雨に踊る
志紀の手には、『朧月夜』という銘を持った刀が握られていた。
それは、御当主が遺言のようにして娘の沙夜に託され、そして沙夜から志紀へと渡ったものに他ならない。
優れた業物にして、宝刀と称される一振り。
実際、道場一棟と引き換えにしても釣りが来るほどの価値がある。
金銭的価値としては疑うべくもない逸品であったが――この清嶺館においては、『使えぬ刀』に分類される。
清嶺館が伝える流派、清嶺直心一刀流は、『一刀のもとに敵を屠る』ことを旨とする。
ゆえに求められるのは、より長く、より鋭く、より力強い一振り。
すなわち、斬り合いの先を制するため、通常の剣術以上に刀身の長さを重視する傾向にある。
『朧月夜』の刃渡りは二尺六寸。
決して短い部類ではない。
しかし、清嶺館においてこの長さの刀を佩く者は、未熟者か年若い修行者に限られていた。
清嶺館に適した刀とは、常に標準よりも大きく長いものであるということ。
それでもなお、志紀が朧月夜を手にする理由は極めて単純なもの。
――己の剣が、もはや清嶺直心一刀流に属さぬ《異物》と成り果てていた。
極めんとした技は途中で歪み、狂い、他流の技が毒のように浸食し。やがて清嶺の正統を外れ、混濁とした泥のように狂った。
ゆえに、いまの志紀にとっては、この《使えぬ刀》こそが最もふさわしい刀である。
志紀は、目前の土人形に向け刃を振るう。
短く、素早く、動きの少ない変則的な斬撃。
それは本来の清嶺直心一刀流が重視する『全力を注ぎ、命を削る一撃』とは異なる方向性である。
しかしながら――その斬撃は、かつての志紀が振るったそれよりも、はるかに鋭利であった。
陰陽術による斬撃強化によって切れ味が増していること。
身体能力そのものが著しく向上していること。
そして、何よりも斬撃自体が極めて効率的に洗練されていること。
それらの要素が複合しているとはいえ、最大の理由は他にある。
すなわち、『朧月夜』という刀そのものの特性――『他の剣に比して著しく重い
』という一点であった。
材質が異なるゆえか、朧月夜の刃は非常に重い。
重いゆえに強く、鋭い。
それは刀にとっての道理である。
この短く重い刀を如何にして扱うか。
志紀の新たな剣術は、まさにその課題から派生していた。
だが――斬撃の手応えは確かにあったにもかかわらず、土人形には傷ひとつ残っていない。
弾かれたという感覚はなかった。
だから恐らく、斬り裂かれた箇所を瞬時に《《繋ぎ直した》》のだろう。
そうでなければ、あの鋭さで傷が残らぬ道理がない。
志紀は、土人形の背後に控える雨隆に視線を向ける。
表情は飄々とした笑みをたたえているが、その内心が冗談では済まされぬ緊張に満ちていることを、志紀は感じ取っていた。
無骨で堅物と評される志紀であっても、一年近くの歳月を共に過ごせば、雨隆の内面の一端くらいは読み取れた。
雨隆という男は、度を越した《《嘘吐き》》だ。
優しさを偽悪的に隠し、苦しさを滑稽な軽口にすり替え、他者に労わる心を見せぬよう立ち回る。
そうした《《強がること》》を己の生き方として染み込ませてきた強か男なのだと、志紀は理解していた。
笑みの裏、内心では冷や汗を流しながら、雨隆は対峙する志紀に視線を向ける。
――手加減する、なんて考えはもう論外だ。
そんな余裕はどこにも残されていない。
この一年足らずで、志紀は文字通り化けた。
その実力は陽気寮に属する術士の中でも上位に迫る水準に達している。
こと一対一、しかも至近距離という限定された状況下においては、陽気寮の最上位術士すら匹敵し得る。
――最強の剣士。
その称号は、もはや誰の目にも疑いようがない。
だが、雨隆はどうしてもその事実を認めたくなかった。
それが以前の彼のまま、磨き上げた彼らしい正しき力なら、諸手を上げ万歳三唱で喜んだ。
だけど……その力は、ただ一人の弟を殺すためだけに得られた、目的以外に何も残らぬ無意味な力。
しかもそれは比喩ではなく、正真正銘、命を削って得た力である。
志紀は――未来を捨てている。
その剣は、遠回しな自殺しか残らない虚無の刃。
子を残すつもりもなければ、誰かに剣を継ぐつもりもない。
その歪んだ剣は、『最愛の弟と共に死ぬためだけの剣』であった。
