不要の業、不要の刀、不要な男
大変ながらくお待たせしました。
一月ものあいだ、道場内は慌ただしさに包まれていた。
当然のことだろう。
現当主、神代正玄の死が、波紋を呼ばぬはずがない。
それは道場の存続という現実的な問題もさることながら、精神的支柱を失ったという意味でも大きかった。
――あの時のことを。
正玄の首を手に戻った、あの瞬間を、志紀は今も昨日のことのように思い出せる。
門下生たちの嘆きが道場にこだまし、怒声や罵声が志紀に浴びせられた。
ついには拳が飛んできた。
「お前が居ながら、なぜこんなことに」と。
志紀は、何一つ言い返さなかった。
ただ己を恥じ、言い訳の一つすら口にせず、黙って頭を下げ続けることしか出来なかった。
当初、志紀は葬式への参列を控えるつもりでいた。
己のせいで命を落とした者の弔いに顔を出すなどあまりにも身勝手で、どの面下げてと思った。
それでも参列を決めたのは、他でもない。
最も深く傷ついたはずの当主の一人娘――神代沙夜が、そう望んだからだった。
沙夜は気丈に振る舞い、嗚咽を噛み殺して、まるで笑っているかのように肩を震わせていた。
恨んでいないはずがない。
婚約者と父を一度に失った、その原因が目の前にいるのだ。
それでも彼女は、志紀の参列をただ一つ望んだ。
それこそが、父の遺志なのだと――。
正玄は、志紀を実の息子のように思っていた。
だが、その立場がそれを許さず、生前、幾度も悔いていたという。
それを、実の娘である沙夜の口から、悲しげに告げられた志紀は、ただ、恥じ入るしかなかった。
死ねるものなら、死にたかった。
だが、まだ死ぬわけにはいかない。
この命を終わらせる前に為すべき責が、まだ残されていた。
一月のあいだに、志紀の周囲は幾分か落ち着きを取り戻した。
良くも悪くも、時というものは、哀しみさえ風化させてゆく。
門下生たちの志紀に対する怒りも、時間と共に、次第に薄れていった。
もっとも――落ち着けているのは志紀ただひとりであり、道場自体は未だ混乱の只中にあった。
問題は、次代当主を誰とするかという、避けがたい問いである。
志紀には、その資格はない。
あったとしても、引き受けるつもりはなかった。
だが今回は、その是非すら議論に値しない。
志紀は、あの時、当主に託されたのだ。
――己こそが、朔矢を討てと。
その言葉が、最後に絞り出された命令だった。
その命が志紀の胸に生きているかぎり、栄誉など手にする資格はない。
弟を討つという、人の道を外れた業だけが、いまの志紀をかたちづくっている。
道場の奥、床に正座し、志紀は静かに精神を鎮めていた。
それは、どこか後ろめたさを抱いていたせいかもしれない。
皆が、次代当主の人選や、清嶺館の存続について頭を悩ませている最中に、
ただひとり己は、そうした煩わしい責務から外れている。
訓練に身を置くのも不義理に思え、せめてと瞑想に時間をあてていた。
実際のところ、志紀にも陽気寮からも朔矢という陰奇術士の単独討伐という命令が下っている。
だが、元々やるべきことと考えて、尚且つ政治に疎い志紀にとっては、むしろ道場の内情の方がよほど面倒であった。
そもそも志紀は、誰かに命じられて決意を固めたのではない。
当主正玄の命だからでもなければ、陽気寮の命令だからでもない。
ただ、願ったのだ。
「……誰かが終わらせねばならぬのなら、せめて、この手で」
それだけが、志紀の中に残った、唯一の意思だった。
そのとき、音もなく、道場の戸口が開く。
人の気配に気づき、志紀はそっと瞼を開き、静かに後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、沙夜だった。
神代正玄の一人娘にして、次期道場主の妻となるべく定められていた女――神代沙夜。
志紀にとって、今もっとも会いたくない相手であった。
それは、彼女を嫌っていたからではない。
むしろ逆だった。
最も志紀を憎んで然るべき相手が、他ならぬ沙夜であると知っているからこそ、志紀はなるべく彼女の前に姿を現さぬようにしていた。
どの面下げて顔を合わせればよいというのか。
その問いだけが、胸の奥に重く沈んでいた。
