胡蝶之夢 序――微睡み
「構え」
正玄の静かな声で、二人は立ち上がり、刀を鞘から抜く。
志紀はまっすぐ、正眼の構えで相対する。
朔矢は相変わらず脱力して、不思議な構えを取っていた。
力を抜きすぎて剣の切っ先が地面に向いた、とても構えとは呼べない姿勢。
強いて言えば、下段亜種だろうか。
それでも、こと、この状況下なら誰も朔矢の態度に不満を見せない。
相対する二人の剣気は、そう思うことさえも許さない。
門下生の剣士たちは、張り詰めた空気に気圧され、声さえ出せない状態となっていた。
師範代相当でさえ、冷汗を流す。
この中で平然としているのは、当事者の二人と正玄、そして沙夜くらいであった。
「――始め!」
正玄の叫びで、張り詰めた緊張しきった空気が一変した。
彼らの持つ模造刀は実戦用の刀と比べ相当軽い。
それでも、3斤(約二キロ)はする。
鍛えている剣士とて木刀のように振り回せるものではない。
だというのに、朔矢は志紀の背面に回り込んでいた。
一瞬のことで、まるで消えたとさえ感じる。
対峙する志紀だけでなく、多くの門下生さえその動きを見ることは叶わなかった。
見えたのは、正玄のみ。
朔矢はその刀の重さを利用し、一瞬の踏み込みにて背面を取っていた。
流派としての技ではなく、独自でそこまで練り上げられた歩法。
紛れもない、天才の証である。
正玄さえ真似出来ぬその歩法とそれを実戦で繰り出す度胸。
末恐ろしい……そう、感じられた。
が、対する志紀もまた常人ではない。
視界に捉えられず見失っているのに、何故か背面にいる朔矢の位置を完全に特定していた。
朔矢の放つ斬撃を、志紀は振り抜きもせず、すり足の軸移動のみで躱す。
志紀には、斬るという意思が見えているかのようだった。
志紀はゆっくりと朔矢を正面に捉える。
不動――。
背面からの奇襲にさえ動じないその姿は、まるで岩のようであった。
たんっと、何か軽い音がした。
その直後、門下生たちの耳をつんざくような剣戟の音が鳴り響いた。
最初の軽い音は、志紀の踏み込み。
動作が始まるまでは緩やかな動きだったのに、そこからは目にもとまらぬ動きであった。
何も特別なことはしていない。
門下生誰もが出来る、単純な振り下ろしだ。
その単純な振り下ろしが、認識出来ぬ程の速度にまで昇華されていた。
鍔迫り合いの中、志紀の剣を朔矢は押し返し、弾き飛ばす。
志紀は一歩引き、再び正眼の構えを取った。
朔矢が笑っている。
志紀はその表情に、安堵を覚えていた。
最近、朔矢が苦しんでいることに気付いていた。
それを兄貴分として、どうにかしてやりたくはあった。
だが如何せん、己という身は矮小で、そして融通が利かない。
女性への恋心で悩んでいるなんて言われた日には、悩む人間が増えるだけとなる。
だから、朔矢が相談してくるのを待っていた。
例えどのような相談でも、聞こうと考えながら。
未だにその理由はわからない。
だけど、対峙してわかることもあった。
朔矢は『何も変わっていない』。
何かが変わり、苦しむようになったのかと思っていたがそうじゃない。
朔矢は己の知る朔矢のままであった。
己の弟のままである。
そう、その剣が語っていた。
剣にて語り合えば、わかることは多い。
特に、愛しき弟であるのなら猶更だ。
その剣に迷いはなく、その剣から苦悩は感じない。
まっすぐで、ひたむきで、だけど自由。
朔矢の剣は、変わらず自由な剣であった。
なら、何に悩んでいたのか。
当主となることか?
