幼なじみとモンブラン その1
薄ら雲のかかった祝日の空でも、昼も過ぎて少し時間が経った頃には、体感温度がぐんと上がった。
春という季節がとうに過ぎたことを感じさせる四月の下旬。桜の木はすっかり緑色に染まり、近所の洋菓子店はイチゴフェアの幟を立て、行き交う車はファミリーカーが目立ち始めた。それらは揃って、春の大型連休が始まったことを報せる合図のような気がしてならない。
不服だった。俺はその大型連休の始まりを、外で迎えたくなどなかったのだ。せっかく学校へ行かなくても良いのだから、ずっと家で過ごす方がいいに決まっている。
だが、隣で信号を待つ幼なじみは、困ったことにそうは思わない人間だった。
無理矢理俺を外へと連れ出した水都恋は、だぼっとしたシャツにだぼっとしたズボン姿で、これでもかと笑顔を見せつけた。頻りに「ほのちゃんのお家楽しみだね」と言って、テンションの高さを見せつける。
ほのちゃんというのは、二歳年上の高尾保乃香のことだ。
知り合ったのは僅か数ヶ月前。小学校からの友人である尾崎莉愛から、「絶対恋ちゃんと仲良くなれると思うから」と紹介された、現在三年生の他校の生徒だった。
数回会ってみると、確かに恋との相性は良かった。あの恋が年齢差を気にせず接するほどには仲良くなったし、俺にしてみても、年上である彼女を友人と言うことに躊躇いはない。
どうして尾崎莉愛が高尾を紹介したのか、そもそも二人がどういう関係であるかも分からないが、どこか思惑めいた、陰謀のようなきな臭いものを感じてしまうのは、どこかで尾崎莉愛に不信感のようなものを抱いているからなのだろう。高尾についてもまだ心を許そうという気にはならなかった。高尾保乃香がどうこうではない。尾崎莉愛の内が、あまりに読めないのだ。
恋は莉愛に何の疑問も抱いていないだろう。恋はそれでいい。変に人の裏を読もうなんてするもんじゃない。分からないままの方が良いことなんて、世の中には五万とある。
今日、俺たちは高尾の家に招かれていた。引っ越したばかりの新居だという。恋はともかく、俺まで誘われる意味が分からない。日頃連絡を取り合っているのは恋だ。俺はオマケに過ぎない。
「やっぱ一人で行けば良いんじゃないか」
俺は駄々《だだ》をこねた。帰りたかったのだ。他人様の家に上がるのは得意じゃない。その家のルールに雁字搦めになる環境と、決して粗相をしてはならない緊張は間違いなくストレスだ。
「どうして? 折角だから二人でって誘ってくれたのに」
「高尾と会うのに俺はいらないだろ」
何気なくそう言うと、隣を歩く恋は立ち止まり、俺の服の袖を掴んだ。変なスイッチを押してしまった自覚はあった。
「七瀬がいらない時なんて一回もないよ」
嫌に真っ直ぐな目でこちらを見ていた。恋が纏う空気が、幾分暗い色をしたように思えた。
「ああ……すまん」
本来なら喜ぶべき言葉なのだろう。必要とされているのだ。だが、額面通りには受け取れなかった。
俺と恋は連帯を組んでいる。俺にはどこかでそういう意識があった。
幼なじみだ。幼なじみで、切っても切れない腐れ縁で、断ち切ってしまうわけにもいかない関係。一緒にいてやる義理はないが、どこかに義務はあるような気はする。それはきっと、恋にとっての俺もそうなのだろう。
お互いがお互いに合わせて生きている。まあ今日に関しては、無理矢理付き合わされているわけだが。
県道沿いを歩きながら、俺はコンビニに寄ることを提案した。
「手土産くらいはいるんじゃないか」と言うと、恋は得意げな顔で、手に持っていたトートバッグを俺に突き出す。
「一応持ってきた。柿の種!」
謎チョイス。
「ほのちゃん甘いもの好きらしいからさ」
