死の先の生、生の先の死
正玄が刀を振り上げるたびに、朔矢は『攻めること』を強いられた。
一度でも正玄の奥義が放たれれば、それだけで決着がつきかねない。
仮に防げたとしても、確実に疲弊は蓄積されていく。
その蓄積は、やがて取り返しのつかない破綻を招く。
刀が先に折れるか、身体が先に壊れるか――その順序など問題ではない。
ゆえに、撃たせないよう攻めなければならなかった。
朔矢が放った苦し紛れの斬撃は、彼らしからぬ苦渋の表情に満ちていた。
己の意思で振るったものではなく、強いられた刃。
正玄はそれを受け止め、返す刃で朔矢に一太刀を与える。
朔矢は慌てて後退し、辛うじて回避には成功したが、尻もちをつくこととなった。
すぐさま立ち上がり、正玄の腕に視線を送る。
一瞬たりとも、油断が出来なかった。
普段の朔矢であれば、ここでしっかり距離を取った。
身軽であることが彼の強みであるからだ。
だが、今の彼に正玄を自由にさせる余裕はない。
一度刃が振り下ろされば――恐るべき鴉が命を狩り落としに来る。
朔矢は自覚していた。
自分は今、崖縁に追い詰められているのだと。
ただ《一》を極めし、退屈な男。
それが、正玄という存在である。
為すべきを為す者――つまり、決して番狂わせを起こさぬ男。
当然の如く、当然の結果を導く者。
強者たる正玄が、弱者たる朔矢を殺す。
それは、極めて自然な帰結であった。
なにより――正玄は強い意志をもって、朔矢を殺すと決めていた。
この戦いの果てに、道場の当主を辞しても構わない。
たとえ不具となろうとも、それを悔いるつもりさえない。
いかなる代償を払おうとも、朔矢を自らの手で葬る。
そんな確固たる覚悟を抱いて、正玄はこの場に立っている。
積み重ねて来た強者が、侮ることなく強い意志をもって弱者を追い詰める。
その構図は、そう容易く崩れるものではなかった。
――どうすれば、この局面を生き延びられる。
朔矢は思考を巡らせる。
己の扱える陰奇術では、局面を覆すには至らない。
付け焼き刃の技でどうにかなる相手であれば、そもそもここまで苦しんではいない。
陰奇術士となったことで向上した身体能力も、すでに限界まで発揮している。
それでも、なおこの有様だ。
逃れる術など、最初から存在しない。
格上相手に温存を考える程、朔矢は愚かではない。
試せる限りの手はすでに打ち尽くしていた。
つまり――もう何も残されていない。
一般人が陰奇術士に抗えず、一方的に喰われるように。
今の自分には、正玄という圧倒的な存在に抗う手立てなどない。
そう……あり得なかった。
それでも、諦めることは出来なかった。
否――諦めるわけにはいかなかった。
叶えたい夢がある。
果たすべき使命がある。
ただ一つの目的のために、ここまで堕ちてきた。
無数の命を、己の手で奪ってきた。
たった一つ、決して手に入らぬそれのために――。
それでもなお、願いは空しく今この場にあるのは、ただただ圧倒的な絶望のみ。
視界の隅に、ちらりと人影が映る。
茫然としながらも、懸命にこの戦いを見届けている志紀の姿。
もしも自分が彼だったら……『にいさん』であったなら、正玄にどう立ち向かっただろうか。
どうやって、この状況を凌いだだろうか。
そう考えて――朔矢は嗤った。
それは、あまりにも愚かな発想だった。
戦いの最中で凌ぐこと、逃げることだけを考えるなんてのは。
死が確定しているからといって、戦わないという選択を彼は決して取らない。
そもそも、それ以前の問題だ。
威圧され、逃げることばかりを考えていた。
それ自体が誤りだった。
違う、そうではない。
戦い、師の屍を越えていく。
生とは、その先にのみ存在する。
朔矢は今、この一瞬だけ、己の目的も、生への執着も忘れた。
ただ、生きるために。
一振りの刀として、自らを在らしめた。
その気配の変化に、正玄はすぐさま気付く。
生のために、生の執着を捨てる。
生きるために、物事を正しく見る。
それは『正見』という境地。
今朔矢は、剣士として最上の心構えを手にした。
もしこれが陰奇術士ではなく、かつての門下生であったなら――。
きっと喜びと共に、その成長を称えたであろう。
だが、今はただ、複雑な感情が胸に渦巻く。
悲しみと、喜び。
二つの感情が拮抗し、混じり合い、絡みつく。
ただ一つだけ確かなことがある。
それは――朔矢とこうして正面から向き合うことが、正玄にとって決して不快ではなかった。
鍔迫り合いの音が、澄んだ空気を裂くように鳴りわたる。
朔矢の一刀を、正玄は真正面から受け止めた。
