白目の兎
しばらく停滞していた執筆のリハビリと練習を兼ねて書きました。
市内にある総合病院の待合室で、木々正巳は、
赤色のバックライトが照らす表示灯を見ていた。
胸につかえる不安を押し殺しながら。
表示灯が光る扉の奥が、どのような状況になっているのか、
見届ける事を拒否した彼に知る術がなかったからだ。
ふと、なぜこの様な状況になったのかと自問自答すれば、
彼は決まってあの日の事を思い出す。
大した意味もなく、場の流れでついた一言の「嘘のうわさ話」と、
それを引き金にした奇妙としか形容できない謎の数々。
彼は後にも先にも、あんな『モノ』に出会った事はない。
正巳は、反復して自問自答する。
どうしてこんな事になったのか。
それを深く考えるのならば、
あの一件を思い出さなくてはならない。
きっと、あの一件と、今は地続きで繋がっているのだから。
【1】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
───五年前。
日差しの強い、夏真っ盛りの昼下がり。
正巳は、カフェの駐輪場に辿り着いたばかりで、
上がった呼吸を整えていた。
不健康な白い肌は、日に焼けてピリピリと痛み、
肥えた体は、源泉だとでも言いたげに汗を垂れ流している。
自転車で、片道1.5km、10分程度の距離だとしても、
半ニート状態の大学生からすれば、歴とした重労働に違いなかった。
汗ばんだ肌とポケットの相性が悪く、悪戦苦闘しながら
スマートフォンを取り出すと液晶のデジタル時計は、14時27分を示している。
「間に合った…これで御小言は避けられたな」
また違った意味合いの汗を拭い、
正巳はカフェの入り口へと足を運んだ。
店内に入り、中を見渡すと、
入口から見て、一番奥。
四人掛けのテーブル席にチョコンと座る
小柄な女性で目線が止まる。
正巳は深呼吸してからゆっくりと近づいた。
「み…水芽、来たよ」
店内の薄いジャズに、ギリギリ勝てるくらいの消え入りそうな声だ。
女性に声を掛けた正巳は、相手の了承が無ければ
自由に動く事が出来ないのか返事を待って席の前に立ち尽くす。
「……座ったら?」
浅葱色のワンピースに身を包んだ小柄な女性。
樺木水芽は、マンガ本に目を向けたまま、
正巳に一瞥も向けず淡白にそう言うと、
ズズッと、ストローを使わずに琥珀色のアイスティーを啜った。
「おう……おお……久しぶりだな…うん」
正巳が着席して直ぐに、後ろで控えていたスタッフが注文をとる。
彼は、落ち着きなくメニューをひっくり返し、
どもりながら「アイスメロンソーダのさくらんぼ抜き」を注文した。
正巳は幾分か気まずい沈黙に耐えていたが、空気に耐えかねて、
話題を探して見るものの、家で体たらくな毎日を過ごしている彼には、
この場を凌ぎ、会話に繋げられる話題が見つけられなかった。
「ぁ……っと……ん〜〜……」
遂に、どうにもこうにも、本格的に空気に耐える事が難しくなった正巳は窓の外を見る。
店の向かいにはペットショップとその店先に並んだ自動販売機が見える。
そしてとうとう彼は、デタラメな話題で場を乗り切ろうと試みる。
「あっ……そうだ。最近聞いた、うわさ話なんだけどさ
ウサギにエナジードリンクを飲ませると目が白くなるらしいよ」
と、いかにもSNSや、雑談掲示板にありふれている様な、
いかにもな話を語る様な口調だ。
正巳は、その苦し紛れの嘘のうわさ話を、目の前のぶきっちょに投げかける。
「へぇ〜。そうなんだ」
意を決した正巳の精一杯のデタラメを前に、
水芽は、それはそれは淡白な言葉を持ってして、
彼の戯れ言を一刀両断する様に、
パタンと、マンガ本を閉じると
机の上に置きタイトルが見える様に、くるりと回して見せた。
「最近さ。こう言う転生モノ増えてきたよね」
「…あっ…うん。おもしろいよな」
「この主人公ね。正巳に似てる」
「そ…そう?……なんか…照れるな」
「正巳はさ、自分が異世界に転生したらどうしたい?」
「…転生?……転生か…う〜ん。魔法とか冒険者ギルドとかあるの?」
「さぁ?あるんじゃない?異世界だし」
「じゃあさ、魔法を沢山勉強してさ、ギルドで冒険者になって
ヒロインを助けたりしたいな。仲間に認められたりさ!」
「…やっぱそうなんだね。ねぇ、気付いてる?
こう言う異世界転生もので、主人公がやってる事ってさ、
別に異世界に行かなくても出来る事ばっかりなんだよ?」
「……いや…別に…俺は聞かれたから答えただけで…」
「ねぇ。なんで夏祭りの展示会に来なかったの?」
「…そんなの……俺が居なくても誰も気にしないし」
「…誰も、気にしないの?」
「……うん……と言うか、なんだよ。
別に俺の勝手だろ?
