幼なじみと怪文書 その2
音楽の授業を終えて、四時限目は体育だった。
チャイムと同時に教室へ急いで戻り、すぐさま体操着に着替えてグラウンドに集合、などというスケジュールを組んだ人間の顔を見てみたいものである。人でなしめ、との誹りは免れまい。これから毎週水曜日はこうだと思うと、少々胃が痛い思いがする。
女子は三組の教室内で、男子は廊下で着替え、という教育現場でさも当然のように行われる差別によって、幾らかの羞恥心と戦いながら制服を脱ぐ。
普通の学校は更衣室くらい用意するもんじゃないのか、と文句を言いたいところだが、扉一枚隔てた向こう側で女子があられもない姿になっていることを思えばそう悪くはないので、改善の嘆願を出す気は毛頭ない。おそらく歴代の男子生徒の総意であろうから、俺も従っておくこととする。
入学したてということもあってか、グラウンドに移動する皆の動きはてきぱきしていた。遅れて来たのは体育準備係の女子生徒だけだ。
男女別に四人ずつのグループに分かれ各々《おのおの》が準備運動をし、グラウンドを二周走って、男子はソフトボール、女子はソフトテニスと遊びの延長のような授業に、教師は見て回る程度だった。
体育の授業終わりから昼休みに入るまでのインターバルがない、というのもまた大いなる欠陥ではないだろうか。グラウンドから教室に戻って、また廊下で着替えを晒される苦行の後、女子が着替え終わるのを待たなければ教室の弁当一つ取り出せないというのはあんまりだ。ただ、扉一枚隔てた向こう側で女子たちが(以下略)。
女子の着替えは長い。来週からは昼食を予め廊下に出しておく必要があるかもな、と思いながら、この時間を使って一階の自販機で飲み物を買った。ちょうど戻ってきたタイミングでガチャと鍵が開く音がして、女子が顔を覗かせながら男子入室の許可を出す。
その脇からぬるりと、恋が廊下へ出てきた。手には自分の弁当が入った巾着袋と、俺のリュックがある。そこに昼食が入っていることを恋が知らないわけはない。
昼休みは自由時間だ。教室にも席にも縛られない。それすなわち、恋が俺の時間を奪うことも自由ということを意味する。従って俺に自由はない。躾けられた犬のように、恋の後ろをついて行く。これが毎日のことなのだ。
封鎖された屋上へ向かう階段の踊り場は、恋と俺とが入学式当日に見つけた、教室と人間から逃避するオアシスだった。おそらくは周知のエスケープゾーンだが、わざわざ覗き込んでくる輩がいるはずがなく、それだけで充分なのだろう。
階段にハンカチを敷いて腰を掛け、恋は弁当を食べていた。
相も変わらず娘を溺愛し、高校一年生に持たせる昼食を未だにキャラ弁にする母親と、娘に変な虫が付かないように見張っていてくれと俺に毎朝メールを送ってくる父親に育てられた恋は、今日も黄色い電気ネズミを模したオムライスを嬉しそうな顔で頬張っている。
「七瀬今日お弁当は?」
「作るのが面倒臭いからって半額の菓子パン詰め込まれた。三個」
「太るよ?」
「菓子パン三個程度で太る男子高校生はエネルギー消費が足りてないだけだ」
「じゃあ太るね」
「ああ。確実に太る」
俺はメロンパンを紙パックのコーヒー牛乳で流し込みながら、恋がぱくぱくと幸せそうな顔で弁当を頬張る姿をちらちらと見ていた。その笑顔は幼少期と何一つ変わっちゃいない、いつもの水都恋だ。
――いや、待て。違うぞ。いつもの恋じゃない。
恋は食いしん坊だ。だから食事時にはいつもニコニコしている。好きなものを味わえる喜びを噛みしめているのだ。だが、今日の恋は心なしか咀嚼する回数が少ない。小学生が遊びたい一心で宿題を雑に終わらせようとしているみたいだった。