「だったらケーキとかの方が良いんじゃないか? そこにケーキ屋あるし」
「ほのちゃんのことだからきっとそういうのは用意してくれてると思うんだよね。だからあえてのしょっぱいもの」
「だからって柿の種選ぶか?」
「他に何がある?」
「ポテチ」
「その手があったか!」
恋の考えで行くなら、俺の中ではその手しかない。
「おっ! 柿の種! 嬉しいなぁ」
玄関先で高尾保乃香は喜びの声を上げた。
高尾は恋からトートバッグを受け取り、
「柿の種好きって言ったことあったっけ?」
「ないよ。ほのちゃんケーキ好きだから、逆にこういう方が嬉しいかなって」
「おお正解。さすが恋ちゃん」
へへ、と恋はこちらを見てどや顔をしてくる。謎は解けないくせにこういうものは射貫くのか。
出迎えた高尾はラフな部屋着姿だった。ボサボサの黒髪をサイドで縛ったツインテールで、もうおやつどきであるにもかかわらず、ピンク色のもこもしたパジャマを上下に纏い、靴下の色も揃っていない。客人が言うべきではないかも知れないが、人を迎える格好とは思えなかった。変にかしこまられても困るから、これが正解なのだろうか。もしかすると親しみやすさはこういうところに起因するのかも知れない。
「二人ともどうぞ遠慮せず上がって」
とは言われても遠慮はしてしまうものだ。
栄えた土地ではないが、この辺りは分譲住宅の建設がここ数年増加している。高尾家も例に漏れず、外観は間違いなく新築のそれだ。玄関には折りたたまれた段ボール箱が何枚か立てかけられ、引っ越しの名残があるものの、歩き疲れた足を乗せることを少し躊躇うほどには内装も光って見える。
「お言葉に甘えて」と、恋は躊躇の欠片も見せない。
ふとシューズボックスの横を見てみると、来客用と思しきモコモコとしたスリッパが幾つかあるじゃないか。
「スリッパ、使った方がいいんじゃないか?」高尾に訊ねると、
「あー。そっか。その為の物だもんね。好きなの使って良いよ~」
高尾は気にしない性格なのだろうが、こういうことは他人の方が気を使うものだ。俺は水色、恋は白いスリッパを履き、廊下を歩き始める。
高尾は、玄関から入って正面にある、くの字かコの字に曲がった階段を昇りながら、
「二人ともちょっとごめん。リビングで少し待っててもらっていいかな。ソファ座ってて良いからね」
と言って階段を曲がり、姿を消した。部屋の掃除でもするのだろうか。先に済ませておいてくれよと思わないでもないが。
俺と恋は廊下からリビングに入り、モスグリーンのソファに二人して腰掛けた。しっかりとした作りの柔らかなソファに沈み込むお尻が、意思に反して寛ごうとする。
広々としたリビングは整然としていて、新年度が始まる前に引っ越してきたのだろうが、それにしたって物が少ない。綺麗好きもここまでくると少し怖いくらいだ。何より、テレビのでかさには驚いた。
ベランダに目を遣ると、男物の大きな服が一式、物干し竿に掛けられていた。父親の服だろう。防犯目的かも知れないが、にしても父親の洗濯物だけを干すというのはおかしな話だ。思春期の娘が父と洗濯物を一緒にされるのを嫌がると言うが、そういうあれだろうか。
「広いお家だね」恋は部屋を見渡していた。「今日は妹さんいるのかな」
急に変なことを言い出す。
「高尾に姉妹がいるのか?」
「さあ」
「知らないのかよ」
「いそうだなぁって思って。ほら、写真」
そう言って恋が指を差した。リビングから地続きの対面式キッチン、そこに、一つの写真立てがあった。何が写っているのかよく分からないが、小さな子供のシルエットが二つあることだけはなんとなく分かる。
「昔の高尾か。あれじゃどっちが高尾か分からないだろ」