減点されて困るのは俺なんだしさ」
「…こっち見て、顔を見て話しなよ」
水芽の威嚇じみた言葉に、正巳は無意識に反らしていた視線を、
恐る恐る彼女の顔に合わせて見る。
途端、心臓がドキリと跳ねるのを感じた。
呆れた様な、哀れむ様なそう言う顔だ。
正巳が一番恐れる人間の顔だ。
「これ。来月からの講義の予定表。
別に何でも良いけどさ大学くらい来なよ。
この赤マークのとこ、私も出る講義だから」
「……おお……ありがと」
水芽はそう言ってA4用紙を机に置くと荷物をまとめ、
自分の支払い分を置いてから、そそくさと出て行ってしまった。
「世話焼くなよ…めんどくさい」
樺木 水芽は、正巳の幼馴染だ。
昔から何かにつけて彼の世話を焼きたがる
目の上のたんこぶ的な存在だ。
正巳は、彼女の事が苦手だった。
ひと時の会話からでも容易に分かるように、
彼女の言葉、行いによって正巳のプライドは、
幾度となく傷つけられてきたからだ。
そして、そんな関わり方を続けていく内に、
彼の苦手意識はドンドン育ってゆき、
今では、水芽の顔も、体型も、声も、ファッションも、
その全てに拒絶感を抱く様になっていた。
正に、坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い程にだ。
そうだというのに、またこうやって、
これ見よがしにマウントを取る様に関わってくる水芽から
正巳は逃げ出したい気持ちで一杯だった。
「お待たせしました。ドリンクをお持ちしました」
正巳は、思考の隙間に現れたスタッフに、
うつむく様に会釈した後、目の前の好物に思わず顔がほころぶ。
「まぁ…良いや。こうやって赤丸してくれてるんだから、
それ以外の講義を受ければ良いのさ〜」
そう楽天的になった正巳は、ストローで甘いやつを一口すする。
やがてお供と言わんばかりにポケットからスマートフォンを取り出し、
SNSアプリケーションを立ち上げると、情報をツマミにし始める。
「………へっ……パース狂ってんじゃん。もっとデッサン積めよな」
「……いやいや…これじゃ寒色のバランス悪くなるだろ…安易に青系に頼りすぎなんだよ」
「………………ん………」
「………え?」
いつも通り、SNSの投稿を見て、鼻を明かした様な愉悦に浸っていた正巳だが、
とある投稿を見て、みるみる内に顔色が変わる。
それは、とある一言のつぶやきだった。
正巳は、その投稿主に強い好奇心を感じ、
一体どんな人物なのか知りたくなり、
投稿主の他の投稿を大急ぎで調べ始める。
そうして分かった事は、その投稿主が
この街から遥か東北に位置する
A県に住む中学生である事と、
数分前につぶやかれたものだとわかる。
以下の情報を得て、正巳は頭を抱えた。
「どういう事だ…。あり得ないだろう
偶然にしても出来すぎている」
どうして正巳がこんなにも困惑しているのか、
それは、その中学生が投稿した内容に、
あり得ない事が書かれていたからだ。
~以下、SNSの投稿内容~
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
今日ね、友達から聞いたうわさなんだけど〜
ウサギにエナドリ飲ませたら、目が白くなるらしいんだよー。
びっくりだよね〜 ♯うわさ話♯都市伝説♯詳しい人見て♯アンチ嫌い
【コメント】
「うそつくなよ」「食べ物が虹彩に影響する事はあり得ません。もっと勉強しましょう」
「友達って大概自分だよな」「かわいーね。どんなパジャマ着て寝てるのかな?」
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
~以上説明終わり~
【2】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
四角い窓が並んで光るビルの数々。
その目まぐるしく流れる夜景を横目に、
正巳は、鼻の頭を撫でながら物思いに耽っていた。
間違いなく、彼の人生で一番奇妙な事が起きている。
「ウサギにエナジードリンクを飲ませると目が白くなる」
そんなものは、デタラメのうそっぱちだ。
それも正巳本人が、ついたのだから間違いはない。
証明書つきの嘘である。
だというのに、それが自分とは全く関係の無い遠くの街で
うわさ話にして語られた。
この謎について、正巳はできるだけ現実的な考察を試みた。
まず思いついたのは、あのうわさ話を聞いた人間、
つまりは水芽の仕業という憶測だ。
彼女の持つ別アカウント、俗にいう裏アカというやつを使い、
投稿した‥‥という説なのだが。
どう考えても、水芽がそんな事をする意味がわからない。
ただ一番手っ取り早いので、
そういう考えに至ったに過ぎない。
しかし、何をどう考えても
他に有力な推測が出ない内は、
脈絡のないこの説が最有力だ。
あの後、家に帰ってから。
様々な方法で、つぶやきの事を調べ上げて見たが、
投稿主がネットリテラシーの無い
女子中学生である事が明白になるばかりで、
投稿された内容や、写真に写る建造物から