伏し目がちな志紀に、沙夜は、いつものような穏やかな微笑を浮かべていた。
目元はわずかに赤く腫れている。
けれど、それを隠すように、微塵も取り乱す気配はない。
そんな彼女の姿が、志紀の胸に痛みを灯す。
本当に――強いお人だ。
「志紀様……おひとりで、何をなさっておいでですか?」
志紀は、正座を崩さぬまま、静かに一礼を返す。
「……少し、考えごとを」
「そうですね。志紀様にとって、今はとても大切な時ですから」
「……いいえ。大切なのは、道場の方です。私などのせいで、混乱させてしまった……。私たちの所為で、清嶺館が――だから……」
言いかけた言葉を、沙夜が優しく断ち切る。
「志紀様」
その声音は、どこまでもやわらかく、けれど叱責のような芯を持っていた。
「っ、は……」
「私を……避けないでくださいませ」
「そんなことは、しておりません」
反射的にそう答えた志紀だったが――
「父に誓って、そうであると仰れますか?」
その問いかけに、志紀の胸は大きく波打った。
「……っ……!」
言えない。
言えるはずがない。
あの人の顔に、これ以上、泥を塗るようなことは。
「――はぁ。志紀様は、本当に……志紀様でいらっしゃる」
沙夜は、小さく微笑む。
それは、どこかあきらめに似ていて、それでも深い慈愛に満ちていた。
そして、ゆっくりと、まるで迷子の子どもに語りかけるように、囁く。
「私は、志紀様を恨んではおりません」
「……そんな……そんな訳が、あるものですか。私が、貴女から一体どれだけ、奪ったと……」
「……本心です。むしろ、私は志紀様に、心より感謝しているのです」
「……な、なぜ……? 何故、そんな……」
「志紀様が、父の遺言を胸に、生きていてくださるからです。父の最期の願いを、あなた様が受け継いでくださった。それが、どれほど救いになったか……。私は、それを思うと、胸が一杯になるのです」
その言葉に、志紀はただ、呆然とするしかなかった。
まさか、そんな風に言われるなどとは、夢にも思わなかった。
慰めだ――そうも思った。
人の心を誰よりも知る彼女が、志紀を責めず、立ち直らせようとしてくれているのだと。
けれど、同時に。
それがすべて作り物の言葉ではないことも、志紀には痛いほどに分かってしまった。
それほどまでに、彼女の言葉には、温かな意志が込められていた。
「――少々、お待ち下さいませ」
微笑を湛えたまま、沙夜は静かに道場を後にした。
足音も立てぬその姿は、まるで霧の中へ溶けゆく影のようで、志紀はただ黙してそれを見送る。
程なくして、彼女は戻ってきた。
一振りの刀を、懐に抱くようにして。
よろよろと、しかし決して取り落とすことなく、その身を支えながら歩む沙夜の様子に、志紀は思わず立ち上がった。
手を差し伸べるべきか否か、迷いが胸を過ぎる。
女性の体に軽々しく手を触れるは無作法――されど、このままではあまりに不憫であった。
しかし、そんな志紀の逡巡を知ってか知らずか、沙夜はまっすぐに彼を見つめ、口を開いた。
「こちらは、あの日――父が出立の直前に、私へ託した品にございます」
「……御当主様が、ですか」
「はい。……きっと、万一を案じておられたのでしょう。自らが戻らぬこと、あるいは朔矢様に敗れること……それらすべてを」
その日、正玄は娘に刀を預けた。
無理に当主へ渡す必要もなければ、夫に継がせる義務もない。
売っても、蔵に仕舞っても、あるいは自ら佩いても構わぬ。
ただ、お前がそうすべきと信じたとき、然るべき形で使え――と、そう言い残した。
そして今、沙夜は静かにその刀を志紀に差し出し、両手でその掌を包み込むように握りしめた。
「……きっと、その時が、今なのでしょう」
ずしり――。
その手に伝わる重みは、信念や使命といった比喩ではなかった。
純粋にして、物理的な重さである。
「これは……」
志紀の掌に収まったそれは、刃渡りこそ二尺六寸と、極めて一般的な長さの刀であった。
だが、その質量は明らかに異様である。
『清嶺直心一刀流』においては、死鬼や陰奇術士に相対することを見据え、より重く、より長く、より強靭な刀を常とする。
故にこの刀のような仕様は、いささか頼りなく思えるはずだった。
