幼なじみと怪文書 その6
夕日の色が深くなり、外の空気は幾分寒さを纏い始めた。
午後五時を少し回って恋が教室に戻ってきたとき、既に浅見一可は教室を後にしていた。「水都さんによろしく」とだけ言い残して行った彼女の表情は、どこかスッキリしていたように思う。しかし結局何をしに来たのか、俺にはさっぱり分からなかった。
「へえ、そんなことがあったんだ。浅見さん教室に……そりゃ大変だったね」
「誰のせいだ誰の」
恋はとぼけた顔をする。
恋には、教室に来た浅見一可に要求されて謎解きの道程をじっくり丁寧に話した、ということだけを伝えた。浅見姉弟の心情には触れてやらん方が良いだろう。
外の風は冷たかった。まだ四月も上旬。寒さもそうだが、日が落ちるのも早い。夜がにじり寄ってくるような色の空に、どうにも心が重たく感じる。
校門を出ても尚、新入生の肩身は狭い。上級生の姿を見ると、その都度俺たちは声を潜めた。
通学路に特段の指定はなく、ある程度歩けば人の姿はまばらになって、いつの間にか俺たちだけになった。
帰りは、行きと違う道を歩いた。とは言っても、県道沿いの歩道か、すぐ横の田んぼ道かの違いでしかなく、急ぐ往路に比べてその必要がない復路では、田んぼの間をゆっくりとした速度で歩くことに何の罪悪感もないと、ただそれだけのことだった。
恋は膨れていた。ぷっくりとしたほっぺたはたっぷりと空気を含んでいる。帰り道にコンビニがないことを嘆いているのだ。中学の時はルート次第ではコンビニが二件あって、恋はいつもそこでアイスやパンを買って頬張っていた。
「家の近くまで行かないとないなんて地獄だよ」と、暇そうな口と腹の虫が少しうるさかった。昼に俺のパン、食べたくせに。
「そういえば、メモには何が書いてあったんだ?」
「あー、あれね。何か、わたしの予想外れてたみたい」
いつも外れてるだろ、とは優しさで口にしない。
「ラブレターだと思ってたんだけどね」
「?」俺は首を傾ぐ。
「メモには枠線の続きと、それから、」
恋はスカートのポケットに入れられた紙を取り出す。二枚。恋は下半分のメモを俺の方に向けながら、
「ありがとう――とだけ書いてあった」
「……そうか」
告白をすることが目的ではなかった、と浅見一可は言った。諦めるしかないのだと。
本当に、浅見令二はそれで良かったのか。
こんな面倒なことをするくせに、告白すらしないなんて、それで良かったのか。
「でもさ、やっぱり不思議だよね」
「……何が」
「画数だよ。七瀬が言う通り、画数を少し変えることで時間と場所を指定したなら、そもそも水都恋の部分も使えば良いのに。そうすれば、十七時の指定を十七画目でだって出来たし」
「句点が五画目であることが重要だったんだろ」
「うーん。そういうものかなぁ」
恋は二枚のメモを繋ぎ合わせて見つめていた。
「ありがとうってどういうことだろう。浅見さんとは今日まで殆ど話したこともないし」
惚れた腫れたがどういうものか、俺には想像も付かないが、
「色々あるんだろうさ。伝えたくなるきっかけが、きっとな――」
「――一つだけ腑に落ちないことがある」
十七時を回って、浅見一可が教室を後にする直前、俺は彼女を呼び止めてこう訊ねた。
「どうして画数を使うのに水都恋の名前を省いたんだ。水都恋まで含めれば十七画以上あった。句点の丸を時計に見立てるってのは分かるが、時間を指定するなら十七時の方にこだわる方が理に適ってるだろ」
浅見はスカートを翻しながら、赤子に向けるように微笑む。
「綾里くんって、人を好きなったことある?」
「いや。たぶん、ない」
「そっか。私もない。だから私も、実を言うとよく分かんないんだけどさ」
窓から射す光は、彼女の儚げな表情を撫でるように、ぼんやりと淡く輝いた。
「ちゃんと諦めよう、って思うくらい、好きな人だったんだもん――」
「――名前に仕掛けなんて出来るわけがない、か……」
浅見令二は告白するという道を選ばなかった。
ただ自分の想いにけじめをつけて、それでも、浅見令二という人間がいるんだという証明として、自分の名前を使った謎を恋に届けた。そんな浅見令二でも、想い人の名前までは触ることが出来なかった、ということだろう。
「よく分からんな。そういうのは」
「ん、今何か言った?」
「あ、いや、相手の気持ちまでは分かんないなって言っただけだよ」
「そうだね。見えないもんね、心は」
こいつが言うと意味が変わってくるような気がしないでもない。
恋はとぼとぼと歩きながら二枚のメモを重ねて、両の手で包むように挟んだ。
「……でもあれだね。なんて言うか、解きたくないね、この謎は」
水都恋にしては珍しいことを言う。
「どういう風の吹き回しだ?」
「なんとなくね、このありがとうは、たぶんだよ、たぶんだけど、良いありがとうだと思うからさ。これ以上の意味は、探るだけ野暮かな、みたいな」
寒さでほんのり紅くなった頬で、恋は春の風に笑顔を零す。
「お前が良いなら、それで良いか」
俺たちの歩幅は、随分と変わった。
昔のように隣を歩くことは簡単ではない。浅見姉弟のような双子でも難しいのだ。ただの幼なじみにそれがいつまでも出来るとは思わない。
でも。
「なあ恋。買い食いしよう」
「お、珍しいね」
「お前に昼飯食われたしな」
「んぐっ」恋は目を細める。「でもコンビニないよ?」
「遠回りすればいいさ。学校出れば後はどう帰ったって良いんだから」
「じゃ、じゃあ今日は奢ってあげようかな。ごめんなさいの意味も込めて」
「そうか。じゃあハンバーガーセットにしよう」
「コ、コンビニじゃないのかぁ?」
思わず吹き出した。「冗談に決まってんだろ」
恋は頬を膨らませる。「パン二個までだからね!」
「分かってるよ」
二人は隣を歩いていた。歩幅なんて、違ったって良いのだ。
恋の歩幅が足りないなら、俺がゆっくり歩けば良い。
俺が先を行ったなら、恐らく恋は小走りで追いかけてくる。
肩の高さは変わったが、歩く速度はどれだけでも合わせられる。
幼なじみなんていう存在はどこまで行っても赤の他人だ。偶然近所で産まれただけに他ならない。一緒にいてやる義理もないし、一緒にいようとお互いに言ったこともない。
それでも、気付いた時にはこれが当たり前だったのだ。
これからもそれは変わらない。変わらないからこそ、浅見令二は、諦める必要なんてなかった。
そのはずだ。
「なあ、恋」
「うん?」
「……謎解きはほどほどにしてくれよ。高校生になってまでこれじゃあ骨が折れる」
恋はわざとらしく悩む振りをして、
「うーん。考えとく」
これでもかというほど、にっかと笑った。考えないな、これは。
俺たちのこの関係が終わるのは、「幼なじみやめよう」とどちらかが言った日なのだろう。
いつか、決別出来る日が来る。
それを恋が望んでいるかどうかは、俺には分かりようもない。
人の心までは、誰も見えないのだから。