住んでいる町や、大体の家の場所まで特定できたが、
肝心のうわさ話については、何もわからなかった。
しかし、その情報からは、
その娘が確かに存在するという
証明じみたものを感じられる。
そうすれば、例の説は否定され
いよいよ訳が分からなくなる。
本当にただの偶然だとしても、
それなりの証拠がなければ納得できない。
その感情が、正巳の好奇心を強く刺激した。
好奇心は彼を、東北に向かう新幹線に向かわせたのだ。
正巳は「我ながら良く行動に移したものだ」と、自分に感心していた。
今までここまで能動的になった事など無かったからだ。
だが、このミステリーじみた謎が、どうにも気になってしまい
居ても立っても居られずに行動に移した次第だ。
とは言え。
あまりにも無計画に家を飛び出して来たのが、まずかった。
スマートフォンの充電を忘れてしまい、
少し前にバッテリーが底をついたのだ。
正巳は目的地に着くまでの時間を、持て余していた。
ふと正巳は、水芽に渡されたA4のスケジュール表から、
大学の履修表を完成させておこうと思いつく。
前の席に備え付けられたテーブルを降ろして、
リュックの中に長らく入れっぱなしだった履修届を出してみるが、
家に帰った時、玄関に例のスケジュール表を放り投げた記憶を思い出し、
ため息混じりにうな垂れた。
正巳はこういった虚無に包まれた時、いつもひねくれた妄想に囚われる。
彼の脳裏には、様々な光景がフラッシュバックして巡る。
「描きかけのイラストレーション」
「口汚く作品を否定する講師の言葉」
「遠くの席の水芽がこちらに向ける視線」
「パソコンに写る、くだらない動画に大笑いする自分」
グググと、暗いネガティブな気分が押し迫る。
「はぁ〜っめんどくさい」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で、そう呟いた正巳は、
再び、外の夜景に視線を返したが
窓に反射した自分をできるだけ見ないように努めた。
「あれ?木々君じゃない?」
不意に現実世界から、自分を呼ぶ声が聞こえ、
意識を外へ向ける正巳。
彼は声の方向に顔をやり、自分の名前を呼んだ正体を見定める。
「やっぱ木々君じゃん」
「あっ‥千秋先輩?」
正巳に声を掛けたのは、彼と同じゼミで、ひとつ上の先輩、
山地千秋だった。
「君も里帰りなのかな?……あ…いや。
確か君はこっちが地元だったね」
そう言いつつ、正巳を上から下まで見渡すと
すっと目元で優しく微笑み、人懐っこい仕草で彼の隣に座る。
「横。誰もいないんでしょ?少し構ってよ」
「はぁ…まぁ……いいですけど」
「君さ、最近どうしてるの?
自宅のアトリエで目下制作活動中…ってわけでもないだろうね」
「いえ。 それなりに独学で…実験的なイラストとか…まぁ、それなりに」
「へぇ。そっか」
正巳がプライドを保つ為の嘘をついたのは、
誰の目から見ても明白だった。
「そう言えば。水芽ちゃんだったよね?世話焼きの女の子。
あの子よくゼミに室に来てるよ?
他人のゼミ室になんて何の用も無い筈なのにさ。
なんでだろうねー?」
「さぁ…暇なんじゃないですかね」
「……そっか」
正巳には、千秋が言わんとする事が分かっていた。
水芽が心配してるから、早く大人になって
いつまでもダサい真似してないで大学に来い。
そう言いたいのだと。
しかし、正巳にとっては、迷惑な話だ。
そうやって水芽が嫌なハードルを上げるから余計に行き辛くなる。
正巳にとって、水芽の行動は、すべて自分を否定する行動なのだ。
「あっ、そう言えばさ。
水芽ちゃん、夏祭りの展示会で、体育科の人達に声を掛けられてたよ?
ほら、あの読者モデルやってる洋一くんって知ってるでしょ?」
「…いえ。知りませんけど」
千秋は、正巳が大学一の有名人を知らない事に「マジで!?」と驚愕したが、
正巳にとっては、有名人の洋一くんなど、どうでも良く
重要なのは、その吉報が意味するところである。
水芽とは人間的に合わないが、体育科のノリには、
それ以上に嫌悪感を覚える質なので、
このまま自分に合わない連中同士でひっつき、
どこかへ行ってしまい、自分に関わらないでくれれば良いと、そう思ったのだ。
「まぁなんだ。そんなのは全部オマケとして。
木々くん、無理にとまでは言わないけどさ。
大学にはさ…来なよ」
その言葉に
正巳の全身に、寒気に似た症状が走る。
また見下された。
そう思ったのだ。
「…大学行っても、家に居ても、
やることなんかは、そう変わりませんよ?
ほら、社会人がリモートワークとかやっているじゃないですか?
アレと同じですよ」
正巳の苦し紛れの言い訳を受けた、
千秋は、再び優しい笑顔に戻り
それを「しかたが無いなぁ〜」と受容する。
「まぁまぁ、そう身構えずにさ
そうだ。良い事がある。
今度大学に来た時にさ、一緒に学食に行こーよ。
この大先輩様がパンケーキを奢ってあげようじゃ無いか」
「パンケーキですか?」
「そうそう!
あっ!学食って言っても、二階のカフェの方ね?
あそこのパンケーキすごいんだよ?