――にもかかわらず。
志紀がこれまで手にしたどの刃よりも、遥かに重かった。
「……父はこれを、半ば記念のようなものと申しておりました」
「記念……、と?」
「はい。剣術家として、あるいは一人の男としての、僅かな我儘でございます。使えぬと知りながらも、所持することを望んだ刀。それが、この一振りにございます」
沙夜の顔に、一瞬だけ懐かしさを滲ませる表情が浮かぶ。
しかしそれは、すぐに寂寥に変わり、なおその上に、いつもの穏やかな微笑が重ねられた。
「見ての通り、癖の強い刀でございましたから、父の剣技には相容れなかったようです。けれど、名前だけはお気に召されたようでして」
「……名、でございますか?」
「ええ――『朧月夜』。そう呼ばれております」
「……朧月夜……」
「はい。清嶺直心一刀流の《《秘奥》》と、同じ名でございます。奇しくも重なったようです。《《使えぬ刀》》と《《使えぬ技》》――どちらも、優れていながら、誰にも用いられぬものが」
沙夜は、わずかに憂いを帯びた声音で呟いた。
この刀は、決して拙劣な代物ではない。
むしろ、名刀の部類にすら入るだろう。
されど、清嶺直心一刀流との相性は、絶望的に悪かった。
この流派の多くの技は、長めの刃渡りを活かすことを前提としている。
よって、この刀のような寸詰まりでは、その型に合わぬ。
同様に、『朧月夜』と名づけられた秘奥もまた、《《使えぬ技》》であると内々には囁かれていた。
三大奥義すべてを修めた者のみが到達できる、極地の一閃。
抜刀術――すなわち、納刀された状態からの一撃にすべてを懸けるその技は、基本的に抜刀して立ち回るこの流派において、実用の場がきわめて限られていた。
名を持ち、技量も高く、理論も洗練されている。
それでも使えぬ。
そういう存在に、何かしらの共鳴を覚えたのか。
正玄はこの刀――《酩酊朧月夜》を、ことのほか気に入っていたのだという。
「……何故、私に?」
それは、率直な疑問であった。
もしこれが当主の刀であるというのならば、しかるべきは次期当主に託すのが筋であろう。
たとえ実戦に適さぬ代物であったとしても、その継承には相応の意味が生じる。
自分がそれを預かる理由は、まるで思い当たらなかった。
そんな志紀の様子を見つめ、沙夜はどこか悲しげに目を伏せ――そっと、彼の手を取った。
「志紀様が……まるで、死にに赴かれる方のように見えましたから」
「――我ら剣士は、死を覚悟し、その先を目指す者。死を恐れぬこと、それ自体は……」
「違います」
沙夜の声が、言葉を遮った。
「志紀様は、覚悟ではなく……死に囚われているように見えます。その先など、まるで見ておられないかのように」
その言葉に、志紀は何一つ返すことができなかった。
実際、彼にとって《《その先》》など、もはや存在しないに等しかったのだ。
弟を追い詰め、そしてその弟の所業を思えば、なおのこと。
どの面を下げて、生き延びよというのか。
沙夜の言葉は、何一つとして否定できるものではなかった。
志紀の心には、未来などなかった。
あるのは、死の一点のみ。
それは……誤りだ。
それは、許されるべきではない。
それは――ただの、逃避である。
沙夜は、いつもの穏やかさをひそめた厳しい眼差しで、彼を見据えた。
「逃げる者に、勝利など訪れませぬ」
その言葉は、鋭く、真っ直ぐに突き刺さった。
すべての者が、勝利を手にできるとは限らない。
だが、勝たんとする意志を持たぬ者に、勝利は決して訪れない。
それは、沙夜が何よりもよく知る現実であった。
「父は、勝とうとして戦場へ赴きました。その父の教え子である貴方様が、ただ死を選ばれるのならば……父の死は、虚しいものとなってしまいます」
「沙夜様……」
「この刀は、志紀様に差し上げます。名は少々縁起が悪いかもしれませんが……きっと、志紀様の迷いを祓う助けになるでしょう。あっ、決して《《使え》》などとは申しておりません。売るなり、飾るなり、どうぞご随意に」
「――ありがとうございます、沙夜様。謹んで、お受けいたします」
「……え?」
一瞬、沙夜の顔に驚きの色が浮かんだ。
「……失礼。女心に疎いもので。断るべきでございましたか……?」
