終活
早朝の訓練と、夕刻過ぎ。
雨隆が志紀と稽古するのは、一日に二度行われるのが常となった。
正直に言えば、一日一度で済ませたかったのが雨隆としての本音であった。
訓練時間そのものは長くはないものの、日に二度も拘束されるのは好ましいとは言い難い。
とはいえ、志紀に強く請われた手前きっぱりと断ることもできず、なし崩し的に応じる形となってしまった。
そうして二度の訓練を行なうこと数日が経過し――志紀は、ようやく形になる程度には戦えるようになってきた。
しかし、あくまでも《《形になる》》程度。
土の人形を相手に、最初のように一瞬で倒されることはなくなったが、それでも勝利の兆しが見えるほどには至っていない。
その朝も稽古を終え、志紀は深く頭を下げて道場を後にした。
口数は少なく、かといって敵意や嫌悪があるわけでもない。
無骨で生真面目、頑固で不器用。
志紀はそういった、面倒だが好ましい男であるのだと雨隆は理解する。
そして、その背を見送る雨隆の脳裏にふとどうでもよい種類の好奇心が湧いた。
――つまり、
「彼、普段は何をしておるんやろか」
雨隆が志紀と接している時は役目――つまり戦いに関することのみであり、そこに『私』はなく、同時にその生真面目過ぎる態度から私生活が全く想像出来なかった。
無論、雨隆に暇があるわけではない。
むしろ陽気寮の中でも指折りの多忙な身である。
志紀の訓練も、一応は『任務の一環』という名目で動いてはいるが、それ以外の任務が全くなくなったわけではない。
そもそも、雨隆が任務を無闇に断れば、その余波は部下たちへと容赦なく及ぶ。
陰陽寮からの出向組というだけで、彼らの立場は陽気寮の中では極めて低い。
本家筋の者たちにとって、彼らは厄介者であり、消えても惜しくない『使い潰すための駒』でしかないからだ。
ゆえに、仲間たちを守るためにも、雨隆は可能な限り多くの任務を受けざるを得なく、その身は胡散臭い外見の割に多忙であった。
――それにもかかわらず、気がつけば志紀のことが頭を離れない。
別に変な意味ではなく、純粋な好奇心で。
微妙に無視出来る程度のもやもやを抱え、腕を組んで眉を顰めて思い悩み……。
そうして結局のところ、雨隆はその日一日を《《無為》》に費やす覚悟を決めてしまった。
雨隆との早朝訓練を終えた後、志紀は門下生の姿もない庭で、ただ一人黙々と素振りを繰り返していた。
早朝訓練よりも更に前に門下生、師範代の合同訓練を行なっていることを考えたら完全に過剰であった。
ただ、その素振りに訓練の時のような鬼気迫るような気迫はない。
その様子はむしろ、精神統一の一環として行われる瞑想のようだった。
おそらく、先の土人形との模擬戦を脳裏で反芻しているのだろう。
その後にようやく遅めの朝食を取る。
志紀の膳には、混ぜ物の多い飯と歯ごたえばかりの漬物、具のない汁。
清貧を旨とする清嶺館のこととて、粗食は常であるが、それにしても彼の食事はひときわ見すぼらしい。
それも当然だろう。
彼の口に入るのは師範代としての食事ではなく、門下生の中でも最下層に与えられる分の、しかも余り物なのだから。
既に他の門下生は皆食事を終えており、つまりこれは実質的な残飯に等しい。
残ることすら稀なそれを、あるだけでも有り難いとばかりに志紀は受け取る。
そこには、彼自身による自罰の意図も含まれている。
あの日、当主を見殺しにした己の咎。
その罪の意識が、彼にこの道場における居場所の在り方を強いていた。
皆と同じ膳を囲む資格など、自分にはない――そうした思いから、志紀は今日もまた、冷めた食事を一人きりで静かに口に運んでいた。
食後から昼食までの間は、個人訓練の時間。
そこでは主に肉体の鍛錬に勤しむ。
内容は日によって異なるが、おおむね体力強化を中心とした基礎鍛錬に充てられている。
その後に昼食を取り、門下生全員のでの合同訓練。
個人行動が増えた志紀だが、合同訓練だけは一度も欠かしていない。