次の瞬間、正玄の身体がぴたりと静止する。
それは陰奇術でもなければ、技巧を凝らした剣技でもない。
ただの、力任せの押し込みである。
鍔迫り合いの最中で、崩れぬよう持ち堪えるので手一杯となる。
変わらず朔矢は、剛力の持ち主であった。
「ぬぅ……」
全身を貫く強烈な圧が、足元へと違和感をもたらす。
刃と肉体が一体となる正玄の剣術ゆえに、その負荷は刀ではなく、支える脚へとのしかかっていた。
だが、それだけで決定的な脅威となることはない。
大きな力を加えるということはすなわち、同時に全身に緊張を宿し、即座の機動を封じるということ。
正玄はその理を熟知していた。
刀の力を抜き、軽やかに数歩退いていきなり鍔迫り合いを解き、朔矢の姿勢を崩そうとする。
だが、それを予測していた朔矢が崩れることはなく、それどころか、刀を支点に体を捻り、反転するようにして足裏を正玄へと向けた。
すなわち――蹴撃である。
それもまた、清嶺直心一刀流のれっきとした技のひとつ。
勝利のためには、あらゆる状況に備えねばならぬ。
たとえ刀を失おうとも、最後まで抗う。
それが教えである。
ゆえに、徒手空拳や投げ技すら、その流儀には包含されている。
もっとも、剣の極致すら未だ遠く、そこまで習熟する門下生は極めて稀。
焼石程度でしかない蹴りや投げにまで手を伸ばせたのは、かつて幾度も共に稽古した朔矢と志紀、ふたりほどのものであった。
朔矢の怪力を以てしても、その一蹴で陰奇術士を葬ることは難しい。
されど、人間であれば即死させるには十分すぎる威力を持つ。
陰奇術士が剣術を扱うことの恐ろしさが、そこに集約されていた。
なぜ剣士は白き衣、陽の気を帯びた装束を身にまとうのか。
なぜ、剣士が死鬼と成り果てることを、これほどまでに忌み嫌うのか。
――その問いの答えが、いまの朔矢そのものだった。
身体を捻り放たれた蹴りは、まるで槍のごとく鋭く、容赦なく正玄の胴を狙う。
だが、手応えは――ない。
貫いたのを視認したはずの一撃が、虚空を掠める。
不可解な感覚に、朔矢は即座に異変を悟る。
正玄の姿が、揺らめく陽炎のごとく掻き消えていた。
――清嶺直心一刀流三大奥義、その二。
『影を宿さぬ写し水』。
これまで正玄が写し水を実戦で用いたなんて話、朔矢は一度たりとも聞いたことがない。
だが、目の前にてその幻影が現実となった今、否定する術はない。
老いを重ね、引退すら視野に入れる歳となってなお、正玄は歩みを止めてはいなかった。
写し水によって生まれる、ただ一手分の余裕。
その僅かな《《間》》が、朔矢にとってはあまりに致命的であった。
陽炎のすぐ背後……朔矢のま正面に、正玄は立っていた。
振り上げられた剣、その構えは――上段。
すなわち、奥義『闇堕としの焔鴉』。
その威に、朔矢の身体が反射的に怯む。
だが――
「うおおおおおおぉぉぉ!」
咆哮と共に、朔矢もまた刀を高く掲げる。
清嶺直心一刀流における最強最大の剣技、闇堕としの焔鴉。
それに立ち向かえるのは、同じくして放たれる、その一撃のみである。
かくして、両者の刃が交錯する。
爆ぜるような轟音、闇を打ち払う閃光。
そして、その直後に――朔矢の身体から血飛沫が舞った。
それは、ただお互いの実力通りの避け難き当然の帰結であった。
だが同時に、思いもよらぬ誤算の結果でもあった。
「……浅かった、か……」
正玄が、低く呟く。
袈裟懸けに打ち込んだはよいが、刃は心の臓に届いていなかった。
朔矢の用いた刀の長さゆえ、わずかに間合いを外されていたのである。
とはいえ、それは死が一時遠のいただけの結果に過ぎないが。
「は、はは……やっぱ、やべぇや……」
朔矢は息も絶え絶えに笑う。
「――すまない。すぐ、楽にしてやる」
再び、正玄は上段の構えを取る。
朔矢は、その刃を見上げた。
実直で、飾り気のない刀。
冷たく、強く、どこか、優しい。
正玄らしい一振りであった。
ここで終わることに、心残りは尽きない。
それでも、どこかで納得してしまっている自分がいる。
――もし、もし隣ににいさんがいてくれたら。
一緒に戦ってくれていたなら。
そう考えること自体が、何より情けなかった。
自ら袂を分かった身でありながら――それでも。
一人で死ぬのは、やはり……寂しかった。
正玄の刃が振り下ろされる――終の一閃。
激しい衝撃音とともに、再び、沈黙が訪れる。
だが――朔矢は、生きていた。
正玄は眉をひそめ、言葉を発する。
「何故だ?」
手を抜いたわけではない。
確かに全力を尽くし、渾身の力で奥義を放った。