ホカホカの生地に、四角いバターをひとつ
蜂蜜はたっぷりさ。アレは元気になるよ」
そう言う千秋の、表情豊かな声色と屈託のない笑顔には、
正巳にそれを強要する連中に見る、
人を見下して腫れ物扱いする雰囲気が感じられない。
だから、正巳は素直にそれが嬉しかった。
「ありがとうございます。
必ず、いつか」
【3】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
翌日、A県の適当なネットカフェから出てきた正巳は、
リクライニングチェアの癖が付いた腰を、ストレッチでほぐしてから
件の中学生が住んでいると思われる地区を目指して移動を始めた。
道中、正巳はふと冷静に考えてしまう。
どう言う事情があるにせよ、見知らぬ女子中学生のSNSから、
住所を特定して、家の周りをうろつくなど、
ストーカー気質の変態以外の何者でもない。
「何やってんだろうな…俺」
正巳は、自分を取り巻いている環境、
様々な事情がぐるりと頭の中で巡り
自己嫌悪に憂鬱になる。
しばらく歩き詰めだったのでネガティブになるのだと、
正巳は目線に移った公園に足を向かわせ
缶コーヒーを片手にベンチで一休みする。
しばらく『何もしない』をして、心を鎮め
ボーッと公園の入り口を眺めていた正巳は、
そこに自然と現れた人間を見て、しばらく眉をひそめ
怪訝な表情を崩さなかったが、急に弾けるように立ち上がる。
「なっ……なんで」
すると、手に持ったコーヒーが衣類に飛散するのにも構わず、
一直線に公園入り口まで走り始めた。
「おい!!お前!!ここで何してんだよっ!!!」
意図せず大きな声を張りあげた正巳は、
肩を上下させながら目線の先を睨めつける。
それは、中学生の制服に身を包んだ小柄な女性……。
遠回しに言えばそうなのだが、もっとストレートに表現するならば、
そこに居るのは、女子中学生にコスプレした樺木 水芽だった。
「……はい?なんですか?」
「お前!こんな格好してどう言うつもりなんだよ!
やっぱりお前が仕組んだ事なのか!?」
「ちょっ!ちょっとなんですか!!
ケーサツ呼びますよ!!」
「はぁ!?そりゃこっちのセリフなんだよ!!」
「もう!!!知らないから!!!」
少女がそう言った直後、耳を劈くような
けたたましい音が周りに響いた。
———————————————————————————————————
「お兄さん、落ち着いた?」
「うん……すまん」
公園のベンチに座る衰弱しきった大学生と、女子中学生。
あの後、我に返った正巳は、
出来るだけ慎重な言葉で誤解を解き。
なんとか防犯ベルを止めてもらう事に成功し、
缶ジュース一本を代償にして
なんとか話を聞いて貰える状況まで収めたのだった。
「……で、SNSのつぶやきを見て、こんな田舎町まで来たの?」
「ああ…その投稿の内容がどうしても気になって、真相を確かめに来た」
「…フツーにキモいね」
正巳は、「ぐっ!」と、感情を飲み込んで見せる。
どうにか、その最大威力の特攻を受け止める事に成功した、
ギリギリ、首の皮一味で耐えている。
しばらくぶりで忘れていた事だったが、
女子中学生は、こう言う性能の高い
言葉の攻撃を簡単にぶつけてくる。
しかし。
正巳はそんな事に思考を割いている余裕はない。
彼女の見た目に、例の投稿と同じくらい
奇妙な衝撃を受けたからだ。
目の前の中学生は、どこからどう見てもあの『水芽』なのだ。
声も、顔も、髪の質感まで全く本人と同じで、
唯一違うとすれば、元の小柄な体が少しばかり縮んでいる事と
やけに似合う中学生制服に袖を通している事。
そして、よくよく話を聞くと。
更に奇妙な事が判明する。
「それでさ、君はなんて名前なの?
みずめって…そんな名前じゃないだろうね?」
「みずめ?…違うけど?」
「そっか…そりゃいい
で?名前は?」
「樹々勝美」
「……ん?なに?」
「だから!きぎまさみだって!!」
「……いやっ…あれ?
俺…名前言ってなくない?」
「はぁ?
聞いてないけど?」
「……んん?って事は…
君の名前がきぎまさみって事?」
「だからそう言ってるじゃん」
そう。
なんと中学生の名前は、漢字は違えど
正巳と同姓同名だと言うのだ。
———————————————————————————————————
謎は一層深まる。
・正巳がついた嘘が遠方でうわさ話として呟かれた。
・そこで出会った子供が知人(水芽)と同じ外見をしている。
・更にその子は、正巳と同姓同名。
もうここまで来ると、ただの偶然、勘違いでは済まされない。
絶対に何かあり得ない事が起こっている。
正巳は感覚的に思う。
この謎はきっと『解き明かす』と言う類の、真相のある話ではなく、
そう言うミステリー的なカテゴリーに分類できない、
もっと、どうしようもない『何か』だと。
これ以上踏み込んでしまうと、何か大変なものに辿り着いてしまう。
そう言う予感がしていた。
「……これさ梓ちゃんだよ」
「あ…梓?」
「だから、このうわさの投稿の事!!」
「え?…知ってる子なの!?」
「うん。だって同級生だもん
よく遊んでる子だよ」
正巳は「なんと言う事だ!立て続けにこんな事が起きるなんて!!!」と、
驚愕したが、こればっかりは、そこまで奇妙な事でもなく、
特定した住所に自ら足を運び、その学区内に居た子供に話を聞いているのだから、
知人である可能性は大いにあり得る。
だが、奇妙な偶然の連続に当てられた正巳は、その真実に頭が回らない。
「私、家知ってるから。だから一緒に行ってあげてもいいよ」
【4】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
正巳は、前を歩く勝美に連れられながら、
そのやや見慣れた後頭部に目をやり、物思いに耽っていた。
謎を追いかけてA県にまで来たと言うのに、
どうして水芽の面影を感じる羽目になるのかと。
もうほとほとうんざりだ。
いい加減にしてほしい。と、
「……ん!」
ふと、前を歩いていた勝美が立ち止まり、右手を正巳に向けてくる。
「…え、何?」
「この辺り車通り多いから
手ぇ繋いであげる」
「……いや…えっと……」
「なんかお兄さん危なっかしいからさ
あー…もしかしてさ恥ずかしいの?