そんなものは認められない。
いや、認めるわけにはいかなかった。
それが、いま彼が意地を張って戦っている理由の一つだった。
醜く変貌した志紀の剣を、肯定したくない。
無理心中のような結末を、看過できない。
ただ死地へ向かう姿勢を、どうしても受け入れられない。
その感情こそが、いま雨隆を戦わせている。
すなわち――。
彼は志紀に対し、もはや『友情』と呼ぶべき何かを抱いてしまっていたのだ。
土人形の背後から、雨隆は志紀の姿を見据える。
距離を保てば、術士として幾らでも手はある。
しかし、逆に言えば――近づかれるほど、志紀は脅威となる。
特に、身体能力の劣る術士にとっては。
その上、いまの志紀はかつてと違い『二つの力』を有していた。
一つ目は、『三種の陰陽術』。
あの時、雨隆が三つの術式から一つを選ぶように促したにもかかわらず、志紀は無茶を重ね、最終的には三種すべてを習得してしまった。
すなわち――
持続型の『身体強化』。
瞬発力を上げる『斬撃強化』。
防御を担う『身体硬化』。
これらを状況に応じて使い分け、さらには複合させることで、志紀はまるで上位術士の術式を操るかの如き戦闘能力を示している。
二つ目は、『三振りの刀』の運用。
志紀はいま、状況に応じて三本の刀を使い分ける戦法を常とするようになっていた。
おそらくは、多くの陰奇術士を討ち取る中で編み出された、実戦から導かれた戦術なのだろう。
――重くして強靭なる『朧月夜』。
――軽く、かつ長い無銘の太刀。
――そして、左脇に差す安価な脇差。
朧月夜は、その重量ゆえに両手での運用が前提となる。
また、名刀ゆえに不用意な消耗を避けるべき存在でもある。
ゆえに、状況を見極めてはそれ以外の二本を巧みに組み合わせ、必要に応じて刀を使い潰してでも前進する。
そうした泥臭い実戦剣術を、志紀は自身の血肉として練り上げていた。
雨隆操る土人形は猛攻を重ね、志紀の動きを牽制する。
その巨大な拳による一撃は、牽制と呼ぶにはあまりに力強いものであったが、今の志紀を相手にするには、いささか頼りなかった。
雨隆は土人形を一体のみ操るのが基本戦術である。
当初こそ手加減の意味合いもあったが、今は違う。
複数体の操作は、各体に注ぐ精度が低下し、結果として全体の動きが鈍くなり優れた耐久も陰りをみせることとなる。
結果として、強者相手には無数の雑兵を操るよりも、一体に特化した方がはるかに強い。
加えて、雨隆は天才である。
土人形を一体操作ならば、同時に自らもほぼ全力の術を行使できる。
現在も土人形に術式を掛け本来の性能の数倍引き出しながら、志紀への妨害術式を行使しながらたたっている。
だがそれは、裏を返せば、それほどの才を持つ雨隆ですら、自身が戦いながら操れるのは一体が限界ということでもあった。
これが、強力な術式であるはずの土人形の明確な欠点である。
術士自身が絶対の安全圏に留まれる状況でなければ、複数体の運用は現実的ではなかった。
土人形の拳に対して志紀は後方へ退き、何らかの技の前動作を見せる。
それに合わせ、雨隆は札を志紀へと投擲した。
空中で札は細かく折れ曲がり、鋭利な針状へと変化する。
数枚の札は、数本の呪術的な針となり、志紀に襲い掛かった。
だが志紀は、それに目を向けることすらせず、陰陽術によって強化された腕で針を乱雑に打ち払った。
「可愛げがないなぁ……」
雨隆は内心の毒を軽口で包み隠し、土人形に攻撃命令を与える。
(針、だぞ? 普通は少しくらい怯むものだろうに……)
あまりに無感情に処理されるその姿に、雨隆は思わずうんざりさせられる。
その強靭な精神力を育てたのは他ならぬ自分であるという事実に、何とも歯がゆく苦い感情が胸に残る。
志紀は朧月夜を鞘に納め、脇差と長刀による二刀を抜いた。
安物の脇差を、斬撃強化の術式で補う。悪くない戦術――雨隆も最初はそう思っていた。
だが、それが土人形を幾度となく切り刻む様を見て、戦慄する。
それは使い捨ての廉価刀が出せるような切れ味ではなかった。
「……お前っ、まさか――硬化術を刀にかけてんのか!?」
明らかに斬撃の威力が、刀身の耐久を超えている。
斬撃強化のみで実現できる威力ではない。
