黄昏、光陰の果てに
「……やはり、か」
正玄は静かにそう呟く。
想像していた通り。
むしろ、よくここまで待ってくれたものだとすら思うくらいだ。
志紀にあの話をしてから、二十日程経過したある日。
突然、志紀は姿をくらました。
事情を知らぬ者は、まだ数刻しか経っていないから、そういうこともあるだろうと楽観視している。
あの厳しい志紀が朝寝坊でもしたのかと笑ってさえいた。
だが、正玄は彼等と違い、状況を理解出来ていた。
おそらく、もう戻って来ることはないだろう。
あれは、そういう男だ。
どうせ無意味だろうと内心で諦めつつ、正玄は彼の部屋へと足を踏み入れる。
そこは、まるで人が住まっていた痕跡が一切見受けられぬほど、整然と清掃が行き届いていた。
机の上に置かれた一通の文に気付き、正玄は無言でそれを手に取る。
中身を読み始めてすぐ、あまりの想定通りの内容に、思わず苦笑が漏れた。
『お世話になりました』
それは、道半ばで道場から離れたことに対する謝罪文に他ならなかった。
師範代の立場にありながら、責務を放棄し、無断で姿を消す不始末。
文面には、その非礼と、後に残される者への迷惑を、繰り返し、何度も、何度も、謝罪する文言が連ねられていた。
更には、担当していた門下生たちへの個別指導が中断されることへの詫びと、今後の指導方針までも詳細に記されていた。
本心から詫びているのだろう。
その手紙はあまりに冗長で、もはや遺書ですらここまでの冗長さには至らぬであろうという厚みを持っていた。
正玄は黙してその文を懐に収めた。
まるで、志紀の脱退を受理する意志がないことを示すかのように――。
「これが、私の過ちの果てか……」
そう呟く正玄の目には、決意が滲み出ていた。
どこを間違えたのか、どの決断が過ちだったのか。
それさえ、正玄にはわからない。
だが、結果が物語っていた。
道場の主としての決断が、二人の若者、その正しき未来を奪ったと。
いや――まだ、まだ終わっていない。
まだ一つだけ、正玄にも、出来ることが残されていた。
三日という距離を、近いと捉えるべきか、それとも遠いと見るべきか。
いや、徒歩で三日というのであれば、むしろ近い部類に入るであろう。
目的の地に辿り着いた志紀は、そんなことをぼんやりと考えていた。
ここが、朔矢が最後に目撃されたとされる場所――。
正玄に送られた陽気寮の報せによれば、確かにこの近辺であった。
鬱蒼たる山々が連なる中、離れた場所に小さな農村が見える。
志紀はそっと安堵の息を吐く。
この周囲で陰奇術士が暴れた痕跡はなく、平和そのものだった。
ここにはまだ、幼き頃に志紀が体験した、穏やかな日常が存在していた。
清嶺館に至る以前……。
幼き日の記憶の彼方にあるその日々は、既に朧げとなってしまっている。
それでも、郷愁の念というものは、意識の底に残滓として確かにこびりついていた。
母の手の温もり。
父の笑み。
家族として交わした日常の断片。
曇りなき愛情のもと、無垢で居られた日々。
何ひとつ疑うことなく、ただ愛されているということを疑う必要すらなかったあの時間。
たとえ、その記憶が炎に包まれ、喪失と慟哭に塗り潰されようとも――
それでも志紀は、自らの心に誓える。
あの一瞬が、己の原風景であり、生きる支えであったのだと。
愛されていたからこそ、全てを奪った陰奇術士をただ憎むのではなく、同じように奪われる者を一人でも減らすため、正義の怒りを抱いて道場の門を叩けたのだ。
「おやおや、こんな山奥にお侍さんとは」
背後より声がかかり、志紀の意識は現実へと引き戻される。
振り返れば、背に大きな籠を背負った老婆がそこに立っていた。
志紀は軽く会釈を返した。
自分が侍でないことは確かであるが、それを説明出来るほど《《道場》》の存在は世に知られていない。
ましてや、寡黙な志紀のこと……下手に弁じればかえって誤解を招くのは目に見えていた。
それ故に、あえて否定もせず、黙して帯刀の理由を濁すこととした。
民を欺くことに心が痛まぬはずもない。
けれど、それによって清嶺館、ひいては他の道場に迷惑を及ぼす方が、遥かに避けねばならぬ事態であった。
「こんな時間、こんな辺鄙な場所で、一体何用でしょうか? 村の所在が分からぬということもありますまいに……」
老婆はそう言いながら、傾斜の向こうに見える農村へと視線を向ける。
確かにここからは、遠くではあるが村の全景が一望できた。
これで村の場所がわからぬなどと言えば笑われてしまう。
「ご老人、今宵は早めに戻られた方が良い」
志紀はぶっきらぼうにそう告げた。
日は既に落ちかけている。
奴らの時間は、すぐそこまで迫っていた。
「……何か、あるのですか?」
老婆の表情が僅かに引き締まった。おそらく戦や盗賊を懸念したのであろう。
「――妖退治に来た」
志紀は低く、そう呟く。
妖とは、世に伝わる魔物の類のみならず、犯罪者や落ち武者など、闇に生きる者たちの暗喩としても用いられる。
志紀は、受け取り手がどうとでも解釈できるよう、意図して両義的な語を選んだ。
老婆は何かを察したのか、表情を変え小さく頷いた。
「ご苦労様です。そういうことでしたら……」
籠を降ろし、その中から一つの果実を取り出し、志紀に差し出してきた。
