68 加密列-カモミール-②
【恋】
私はいつもひとりだった。
ギターを手にして幾年、音楽に真剣に向き合えばなるほど、私の周りから人はいなくなった。
呆れられたり、愛想を尽かされたり、気持ち悪がられたり。あるいは喧嘩別れもあった。
休日に遊ばないで練習なんてスゴイね。そんなにギターを弾いて何がしたいんだ。音楽だけに時間は割けない。付き合いきれない。気持ちが重い。才能があるお前と比べるな。
口々に言われるのは変人、不思議ちゃん。トモダチからバンド仲間から、散々言われた。
最初はショックだった。涙が流れて悲しくもなった。でも、そんな感情は次第に薄れた。痛みに慣れた。ギターが上達するにつれ、口さがない言葉は減った。けど、私が認められたわけではない。きっと呆れられたのだと思う。
でも、私は考えを改めようとは思わなかった。
それは単に、好きなものに向き合いたいから。私の心は好きなものだけに向いていればいいと思ったから。
否定と敬遠される日々、どれだけ否定されても私は私だった。
そんな中、はたと人はみんなひとりなんだと気づいた。
この人と私では音楽に対しての価値観が違う。私の好きは他人の嫌いかもしれない。私の大好きは他人の少し好きなのかもしれない。わかり合えないのはしょうがない。人なんだから、全てを同じにすることはできない。
そうしていつしか、割り切るようになった。
でも今回はどうだろうか。なぜ出て行こうとするしぃを引き留めたのか。
ライブの前、しぃに語った私の価値観、それを伝えた上でなぜ引き留めたのか。人と私は違うのではなかったのか。相容れないのではなかったのか。
割り切るのではなかったのか。
正直、しぃに否定されるとは思わなかった。ずっと私を肯定してくれたしぃがあんなにも真正面から言葉をぶつけてくるとは思わなかった。ライブ前で気分が昂っていたとはいえ、売り言葉に買い言葉で話してしまった。しぃに酷いことを言おうとした。
あぁ、なぜいつもより饒舌だったのか、なぜ謝ったのか。なぜ引き留めてしまったのか。全てはそこに答えがあるような気がした。
ただそれは、今までとは違う感覚。しぃに否定されたくないと思う気持ち。
否定されることへの恐怖から逃れる術を探していたのだと気づいた。
自分を曲げるつもりはないのに、しぃに嫌われたくもない。本当に自分勝手だ。
私はどうしたいのだろうか。
いつものように我を張り、状況に身を置き成り行きに任せるか、あるいは、この前のように問題を棚上げにするか。
いや、事ここに至っては、そのどちらも許されないだろう。どちらを選ぼうとも致命的な溝を作ることになる。
停滞も後退もしない。避けて行くこともできない。
それなら、真正面は。
今がまさに踏み出す時なのか。
ここから一歩踏み込んで私の思いを伝える。意見をぶつけ、ぶつけられる。
否定されるかもしれない。いや、されるだろう。
でも否定されるのは当然だ。人なんだから考えが違って然るべきだ。
だけれども、もし、それをしてなお、しぃが受け入れてくれるのなら。私を否定し、それでも受け入れてくれるのなら。
それは、受け入れられないかもしれないという可能性を排除した、否定されないことよりも大きな安らぎになるのではないか。
(私は、しぃに嫌われたくないんだ。)
ひどく遠回りをしたひとつの解は、歪な形を伴って表出した。
心が決まってなお胸に燻る火種は、それが自分勝手な妄想だと知っているからこそ、私の身を苛み続けているのだろう。
私はしぃに嫌われたくない。離れてほしくない。ずっとずっと一緒にいたい。そう思っているからだ。
ひとりには慣れている。いや、本当は慣れている気になっていただけで、ただ孤高を気取っていただけなのかもしれない。
私は私を変えられない。身勝手、強情、孤高を気取った不思議ちゃん。誰になんと言われても構わない。思われても構わない。そもそも誰か、なんて不明瞭なものを気にするなんてナンセンスだ。
でも、誰でもない、しぃには嫌われたくない。手放したくない、他とは明らかに違う何かがある。
