闇の中でさえ許されぬ想い
それは、刀と呼ぶにはあまりにも歪だった。
形状としては、それほど奇異ではない。
不可思議な術を操る陰奇術士の武器としては、むしろ凡庸とさえ言えるだろう。
異様なのは――その長さ。
黒く鈍く輝くその太刀は、大太刀よりもさらに長く、刀身だけで三尺(およそ一メートル)を優に超えている。
柄を含めれば、五尺(百五十センチ)はあるだろう。
ただでさえ規格外な長さである太刀を、小柄な朔矢が持つからこそ、その異様さは際立っていた。
まるで、自らの細い身体では支えきれない業の象徴を、無理やり掲げているかのように。
「問答は、これが最後だ。にいさん……。――抜け。民を思うなら、俺を殺してみせてよ」
そう言って、魔に魅入られた最愛の弟は嗤った。
あざけるように――けれど、その笑みにはどこか淫靡な、壊れた艶が混じっていた。
あまりに過去の朔矢とかけ離れたその姿に、志紀は否応なく悟らされる。
弟はもう、人ではないのだと。
朔矢は、たしかに陰奇術士となった。
だが、それほど強大な力を持っているわけではなかった。
それは『成り立て』だからという単純な理由ではない。
魔に起因する力そのものへの関心が極端に薄いという、朔矢の気質に起因していた。
陰奇術士が使う術は、陰の気を媒介とする点では共通している。
だが、その内容は、術者の資質――つまり、欲望の形に大きく左右される。
人であるうちは決して叶わぬ欲。
それを叶えることこそ、陰奇術士にとっての『術』である。
けれど、朔矢の望む『欲』は、やや異質だった。
彼が望んだのは、果てなき快楽でも、権力でもない。
ただ一つの『目的』――それだけを成し遂げるために、彼は人を捨てた。
そのため、特別な術を欲しなかった。
力に執着せず、興味すら持たない。
実際、陰奇術士の基本とも言える『死鬼化の術』すら、朔矢は扱えない。
ただ一つの例外が、今手にしているこの黒刀。
『黒刀:閻魔』
朔矢の陰の気を凝縮し、ただ形にしただけの剣。
それに特殊な能力は持たない。
いや、むしろ――この刀を持つことで、陰奇術士本来の性質である『他者へ陰気の影響を与えること」すらできなくなっている。
朔矢全ての陰の気を刀という形に閉じ込め、外に漏れぬように封じた存在。
それゆえに――異様に長く、異様に重い。
刀というものは、長さが増せば、その分だけ重量も、振り回すための負荷も倍加していく。
たとえば、物干し竿の端を持ってみればいい。
普段扱いは軽く気にもならない竿であっても、端だけを持って剣のように振ろうとすれば、その長さから来る遠心力で肩が壊れる。
朔矢の黒刀は、まさにそれだ。
風を裂くように、軽く一振りするだけで、『ぶんっ』と音が鳴り、空気を大きくうねらせる。
再び朔矢は構え、志紀を見つめた。
……だが、その視線には次第に落胆の色が濃くなる。
これだけ言っても、志紀は刀を抜こうとはしない。
ただ、立ち尽くしているだけ。
この期に及んでも、まだ信じているのだ。
これは何かの間違いだ――と。
話せばわかる。
悩みを聞いてやれば、苦しみを取り除いてやれば――。
そうすれば、元の朔矢に戻ってくれるはずだと。
それはたしかに、志紀から朔矢への愛だった。
兄として、家族として、誰よりも深く思い、信じようとする心。
ああ、まったくもって――綺麗な愛だ。
だがそれは同時に、朔矢の想いを軽んじてもいた。
朔矢は、気まぐれでも、衝動でもなく、己の意志でこの道を選んだ。
志紀のその優しさは、残酷な傲慢に過ぎない。
朔矢の覚悟を、志紀は理解しようとさえしていない。
そのことが、朔矢にとって何よりも哀しかった。
――びくん。
志紀の身体が、びくりと跳ねた。
何が起きたのか。どうしてそうなったのか。思考が追いつくより早く、左肩に熱が走る。
内側から、じわりと広がる灼けるような熱。
視線を落とせば――そこに、黒刀があった。
朔矢の刀が、志紀の左肩を真っ直ぐに貫いていた。
痛みは、視覚よりも遅れてやってきた。
ずるり、と刀が引き抜かれる感覚。
次の瞬間、それは烈火のごとき激痛へと変わり、志紀の身体を襲った。
「ぐあっ……!」
喉の奥から搾り出されるような叫びが漏れ、膝が崩れ落ちる。地に手を突いた志紀の体を、血がじわじわと濡らしていく。
――こんなはずではなかった。