それなら悩む必要はない。
兄の目から見ても、朔矢は十分当主となる器だ。
だとしたら――。
そこまで考え、思考を絶つ。
志紀は自分が不器用で、そして思慮の浅い人間だと知っている。
故に、自分が朔矢の悩みを推測するなんてのは百害あって一利なしの行動だ。
朔矢の望み通り、全力を出すこと。
きっとそれで、朔矢の悩みは晴れるはず。
そう信じ、志紀は朔矢に剣を振るった。
「――集中しろ」
兄弟子として、朔矢を叱責する。
朔矢はまるで子供がじゃれるような――いや、犬が遊んでもらえているような、そんな嬉しそうな気配を放っていた。
「集中してるよ。これ以上ないほどにね」
朔矢の答えに志紀は困った顔を見せる。
実際、朔矢の気配はじゃれる子犬であっても、これまで対峙してきた誰よりも強いと感じられた。
「――お前は、純粋なのだな」
その言葉に、一瞬朔矢は泣きそうな顔を見せる。
だがすぐ元の笑みを浮かべ、言葉の代わりに鋭き剣戟を投げかけてきた。
どう返してくれると言わんばかりに。
観客たちの顔は真っ青になっていた。
その戦いはあまりにも苛烈で、想像を超えていた。
師範代でさえも、怯えが見える。
彼らも同程度のことは出来る実力を持っている。
むしろ今の戦いより更に上であるという自負も。
違うのは、彼らが持っているものが木刀ではないということ。
あんな重く、そして容易く命を奪うものを、兄弟分に容赦なく振るえる二人。
肉体的な意味でも当然、精神的な意味でも想像が出来ない。
もし怪我したら、怪我させたら、それ以前に殺しでもしたら……。
自分達なら必ずそう考え、あんな鋭く振るえない。
あんな、憎み合う者同士のように、全力でなんて……。
そのあり得ない光景が目の前で繰り広げられているという事実に、彼らは怯えていた。
清嶺館門下生最大の敵は『恐怖』である。
陰奇術士との戦いなんてのはそうそうある者ではない。
清嶺館での主な役割は陰奇術士が生み出し放置する化物、人を喰らう亡骸の『死鬼』である。
その死鬼を討つことに特化しているのが、清嶺直心一刀流だ。
殺すではなく、壊すこと。
その剣技は単なる殺人には不要な破壊が求められる。
故に、剛剣。
あらゆるものを一刀にて両断する、その術を手に入れること。
鍛え抜き、強靭となる肉体。
積み重ね、磨き抜かれた技術。
そして、何者にも怯まぬ精神。
心技体、その三つを合わせることこそが、清嶺直心一刀流を学ぶということだ。
その中でも、特に厳しいのが精神、心の修行である。
夜空の下、心を覆い隠す闇の中……。
襲い来るは、青白く光り、牙を向く屍。
死さえも奪い、同胞にせんとする悍ましき陰。
対峙せんその時、平常心を保つことがどれだけ難しいことか。
事実、それが出来る門下生は三割にも満たない。
多くの門下生が、己の心が未熟であると認識できている。
だからこそ、目の前の光景は異質過ぎた。
同期で、兄弟同然で、誰もが親しいと知る二人。
その二人が、全力で真剣をぶつけ合う姿。
剣戟を鳴らし、命を奪い合う光景。
端的に言えば、恐ろしかった。
理解が、出来なさ過ぎて。
何故、心技体全てが揃い、殺し合えるのか、まるで理解出来なかった。
そうでないとわかっているのは、師範総代とその娘の二人のみ。
特に総代の正玄は、彼らがまだ手を抜いていると理解していた。
そう……彼らは殺し合ってさえいなかった。
まだ――。
「退屈、だろうな」
父のぽつりとした呟きを聞き、沙夜は尋ねた。
「退屈……というのは、どういうことでしょうか? お父様の目から見れば、この戦いも退屈ということで?」
「――いや、私ではない。二人が……だ」
「何故?」
正玄は、ふっと、軽い笑いを見せる。
滅多に笑わない父の笑みに、沙夜は少しだけ、驚いた。
「じゃれあい……いや、準備運動に近い。型のようなものだ」
「これで……これだけ激しくて……ですか?」
「朔矢は、建物を心配しここを選んだ。そういうことだ」
「……まだ、まだ激しく舞うのですね。お二人は」
そう呟く沙夜の表情には、歓喜が宿っていた。
周りが顔を青ざめさせる中、怯えるでもなく喜びを見出す。
戦いの中にある歓喜を知る事が出来る。
正玄は、娘の中に己の血が宿っていることに気がついた。
女であるから、その才が生きることはないだろう。
だがもし、沙夜が男であったのなら、あの二人と肩を並べていたのかもしれぬ。
そう考えると、少しだけ寂しいという気持ちを正玄は覚えた。
ありがとうございました。