大人の癖に変なのー!」
勝美は、あははっ!と、顔を崩して笑う。
正巳はその姿を見て既視感に囚われた。
遠い記憶、水芽との記憶だ。
水芽もこうやって無邪気に笑ってる姿があった。
正巳がふざけた調子でおどけると
水芽はケラケラと楽しそうに笑った。
そう言う思い出の数々が浮かび上がって正巳に問いかける。
きっと勝美の姿が、水芽とそっくりな事で、
子供の頃の二人に戻ったような錯覚が起こっているせいだ。
いつからだろうか、正巳が水芽を怖がって、避けて、逃げるようになったのは。
通学路で挨拶するタイミングを見失い、無視したみたいになった事。
悪気なく友人と笑った習字の張り出しが、水芽のものだった事。
バレンタインに気恥ずかしくて、彼女を避けてしまった事。
進路の話をしていたのに、何も告げずに違う高校に入学した事。
同じ大学に入ったのに、挨拶もせずに他人の様に接した事。
きっかけになる心当たりが多すぎて、どれが原因なのか
正巳には、もう分からなかった。
きっとそれだけじゃない。
彼女の行動にも、正巳には理解できないものが多かった。
正巳の主観的な失敗と、水芽の理解できない行動が積み重なって、
違和感が不快感に変わり、いつしか恐怖に変わったのだろう。
「もしかして…あいつ……」
———————————————————————————————————
正巳達は、公園から10分ほど歩き
とある閑静な住宅地にやってきていた。
そして、とうとう目的地に着いた。
「なぁ……どれがその子の家か…当てようか?」
「え〜!わかるの?」
「……あの、庭に犬の置物がある家だろ?」
「へぇ〜!すごいじゃん!当たりだよ!!」
「そうか……ははっ…やっぱりか…」
正巳は、もうこの一件では、簡単には驚くまいと
密かに胸に決めていた。
それにも関わらず冷や汗を額に滲ませて、一歩、無意識に後ずさってしまう。
「あれー?留守みたい…まぁ、いいや!行こ!」
勝美は、留守を確認したにも関わらず、
平気な顔で玄関を開けて中に入ろうとしている。
正巳はそれを固唾を飲んで見守り──。
いや。勝美の行動を思考停止して見つめていたが、
彼女の行動を前に、ついにその手を握り、静止を試みた。
「もういい!!帰ろう!!
ここは…この家はヤバい!
もしも中に入ってしまったら…もう引き返せない…
そんな気がするんだよ!」
「え〜!何それ!?
あははっ!!臆病だなぁ
大丈夫だよ?
私いつも梓ちゃん居なくても中で待ったりしてるもん」
「そう言うモラルの話をしてるんじゃないんだ!
ここは……この家はマズイんだよ!!」
正巳が狼狽えるのには、真っ当な理由があった。
見知らぬ住宅地に、平然と佇む
この目の前の家は『正巳の住む家と、全く同じ外見』をしているのだ。
好奇心では足りない。
この謎に満ちた一件の最終地点。
ここに足を踏み入れる動機としては、好奇心だけでは到底足りない。
正巳には、この『似て非なる我が家』が、
自分を捕食する為の罠に思えてならない。
彼の生物的な本能が、赤いランプを爛々と光らせて知らせている。
この家には、足を踏み入れてはならない。と、
「もう!!おっきい声出さないでよ!!
じゃぁここに居ればいいじゃん!
私は入るからね!!」
「あっ!!ちょっと!!」
正巳の手を振りほどいた勝美は、
彼の制止も聞かず家の中に入ってしまう。
彼女の口ぶりでは、いつもこの家に入り
中の住人と遊ぶような仲らしいが、
正巳には、とてもそんな和やかな家には見えず、
不気味で恐ろしい印象以外は受けない。
百歩譲って『似た家』と言うだけならば、
まだまだ恐怖は薄味で済む。
問題は、ここに『何が住んでいるのか』だ。
正巳は、恐怖こそ認めるものの
住人については検討もつかない。
「……あいつ…本気かよ…
くそ…くそくそ!!」
絶対に入りたくない。
絶対に入りたくないのに。
正巳は、幼馴染によく似た、あの中学生が、
今にも悲鳴をあげるのではないか、
そう思うと、居ても立っても居られなかった。
【5】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
その家の中は、やはり正巳に馴染み深いものだった。
家具も、装飾品の置物も、
寸分の違いなく無く同じ。
匂いや、空気感。
そういった言葉では言い表せない
各家庭独自の雰囲気が合致したのだ。
ここが自分の家なのだと確信せざるを得ない。
正巳は、ゆっくりと慎重に周囲を見渡してみる。
すると、彼は、ざっくばらんに置いてある、
白い長方形の紙を発見する。
「これは…水芽にもらった…」
それは、昨日の夜、正巳が放り投げた
A4にまとめられた講義のスケジュール表だった。
だが、その内容には、奇妙な食い違いがある。
それは、赤丸の付けられた講義以外が不自然に消えて無くなっていたのだ。
ここが、正巳の家を完全に模倣したものであるなら、
このスケジュール表の食い違いは何か腑に落ちない『意図』が漂って見える。
「いや…今はそんな事を考えても仕方がない。
勝美を見つける方が先決だ」
ようやく見つけたミステリーのヒントを、
正巳は容易く振り切り、捨て置いた。
一歩、また一歩と、感情を押さえつけたまま、
家の奥へ進むにつれ、正巳は頭がどうにかなりそうな
戦慄のプレッシャーをしっかりと認めた。
自分の家と、全く同じ構造なのに、
ここは彼の知らない街で、
ここには彼の知らない誰かが……
───いや。『ナニカ』が住んでいるのだ。
正巳が、思考を圧迫する空想に、
生唾をごくりと嚥下した時、
リビングのドア前に勝美を見つける。
勝美は、ドア前に座り込んでおり、
ドアに埋め込まれた磨りガラスに頭部を預けている。
「おい!大丈夫か!!」
「しぃ〜っ!!見て見て!!」
「?」
正巳に声をかけられた勝美は、
悪戯っぽく笑い返し、磨りガラスの向こう側を指差す。
彼女が指し示す方向に、素直に目線をやった正巳は、
目を凝らしてリビングの状況を確認しようとした。
すると、モザイク状にボヤけた室内が見え、
更にそこに差し込む真っ赤な夕日に浮かぶ人型のシルエットを見た。
「ふふっ!居留守だったんだよ!