合同訓練を終えた後は瞑想。そして再び素振り。
後に再び門下生達と訓練を共にし、夕刻には一人時間を置いて再び残飯同然の食事を取り、ようやく彼の日課が終わる。
その一連の様子を、術を用いて密かに覗き見ていた雨隆は、どうしようもなく苛立ちを覚えた。
なぜなのかは、自分でもよく分からない。
真面目すぎて面白味がないからか。予想通りの行動ばかりで、探る価値がなかったと落胆したからか。
理由は定かでない。
だが、その自己罰的すぎる生活態度は、なぜか無性に腹立たしかった。
別に『幸せになれ』なんて思い上がったことを言いたいわけではない。
道場育ちにそのような贅沢手に入る訳がなく、これだけの鍛錬を無為とする屍となるのが、彼らのあるべき未来だ。
誰かの代わりに屍となることこそが、道場の役割であるとさえ言える。
それに、雨隆自身も決して平穏無事な人生を送ってきたわけではない。
陰陽寮の衰退に伴い、彼らは陽気寮へと『出向』という名目で半ば人質のように送り込まれた。
才はあれど本家筋の術士のように守られることもなく、過酷な現場で数々の苦汁を飲み、打ちのめされてきた。
今もまた、同門の出向組の仲間を守るため、望まぬ政治の舞台に立ち、卑屈に頭を下げ、本家筋の人間に取り入ろうと道化を演じ続けている。
それでもなお、志紀に対しては理不尽な怒りを覚える。
最も癪に障るのは、志紀がその罰を当然のものとして受け入れ、苦悩の色一つ見せずに淡々と日常を過ごしていることだ。
その姿は、もはや償いですらない。
単なる無為、無意味。
どうせ罰を受けるなら、もっとみっともなく、苦しみながら生きるべきではないか。
惨めでも、みっともなくても、なお生にしがみつこうとする方が、どれほど人間らしいか。
――そこまで考えて、雨隆はようやく気がついた。
自分が何に苛立っていたのか。何故こんなにも彼が気になるのか。
理由は至極単純だった。
『素の彼』を、一度として見たことがないからだ。
戦いという仮面を被り、緊張感の殻に閉じこもる志紀しか、彼は知らない。
その素顔を知りたかった。
それが、初めに抱いた好奇心の正体だった。
そして苛立ちの理由は、望んだものが見られなかったからに他ならない。
志紀――藤守志紀という男は、既に《日常》というものを捨ててしまっている。
それはつまり、彼が《死》を選んでいるということに他ならなかった。
死を覚悟して戦うというのではない。
死ぬことそのものを目的とし、それに向けて生を整えているという異常さ。
例え勝利しようと何ら関係はない。
彼はどちらにせよ、死ぬつもりであるのだから。
彼は《己が死》を前提としていた。
雨隆は、ようやくその事実に気づいた。
だからこそ、苛立ったのだ。
必死に生き延びるために戦い続けてきた者にとって、生きる意志を放棄したその在り方は、あまりにも不快だった。
――否。
それは言葉を綺麗に取り繕っただけで、雨隆の本音ではない。
もはや、自分に言い訳などできはしなかった。
彼が死を望むことに怒りを覚えるということは、裏を返せば生きてほしいと願っているということ。
それが全て――。
雨隆は、知らず知らずのうちに、志紀という男に絆されつつあった。
生真面目で、偽りを持たぬ愚直な男。
己に厳しく、他人にはさらに厳しく。一本筋の通ったその在り方は、
嘘と欺瞞が横行する雨隆の世界で、それはあまりにも眩しく、そして好ましいものであった。
「……僕、そんな簡単に靡くような男やあらへんのになぁ」
苦笑を漏らし、ぽつりと独りごちる。
身内のことで手一杯であるはずの自分が、どうして他人に友好を覚え、心配し、心を煩わせているのか。
自分でもよく理解できない。
だが、そういうものなのだ。
感情というものは、理屈で割り切れるものではない。
そして、理屈では語れぬ感情こそ、陽気術士にとって最も大切なもの――すなわち、術の根源となる陽の気となる。
