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交わり散り咲く咎の華  作者: あらまき


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信頼の対価(前編)

 数日後のことだった。

 何の前触れもなく、雨隆が唐突に奇妙なことを口にしだした。

「正直に言うとね、僕――全面的に君の味方をしてもええかなと思い始めとるんよ」


 柔和な笑みを浮かべながら、そう告げた彼に対し、志紀は即座に眉を寄せる。

 その言葉は、とても額面通りには受け取れない。

 いや、受け取るべきではない言葉であった。


 味方をしても《《構わない》》――その物言いは、すなわち今は味方ではないという意思表示に他ならないからだ。

 そして同時に、これから味方になってやるためには、何らかの対価が必要だということを暗に示してもいる。


「私に、何をしろと?」

「おや、思ったより察しが早いね」


 相変わらずの胡散臭い笑みを浮かべながら、雨隆は肩を竦めてみせる。


「……それで。何を私に要求するのですか?」

「大したことじゃないよ。ただ――ちょいと僕の代わりに殺しをして欲しいだけや」

「断ります。無益な殺生に手を染めるつもりはございません」

「ほう。それでは、有益ならどうや?」

「……それでも、私は致しません。この手が清らかだと申すつもりはありませんが――」


 志紀はちらりと、自らの両手を見下ろした。

 父代わりの男を見殺しにし、弟を陰に堕とすほどに追い詰めた、自らの罪深き両の手。


 この手を、再び血に染める覚悟はある。

 だが、それはただ一度――朔矢に対してのみ。志

 紀の覚悟は、そこに限定されていた。


 ――しかし。


「……相手が陰奇術士でも?」

 その言葉に、志紀の眉がわずかに動いた。

「どういう意味ですか」

「少しばかり、君の実力と覚悟を見せてもらおうかと思ってね」

「覚悟……と仰いますと?」

「君が、本当に《《弟君》》を殺せるのかという覚悟や」


 志紀の表情が一気に翳る。

 殺意を疑われたことが、彼にとっては侮辱に等しかった。


 もしも『殺したいか』と問われれば、否と即答しただろう。

 だが、それでも彼は『殺さねばならない』と悟っている。

 そうせねば、朔矢にとっても、そして自分にとっても救いが訪れぬことを、誰よりも理解していた。


 志紀がその覚悟を持つのは、兄であり、友であったからだ。

 だからこそ、その覚悟を他人から試されることが――腹立たしく、悲しかった。


「ま、口では何とでも言えるんよ。だからこそ――そのための実戦や」


 雨隆は懐から一枚の札を取り出す。

「敵の等級は『しょう』。君にとっても、相当に手強い相手やろうね――ああ、等級のことは知らんかったな。忘れてええよ」


 口元に指を立てて「しーっ」とおどけてみせたその仕草に、志紀は僅かに苛立ちを覚えた。


「でもまあ、君にとっても悪い話ではない。報酬にこの僕の全面協力も付いてくるし、何より良い《《予行演習》》になると思うんよ」


「予行演習――、ですか?」


「せや。志紀殿、『蓮生無明塾れんしょうむみょうじゅく』を知ってるやろ?」

「知らぬはずがございません。この清嶺館と互助関係にある道場の一つですから」


 蓮生無明塾――それは清嶺館と同様に、剣術と人心の修養を旨とする組織であり、かつては婚姻関係を通じて一層の結びつきを得ていた。

 剣術の流派や方針こそ異なるが、両者は年に幾度も交流を持ち、深い信頼関係を築いている。


 志紀自身も、指導役の師範代として幾度となく蓮生無明塾を訪れた経験があった。


「その蓮生無明塾がな――堕ちたんよ」

「……は?」

「過去にさ、君の道場が襲われたこと、あったやろ? 成れ果て一体だけ出てきた時や」

「……ええ、確かに」

「あれな、本命は君たちじゃなかった。あれは、清嶺館に援軍を出させないための陽動やった。実際に狙われたのは、あっちの方や」

「…………」

「そして――落ちた。堕ちたんや。しかも、そこの門下生が、陰奇術士に成り果ててしもうた」


 苦々しい声音で語られるその真実に、志紀は言葉を失う。

 雨隆の語った『予行演習』という言葉の意味を、ようやく理解した。


「剣士が、陰に堕ちたと……?」

「詳細は知らんし、知ろうとも思わん。あいつら外道の所業や。想像もつかんほど酷い地獄が、そこにあったんやろう」


 だが、それでも――。


 剣は光を示すべきものであるはずが、闇に魅入られ、影に堕ちた。

 志紀にとって、それはあまりにも重い現実だった。


「幸か不幸か……そいつは下手人である方の陰奇術士は、そいつが返り討ちにしとる。だから、そいつの討伐依頼が僕のところに回ってきた。……で、君に頼みたいわけや。僕の代わりに」