「ち、違います! ただ……いつもの志紀様であれば、どのような理由があろうと、このような物は断られるものとばかり……」
「ええ。私には不相応であるという思いは、依然としてございます。ですが――」
「ですが?」
「沙夜様のお言葉が……あまりに胸に痛くて。少し、自らを見つめ直すべきかと……それに、正直、ありがたくもありましたから」
「……ありがたく?」
「いえ。独り言のようなものです」
そう言って、志紀はわずかに微笑んだ。
「……私は、独りではありませんでした。父がいなくとも、あの人がいなくとも……。貴方が、常に私を気にかけていてくださったから。……貴方は少し、いや、過分に奥ゆかしすぎましたが」
沙夜の口調は、どこか照れを含んでいた。
「勝てとは、申しません。ただ、どうか……生きて戻ってきてください。それこそが、沙夜の心からの願いです」
沙夜は深々と頭を垂れ、静かに、その場を後にした。
後に残されたのは、静寂と、ただ一振りの重き刀であった。
志紀は再び正座の姿勢を取り、刀を傍に置いて、そのまま瞑想に入る。
――まこと、これ以上ないほど好機と言えた。
このような剣と巡り会えたことは。
志紀には、乗り越えるべき一つの決定的な問題があった。
それはすなわち――朔矢を殺せるのかという命題。
感情ではなく、技量の上での話である。
あの場において、朔矢は正玄を真正面から撃破した。
清嶺直心一刀流の現当主を超え、名実ともに最強の剣士と成ったのだ。
そのような相手に、自分が勝てるのか。
否――勝たねばならぬ。
だが、それが困難であることもまた、厳然たる事実であった。
何故ならば、志紀はなお、父の背にも届かぬ未熟の身。
その父を凌駕した弟を相手に、一足飛びに勝利を得られるなどという妄信は持ち得ない。
さらに言えば――清嶺直心一刀流の剣を以てしては、朔矢には届かぬ。
同じ剣術を、異なる技量の持ち手が使えばどうなるのかなんてのは、火を見るより明らかだ。
だから、今志紀に必要なのは、正道に則り鍛え上げた剣ではない。
必要なのは、ただ一度きりの闘いで、確実に朔矢を斃すだけの《何か》であった。
それが卑劣と蔑まれようとも、奇襲と笑われようとも構わぬ。
ゆえに、このような流派の理念にそぐわぬ異形の刀は、まさに天の配剤と呼ぶに相応しかった。
志紀が相対すべきは、清嶺直心一刀流の極致に至った男。
今なお、その剣技は脳裏に焼き付いて離れぬ。
当主、正玄と真っ向から斬り結び、命の狭間にて己が剣理を見出し、遂には父を討ち果たした剣。
純粋で、無垢で、同時に――あまりにも美しかった。
あの二の太刀を見て、志紀は悟ってしまったのだ。
あれを超えることは、自分にはできない。
剣士としての才覚が、あまりに違いすぎる。
すでに、志紀は剣士としての敗北を自覚していた。
だが、それでも――敗れることは許されなかった。
故に、必要とされる。
正道たりえる朔矢の剣を、あの極致に達した美しき剣を、打ち破る《魔剣》足りえる邪の業が――。
「どうも、思い詰めておられるようですなぁ……さて、僕、邪魔でしたかね? なら、また出直させていただいた方がよろしいですかねえ?」
突如として掛けられたその声に、志紀は息を呑み、瞬時に剣を抜き後方を振り返った。
まるで、気配というものが皆無であった。
咄嗟に道場の入り口に視線を向ける――だが、そこには誰もいない。
「こっちこっち」
声は、道場の奥――本来ならば志紀の目前の空間を通らねば辿り着けぬ上座から響いた。
そこに、いつの間にか、一人の男が立っていた。
まるで閉じているような細い目に、端整ながらどこか軽薄さを思わせる細面の顔立ちは、どこか狐のような形相。
胡散臭さを拭えぬのは、立ち振る舞いだけでなくその容貌のせいでもあった。
「……何者だ?」
志紀の問いに、男はにこやかに笑みを浮かべ、あっけらかんと答えた。
「んーとね、『幕府直轄中務省旧陰陽寮統律監陰陽頭補任改陽導正博』――。まあ、つまるところの、『陽気寮』の方から参りましたという奴です」
男の言葉は、芝居がかったように滑らかで、どこか人を食ったような響きを伴っていた。
ありがとうございました。




