血鮮花
銀の月が、こちらを眺めている。
眩く不気味に輝き……まるで、夜の闇に引き込もうとしているかのようだった。
じっとりとした空気が、気持ちを乱す。
肌に衣服が張り付いたと感じるような、そんな不快な空気だった。
小さく、息を整える。
不快感に飲まれず、心を律し。
男の名前は志紀。
藤守志紀。
護国組織『陽気寮』。
その下部組織である『清嶺館』という名の道場の師範代を務める男である。
清嶺館は普段こそ単なる剣術道場であるが、今回のようにお役目を承ることがその本業にあたる。
つまるところの、《化物退治》。
しかも今回の場合は、今までのお役目よりもことさら危険で、そして重要なものであった。
清嶺館でも、志紀くらいしか受ける事が出来ない程に。
「おやぁ。まだ元気が良いのが残ってるじゃないか」
志紀を見つけた男は、そんな言葉を口にした。
その男は非常に若く見えた。
外見で言えば、およそ二十代前半程だろう。
病的なまでに細く、肌色の色も髪も全て白に染まり、目元に深い隈を持つまるで死人のようでさえある。
そんないつ死んでもおかしくないような若者の実年齢が、八十を超えているなんて、とてもではないが信じられないだろう。
志紀がいる場所は、廃村であった。
正しく言えば、今日廃村になった。
一昨日までは皆が元気に暮らしていた、千人を超える村が、たったの一晩、昨日の晩で、消滅した。
相手が単独であったのと、結界や拘束の類がなかった為、逃げ延びた者も少なくはない。
だけど、千人の半数にも満たなかった。
それを行なったのが、目の前にいる細身の男――『陰奇術士』である。
志紀が刀を構えた姿を見て、男は嗤う。
歓喜と狂気の混ざり合ったその顔は酷く歪んで見えた。
人と呼ぶに適さないと感じる程に。
瞬時、男の周りに黒い靄が纏わりつく。
この辺りに転がっている『死鬼』に堕ちた人の亡骸。
志紀が倒したその亡骸から、男は陰の気を集めていた。
黒い靄、陰気は霧状に変わり、黒から赤に変色する。
更に赤い霧は水滴のような液体となり、男の周りに纏わりついた。
ゾワリとする感覚を志紀は覚える。
それは殺気と呼ばれる類のものだった。
赤い液体は、まるで銃弾の様に射出され、志紀に襲い掛かった。
陰奇術――禍津血狂ふ雨。
それは文字通り、血の雨であった。
これが、清嶺館に討伐の依頼が来た理由。
無数の血の弾丸を生成し、射出するその術は、術士が構築される陽気寮に対し非常に有効なものであった。
多人数に強く、一方的に攻撃出来る術。
だから、志紀はここに来た。
己ならばという自負を持って。
志紀は襲い来る無数の銃弾に対し、己に当たる弾丸だけを見極め、刃にて受け流しながら、男に向かい前進する。
その様子を見て、男は満足そうに手を叩いた。
「ほぅ! ほぅほぅ! なんと! そのようなことが出来るのだな! 見事見事! まるで曲芸師よ!」
馬鹿にしているわけではなく、これでも純粋に敬意を表していた。
人間にしては、面白いことが出来るのだなと。
男がこれまで屠って来た術士は延べ十二人。
その中でこの術に対処出来た者はいなかった。
かと言って己こそが古今無双であるなどとも思っていない。
陰奇術士相手に無敗でいられる程の実力はないと熟知している。
つい最近でも痛い目を見たばかりであった。
男が侮っているのはあくまで『人』だけだった。
猿山の猿を見るような目で志紀を見つめる。
接近したところでどうなるという風に見くびりながら。
男にとってこの術は、あくまで牽制程度のものでしかなかった。
剣戟の音を鳴らせ、志紀は近づく。
男は、まだ距離があると思って何も対処をしようとはしない。
そこは既に、志紀の間合いの中だというのに――。
まばたきするよりも短い時間で、志紀は男の傍に立つ。
男は慌てて距離を取った。
だが、その時には志紀の刀は既に振り終えてある。
男の腹部に横一閃の深い傷が生じていた。
だが不思議と血は流れていなかった。
「浅かったか」
小さな声で、志紀は呟いた。
「は、はは……あはははははははは!」
男は嗤う。
歓喜を笑いに変え、怒りを笑いに変え、狂気と死の狭間にいることを悦びながら。
痛みさえも、男にとっては興奮する理由に過ぎなかった。
「良い! 君はとても良い! 素晴らしい! ああ、君なら私の渇きを癒してくれるだろうか!? いや、癒してくれるに違いなし!」
男は猛り、吼える。
そんな男に対し、志紀は何も言わない。
志紀は知っていた。