否定されることと嫌われることは似ているようで違う。否定とは個人の拒絶であり、嫌われることは存在の隔絶だ。どちらがひどいかは火を見るよりも明らか。そして、ここで何かを伝えなければ、確定的にしぃに嫌われる、そんな予感がした。
ならば、否定されてでも私は一歩を踏み出すべきなんだと思う。
【汐】
「イチカ・・・」
心が決まり口を開いてみましたが、どうにも二の句が継げません。先走りか、あるいは会話の切っ先にイチカの名前を呼んだ私の声はあてどなく中空を彷徨いました。
「・・・うん。」
行先がわからない私の声は、しかし、目の前に正対するイチカには届いたようでした。
「ひ、ひとまず座りませんか・・・?」
思えば、ずっと立ちっぱなしでした。ずっとと言っても数十分も経ってはいないのですが、それでも、私の精神はすり減って疲れていました。
私は手短な椅子に視線を送り、イチカにも近い席を勧めました。
一息つき、ふと視線を回らせると、開け放たれた窓の外で揺れる青々とした新緑が目に入りました。窓なんて開いていたでしょうか。
目線が変わると見えるものが違ってくると言います。あるいは、ずっとそこにあったにもかかわらず、私が見ていなかっただけなのでしょうか。
木漏れ日から降り注ぐ陽光。揺れる木の葉はそよぐ風の姿を教えてくれます。吹きぬける風はカーテンを揺らし、すっと首筋を撫でて抜けていくその心地よさは私の心を落ち着かせてくれました。
ともあれ、いつまでも景色ばかり眺めていても仕方ありません。ふっとため息ひとつ、私は思っていることをイチカに話しました。
それはちょっとした愚痴から始まりました。ほかには、演奏しているイチカはとても格好良かったこと、秋津くんの気持ちを考えてほしかったこと、イチカに考えを変えてほしいわけではないこと、たかが、などと軽はずみな言葉でイチカを傷つけてしまったこと。そして、仲直りしたいこと。思いつくままに様々を話しました。
そもそも、秋津くんは怪我をしたくて突き指などしていません。完全な後出しにはなりますが、その行いは褒められるべきものです。決して責められてよいものではありません。
しかしその反面、それによって演奏ができないことも事実です。イチカがギターに、音楽に懸けていることは知っています。今回、その真剣さを知れたこと、イチカにその考えを変えてもらおうとは思っていないことを伝えました。
そして、その上でイチカが思っていることを話してほしいことを伝えました。
イチカは真剣に聞いてくれました。私の考えを受け止めてくれました。
言いたいことは言いました。伝えたいことは伝えました。あるいは、思っていることを一方的に吐き出しました。
私の思いはイチカに届いたでしょうか。
ついと視線を逸らしたイチカ、伏し目気味なその先には何があるのでしょう。私の赤裸々な気持ちを直視できず、気まずさで彷徨っているだけなのでしょうか。
「・・・しぃ。」
どんな言葉が出てくるのか、イチカがどんな風に考えているのか。今までの私であれば核心を恐れ、ここで逃げていたかもしれません。
しかし、今日は逃げずに立ち向かうと決めたのです。ここで聞かないという選択肢はありません。
「改めて謝りたい。」
「わ、私は別に・・・」
私の言葉を止めるように首を振るイチカ、その表情は何かを決めたような頑なさが見えます。
「しぃはこんなに考えて私を思ってくれているのに、私は自分のことしか考えていなかった。だから、ごめん。私も・・・すぐには無理かもしれないけど、少しでもしぃの気持ちがわかるように考えてみる。」
ふっと雲間に出た太陽が、イチカを照らしました。微笑を湛えたその顔は迷いがあるようには見えません。
それは以前までのイチカです。私が憧れるイチカの姿でした。
思わず笑みがこぼれてしまいました。いえ、何を言われても受け止めようと気を張っていたその緊張がほどけたという方が近いでしょうか。
語らい、自分の考えや気持ちを伝えることは難しいことです。