大切な家族の弔いとして、魂を込めて。
だが、朔矢に刻まれた傷は、先の袈裟斬りの一撃のみであった。
「これは……」
朔矢は己の手を見据える。
そこには得体の知れぬ感触があった。
何が起きたのか、未だ彼自身も理解しきれていない。
しかし、その手に伝わる感触だけは確かであった。
正玄の奥義を退けたという、確かな手応えが――。
再び正玄は構えを取る。
嫌な予感が胸をよぎる。
それでも、彼には他に選択肢は存在しなかった。
朔矢にとって、それは本当に偶然であった。
負傷によって必要以上に力が抜けていたこと。
兄のこと、特に兄の振る刃のことを思案していたこと。
技量の差異により正玄の奥義に出遅れたこと。
この三つの致命的な不利が、朔矢を救っていた。
三度目の焔鴉が朔矢に襲いかかる。
しかし、今回は恐怖を覚えなかった。
手に残る先の感触が、彼に安堵を与えていた。
先程の一瞬、無意識化での攻防。
その最中……その手に受けた手応えは、《《二度》》。
剣戟は、二度響いた。
朔矢は振り下ろされる剛腕の一撃に対し、斬り上げを持って対抗する。
先程、振り遅れ斬り上げざるを得なかった。
当然、勝てるはずもない。
正玄の奥義に、ただの斬り上げの斬撃で対抗できるわけがなかった。
だけど、その先があった。
不思議と、身体が勝手に動いたのだ。
力が抜け、異様な硬直も解け、身体が技に妙に馴染んで。
朔矢はその手応えに従い、二度目の斬撃を放った。
二度目の斬撃は、二度目の剣戟と共に、眩い閃光を放つ。
そして正玄の奥義は相殺される。
一度なら、偶然。
だが二度続けば、それは必然であった。
一度に二度の斬撃を放つという矛盾。
それこそが、朔矢が先に見出した偶然であった。
だけど、朔矢は納得出来ないような表情を浮かべていた。
「何か違う……こうではなく、もっと良い感じの手応えだった」
その言葉と共に、正玄に向け、剣を振るう。
カン、カン……カン、カン……。
二度の斬撃を繰り返す動きは、極めて独特な緩急を伴っていた。
斬撃を二度出す。
ただそれだけなのに、正玄は上手く対処できない。
死に体の朔矢が押しているという、不思議な局面となっていた。
カカン、カカン、カカン……。
更に、朔矢の緩急は変化する。
斬撃の隙間は、どんどん短くなっていく。
これは自らの身体の特性を活かした技。
人ならざる怪力を有し、小柄な身躯ゆえの剣。
清嶺直心一刀流を習得し、さらにその先へと至った証……。
音と音の狭間は徐々に短縮され、斬撃の一撃目と二撃目の間隔が消え去っていく。
それは、常識ではあり得ぬ現象であった。
だが、剣術とは常に『あり得ぬ』を為してきたものである。
『カン』
そしてついに――二つ目の斬撃が一つ目と重なる。
更には、放たれた斬撃が追い付き、そして超えるという不可能な状況と化す。
朔矢は己の技量のみで、物理の法則を超越した――。
その妙技、魔剣を見て、正玄は危機感を覚える。
それはこれまで幾度となく味わって来た、死の予感だった。
正玄は剣を掲げ、必殺の構えを取った。
退くことは叶わず、譲ることも許されぬ。
剣士として――かつて家族であった者として、正玄にはこの場を退くという選択肢はなかった。
「朔矢……覚悟せよ」
それは、最後の一撃を放つという明確な宣告であった。
かくして、正玄の生涯すべてを懸けた一太刀が振り下ろされる。
その刃は紅蓮の如く燃え盛り、烈火を纏った。
正玄もまた、朔矢同様この瞬間において、人としての限界を超えていた。
朔矢は下段の構えを取り、静かに正玄を見上げる。
そして――ついに、刃が交差した。
朔矢が放つ、二度目の振り下ろしが先に正玄の剣と交錯し、剣戟を響かせる。
さらに――直後、わずかの時差を以て、一度目の切り上げが正玄の身を襲った。
上下、前後、左右――本来なら起こし得ない、逆方向から迫る二撃の挟撃。
それはもはや、単なる剣技の枠を超えた異形の奥義であり、まるで獲物に食らいつく獣の双顎を思わせた。
故に――
「……ひとまず、『咢』とでも名付けておこうか。仮称、ということでな」
朔矢は、戦場にあるまじき気軽さで呟いた。
その直後、正玄の身から紅き飛沫が舞う。
――相打ちであった。
正玄が放った、完成された第一の奥義と、朔矢が紡ぎ出した第四奥義は、見事に拮抗していた。
ゆえにこの差は、技量や鍛錬の果てに得られたものではない。
それは――種という、越え難き壁の結果であった。
陰奇術士であるが故に、朔矢は生を掴んだ。
ありがとうございました。




