きっとそれが幸せなのだと――
静寂が支配する中、師範代、師範補佐ら十数名が本館の広間へと集められた。
広間には、厳粛な空気が満ちている。
整然と並んだ木床の上、皆が膝をつき、道場主の次の言葉を待つ。
神代正玄。
道場の当主、師範総代となるこの男こそが、清嶺館で最も強く、最も多くの陰奇術士を屠った男。
清嶺館としての在り方を体現し、彼こそが清嶺館と言っても過言ではないだろう。
その隣に、うら若き彼女の姿があった。
長く美しい髪が魅力的な、見目麗しい女性。
控えめな笑みを浮かべる彼女の名は、神代沙夜。
師範総代である正玄の一人娘である。
まだ若い彼女は、他の武人たちと比べれ線が細く、柔らかな印象すら与える。
彼女はこの道場にて唯一戦う力を持たない。
だから、本来ならこの会談に参加する資格はない。
だが、今この時に限ってで言えば、彼女は当事者でもあった。
「……今回、集まってもらったのは他でもない」
総代の低く、重い声が場を満たした。
誰もが自然と背筋を伸ばす。
「清嶺館の未来を、考えねばならん時が来た」
未来。
つまり、次代の後継者を選ぶということだ。
正玄は現役を退く事を考える程年老いてはいない。
むしろその逆。
現役に、単なる一振りの刃に戻る為、正玄はこの座を明け渡そうとしていた。
冷たい空気が、静かに流れる。
正玄が誰を指名し、どの様な意図を見せるのか、皆が一挙一動を見守る。
だが正玄は、敢えて誰の名も挙げなかった。
「我らの剣は、ただ強者となる為のものではない。心根を律し、邪悪を屠り、民を護る剣でなければならぬ。……この中に、次代を担う者がいることを、私は信じている」
静かながらも、ひたと刺すような視線が全員に向けられる。
誰もが気づいている。
最も有力な後継候補は――志紀だ。
その正統な技と不屈の精神、誰よりも清嶺館の教えを体現している存在。
性根も、性格も、正玄の実の息子であると言っても皆納得するくらいに似ている。
他者に厳しく、自分に尚厳しいところなど瓜二つと言っても良い。
しかし、だからといって指名がない以上志紀に決まったわけではない。
この場にいる者すべてが、清嶺館の剣士として磨き続けた誇りを持っている。
たとえ最有力が志紀であろうと、幾らでもひっくり返る余地はあった。
「今日よりしばらくの間、修練を重ね、技、心、すべてを持って――己を示せ」
総代は、そう言い放った。
その在り方を見て、次を選ぶと。
名指しはない。
試練の名目すらない。
だがそれこそが、最も苛烈な選別だった。
ふ、と沙夜が唇を吊り上げる。
顔を伏せ、誰にも見られぬように小さく微笑んだ。
彼女は、次代を決めるその意味がわかっていた。
戦う事の出来ぬ己が父より与えられた役割。
即ち――繋ぐ事。
父の後継者と子を為す事こそが、沙夜のお役目だった。
そしてそれを、沙夜は嫌と思った事は一度もない。
だからこそ、笑ったのだ。
誰が来ても、私は受け止めますと示すように。
お淑やかで、冗談など口にも出来ないはずの沙夜。
だけど全てを受け入れ、尚笑えるその姿は、どこか妖艶ささえ漂っていた。
ただ、たおやかなだけではない。
蝶よ花よと育てられたわけじゃない。
彼女もまた、己が全てを持って役目を全うとする……そんな覚悟を示しているようだった。
場が静まり、解散となった後、それぞれが思い思いに稽古場や庭へと散っていった。
朔矢は、志紀の後を追うように広間を出た。
武具置き場の脇、灯りも少ない裏庭の片隅。
二人きりになると、朔矢はいつものように、無邪気な笑みを浮かべた。
「ねえにいさん」
呼びかけに、志紀は振り返る。
「きっと、にいさんが選ばれる。俺だけがそう思っている訳じゃないよ。皆そう思ってる。そう望んでる」
それは、心からの声だった。
自慢の兄貴分であり、誰よりも尊敬する存在。
志紀が次代に選ばれることが、まるで自分のことのように誇らしかった。
「兄さんなら、ここを背負える。ううん。にいさん以外の誰も、ここを背負えないよ」
朔矢は、そう言いながら笑った。
その顔には一切の曇りもない。
「――そうか」
志紀はそうとだけ呟く。
そこに喜びも、意欲もない。
ただ粛々と、何時もの様に積み重ねるだけ。
不器用な自分には、それしか出来ないと志紀は知っていた。
選ばれたのなら、全力を尽くそう。
別の人が選ばれたのなら、その人を主とし支えよう。
ただあるがまま、正しき形で正しきように。
例えどうであろうとも、この愛すべき道場を護ることに、代わりはない。
そう考えられるからこそ、志紀が最も、次期当主に近いと言えた。
「そうだよ」
そう言って、朔矢は再び微笑み。
だけど……ちくり、と胸の奥に、言葉にならない小さな痛みが、かすかに疼いた。
次代になるという事。
当主になるという事。
それはつまり……志紀がこの道場を全て受け継ぐという事。
そしてその全てには、沙夜も含まれる。
沙夜と夫婦となり、子を為し、未来を繋ぐという事。
それは普通の事だ。
一体……それの何がいけない。
沙夜――誰よりも美しく、清らかな存在とされる少女。
志紀には、きっと似合いすぎる相手だ。
……それでも。
どこかで、ひどく冷たい水を浴びせられたような、寂しさが消えなかった。
朔矢は、己の中にあるその気持ちから、目を反らした。
兄貴分を取られる哀しみだと、朔矢は無理やり自分に言い聞かせ、心の奥でその感情を小さく押し潰すと、無理やり明るく声を弾ませた。
「にいさんが当主なら、俺は当主補佐になる。その時はまあ、少しは俺も真面目になっても良いかもね」
朔矢の言葉に志紀は、少しだけ驚き、そしてふっと微笑を浮かべた。
「面白い冗談だ」
「えー! 酷いなにいさん! 流石に今回ばかりは俺だって本気なのに!」
そう言って、朔矢はぷんぷんと怒ったふりをして、そして笑った。
――そうだ。俺の気持ちなんて、関係ない。にいさんが、幸せになること。それが一番、大切な事なんだから
夜風が二人の間をすり抜ける。
小さな沈黙を挟んで、志紀は微笑を浮かべた。
「……冗談だ。ありがとう、朔矢。誰よりも、お前の助けは心強い」
その言葉に、朔矢はただ、破顔してみせた。
にいさんが当主となれるよう、支えよう。
そう、朔矢は決意をきめた。
それがきっと、自分にとっても一番幸せだと、自分に何度も言い聞かせて……。
ありがとうございました。