それは、柿であった。
道場に居た頃、何度か味わったことがある。
また、相応に高価な物であるとも志紀は知っていた。
「……これは、頂くわけには」
「いえいえ、どうぞお納めくださいませ。私にはこれくらいしか出来ませぬゆえ……」
老婆は柔らかな笑みを浮かべると、深く一礼し、村の方角へと歩を進めていった。
手元に残されたのは、瑞々しい柿一つ。
果物という滅多に口に出来ないものを前に、志紀は甘味への飢えを覚える。
だが嘘で誤魔化した罪悪感故にそれを口にすることは出来ず、そっと袋の奥へと仕舞った。
この地を訪れた理由は当然、妖退治などではない。
ましてや道場の命による使命でさえない。
それは――きわめて、私的な事情によるものであった。
しばしの沈黙の後に、志紀は奥に歩を進めだす。
恩寵となるはずの山林は、夕闇の訪れとともに陰鬱の色を濃くしていった。
徐々に終わりに近づいて行く時間……闇のものにも、人のものにも属さぬ、黄昏の刻――。
そんな時、深い闇の先から、彼は現れた。
人間とは、矛盾を抱える存在である。
会いたいと願う心と、会いたくないと祈る心。
相反する感情を、志紀は同時に抱き両立させていた。
小さな影が、徐々に近づいてくる。
輪郭が次第に明らかになり、やがてその幼き美貌が見えたとき、確信へと変わった。
そこに在ったのは、予想通りの人物――。
「やあ、にいさん。俺に会いに来てくれた……と思って良んだよね?」
彼は相も変わらず人懐こい笑みを浮かべていた。
だが、その全身からは黒き靄が立ち昇っていた。
それは、人ならざる気配。
見間違えるはずもない。
そこに立つのは、紛れもなく朔矢であった。
共に育ち、切磋琢磨し、兄弟同然に過ごしてきた、我が片割れ。
誰よりも長く時間を共にしてきた、最愛の弟分……。
「……何故だ。何故、陰奇術士などに堕ちた」
志紀は、静かに問いを発する。
そう、間違えようもない。
その佇まい、その気配。
それは、人を外れし者――陰奇術士の証そのものであった。
「何故? 今更そんなことを聞く? にいさんが知らないはずがないだろ? 陰奇術士になる方法くらい――」
「黙れ!」
志紀の怒声が響く。
その叫びは、現実から目を背けようとする拒絶であった。
詳しい術式は知らずとも、道場の内でもその条件は伝え聞いている。
すなわち――生贄。
命を奪うのみならず、人としての尊厳すら踏みにじる、幾重もの冒涜を積み重ねなければならぬという、最も忌むべき手段。
朔矢の手が、既に穢れていることを、志紀は理解していた。
誰かによるものはなく、己が決断を持って闇に落ちたと。
あれほど正義を語り、道理を説いていた身として、理解せずにいられるはずがない。
だとするならば、今の志紀は、間違っている。
志紀という男は、正道の中でしか生きられぬ。
ならば、闇と相対したこの場にて剣を抜かぬことは、明らかなる不自然。
それは、正道ではない――。
朔矢の笑みが消える。
その表情には、志紀に対しこれまで一度として向けたことのない感情が浮かんでいた。
「……にいさん。まさか、戦うつもりもないのに来たの?」
嘲るような、あるいは呆れたような声音。
軽薄な態度。だが、兄であった志紀にはそれが、明確な怒りであると察せられた。
何故怒っているのか――その理由は、志紀にはわからなかった。
自分が不甲斐ない兄であったからか。あるいは、密かに恨まれていたのか。
だからこそ、志紀はこの地を訪れたのだった。
「……私は、話し合いに来た」
志紀は、明確な言葉でそう告げた。
まだ、対話の余地があると信じて。
「――くっ。くはっ、はは……あははははは! なるほど、つまり、にいさんは俺と話すためだけにここまで来たってこと?」
「……ああ。私は……お前のことが――」
「ふざけるな!」
朔矢の全身から、怒気と共に黒き靄が激しく吹き出す。
一瞬、周囲の光がすべて掻き消えたかのような暗黒が満ちる。
それは、朔矢の抑えきれぬ感情の爆発であった。
「話し合い? この俺と? 既に汚れ、堕ちた俺と? ……何様のつもりだよあんた……ふざけるなよ」
朔矢は震える声で叫び、志紀を睨みつける。
それは、それだけは、許容出来なかった。
清嶺館の教えに反し、陰奇術士に対して情をかけたこと。
そして何より、自分を今なお《《弟》》と呼ぶ、その事実が――。
「私は、知らなければならない。いや、知りたいのだ、朔矢。お前が、何故そこまで苦しんだのかを」
「……あんただよ」
「……なに?」
「全てあんたが原因だよ! にいさん! あんたが俺を苦しめた。俺を堕とした! 俺は……あんたとは違んだ。《《正しくあること》》に耐えられなかったんだ!」
それが、朔矢の真実であった。
正しき者の弟として在るには、朔矢はあまりに脆く、歪んでいた。
耐えきれず、やがて堕ちた。
それは道理であり、否応なく突きつけられた現実。
そうでなければ、ならないのだ。
それだけが真実でなければ……。
「ああ……もういい。あんたが正道なら、俺は邪道《俺のやり方》で行く。これまでも、そしてこれからも!」
朔矢の纏う黒き靄が凝縮し、右手に集う。
やがてその形は変じ、一本の太刀を成した。
ありがとうございました。




