幼なじみと怪文書 その5
春の夕暮れが窓から差し込んで、放課後の教室はオレンジ色に輝いた。
一年生は部活見学のため多くは校内に残っているが、教室には俺たち以外誰一人いない。騒がしいよりは幾分楽だが、それでも落ち着けるような空間ではなかった。ここは学校なのだ。落ち着けるはずもない。
結局、掃除をサボったことは教師にバレずに済んだ。叱られなかったということはそういうことなのだろう。思ったよりも、皆他人のことに興味なんてなかったらしい。
壁に掛けられた派手な時計を見てみれば、時刻は十六時四十五分。グラウンドからは野球部員の勇ましい声が響く。俺は窓の外を、どこを見るでもなく見ていた。
部活動の何に情熱を燃やすのか、青春とはなんなのか、ふとそんなことを考えることがある。
どう頑張っても三年で終わる青春に何故そこまで真剣になれるのか。分かりたいとも思っていなかったが、こう考えるのも、中学時代から数えればもう何度目になるだろうか。
「分からんな、俺には」
細く息を吐いた。黒板の方を見る。何が書かれているわけでもないが、一先ず、そこを向かなきゃ始まらない。
さて、件のメモのことだ。
どの角度から読んでも、伝えたいメッセージそのものは分からなかった。書かれていたのかも知れないが、俺では読み取ることは出来ない。
ではあのメモには何が書かれていたのか。
メッセージ性がないのなら、あのメモは恐らく、紙の下半分、ちぎられた続きの在処を問うているのだ。
つまり、場所の指定。
あのメモで一番気になったのは文字だった。普通では書かない形の『さ』に、一部が太くなった線、何故か句点だけが紫色。
まず、『さ』の書き方を変えることで起こる一番の変化は画数だ。画数を変えると言うことは、数字そのものに意味を持たせたかったと見るべきだろう。
線が太かったのは『さ』の一画目、これは名前を除けば全体の一画目でもある。そして『へ』は四画目。つまり一と四。学校でその数字の並びを見たとき、真っ先に思いついたのはクラスだ。
これは恋の誤った推理から思いついたものだった。
出席番号一へ、ではなく、一と四。即ち、一年四組。
そこに何かがある。メモの続きなのか、メッセージそのものなのか。
そこまでは簡単だ。だが、だとしたら紫色の句点は何だ。
こればっかりは偶然のひらめきだった。
句点は少し大きかったのだ。見落とすなよとでも言っているようでもあった。
――時計掛けてくれないかな。
恋がぽろっと零した言葉がきっかけだった。
そう、これは時計を表しているのだ。時計は時間を示す。場所が指定されているなら、何時に来いとの指定があってもおかしくはない。
付ける必要のない句点をわざわざ書いた理由はそこにあると考えた。
丸い時計を表すのに句点は適している。だからこそ、目立つよう大きめに書いてあったのだろう。……と、これだけでも根拠としては充分なのかも知れないが、そう確信したのにはもう一つ理由があった。
この学校は、少し派手なのだ。
壁が妙に鮮やかだったり、職員室の机がカラフルだったり、手を加えられる範囲で少しずつ色を足そうという気概が見られる。
時計だってそうだ。
見た限りどの時計も、長針は青く、短針は赤い。
その二色は混ぜ合わせれば紫色になる。
紫色の丸はこの学校の時計を表現し、かつそれは、名前を除いた画数では五画目。時計で数字が絡めば時間だ。
一年四組、五時。朝の五時ということはないだろうから、午後五時。
それが、差出人が指定した時間と場所だ。
次に、メモを入れたのは一体誰なのか、だが。
一年三組の中で疑わしいと思われる人物に、メモを入れる隙がある生徒はいなかった。
こんなメモを用意しようとする人物、即ち水都恋がこの手のものを好んでいることを知る生徒――同じ中学出身者は全員男子生徒で、最もチャンスがあると思われる体育の時間には、着替えを持つ暇しか与えられず全員廊下に追い出されていた。音楽で教室を移動した際も、最後に教室を出たのは俺だ、戻った生徒もいないと思われる。
では差出人は誰か。
恋は一年四組に呼び出されたのだ。四組の生徒の可能性もある。しかし入学間もない中で他クラスの生徒がリスクを冒すとは到底思えない。クラスメイトの男子でも困難なのだから。
であれば、やはりメモを入れたのは三組の生徒、しかも女子である可能性が高いと見た。