志紀の扱える術式が三種に限られていることを踏まえれば、その答えは自ずと導き出される。
すなわち、己にかけるべき防御強化を、刀に転用しているということ。
当然ながら、雨隆はそんな術式の応用など教えていない。
そもそも自己への術式と、物体への術式は構造からしてまるで異なる。
それを術士でもない志紀が成し遂げているという事実が、雨隆には理解できなかった。
「――おかげ様で」
淡々とした表情でそうとだけを答え、志紀は土人形に斬撃を重ねていく。
土の肉体、形無き不定形ゆえ、破壊は難しい。
だが志紀は、攻撃が決して無駄ではないと知っている。
幾ら元が土であろうとも、それを操るのが術士であるからだ。
すなわち、打撃を受けるたびに、土人形を維持する術士に精神的・術的負担がかかっていく。
むしろ、術士本体に負荷を押し付けることが主な役割と言えた。
二刀を振るう高速連撃は、剣術として見れば粗雑の極みであった。
醜いとさえ言っても良い。
それはひとえに修練不足によるもの。
志紀は元々二刀を扱う予定などなかったが故に、その剣は文字通りのつけ焼き刃に過ぎない。
だが、それで構わなかった。
剣は流麗な型を魅せる道具でもなければ美しさを競う競技でもない。
剣とは結局、敵を斃すための手段に過ぎぬ。
それ以上でもそれ以下でもない。
であるならば、力と術で振り回せば十分に通用する。
剣術に命を賭けて来た者とは思えないその合理的な割り切りこそ、志紀の中に生まれた実戦至上の思想であった。
「――ちっ、思い通りにはさせんよ!」
雨隆は札を土人形に投げ込み、新たな命令を与える。
命令は《《武装の追加》》。
その瞬間、土人形の腕部に『大型の盾』が形成される。
長方形の巨大な盾は、土製でありながら従来の構造とは異なる密度と強度を持つ。
同様の術式強化を施しても、刀の方が先に砕ける――それほどの堅牢さである。
志紀は即座に脇差を納め、長刀を両手で握ると腰を深く落とした。
そして、鋭く、正確な一撃を放つ。
それは、志紀がかつてより磨き続けた清嶺直心一刀流の真髄。
他のあらゆる流派を捨ててもなお、志紀の核として残り続けた剣。
その斬撃は、まさに正統。
整い、研ぎ澄まされ、ひたすらに美しい。
まるで武芸の粋を極めたかのような、芸術的な一閃であった。
雨隆は内心で思わず呻く。
(なぜ――これを捨てようとする? これほどまでの一刀を……)
しかし、容赦はしない。
土人形に命じて盾を掲げ、志紀の剣を受け止めた。
そのはずなのに――刃は盾をすり抜けるようにして本体を斬っていた。
まるで透過したかのような一撃に、雨隆の瞳が大きく揺らぐ。
それが、『蓮生無明塾』にて志紀が遭遇した陰奇術士の技を模倣した斬撃であるとは、雨隆には知る由もなかった。
魔剣《心要らず》。
本来であれば、陰気に満ちた魔剣が持つ特異な性質の業。
志紀が使うことなど出来ようはずもない。
志紀の斬撃は心要らずそのままではなく、単に劣化模倣に過ぎぬ形で再現しただけのものだった。
劣化とはいえ、斬撃の発生位置をわずかに錯覚させる程度の力は備わっていた。
その効果により、盾は斬られず、しかし本体が切り裂かれる。
ごとり――と、盾を構えた腕ごと土人形の一部が崩れ落ちた。
志紀はすぐさま脇差を再び抜き、再度二刀流の構えへと移行する。
連撃が繰り返され、ついに再生の速度が追いつかなくなった土人形は徐々に崩壊していく。
――その様を見て、雨隆の表情から笑みが消えた。
志紀は表情の変化を見逃さない。
土人形と相対しながらも、常に術士に意識を向け続ける。
それもまたこの一年弱の間学んだことであった。
即座に標的を土人形から雨隆本人へと切り替える。
土人形は耐久に優れるが、破壊は難しい。
さらに、雨隆ほどの術士であれば、完全に破壊したところで新たに呼び出すことが容易である。
元より、土人形とは後衛術士を守護するための術式に過ぎない。
高い耐久力を備え、戦線を支える《《壁》》の役目を果たす。
その本質的な機能は、後衛火力である術士と連携してこそ最大の力を発揮するもの――。
すなわち、狙うべきは人形ではなく、術士本人。
志紀はその隙を、戦闘開始からずっと伺っていた。