陰奇術士共と会話をしても意味がない。
彼らは皆、自分だけで世界が完結している異常者であるからだ。
「この世界で何が最も美しいか知っているかね? そう――血だ。人は血を流す為に生きている。それ以外に生きる理由はないと言っても過言ではないだろう。だから――きっと君の血は、美しいはずだ」
男の言葉と共に腕を振る。
赤い液体は斬撃となり、志紀に襲い掛かった。
志紀が刀で防ぐと、がなるような剣戟が鳴り響く。
並の剣士なら、一撃で刀が折れていただろう。
先程のような小さな血ではないからか、防ぐだけで後退するような、そんな重たい斬撃だった。
遠い異国には、人の血を糧に生きる化物が入るそうだ。
男はそれを聞いて、大層羨ましいと悔しがった。
美しい物を欲し、美しい物に満たされ、生きること。
なんと完璧な存在であろうか。
だからせめて名前くらいはと、その異国の名をもじり己に付けた。
男の名前は狂訃。
人の道に生きられぬ外道であった。
男は農家の次男坊として生を授かった。
可愛がられる長男と違い、兄の予備とし搾取される日々。
それは恵まれているとはとても言えない立場だったが、この村においては特別不幸というわけでもなかった。
男と同じような立場のものはごまんとおり、またそれ故に友と呼べる者も多かった。
男が人を止めるきっかけとなったのは、自分の本性に気付いてから。
それはとても下らない、不幸な事故であった。
齢十歳になる三男、つまり男の弟を、長男は犯そうとした。
深い理由はない。
両親に特別扱いされ、自分を特別と思った兄は自分の欲望を他者で満たす事が当然であると思っていた。
だが当然、弟は抵抗する。
知識がなくとも嫌悪があるのは当たり前のことであった。
それに長男が激情し、いつものように癇癪を起した。
違ったのは、偶然手元に鎌があったというだけで。
誰かを思いやることなどした事のない長男は、怒りに身を任せ鎌を全力で振り抜いた。
何も見ていない、何も狙っていない。
だがその一撃は、正確に、三男の首を引き裂いた。
ぱっくりと割れ、頭部があらぬ方向に倒れ、傷口から鮮血が咲き乱れる。
床か壁だけでなく、天井にも血の跡が残った。
恐ろしいことに、その段階でも、弟はまだ、死んでいなかった。
慌てふためく兄と、助けを乞う瞳を向ける弟。
だが、男はそんなもの見ていなかった。
男が見ていたのは、狂い咲く赤のみ。
男は赤に、魅入られていた。
その後、長男は己の凶行を次男である男に押し付けようとする。
『俺じゃない、こいつが殺したんだ! こいつは人殺しだ!』
だが兄の普段の行いと過去の実績、そして三男に対し欲情していたのを見たという証言により、信じる者はいなかった。
それでも、両親は兄の罪を次男である男に被せた。
兄がしたとわかった上でだ。
お前は兄の為の予備なのだから、兄の罪を背負うことは当たり前だ。
それこそが、彼らの言う家族愛であった。
その冤罪こそが、最後の後押し。
人と魔の狭間に立っていたのは、男の良心ゆえに。
だけど、天秤は傾いた。
救うべき家族が、天秤を傾けた。
その日、男は血に狂った。
兄を殺した。
両親を殺した。
庇ってくれた人達を殺した。
友達を殺した。
知り合いを殺した。
見知らぬ人も、旅人も、見かけた人全員を殺した。
ただの一度たりとも恨みで殺さず……全ては、美しき鮮血を見る為に。
その日からだった。
男にとって人とは醜き血袋であり、その血を噴き出す一瞬こそが美しいものとなったのは。
男が腕を振る度に、飛ぶ斬撃が放たれる。
それを躱し、弾き、防ぎ、切り伏せ、志紀はそこに立っていた。
「良く保つものだ」
男は呟く。
その表情には歓喜が見える。
早く血しぶきが見たい。
この素晴らしき男が、剣に全てを注ぎ生きて来たこの男が、苦悶の表情を浮かべ、鮮血をまき散らし、その白衣が赤に染まる瞬間……。
それはきっと、これまで見たことがない程に美しいだろう。
だから、早く見たい、早くそうしたい。
だが、いつまでたってもその時は訪れなかった。
「この程度か」
志紀は誰とも知れずそう呟く。
たかが飛ぶ斬撃程度、驚くに値しない。
こんなもの曲芸以下だ。
それでも、まだ何かあると用心していた。
陰奇術士がこの程度なわけがないからだ。
そう思い様子を見て観たが、それもなさそう。
端的に言って、退屈だった。
どうやら、陰奇術士の中でも外れの方らしい。
ダンッと、鈍い音を男は耳にする。
目にしたのは、刃を振り下ろした後の志紀の姿。