普段の志紀ならば、たとえ腕がもげようと、足が砕けようと、戦いを止めはしなかった。
命を賭して剣を振るう覚悟が、それを幾度も証明してきた。
だが今――戦う覚悟を持たない今の志紀は、剣士としての意志さえ捨てた志紀は、ただの人間に過ぎなかった。
「がっかりだよ、……ああ、本当にがっかりだ、にいさん」
朔矢は、指先で刀についた血を拭い、そのまま舐めて見せる。
まるで美酒を味わうかのように、恍惚とした微笑みを浮かべて。
頬に浮かぶ朱、滲む多幸感。
嗜虐に歪むその表情は、あまりにも異様だった。
跪く志紀の顎を、朔矢は左手で強引に持ち上げ、自らの視線と重ね合わせる。苦痛と混乱に染まる志紀の表情を見て、蠱惑的に笑った。
――朔矢は、元より整った顔立ちだった。
あどけない容姿に潜む残酷な喜び。
その背徳的な美しさは、まるで汚れてしまった聖女のように、見る者の心を歪める。
「にいさん。俺、にいさんが思ってるような、《《良い子》》じゃなかったんだよ?」
「違う……。朔矢は、私の弟で……」
「苦しそう。痛そう。でもね、そんな顔も見たかったんだよ。ずっと……。うん、想像以上に……良い顔だよ。にいさん、もっと見せて?」
指がそっと志紀の肩に触れた。柔らかく、優しい手つきだった。
まるで愛しき者を抱くように――そしてそのまま、肩の傷口に親指を深く沈める。
「う……あ……っ!」
ずっ……と、音を立て、傷口が抉られる。
だが志紀は、声を上げることしかできない。
逃げることも、拒むことも、叶わなかった。
朔矢は、陶酔したように微笑む。
――そう、ずっとこうしたかった。
そう言わんばかりに。
なぜ朔矢が、ここまでの感情を抱いているのか。
志紀には、わからなかった。
ただ、自分の鈍さと愚かさに恥じ入り、どうすれば良かったのかと考える。
やがて、ひとつの結論に辿り着いた。
志紀は、力を抜き、抵抗をやめた。
「にいさん……?」
「……すまない。そんなにも、私を恨んでいたとは……。すまない、朔矢……至らぬ兄で……本当に……」
その言葉に、朔矢の表情が一瞬、無へと還る。
次の瞬間、張り付いたような笑みがその顔に浮かんだ。
それは、明確な《《怒り》》だった。
志紀にも、それくらいは理解出来た。
「ふぅん。そっか……そういう風に言うんだ、にいさんは。じゃあ……いいよ。わからせてあげるだけだから」
朔矢は手を引き、親指についた血を舐め上げる。
そして、志紀の首筋にそっと顔を寄せ、唇を這わせた。
ぞくり――志紀の身体が震える。
痛みはない。
ただ、くすぐったく、背筋を撫でられるような小さな感覚。
志紀にはそれが快楽であることがわからなかった。
ただその得体の知れぬ感覚に、困惑し、戸惑う。
だが、何故か不思議と――朔矢を、愛おしいと感じてしまった。
兄として、仲間としてではない。
己を喰らわんとするこの存在を、抱きしめたくて仕方がなかった。
「……っ、さ、朔矢……お前は……」
「にいさん。一緒に悪い子になろっか?」
まるで幼い頃の悪戯の続きのように、朔矢は無邪気にそう誘った。
出血で霞む意識の中、その甘い囁きは、あまりにも魅力的だった。
――戻りたい、あの頃に。だが。
戻れないのなら、もう進むしか……朔矢と同じ、昏い、闇の道に……。
「……駄目、だ……私は……お前を……っ!」
痛みに耐え、志紀は朔矢を突き放した。
「……残念。まあ、どうでもいいか。どうせ――時間切れだし」
「……時間、切れ……?」
志紀は荒い息のまま問い返す。
日が完全に沈み、夜が支配する刻――陰奇術士の時。
時間切れとは、こちらの方のはずなのに。
「にいさんってさ、悪いこと出来ない性質だよね。馬鹿が付くほど、真面目だし」
朔矢は遠くを見ながら、ぽつりと呟く。
そう――志紀は、どうしようもなく正直者だった。
子供の頃の悪戯も一度として成功せず、嘘をつけばすぐに顔に出た。
そんな志紀が、朔矢のように誰にも見つからず出奔することなど、出来るはずがなかった。
ゆらり、と闇から影が立ち上がる。
直後、金属がぶつかり合う、鋭い剣戟の音。
朔矢は後方へ跳び、影が志紀の前に立ちはだかる。
まるで、彼を守るように。
「志紀、無事か?」
白き衣を纏うその背に、志紀は見覚えがあった。
――清嶺館当主、神代正玄。
志紀にとって親代わりでもある彼は、同じく親代わりである朔矢の前に立ちはだかった。
ありがとうございました。