「……《《全面協力》》の範囲を、教えていただけますか」

「お、やっぱ察しはええなあ」

「地頭が悪いのは否定しませんが、勘だけはよいと自負しております」

「馬鹿にしたわけやないよ。君、僕の隠し事に気付いてる感じやし」

「――陽気術に関する何らかの制限、ですね?」

「そう。それ。僕の持っとる情報、陽気寮から口止めされとる分も含めて、全部君に開示する。僕は、君の《《本当の味方》》になったる」


 志紀は一度、深く目を伏せる。

 正直、胡散臭い上に信用出来ない男が味方になるということにあまり魅力は感じない。

 同時に、現時点でも相当協力してくれており、それなりにだが信頼は出来るように感じてもいる。

 信頼は出来るが、信用は出来ない。

 つまり、裏切ることを想定する程度の関係ということである。


 その上で考え……静かに、言葉を紡いだ。


「……承知しました。それが、朔矢を殺す覚悟を鍛える一歩となるのであれば」


 人を殺すことを《《予行演習》》などと呼びたくはない。

 しかし、陰奇術士と堕ちた剣士を相手に戦うことができる機会は、志紀にとって得難いものであるのもまた確かな事実であった。




 崩れかけた道場の庭先で、一人の男が黙々と剣を振っていた。

 ――いや、そもそもこの存在を『一人の男』と呼ぶべきかどうか、甚だ疑問ではあった。


 男の身に纏っているものは穢れ、破れたものであり、とても服と呼ぶ程上等なものではない。

 それを身にまとい、ただひたすらに剣を振り続けていた。

 しかし、その身体からは一滴の汗すら流れていなかった。

 代わりに、周囲に漂っていたのは強烈な腐臭であった。


 すでに彼の肉体は、限りなく『屍』に近かった。


 男の名は、もはや記録には残されていない。

 調べれば分かるかもしれぬが、滅びた道場の旧記録を漁るほどの価値はない。

 ゆえに、陽気寮はこの存在に仮の名を与えた――『慙鬼ざんき』。


 陰奇術士、慙鬼。

 心を喪い、なおも朽ちた道場を徘徊するこの男には、これ以上ふさわしい名もあるまい。


 男が陰奇術士となった経緯は、極めて偶然の産物であった。

 道場に恨みを持つ陰奇術士の襲撃によって、蓮生無明塾は滅亡した。

 その折、門下生であった男もまた死の淵に立たされた。


 だが――男には、資質があった。

 あってはならぬほどの、陰の才が。


 元来、男は道場内で傑出した剣士というわけではなかった。

 むしろ凡庸であり、劣等とまではいかずとも、常に人の背を追い続ける存在であった。

 そのことを恥じて、黙々と稽古に打ち込む姿は誰の目にも真摯に映ったが――その内心は、妬みを多分に含んでいた。

 今にして思えば、その頃から彼は陰の気に、緩やかに触れ続けていたのかもしれない。


 誰も、彼の中に渦巻く劣等と羞恥の業が、ここまで深いものだとは気づかなかった。

 かくして男は、本来ならば周到な準備と修練、そして生贄を必要とする陰奇術士の変質工程を、奇跡的に、いや、異常なまでに短縮し、己が身ひとつで《《成り果てた》》。


 だが、成り果てた存在は完全なる陰奇術士ではなかった。

 むしろその性質は、死者の如き――すなわち死鬼に近しい。

 自我のほとんどを失い、生前の行動である稽古をただひたすら反復する。

 男の素振りは鍛錬などではなく、ただの反射に過ぎない。


 しかし男は単なる死鬼ではない。

 男には《《力》》があった。


 意識を持たぬゆえに制限がなく、男は途方もない量の陰気を無意識に取り込み、その戦闘力は襲撃者であった陰奇術士を遥かに凌駕していた。

 実際、男はその襲撃者を一刀のもとに両断している。


 しかも、それだけでは終わらなかった。

 男が陰奇術士を切り伏せたのは道場を護るためでもなければ恨みや憎しみのためでもない。

 ただ、目の前で動いていたからだ。


 男の目には、生者と死者の区別すら存在しなくなっていた。


 そうして、当然のように道場の生き残りをも男は皆殺しにする。

 その後に今日まで、生前の習慣によって、ただ稽古と休息を繰り返す『屍のような剣士』と成り果てた。


 道場跡地から出ない以上、放置しても直ちに害をなすわけではない。

 だがそれでも、その在り方が『陰奇術士』であることに変わりはなく、陽気寮は討伐のため術士を送り込んだ。

 そして――返り討ちにされた。


 こうなると、放置しても良いという話は少々変わってくる。


 取るに足らぬ存在であれば、黙殺も選択肢に入る。

 だが、陽気寮の術士を討つほどの実力を備えた存在となれば、もはや放置は許されぬ。

 仮にこの『慙鬼』が何らかのきっかけで外に出るようなことがあれば、最悪、国が滅ぶ。

 それだけの実力があると、陽気寮は認めた。

 