そして、自分の右腕がごとりと床に転がった。
血は流れない。
男の身体には、赤く熱い血液は流れていなかった。
「ぎ、ぎいいぃぃぃ!」
痛みで声にならない叫びが出る。
こんなわけがない。
たかだか剣で切られた程度、たかが腕が落ちた程度、なんてことはないはず。
これまではそうだった。
だけど、痛かった。
先に斬られた腹も酷くうずき、未だ再生もしていない。
男はようやく、目の前の剣士が自分の知る存在でないと知った。
これまで男を斬って来た剣には、少なからず恨みや憎しみが宿っていた。
村を襲った怒り、大切な人を殺された憎しみ、無我夢中で生きる為の恐怖。
そういった感情には、陰の気が多く宿り、陰奇術士には通用し辛くなる。
だから、男は自分が人相手には不死身であるなどと思い上がっていた。
清嶺館では、まず恐怖に飲まれぬ心を目指す。
夜に怯えず、強敵に怯えず、死に怯えず。
その果てに、渾身かつ全霊の一刀を会得する。
理想で言えば、陽の気のみに飲まれた斬撃。
だがそんなこと理論上不可能である。
それが出来るなら、清嶺館ではなく陽気寮にて術士となっている。
故に、目指すは感情を捨てた斬撃。
必死となって振り切った先に、必死の斬撃がある。
生きる為に、生の執着を捨て、殺す為に、殺意を捨てる。
志紀の剣は、その無心無想の境地に到達していた。
これは不味い。
男は気持ちを切り替える。
美の為、芸術の為とかもう言っていられない。
今の自分は捕食者ではなく、捕食される側だ。
気づくのが遅すぎたけれど、それでも男はそうであると認識した。
こいつは、自分を殺す為にここに来たと、今さらに。
「まだだ! まだ私は美しい者を、美しい者に――」
男は片腕に陰気を纏わせ、巨大化させる。
禍々しく、血管が大きく浮き出た巨大な腕。
その指先の爪は鋭く、赤く、小さな短刀程の大きさもあった。
その爪を纏めて束ね、男は志紀を貫かんと差し向けた。
逃げることさえ叶わない。
そう感じた男の、今の自分が放てる最も致死性の高い攻撃。
そうして……男の爪は、志紀を貫いた。
その胸に穴を開け、心の臓を穿って……。
貫いたように――男には見えていた。
確実に貫いた。
手応えも確かにあった。
だが、男が貫いたのは、単なる幻影であった。
はっと、男が我に返ると、志紀は男のすぐ傍で、剣を振り上げていた。
背面奇襲でさえない。
志紀は正面に、堂々と立っていた。
陰気に溢れた醜い夜の世界に、輝く月と、一振りの刃金。
容赦も、良心も、悪意も、恐怖もない。
純粋なまでに研ぎ澄まされた斬撃を、己の命を狩るその一閃を――男は、美しいと思ってしまった。
倒れ、伏せる男を前に、志紀は刀を鞘に納める――。
直後、何かを気配に志紀は気付く。
離れて待機している同門ではない。
それは、死の気配。
死鬼の群れが一斉に、志紀に向かい襲い掛かって来ていた。
まるで志紀の油断を狙ったかのような時期での襲撃だが、これは単なる偶然であった。
先程の男が後で楽しもうとして作っていた死鬼が解き放たれただけに過ぎない。
そして――志紀はこの程度で油断することもなかった。
その鯉口は閉じられず、親指は鍔にかかったまま。
志紀は秘奥の抜刀一閃を持って、無数の死鬼を切り伏せる。
煌めく一閃は、まるでそこに月があるかのようだった。
再び刀を鞘に納めると、声が聞こえた。
「お、お見事!」
あくまで遠くから、門下生がそう声をかける。
叫ぶ彼らは怯え、近づくことさえ出来なかった。
そんな彼らに志紀は何も言うつもりはなかった。
志紀の元に、一人の男が近づいて来る。
他の門下生と違い三十半ばを超える程の齢で、そして背筋の整った男だった。
「すまない志紀様。救援さえ出来なかった」
男は自分の実力不足を恥じ、詫びる。
師範代である己は、何かあれば自分を肉の盾としてでも志紀を助けるつもりであった。
だが、それさえ出来ない程の実力であった。
相手も、こちらも。
志紀はその男に、丁寧な礼を向けた。
「様はおやめください。私のような目下のものに」
その志紀の言葉に男は困った顔を見せる。
これだけの実力者を見下せというのは酷な話であった。
「とりあえず、戻ろうか。報告をしなければ」
男の言葉に、志紀は頷いた。
あの日から、およそ一年。
その間に、志紀は既に陰気術士の討伐に二度も成功している。
それでも志紀は、自分を師範代最下位の位置から動かそうとしなかった。
ありがとうございました。