私をビックリさせるつもりなんだと思う!」
吐く息を使って手短に説明する勝美。
正巳は、怪訝なままだ。
「あれが噂を流した梓って子なのか?」
「うん。…ぁ、でも噂を流したのは違うよ」
「え?…だってそう言う話でここに来たんじゃないのか?」
「あれ?言ってなかった?
うわさを流したのは梓ちゃんじゃないよ」
「んん?」
正巳は頭がこんがらがってきた。
だが、言われてみればそうなのだ。
あれよあれよと、ここまで連れられて来たので、
彼は失念していた事だが、
勝美は一度も「うわさを流した子の所へ連れて行く」とは言っていない。
あくまでも「SNSの投稿主」の元へ連れて来ただけだ。
「それじゃぁ…うわさ話は誰が?」
「え?ウサギのうわさ話?
それはあたしだけど」
「……え?」
正巳は、うわさの発信源が目の前に居たとは思いもせず、
平然と語られた真実に面食らってしまう。
それならば、話は大きく変わってしまう。
勝美と話す事で、彼の目的は果たされるのだ。
もうこんな所に居る理由は微塵もない。
「もう行くよ!!」
「あっ!ちょっ!……ちょっと待て!!」
勝美は、勢いよくドアを開きリビングに入った。
正巳も後に続く。
リビングも、正巳が知る見慣れた物だった。
テレビやキャビネット、食卓机やソファーに至るまで
色も形も違和感なく同じである。
だが。ひとつだけ正巳の家には存在しないものがある。
───それは。
リビングの中心に、堂々と佇む
木とも、土とも思える質感を持つ
人型をした等身大の置物だ。
その置物は、赤茶色をしており、
表面は痛みボロボロで、ささくれている。
頭部に当たる部分は、不気味なほど大きく、
顔面となるであろう場所には、3つの浅く大きなくぼみがある。
胴体の下、人間でいう臍の部分からは、樹木の枝に類似したものが生えている。
「はは…人じゃなくて、悪趣味な置物だよ。
友達じゃなくて残念だな。やっぱりまだ帰っていないんだよ
一度さ外に出ようよ」
色々と意を決した正巳は、肩透かしの登場物に
精神を大きく削がれたのか、ひどく疲れた顔をしている。
「あ!!梓ちゃん!!やっぱ居たんだね!!」
気味の悪い人形に怯える正巳を尻目に、
勝美は悠長に『ソレ』へ話しかけ始めた。
正巳の全身が一瞬で粟立つ。
凍えるような寒気が背筋から這い上がる。
「何…言ってんだよ」
「はははは!!そりゃビックリしたよぉ!!」
「うんうん………ははっ!
それはそうだけどさ!
え?…もぉ〜っ!!いつも言ってるじゃん!!」
勝美の様子を見れば、『ソレ』と何かしらの会話が成立している様に見えるが、
正巳には、一方通行の独り言にしか聞こえない。
ただ『ソレ』から、這い寄ってくるような質感の怖気を確かに感じており、
もはや、ただ悪趣味なだけの赤茶けた置物とは思えない。
「あっ!そうだ!!
なんかね〜あの話に興味を持った人を連れて来たんだ〜
そうそう!あのウサギのやつ〜」
勝美が『ソレ』に話しかける度に、
表面のささくれた皮がポロポロと剥がれて床に散らばる。
剥がれた部分からは、ピンク色の肉質が覗いた。
正巳は、堪らなくなり
衝動的に勝美の手を握る。
「おい!お前おかしいぞ!!正気じゃないのか!?」
「おかしくないよ」
「いやだって!話しかけてるソレ!!人形だぞ!!」
「そうだよ。
まだいないもん。
まだ産まれてないから」
「ぅまっ……産まれてない?……何を言ってるんだ?」
「どうして産んでくれないのって?
そう言ってるよ。
逃げるから?逃げるから産んでくれないの?