男子が無理なら女子。そう考えるのは自然なことだ。女子なら疑われる危険性も少ない。入れたタイミングまでは分からないが、音楽か体育の授業終わりだろう。
結論に至った決め手は、恋が発した一言だった。
三組で同じ中学出身の生徒は誰かを聞いたとき、恋は、室村、木戸、犬ヶ渕と三人の名前を出した。だが、俺にはもう一人挙がるべき名前があると感じ、恋にこう訊ねた。
『音楽の時間にペアを組んだ浅見は違うのか』
浅見は俺たちが幼なじみであることを知っているかのように話しかけてきた。会話は少なかったが、てっきり俺は同じ中学だと思い込んだ。
その疑問に、恋はこう答えた。
『浅見さんは同じ中学だったよ、よく憶えていたね』
……おかしいじゃないか。
恋は大して絡んだこともない三人の同級生をちゃんと憶えていたのに、何故浅見一可のことだけは頭数に入れていなかったんだ。
問題は、俺の訊ね方にあったんだと思う。
音楽の時間は皆がペアを組んでいた。それは、水都恋にだって組んだ相手がいるということを意味する。
俺は恋に『俺とペアを組んだ浅見は同じ中学じゃないのか』と聞いたつもりだったが、恋にとってはこう聞こえたに違いない。
『なあ恋、お前が音楽の時ペアを組んでいた四組の浅見は、同じ中学じゃないのか』
そう解釈した恋は、よく四組の浅見さんのことを憶えていたね、と返した。そう考えれば辻褄は合う。つまり恋がペアを組んだ生徒の名字も浅見だったのだ。
俺と恋。共に浅見という人物とペアを組んだ。両クラスには浅見という生徒がいたのだ。しかも四組の浅見は同じ中学出身。クラスメイトと絡んだことのない俺たちにそんな偶然あるだろうか。多分ない。そんなことはなかなか起こりえないことだ。
だが偶然でなければ起こりえる。そうなるように仕組まれていたなら必然的に。
それはヒントだったのだ。ヒントがなければ簡単には解けない、あのメモの謎の。
導き出される答えは―――、
「メモを恋の机に入れたのは、浅見一可さん。君だ」
オレンジ色の教室内にこだまする部活動の熱気と、僅かに響く俺の声。黒板前の教卓にもたれかかった彼女――浅見一可は、新入生にしては短めのスカートから伸びる太ももに夕焼けのオレンジを反射させ、「ふふ」と微笑んだ。
一年三組の教室内には俺と浅見の二人だけだ。ここに俺がいることが分かっていたのか、それとも偶然か、浅見は教室に入るなり俺の顔を見て、「凄いね」とだけ言った。きっと称賛だろう。その瞬間に答え合わせは済んだようなものだったが、浅見は思考の過程を要求した。おかげで俺の声は長々《ながなが》と教室内の空気を震わせている。
そして俺は、だが――と言葉を継いだ。
結論をここで出すのは早い。
「真実は相互関係だ。一方の不安はもう一方の確信が補完すると俺は思ってる。一年四組に呼び出されたという推理を確信に至るには、四組の奴がメモを入れたからだ、と確信する必要がある。逆も然りだ。でも答えは浅見一可さん、君だ。君がメモを入れた。それは間違いないと思う」
浅見一可はゆっくりと瞬きをして、こちらを試すように口を半開きにしたり、首を傾いだりしている。仕草がどれもあざとい。俺は時折、視線を窓外に逃がした。
「答えの全ては、やっぱりメモにあったんだ」
一方の事実がもう一方を補完しあう。片方の不安を確信へと至らしめ、それが先行する確信をより強固なものにする。
「数字と空白。あれはつまり、差出人を表していた」
恋は、空白部分に別の宛名が入ると言った。名前が入るんじゃない、数字そのものが名前を意味しているんだ、とあの短い時間で思い至ったのは、恋の間違いがあったからだ。
「上部にあった①ってのは、浅見一可さん、君の名前に入った漢数字の一のことなんじゃないのか。となれば②は漢数字の二かそれに類する字が入った人物になる。四組の浅見さんの名前、恋曰く、浅見令二さんというらしい。ご丁寧に漢数字が入ってる。つまり②は浅見令二を示し、そこに宛名が書いてったってことはメモの差出人は浅見令二だ。普通に考えれば弟で、かつ双子ということになるが、間違ってるか?」
浅見は肩に掛かった髪を撫でながら、
「間違っていたら凄い偶然だね」
午後五時が迫っていた。浅見は壁の派手な時計を一瞥する。
「もうすぐだね」
「ああ、あと少しで恋が帰ってくる。当の本人には会えず、メモの下半分だけを持ってな」
「……」
