その真髄を備えているがゆえの自由。
あらゆる枷を己の内に呑み込んだ末に成立する、正当なる流儀の解放。
それこそが、清嶺直心一刀流を真に継ぐ者にのみ許された、『後継の剣』であった。
奇妙な感慨が、志紀の胸に湧いた。
これより命を捨て斬り結ぶ相手が、これほどまでに強く、誇らしく、頼もしい――。
それが、悲しいほど嬉しかった。
志紀は、すり足で静かに朔矢との間合いを詰める。
歩を進めるたび、朔矢の剣がぴくり、と応じた。
常人ならば、朔矢の攻撃など予測のしようがない。
なにせ、彼は前後左右どころか、空中からすら間合いの内。
その動きは、常識の理などをゆうに超えてくる。
志紀ですら、かつてはその予測に難儀していた。
――昔は、の話になるが。
そう……今は違う。
朔矢の次の一手が、何となくではなく、確かに見えていた。
当然といえば、当然であった。
志紀はこの一年という歳月を、すべてその一点のために捧げてきたのだ。
眠っている時も、食事をとる時も、修練の合間も――
心の全てを費やして、常に脳裏には朔矢の剣が在った。
どうすれば斬れるか。どうすれば殺せるか。
志紀の中で、朔矢は何度も何度も育ち、何度も死んだ。
その仮想戦は数えきれず、夢にも出るほどに、血と肉を持って志紀の精神に刻まれていた。
それは恨みではなかった。
――想いだった。
朔矢を殺すという、ただそれだけの想い。
そのためだけに、志紀は己を恥じながらも生にしがみつき、地を這って生き抜いてきた。
そして、その執念が報われる時が、今である。
先に動いたのは、朔矢だった。
刹那の集中力と瞬発により、朔矢の間合いは志紀よりも遥かに広い。
気づかぬうちに、志紀はその間合いへと足を踏み入れていた。
――しかし、それもまた想定内である。
圧倒的間合いを持つ朔矢が先に仕掛けることなど、初めから分かり切ったことでしかない。
背後――と見せかけての、側面からの斬撃。
背に気配を残すあまりにも高度過ぎるひっかけで、朔矢の本気具合が伺えた。
『ここまでしないと、こいつは殺せない』
そう言っているかのようでさえあった。
志紀は静かに、鯉口を切る。
次の一瞬、朔矢の瞳に驚愕が宿った。
清嶺直心一刀流には一つ『使えぬ』とされる技がある。
流派三大奥義の更に先、全てを納めた者のみが使える秘奥――。
『朧月夜』
だが、この技は抜刀術であった。
常に剣を抜き戦う清嶺の教えに最も反するものが集大成の秘奥というのだから、あまりにも皮肉が過ぎる。
そのため、技を使えることそのものが勲章となり、実戦での価値は持たぬものとされ続けた。
だが――志紀はそれを、今ここで、迷いなく放つ。
道場で愚直に剣を磨いた者が、決して辿り着かぬはずの、歪な剣の極地。
短い刀身での抜刀――それは、正統の剣術からかけ離れた、不適切の極みであった。
ゆえにこそ、その一閃には凄絶な意味が宿る。
清嶺直心一刀流秘奥『朧月夜』が崩し、志紀の一閃が名を持つ。
――《月下》。
磨き上げた美しき剣術、輝くような夜の月。
醜く穢れた剣術によって、空に浮かぶ月は遂に堕ちる。
それは、朔矢が初めて見る技で、そして志紀がどれほど穢れ、そして強くなったかを示す業でもあった。
空気を打ち抜くような、鐘のような音とともに、朔矢は咄嗟に術を放つ。
奥義『闇堕としの焔鴉』――影を纏った闇炎がその剣を包む。
それでもなお、衝撃は朔矢の身体を大きく揺さぶった。
朔矢は、その一太刀にて理解した。
志紀はこれまで突き上げて来た実直な、《美しい剣》を――自分のためだけに捨ててくれたのだ。
己を殺すというただ一つの目的のために、最も尊んでいた剣の道を汚した。
それが、どれほどの覚悟であったか。
それを思えば、哀しさと共に、笑みすら零れそうになる。
――罪悪感は、ある。
しかし、そんな小さな気持ちどうでも良くなる程に大きな嬉しさが、朔矢の中に宿っていた。
「……油断したな」
志紀が低く呟く。
そのまま、志紀は、鍔迫り合いとなった刃を強引に振り抜いた。
本来、剛力を誇る朔矢の方が腕力では上である。
だがただ一つだけ、朔矢に志紀が勝る点があった。
それは、『重さ』。
朔矢は剛力であろうとも、軽業師かのように軽さと不安定さを宿していた。
志紀の体格と刀の重量が、この瞬間に限っては勝っていた。
吹き飛ばされた朔矢は、廃屋の壁に叩きつけられ、それを砕いて崩れ落ちる。
「――っ……!」
苦痛の声が漏れかける。だが、それを奥歯で噛み殺した。
――みっともない姿など、見せられない。
痛みで声を上げることなど許されない。
自分は、ただの化物であるのだから。
この男の前では、最後まで悪に徹すると決めたのは、他の誰でもない。
自分だ。
顔を歪める代わりに、朔矢は微笑を貼りつけ、軽口を放つ。
「もったいないなあ。あんたの剣は、それはそれは見事なまでに美しいものであったのに」
「……それは、《《わかりやすい》》という意味であろう」
「お座敷剣術とは良く言ったものだ。だけど……あんたのは違ったよ。あんたの剣は、本当に美しかったんだ。誰よりも、何よりも見惚れるくらいに。こんな俺でさえ、もったいなかったと思うくらいにな」
「――私は一度たりとも、清嶺館を否定した覚えはない。だけど……あれは、私には《《重すぎた》》」
「そうは思えなかったけどね。……ま、どうでもいいや。さ、続きをやろうか。俺のために、もっと踊ってくれよ。狂おしく、情けなくさ」
朔矢は笑みを崩さず、再び構える。
志紀もまた、張り詰めた表情でそれに応じた。
ありがとうございました。




