本当の願い
どうしてこうなった。
何が悪かった。
俺の、何が……。
朔矢は頭を抱える。
目の前にあるのは、多くの師範代、師範補佐連名による、嘆願書。
彼らは、支援するから朔矢が次期当主となるよう求めていた。
こいつらの目論見はわかっている。
勝ち馬に乗りたいのだ。
こいつらがそんな馬鹿な動きをするほど、朔矢が勝ち馬となってしまったこと。
それは、朔矢にとって不本意で、そして最大の誤算であった。
最悪を幾つ付け足しても届かない最悪。
それほどの事態であった。
己が、次期当主の候補になるということは。
これまでずっと、ただ一つの為に泥を被り続けた。
にいさんが、志紀が当主となる為。
これまでの苦労は、ただそれだけの為にだ。
邪魔にしかならない馬鹿共を黙らせた。
時に排除した。
殺人だけは行わなかったが、それは逆に面倒となるからであり、それ以外の理由はない。
自分の派閥も形成した。
それは『当主志紀応援派閥』であった。
そのはずだった。
だが、今や朔矢の派閥は朔矢を当主とすることしか考えていない。
どれだけ否定しようとも、誰も納得しない。
理由もわかる。
わかってしまう。
悲しいことに、朔矢には十分過ぎる程政治を、流れを理解する能力があった。
当主や、志紀と違って。
つまり……全てが無駄であったのだ。
自分がどれだけ邪魔者を排除しても、意味がなかった。
最大の邪魔者が――ここにいるのだから。
次期当主、藤守志紀最大の障害は、朔矢。
この構図こそが、最悪たる理由。
にいさんが幸せになる為には、朔矢は存在してはならない。
朔矢の幸せは、にいさんを支える立場にしか見いだせないのに。
噛み合わない。
絶望的に、状況が噛み合わない。
どれだけ藻掻いても、状況が改善されない。
過去のしがらみが、蔓が、全身が纏わりつき動けないように感じられる。
更に最悪なのが、志紀がそれに納得しているということだった。
『昔ならともかく、今のお前なら、私より相応しいだろう』
それが志紀の言葉だった。
朔矢は、何も言えなかった。
立場を奪っておいて、何を言えと言うのだろうか。
「――苦しい」
言葉が、洩れる。
まるでここは、水の中だ。
幾ら藻掻き、足掻いても水の底から出れない。
ずっと息苦しいまま、耐え続けなければならない。
そして耐えたその先にあるのは、誰にとっても幸せになれない道しかない。
何度も吐いた。
耐えきれず、堪えきれず、どうやったらこの苦しみから抜けられるかずっと悩み続けた。
時間は、状況を悪化させる一方だった。
どうすれば良い。
何をすれば、不幸から逃げられる。
いや、そもそも……一体何が、俺の幸せだ。
悩み、苦しみ、考え――そして、沙夜の顔が、脳裏に過る。
あの、無垢なる笑顔が。
それは愛情なんかじゃない。
むしろその正反対。
誰からも愛される、純真無垢たる沙夜が、心の底から憎い。
彼女が何か悪いことをしたわけじゃない。
ただ、彼女の立場が妬ましいだけ。
つまり……ああつまり、なんてことはない。
どうして志紀を支えたかったか。
何故殺意にも似た感情を沙夜に宿すのか。
そもそも何故、今ここまで苦しい思いを抱えているのか。
その答えは全て、たった一つの感情に収束する。
『朔矢の世界には、志紀しか存在していない』
志紀に抱えていたこの気持ちが『愛』であり、沙夜に対しての殺意が嫉妬であると認識した時、朔矢の心に、一際大きな罅が入る。
それは、許されてはならない想いであった。
鏡を見て、己が顔を映す。
女顔……とは言い辛い。
だが、男らしいともまた違う。
子供っぽい、と言えば良いだろうか。
だから化粧したら、何とか女に見えなくも――。
朔矢は己の唇に触れながら、変わる自分を想像に――我に返った。
「ふ……ふざけるな!」
叫び、鏡から目を反らす。
今、自分は何を考えた?
どんな惨めな考えを持った?
さっきまでの自分を、ありもしない妄想を、必死に否定する。
胸が苦しくて、心が痛くて、もう何も見えなくて。
それでも、その考えだけは認めてはならない。
男だからこそ、朔矢はこれまで彼とずっとに一緒に居られた。
その自分まで否定すれば、朔矢には何もなくなってしまう。
心を取り戻したあの時からの全てを、己が否定することになる。
そもそも――化粧をしようと、どう偽ろうと、男であるという事実を変えることは出来ない。
だから……それは惨めになる以外、何の意味もなかった。
「は、はは……あはは……」
笑いながら、愚かで惨めな馬鹿の顔を鏡に映す。
ご丁寧に被害者ぶって、涙まで流していやがった。
笑えてくるくらい、滑稽だった。
「世界が、二人で完結すれば良いのに……」
やっと、本当の願いを理解出来た。
朔矢の真の願いは、ただそれだけ。
愛し、慈しみあう夫婦でも、何者にも避けぬ比翼連理でもない。
二人以外に何もない、閉じた煉獄。
それこそが、真なる朔矢の願いだった。
だけど、そんなものはこの世界にない。
そんなものは――。
ふと、朔矢はそれを思い出す。
自分が彼を見て、彼は自分を見て、そして他に何も目に入らない瞬間。
世界が二人だけになったと感じられる瞬間。
即ち――戦い。
模擬戦のあの瞬間だけは、嫌なことを全て忘れられた。
あの一瞬の邂逅は、ただただお互いのことしか考えずに済んだ。
ふと、それに気づけば彼の戦いが酷く淫靡な物に思えて来た。
まるで、身体を交わらせているかのように。
始まりの、綺麗な夢は壊れた。
今の状況では、どうあがいても当主となる兄とそれを支える己なんてことにはならない。
壊れ、崩れ、歪み、そして本質を知る。
だから、続いての夢はどこか破滅的なものであった。
『二人の世界で、終わりを迎えたい』
それ以外に、愛される方法がない。
朔矢は、彼に愛《殺》されたかった。
ありがとうございました。