「いるとしたら妹だよ」
「何でそうなる」
「わたしの扱いが上手だから」
論理性の欠片もない理由でびっくりだ。
「あと、ちょっと気になったんだけどさ」
気になるな。他人の家だぞ。
「この家なんとなく、ほのちゃんっぽくない」
「なんだそりゃ」
「もっとこう、ほのちゃんって普通の子だと思うんだよね。常人離れしてないって言うか」
「意味が分からん」
「普通、こんなに綺麗じゃないと思う」
ますます意味が分からん。
この家は高尾家の新居だ。らしさが現出するには多少なりと時間が掛かるだろう。恋の家も、引っ越ししてすぐは、まあ数ヶ月ほど荷物で溢れていはしたが、それなりに綺麗だった印象がある。
高尾は何を手間取っているのか、俺たちは数分ほど待つことになった。部屋を見回すのにも多少の躊躇いはある。膝が立てに揺れ始めた頃、とたとた、と階段を降りてくる足音がした。ようやくか、と、俺と恋は揃って立ち上がった。
廊下からひょっこりと顔を出した高尾は、申し訳なさそうに笑う。
「ごめんね。お待たせ」
俺と恋は下手な作り笑いをしてから、高尾の後を付いていく。
階段はコの字だった。
上り終えると、目の前に部屋が一つ。扉にピンク色のリースが飾られている。なるほどこれが高尾の部屋か、と思ったのだが、奥にあった飾りも何もない扉の方がそうだったらしく、住人である高尾は迷わずそちらへ進んでいき扉を開けた。
「どうぞ」
意外と、落ち着いた色味の部屋だった。高尾の雰囲気からすると、漫画で見るようなザ・女子みたいな部屋を想像していたのだが、水色のラグカーペットやベッドカバーが象徴するように、室内は淡いパステルカラーがその多くを占めている。勉強机はない。部屋の真ん中に背の低いテーブルがあり、縁に沿うようにエアコンのリモコンが置かれていた。壁際のカラーボックスには参考書と思しき本が並んでいるが、高校生の部屋とは思えないほど物が少ない。
テーブルの周りに丸形の座布団が二つ。てっきりそこが高尾と恋の座り位置かと思い、俺はラグの上に座ったのだが。
「あー七瀬くん、お客さんなんだから座布団使っていいのに。ごめんね、座布団二つしかないっぽくてさ。ややこしかったよね」
「ああ、そうだったのか」
「七瀬はおっちょこちょいだから」恋には言われたくない。
「俺はいいよ。お尻は痛くない」
「ごめんね気を使わせちゃって。じゃあ、おやつ持ってくるから待ってて。飲み物はジュースで良い?」
「うん。ありがとう。手伝おうか?」
人見知りの恋が当たり前のようにありがとうを言えて、気を使うことまで出来るあたりに高尾保乃香のすごさが分かる。本来の恋は、これら全てに尻込みするのだ。
「ありがとう恋ちゃん。大丈夫。ゆっくりしててね」
高尾は部屋を出た。階段を小気味よく降りていく音がする。
恋は腕組みした。
「妹の方が気遣い出来るってパターンもあるかな」
まだ言ってら。
「どっちでもいいだろ別に」
「よくはないよ。どっちでもよくはない」
「なんでだ」
少しだけ苛立ち混じりに言ってしまったが、恋はそんなこと意にも介さない。
「高尾家の秘密を暴くためだよ」
「秘密? ……あるのか?」
「あるかもしれない」
恋は人差し指と親指を立てて顎に持って行く。他人様の家で何しようとしてるんだこの幼なじみは。そりゃあ、赤の他人に知られたくない秘密くらい誰にもあるだろうが、まさかそこを暴こうっていうんじゃないだろうな。
「今日くらい大人しくしてろよ。学校とは違うんだから」
と言ってみても、きっとこいつには意味がない。
物事の分別はつく奴だ。さすがに高尾家のパーソナルな部分にまで踏み込まないだろう。
そう、思いたい。