 かくして、陽気寮は討伐の命を雨隆に下す。

 だがそれは単純な脅威の排除ではなく、その背景には面倒な《《政治的事情》》も絡んでいた。


 討伐が成功すれば、それでよし。

 仮に失敗しても、陰陽寮からの出向組――すなわち雨隆の立場に一つの《《失点》》を記録できる。


 これは、そういう類の命令であった。




 蓮生無明塾は、清嶺館からさほど遠くない場所に位置している。

 互いに使命のために新たに設けられた道場ではなく、長い歴史を有する剣術道場が時代と共に役目を変えてゆき、現在の姿となったものであった。


 両者は遥か昔より交流があり、互いに相手を尊重出来るような関係が続いていた。


 常に密接な関係であったわけではなく、その長き歴史の中には、確執や争い――果ては殺し合いすらあったとされるが、少なくとも現代においては兄弟道場と呼べるほどには良好な関係を築いていた。

 志紀もまた、師範代としての役目を持って幾度か無明塾を訪れ、指導にあたったことがある。


 当時、あちらの門下生たちはやや緊張しながらも笑顔で志紀を迎え入れた。

 後で知ったのだが、緊張の原因は清嶺館の門下生から『とびきり頑固な堅物が行く』と聞かされていたからだったらしい。

 実際それは否定できぬ評判ではあったが、思っていたほど怖い人物ではなかったと安堵された。

 だがいざ訓練が始まれば「やっぱり怖い人だった!」と再評価されたものだった。


 指導役としては不適切な表現かもしれないが……志紀にとって、それは楽しい日々であった。

 温かく、誠実で、何より彼らの剣にかける姿勢は真剣そのものだった。


 ――ゆえに、今の光景は、志紀の胸に深い影を落とす。


 焼け落ち、炭と化した道場。

 未だ片づけられぬまま蛆や蠅に集られる屍。

 見知った場所なのに、見たことのない惨劇が広がっている。

 それらが突きつける現実は、過去の温もりがもはや永遠に戻らぬものであることを告げていた。


 そして、その奥より現れたのは、破れた衣を纏い、虚ろな目をした一人の青年。

 口元から血を垂らし、明らかに正気ではない様子の彼にも、志紀は見覚えがあった。

 名前までは知らない。

 だが、真っ直ぐで、強情で、未熟ながらも芯の通った剣を振るっていた男であることを、彼の身体が覚えていた。


 今もなお、その剣は変わっていなかった。

 もはや理も、道理も、感情も、正義さえも損なわれていてなお、その剣の『かたち』だけは色あせていなかった。


 ――剣戟の音と共に、志紀は一歩後退し、静かに構えを取り直す。


 陰奇術士に堕した者には、人の道理など通じない。

 いずれも例外なく、常人離れした膂力を持つ。


 だが、単なる怪力だけであれば、志紀が苦戦することはない。

 彼は怪力を持つ相手との稽古にかけては、誰よりも経験を積んでいた。


 その慙鬼も、初撃こそ無思慮に振るわれたものだったが、次なる一手では距離をとり、間合いを計っていた。

 己の意思すら残されていないというのに、彼はかつて教えられた剣の作法を忠実に守っていた。


 あまりにも哀れで、志紀は思わず眉を顰める。

 その存在は、あまりにも不整合であった。


 人としては既に死に、

 されど、生物としてはなおも活動を続ける。


 陰奇術士に変じながら、己が欲望すら存在せず、

 ただ、教えられた剣の動きのみを繰り返す。


 ――彼は、未だ『剣士』であり続けていた。

 剣を振るう理由も、志も、感情すらも喪ってなお――。


 人にも戻れず、邪にも染まりきれず、剣を棄てることすら許されぬ――。

 己の存在意義のすべてを失ったまま、《《斬る》》という動作だけに囚われた存在。


 もはや哀れとすら呼ぶに値しない、救いなき在り方であった。


 志紀が剣を構え直すと、慙鬼の動きに微かな変化が見えた。

 反射に等しいものではあるが、彼は志紀の構えに正しく反応を示した。


 慙鬼は一歩引き、下段へと構える。

 一刀の元全てを絶つその刃に対し、守りの刀で対抗する。

 その姿は、まるで清嶺館の剣術を記憶しているかのようだった。


 清嶺館の剣――それは、純粋なる剛剣。

 たとえ陰奇術士に成り果てようとも、その教えを彼は身体で覚えていた。


 志紀は、相手が圧を感じたと見て取り、正面から一閃を打ち込まんと踏み出しかけ――突如、背筋を這い上がるような嫌悪と戦慄に身を止めた。


 すでに、慙鬼の剣は志紀を捉えていた。


 下段構えから繰り出されたのは、切っ先を抑えたままの変則的な一撃。

 逆袈裟と突きの中間ともいえるその斬撃は、極めて小さな動きで、確実に志紀の手首を断たんと狙っていた。


 志紀は冷静に攻撃を中断し、即座に一歩引き、剣を弾いて構え直す。

 相手が清嶺館の技を身体で覚えているのと同様に――志紀の身体もまた、蓮生無明塾の剣を記憶していた。



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