ねぇなんで?なんで?」
目が虚ろになり、急に早口でまくし立てる勝美に、
正巳は、血の気が引くのがわかった。
どう考えても正気の沙汰じゃない。
「ぅあっ!?」
その時、何気なく『ソレ』に目線をやった正巳は、
息を詰まらせてしまう。
巨大な頭部には、さっきまで窪みしか無かった筈なのに
今は大きな目玉ふたつが有り、
剥き出しの眼球が横目で彼を一直線に見ていたのだ。
パニックに陥る正巳は、床に尻餅をついて転倒したが、
勝美の手だけは、尚も握って離さなかった。
もしも、この手を離してしまえば、
もう2度とまともには戻れない気がしたからだ。
『ぅまぇたぁぃぃい』
誰の物とも知れない声がした。
それは、赤茶の人形からだった。
『産まぇたぁぃよぉおおおッ!!』
まるで家が揺れているかと思うほど大きな声。
『ソレ』の「口」に当たる窪みからパラパラと白い米粒の様な物が散る。
それは「出来損ないの歯」だった。
正巳はもう極限であり限界だ。
勝美の手を強引に引き、大急ぎで家から出ようと試みるも、
彼女の体が、何かに引っ張られ微動だにしない。
「っ!?」
正巳が勝美を見ると『ソレ』の臍から飛び出た枝が、
彼女の体にめり込み、その先端から同化し始めている。
「バカっ!!やめろ!!!」
正巳は、咄嗟に枝を掴んだ。
直感で、『ソレ』に体を奪われそうになってると解釈したからだ。
枝を力一杯で掴み、ひっこ抜こうと試みるも、
まるで鉄の様な堅牢さで彼の腕力ではビクともしない。
「見捨てない!!
絶対に見捨てないからな!!水芽ぇ!!」
正巳は、無意識に幼馴染の名を呼んだが、彼は気がつかない。
勝美は無言のまま、正巳の手を振りほどき、
彼を突き飛ばすと「同じ気持ちになれたね」と呟き玄関を指差した。
「何で……」
「そのまま帰って。
まだ間に合うから、だから今度こそ、私に助けさせて」
勝美はそう、意味の分からない言葉を吐くと、
遂にうねり狂いながら体積を増やす『ソレ』に呑み込まれてしまう。
『ソレ』の、体中には皮膚感の強い皺がビッシリと刻まれている。
そこからプツプツと密集した毛穴が開き、産毛が生え始めると、
ブルルと痙攣しながら再び「産んでぇええ!」と絶叫した。
その光景が余りにも恐ろしく、
恐怖の受容が限界に達した正巳は、とうとう逃げ出してしまうのだった。
玄関を飛び出し、住宅地前の道路へ転がる様に座り込んだ正巳が、
恐る恐る背後を振り返ると、家の窓という窓に
巨大な人の目が張り付いて彼を見つめていた。
【6】
-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-
正巳は、それから後の事は朧げで、
死んだ様な顔で新幹線に乗り込み帰路についたものの
その途中、いかなる時も生きた心地はしなかった。
あの悍ましく気持ちの悪い光景と、
置き去りにしてしまった勝美の事が、
脳裏に焼きついて離れなかった。
彼は帰路で見る、あらゆる窓を一切見る事ができなかった。
やがて正巳は数時間かけて本当の自分の家がある街に帰ってきた。
だが、正巳は家の手前まで来て、異変に気付く。
まだ早朝の時間帯だと言うのに周囲が騒がしい。
家の前には、パトカーが止まっている。
何かが起きているのは間違い無いようだ。
「………。」
ここへ来て正巳は狼狽えたりしなかった。
あれだけおかしな事があったのだ。
何が起きていても不思議じゃない。
だが、様々な事を想像すれば、その足は止まり立ち尽くす。
すると、正巳の家の玄関から、やつれた様子の水芽が出てきたのを見え、
あの記憶がフラッシュバックし、彼は頭が真っ白になるのを感じた。
しかし正巳の体は、彼の本心に忠実だった。
自転車のハンドルを投げ捨て
弾ける様にがむしゃらに走り出す。
すると、水芽も正巳に気づいて、駆け足で走り始める。
そして二人は、鉢合わせると
なんのわだかまりも無く、自然に抱き合った。
「心配したんだよ!!
いっぱい心配したんだよ!!!
急に居なくなったりしないでよぉ!!!」
泣きじゃくりながらそう言ったのは水芽だ。
「ごめん!!助けてあげられなくてごめんよぉ!!!」
号泣しながらそう叫んだのは正巳だ。
「?」
「?」
お互いに、疑問符を浮かべ見つめ合う二人は、
久しぶりに見たお互いの表情を見て、
なんだが可笑しさがこみ上げて。
数秒後、声をあげて笑いあった。
———————————————————————————————————
以上が五年前、正巳に起こった奇妙な出来事。
その時、待合室から見える、赤のランプが消えたのを見た正巳は、
ソファーから立ち上がり、表示灯の下にある「分娩室」の扉に急いで近づく。
中から出てきた助産師に「おめでとうございます」と言われた事で、
彼は胸を撫で下ろした。
「元気な女の子ですよ。母子ともに安定してますので心配はありません」
その言葉を半分に、正巳は分娩室に飛び込み
ベットでぐったりとする彼女に声をかけた。
「水芽!!よく頑張ったな!!