あっという間に恋の両手が重ねられる。
「ごちそうさまでした」
「はえーな」
「七瀬が遅いだけなんだよなぁ」
違う。恋が早いのだ。いつもより、異様に。
昼休みはまだ始まったばかりだ。そう急く理由は見当たらない。だが、思えば今日の恋はずっとそわそわしていた。誰も来やしないのに周りを見回して、やはり何かに焦っているような、何かをしたくて仕方がないような。
「……あのね、七瀬」
嫌な予感がした。恋が意を決したように声を発したからだ。
今は昼食時、食事を取る以外に何をすることがある。それなのになんだ、感情があふれ出したような表情で身を乗り出し、床に座る俺にきらきらした目を向けて「あのね七瀬」と来たら、まるで昼飯に勝る何かに俺を巻き込もうとしているみたいじゃないか。
水都恋は、自分の興味が向いたところへは迷いなく突進む猪のような人間で、よく言えば好奇心の塊だし、悪く言えば単なるガキだ。
だからこそ、俺は逃げたくなった。
恋の興味が向かう方向に、俺にとっての極楽は存在しないと経験が語っている。
「なあ恋。チョコパンやるから今からしようとしている話、なかったことにしないか?」
と、言い終わるまで待つ恋じゃない。
恋はブレザーの胸ポケットから一枚の紙を取り出し、こちらに突きつけた。
逃がさない。とばかりに。
「これを七瀬に見てもらいたかったの」
「……なんだそれ」聞かざるを得まい。
「紙! さっき机の中で見つけたの。誰かが入れたみたい」
見れば分かる。ただの紙切れだ。小さな手のひらサイズの大きさだった。
仕方なく受け取って、コーヒー牛乳を啜りつつ目線を落としてみれば、なるほどこれは恋の興味を引きそうなものだと少し納得した。
そこに横書きで書かれていたのは、たった六つの文字だけだったのだ。
「『水都恋さんへ。』……か」
差出人の名前も内容もない。ただ誰に宛てたかだけが書かれた一枚の紙。一部の線がわざとらしく太く書かれていて、何故か一ヶ所だけ紫色のペンが使われている。
「新聞の切り抜き文字見てるような気色悪さだな」
「でも字は綺麗だよ」
だからどうした。
さて、問題はここからだ。これを見せられて、「何だこれ訳分かんねぇ」で済ませてくれる水都恋ではない。
経験は叫ぶ。逃げるべきだと。すぐに「俺は無関係だ」と口にして抵抗を見せなければならない。
しかし恋はそれを許してはくれない。双眸はまっすぐ俺を見つめ、ともすると甘えているような仕草で、しかし当の本人はいたって真剣に、
「わたし、この謎を解きたい!」
これを口にするのだ。
「たぶん、ここにはメッセージがあるんだよ。ちょっと怪しいけど、言葉では伝えられない大切な想いがきっと」
怪文書だぞ、そんな大層なものがあってたまるか。と、言ってしまうのは簡単なのだが。
それは恋の勘だった。根拠なんてない。ばかばかしいと捨て置いてもいいものだろう。だが残念なことに、それは俺には出来ないことだった。
幼い頃、恋はよく分からない洞察力で、窓から入ってきたサンタクロースの写真の違和感に気付き、それを嘘だと叫んだ。導き出した答えは的外れだったが、恋の観察力みたいなものは侮れない。
だからきっと、これにも何かあるのだ。俺にしてみれば誰かのイタズラか質の悪い遊びにしか見えないこれも、恋がそう言うなら、何かあるのかも知れない。
そして、恋は笑う。掲示板に描かれたアニメキャラクターのような屈託のない笑顔で、この俺のウィークポイントを射貫くように。
「だからね、七瀬。これがいったい誰からのメッセージなのか、謎めいた書き方をして、わたしに何を伝えたいのか、昼休みいっぱい使って、二人で考えてみない?」