雨隆は志紀の殺気が自分に向けられたことを直ちに察知し、守護術式の展開を開始する。
だが、その行動こそが――致命的な失策であった。
それは、志紀と目を合わせる前にすべきだった。
そして――。
志紀は、静かに二振りの刀を、鞘へと納めた。
志紀が三種すべての術式を習得していたことに、雨隆は内心大きな驚きを覚えていた。
というのも、志紀は術の習得において、決して得手とは言えぬ男だったからである。
陰気・陽気いずれも相応の量を内包しており、精神統一によってそれらを高め、放出するところまでは、極めて高い適性を示していた。
しかし、そこから先――すなわち、それらの気を意図通りに《《操る》》段階に至った途端、志紀は途端に苦悶し始めた。
その不器用さも一因であろうが、雨隆の見るところ、むしろ《《感情の激しさ》》こそが最大の障壁だった。
志紀という男は、雨隆が想像していた以上に――《《熱い》》男だったのである。
だからこそ、志紀があっさりと三種すべての術を習得していたことに対し、雨隆は『感情を制御し、苦手を克服したのだろう』と思っていた。
――だが、実情はまったく異なっている。
志紀は、苦手を克服などしていなかった。
単に、不器用なまま、強引かつ無理やり三つの術式を身体に叩き込み、実戦投入と反復によって完成度を無理に引き上げていただけに過ぎなかった。
つまり――志紀の術は、今なお《《下手くそ》》なのである。
そのために、志紀は術式使用のたび、陰気と陽気の均等な制御ができず、いずれか一方の気が漏れ出し、そのまま身体へと蓄積する。
使用すればするほど、体内の気の均衡が崩れ、その偏りが志紀の肉体と精神を蝕んでいく。
人の身体は、陰陽の均衡によって成り立っている。
多少の傾きは許容されていても、一定以上の偏りが生じた時――肉体には凄絶な痛みが走り、精神はまるで脳髄を直接かき乱されたような錯乱に襲われる。
それを初めて経験した時、志紀は思ったのだ。
――これは、使える、と。
陰気、あるいは陽気の極端な偏りによって発生する変調と痛み。
その瞬間こそが、志紀にとって唯一『気を明確に感じ取れる瞬間』だった。
身体に感じられるそれは、自分の下手さゆえに上手く使えず身体に溜まった気の力。
つまり、貯蓄された気である。
ばちり、と。
志紀の足元に、雷光を模したような白い閃光が走った。
溢れ、爆発するように感知された陽気。
志紀はそれを、全て身体強化へと転じた。
同一術式の連続使用による過負荷――すなわち、過剰強化。
それは、寿命を削るという表現が比喩で済まない行為であった。
だが、それでも――その意味は、確かに存在した。
ただ正面から突っ込むだけ。それだけの行為にもかかわらず、雨隆はその一瞬、志紀の姿を完全に見失っていた。
志紀は腰に佩いた刀を握る。
かつて“使えぬ”と見限られたその刀を、同じく“使えぬ”とされた技と共に振るおうとしていた。
志紀が辿り着いた極地は、あまりにも皮肉に満ちている。
《堕ちた男》には、これ以上なく相応しい到達点だった。
清嶺直心一刀流秘奥、『朧月夜』の崩し。
夜空に浮かぶ月は堕ち、風情も美しさも失い、ただ《《光》》という本質のみを残した。
その抜刀一閃に名を与えるとするならば――。
《月下》
闇夜に融け、光さえ映らぬその一撃は、まさに見えぬ斬撃だった。
雨隆の手にあった札は音もなく裂け、半分に切り裂かれる。
そして次の瞬間、志紀は雨隆の背後に立ち、彼の首元に刃を添えていた。
「――まだ、何かございますか」
残心を残したまま、静かに、冷たく。志紀はそう告げる。
土人形はすでに胴体のみと成り果て、手にあった札はすべて引き裂かれ、懐どころか手首に仕込んだ札を取る動作さえ許されない。
志紀の姿勢には、一切の隙がなかった。
もはや、雨隆に為し得る手立ては――なかった。
両手を挙げて、諦めを示す。
それでも、雨隆は敗北を口に出来なかった。
完膚無きまでに敗北し、自分が定めた試練を突破されても尚、兄弟同士で殺し合うことを、雨隆は認めたくなかった。
ありがとうございました。
ストックここまでですので、再びしばらくの時を頂きます。
カクヨムの方で先行していきますので、気になる方がいらっしゃればそちらの方で更新をお待ち下さい。