ゆえに、下らぬと思いながらも無下にすることは出来なかった。
「君、もっと遊ばんとあかんよ」
夕刻の鍛錬の折、唐突に発せられた雨隆の言葉に、志紀は怪訝そうに眉を寄せた。
「……雨隆殿? 一体何の話でございますか」
「いやな、君さ。趣味とかあらへんの? ずっと眉間に皺寄せて、イーッて顔しとるやん? そんなん、身体にも心にも毒やて」
「そう仰られましても……写経や読書は、好んでおりますが」
「それ、修行や修行! 趣味と違うて! 他にはないの?」
「それは――」
一瞬、志紀の表情にかすかな微笑が浮かんだ。だが、すぐにその面差しは崩れ、暗澹たる陰が差した。
怒りとも悲しみともつかぬ情が入り混じり、表情はまるで壊れた面のように歪んだ。
思い出せる楽しい記憶など、たった一つしかなかった。
弟と過ごした、あの時間の――ただ、それだけだ。
「……はぁ。いや、意地悪やお節介で言ってるんと違うんよ? 『陽気』の力いうのは文字通りでな。陽気、つまり明るさとか、正の感情から来る力なんよ。逆に、陰気は負の感情、暗い思念に依る。だから、楽しさや喜びってのは、大事な糧なんよ。わかる?」
雨隆は珍しく、真面目な口調で諭すように語った。それを受けて、志紀は変わらず首を傾げたまま、静かに聞いていた。
言わんとするところは理解できた。
その言葉が、正しい教えであろうことも、おそらくは真実だ。
だが、それでも――何故、彼が自身を咎めるのか、志紀には理解できなかった。
自分たちは、そんな間柄ではない。
単なる協力者に過ぎず、それも、志紀の死を前提とした作戦に基づく関係であるはずだった。
その相手から、生きよと告げられる。
その事実に、志紀は困惑していた。
「……まあ、わかるよ。急にそんなこと言われても、って気持ちは。でもな、君にはもう、死んでほしくなくなってしもたんよ」
口数の多い男である。軽い物腰もいつものことだ。
だが、今のその言葉に宿る真意は、志紀にもはっきりと伝わっていた。
「それもですが……よろしいのですか?」
「ん? 何が?」
「その……《《陽気の術》》について、です。今のは、禁忌に触れるのでは?」
内容自体は、そう突拍子もないことではなく、薄々気づいていたこと程度でしかない。
陰気と陽気という名前から考えたら当然とも言える。
問題は、それを雨隆が口にしたという事実の方であった。
志紀には、すでにおおよその察しがついていた。
雨隆がこれまで陽気術について語らなかったのは、意図して隠したのではなく、語ることそのものが禁じられていたからに他ならない。
陽気寮にとって秘奥と言える知識である。
術士がそれを部外者に語らないなんてのは当然でしかない。
だが、彼はその当然の禁則を、自ら破っていた。
清嶺館のような末端組織でさえ、教義の遵守は命にも勝る誓いである。
ならば、本家たる陽気寮において、その厳しさは想像に難くない。
ゆえにこそ、志紀は驚愕した。
彼がその禁を、何のためらいもなく越えたことに。
「――あー……いや、まぁ……うん。どうやら、自分が思っていた以上に頭、煮えてもうてたらしいわ。恥ずかしい限りやな」
そう言いながら、どこからか扇子を取り出して、その口元を隠した。
冗談めかしてはいるが、困惑の色は明らかであった。
「聞かなかったことにいたしましょう。……ですが、感謝を」
「――ああもう! ほんま君は、頑固で面倒な人やなあ志紀殿!」
「よく、言われます」
「でしょうね。ほんま面倒臭いわ……志紀殿に惚れる女子がいたら、僕でも同情するわ」
「そのような御仁が現れる性質ではございませんので、ご安心を」
「……君、いつか絶対刺されるで。マジで」
「既に、何度か刺されたことがございますが?」
何の気なしに告げたその言葉に、雨隆は呆れ果てたように大きく溜息を吐いた。
まるで、『これの弟であった男に、同情せざるを得ん』とでも言いたげに。
ありがとうございました。