ありがとう…本当にありがとう!!」
「はは…そんなに心配ならさ
立ち会ってくれれば良かったのに」
「それは…ごめんよ。多分気絶しちゃうから」
「ふふ…わかってる。意地悪しただけだよ
でさ……子供の名前なんだけど、私が決めていいんだよね?」
「うん。でも当ててみても良い?」
「え?私の考えた名前を当てるって事?何それ?」
「ちょっとした挑戦だよ」
「挑戦?…ふふ…いーよ。
もう決めてるから当ててみて?」
「……梓
木々 梓じゃない?」
「!!え〜!!すごいじゃん!!
あ!いたた…」
「大丈夫?」
「うん。でもなんでわかったの?」
「俺だって、それなりに水芽の事見てきたんだから……って事でどう?」
「ふ〜ん。……やるじゃんか」
———————————————————————————————————
あの日、正巳の家にパトカーが停まっていたのは、
彼が突然居なくなったものだから、両親や水芽が
彼が変な気を起こしたのではないかと早とちりしたからだ。
正巳は、その時の水芽の様子を両親から聞かされ、
「こんなに可愛いやつを、何をどうして恐れて居たのだろうか」と、
素直にそう思った。
正巳と水芽は、あの一件がきっかけで一緒に過ごす様になり、
彼は、彼女の気持ちと向き合う事ができた。
向き合ってようやく水芽が「バカがつくほど不器用な人間」だと知ったのだ。
正巳を追い詰め悩ませていた水芽の行動の数々は、
彼女なりの思いやりと、好意的なアピールだった。
向き合ってこそ簡単にそれが分かり
逃げ出したいとまで思っていた嫌悪感が「愛らしさ」に変わった時に、
正巳と水芽は結ばれたのだ。
今でもあの一件が何だったか、はっきりとした真相は分からない。
それでも正巳は、自分を納得させるだけの見解を持っていた。
あれは世界というシステムに起こった「バグ」だと彼は考えた。
正巳と水芽は、あの事件と前と後では、その関係性は大きく変わった。
現に彼は水芽のことを異性としてはおろか、人としても受け入れられなかったのだ
それからしてみれば今の状況は、強引に手繰り寄せられたイレギュラーな未来と言える。
この世界に運命や縁というものがあるとして、
自然には絶対結ばれない二人が結ばれようとした時、
その皺寄せは必ずどこかで精算される。
正巳の推理は正しかった。
大元を辿れば、このミステリーの犯人は、やはり「水芽」だったのだ。
水芽の「正巳を絶対に諦めない」という
強い意志が、本来は離れて切れる二人の縁を繋ぎ止め引き寄せたのだ。
その意志が一種の奇跡を生み出し、世界はそのイレギュラーに辻褄を合わせる為に、
正巳へ強引な体験を強いた。現在、現実、言葉、場所、未来、人間。
それが脈絡なくごちゃ混ぜになった悪夢の様な体験を強制させたのだ。
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「あ〜!!木々君!!」
赤ん坊の横でようやく眠りについた水芽を見届けた正巳が、
一人休憩室で親戚への報告に忙しくしていると、
彼の先輩である千秋が大慌てで現れた。
吉報を受けて職場から駆けつけたのだろう、
まだ学芸員の制服を着たままだ。
「千秋先輩、ご無沙汰です。
産まれました。女の子です」
「ははっ!!そりゃそりゃぁ…うぅ〜ん
感慨深いなぁ…木々君てば、すっかり大人になっちゃって」
「一応、千秋先輩のお陰でもあるんですよ」
「またまた謙遜言っちゃって。で?水芽ちゃんは?」
「今は寝てくれてます」
「頑張ったもんねぇ…それじゃ、今のうちに渡しちゃおうかな」
「?…なんです?」
千秋は、いつか見た屈託のない笑顔を見せて
手に持つ紙袋から何かを取り出す。
それはパンケーキだった。
「結局、奢り損ねちゃったからね
何はともあれ、頑張った君にご褒美ですっ!」
正巳は、あの後、結局大学を中退したが、
今ではそれなりにうまくやっている。
「ははっ…覚えていたんですか?」
「もちろんさ。
ささ、一口やってくれたまえよ」
「では…一口」
正巳は、持ち帰り用の容器に入ったバターや蜂蜜をたっぷりと垂らし
パンケーキをフォークで丁寧に切り分けて、口に含み咀嚼すると
ゴクリと喉を鳴らして嚥下しようとしたが、
緊張で乾燥した喉でググッと詰まりそうになる。
「!?ぐぅっ!!」
「あわわ!!詰まったのかい!!
大変だ!飲みかけのこれしかないけど飲んでくれ!!」
そう言って慌てながら千秋が差し出したのは、
飲みかけのエナジードリンクだった。
「ははっ…はぁ〜。助かりました」
「頼むよ〜。数秒前に父親になった後輩を殺してしまう所だったじゃないか」
その状況が可笑しくて仕方がなかったのか、
二人は病院であることも忘れて大笑いした。
ふと、正巳は自分が手に持ったエナジードリンクの缶を見て
意地悪そうにニヤリとすると堪えきれずに再び笑う。
「ふふ…ははは!」
「んー?どうしたんだい?」
「いえね。先輩、こんな噂知ってますか?
ウサギにエナジードリンクを飲ませると、目が白くなるらしいですよ?」
───短編(16261文字)今作の分析─────────────────────
プロット設計(4時間)
プロット作成(B5ノート27P) 5日(15時間)
打ち込み4日(12時間)
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