「差出人を特定出来る形で書くと言うことは、続くメモの場所を更に細かく指定したとも取れる。メモの上半分は恋の机の中にあったんだ。メモが下半分の在処を問うているのだとしたら、つまりその在処は、浅見令二の机の中だ」
今頃恋は、隣の教室で本人がやってこないからと机の中を漁っている頃だろう。ったく、恋がコソ泥扱いされたらどうしてくれるんだか。
「凄いね、綾里くん」浅見一可は手をスカートの前で結んで、「令二からずっと話は聞いてたけど、まさか本当に解けちゃうなんて」
「言うほど難解なものじゃなかったし」
「そっか。じゃあ令二が言った通りだったんだ。余計なヒントなんてなくても綾里くんは解いちゃうよ、って言ったから。私はね、絶対に解けないって言ったの。だから音楽の合同授業の時に、私たちを意識させるためにお互い話しかけることにしてたんだ。先生にペアを組んでって言われたときはちょっとびっくりしたけど」
確かにあれがあったからこれだけ早く答えに辿り着いたわけだが、どのみち太字の部分で一年四組に呼び出されたってことに気付けば自ずと四組の生徒を調べただろうし、そこで同中出身の浅見令二って名前を見つければ、遅かれ早かれ浅見一可との関係を疑って、漢数字にも着目することなるだろうが。
「音楽の授業のヒントはありがたかったよ。あれがなければ長引いていた。どうして姉弟で中学が違うんだっていう点は充分懸念になってたと思うし」
「そっか。確かにね」
「なあ、一つ聞いて良いか」
「うん」
「なんでこんなことしたんだ」
浅見は小首を傾ぐ。
「恋曰くあれはラブレターらしいが、だったらこんな遠回りするのは悪手じゃないか。真っ直ぐ伝えれば手っ取り早いし思いも伝わるだろうに」
分かってないなあ、とばかりに浅見は目を細める。
「遠回りしか出来なかったんじゃないかな。一直線に進んだ先には、立ちはだかる障害があるから、的な?」
今度は俺が首を捻る。
浅見は失笑し、両手を後ろの教卓に付けると、よっこらせと口にしながら身体を持ち上げ、教卓の上にお尻を乗せた。
「幼なじみって強いよねって話」
見た目には似つかわしくない、いたずらな笑みをこちらに向ける。
「遠回りでもいいの。水都さんが好きな謎を用意することで、少しでも自分の存在を見て欲しかっただけなんだよ。ただ告白して、ただ散っていくよりも良いじゃん」
「でも恋は」
「一人では謎を解けない。うん。だからね、これは、告白じゃないの」
「え?」
「諦めの儀式なんだよ」
投げ出した脚を揺らして、浅見は上履きを少し手前にぽとりと落とした。
「令二、受験の時まで水都さんがこの学校受けるの知らなかったらしくてさ。そしたら当然のように綾里くんもいるじゃん? ちょっとね。ほら、好きな人がさ、脈もないのに同じ学校にいるのって、しかも幼なじみの男の子と一緒にいるなんてさ、辛いじゃん。だから、」
だから諦める、か。
「にしても、いくら姉弟だからってそんな協力までするか普通」
むしろ姉弟だからこそ避けそうな話題だが。
浅見は息を吐きながら、夕日に笑いかけるように柔らかい表情で、
「幼なじみだからって、水都さんにずっと付き合ってあげる君もなかなかだよ」
教卓を指でとんとんと叩きながら浅見は、眩しいオレンジ色の光の方を向いた。
「一枚噛みたかったんだよ。弟の恋というか、青春に」
時計は五時を目前にして、俺にはどうにも、針の進みが遅いように感じた。
彼女の声と表情が、漂う時間の流れを停滞させる。
「私だけ、中学は私立だったの。でもなんて言うかな。空気が全然合わなくて。三年間苦痛でさ。部活は身が入らない、友達も出来ない、先生とも合わないし、通学には時間かかる。ホント、失われた三年間って感じ。だからね、内部進学も出来たけど、令二と同じ高校通うことにしたの。失った分取り戻そうと思って。そしたら、令二が今回のことを画策してさ、協力して欲しいとか言うわけ。私が燻ってた間、令二は一人前に恋しちゃって、思い悩んで、諦めるためだけにこんなことするとか言い出して。双子だからさ、昔からずっと隣を歩いてたつもりなのに、いつの間にか令二だけ前を歩いているように見えた。置いて行かれる、って思った。だから、一枚噛みたかったんだよ。その青春に私も混ぜてよ、みたいな感じ」
浅見一可は自嘲気味に笑いながら、
「同じ歩幅で歩くのって難しいなって、ちょうど今、思ってたところ」