発端は私の言葉の否定でした。挫けそうになりながらも、その否定を乗り越えて思いの丈を口にした私をイチカは真正面から見てくれました。見止めてくれました。
それはまさに私が求めていたものでした。
ああ、私は誰かに認められたかったのでしょうか。
【恋】
「私は、しぃに嫌われたくなかった。」
驚いた顔のしぃ。いきなりこんなことを言われたら当然か。
聞こえるか怪しいような声量になったセリフは、しかして、独白のようになってしまった。
今までこんな風に誰かに気持ちをぶつけることはなかった。もちろん、感情的になって意見をぶつけることは何度もあったけど、そういうことじゃない。辛いとか、痛いとか、心根を吐露することはなかった。
でも、今日は違った。いや、今までとは相手が違った。
しぃが相手だからだ。私に真正面から向き合ってくれて、意見を言ってくれて、そして離れないでいてくれた。
今までの誰とも決定的に違う、特別な存在。
私はしぃに謝った。私の一方的な感情を押し付けてしまったことを。
私はしぃの考えを知った。そして受け入れたいと思った。すぐには無理かもしれない。私はそんなに器用じゃない。誰かに合わせて生きるなんてできないかもしれない。
しぃは言ってくれた。私の考えを聞きたいと。受け入れられない、あるいは、変えられないという否定を話してほしいと言ってくれた。
だから、しぃに感謝を伝えたい。いや、報いたい。
「しぃ。」
「何でしょうか?」
私の足りない言葉では、あるいは実の伴わない謝罪ではしぃの溜飲は下がらないかもしれない。
だから、何かしたい。せめて何かさせてほしかった。
「罪滅ぼしに、私にできることはない?何でも言って?」
なんでもなんて、相手が相手なら茶化されそうな表現だけど、しぃなら大丈夫。言葉どおりに受け取ってくれるはず。
「今、なんでもって!」
(あれ、おかしいな。)
言って後悔はしていないけれど、チョイスを間違えただろうか。
しかして、確実に空気は変わった気がする。いい意味で言えば、私たちふたりの間に色どりが戻った。
新緑を湛える桜の木々、その葉擦れの音に、私は4月に戻ったかのような錯覚を覚えた。
【汐】
非日常を醸す余人のいない教室。遠く聞こえる運動部の掛け声。艶やかな唇から紡がれる言葉は、木の葉を揺らす風にのって熱を持つ頬を撫でて行きました。
イチカはなんでもと言いました。言葉通りなんでもしてもらっていいのでしょうか。
(い、いえ!流石に弁えるべきです。落ち着きましょう。なんでも、とは言葉のあやです。欲望のままに口に出してはいけません。ですが・・・)
「本当になんでもいいいのでしょうか・・・?」
「・・・私にできることなら。」
多くは望みません。大きなことも望みません。しかし、許されるのなら。
「その・・・抱きしめてもらっても良いでしょうか・・・」
「え?」
まばたきを繰り返し、ちょこんと傾げられた首、イチカの感情は隠されることなくその表情に態度に現れました。私としたことが結論を急ぎすぎて言葉が足りませんでした。
「な、仲直りにはハグをすると良いと聞きました!その!抱き合うことによってβエンドルフィンやオキシトシンが分泌されてストレス軽減と幸福感が・・・えっと、ですから、その・・・」
「わかった。」
上気した頬。熱に浮かされたように潤んで見えるその瞳。
イチカに手を引かれ立ち上がると、ふわっと甘い香りが鼻腔を擽りました。ミドルノートを過ぎ、角の取れたイチカの香水の匂いです。
「・・・いい?」
細々(ほそぼそ)とした問いかけは、ともすれば自信のなさからくるのかもしれません。
頬を朱に染め、少し潤んだ瞳は怯えているようにも見えます。
しかし、イチカの視線は真っ直ぐに私に向けられ、そしてその目には確かな意思を感じました。
承諾の頷きなのか、羞恥からくる俯きなのか、私はわけもわからず曖昧な態度で返してしまいました。
あるいは、今の私たちの間にはそれでも十分だったのでしょう。次の瞬間にはイチカにぎゅっと抱きしめられていました。
私の手はイチカの鎖骨を包むように添えられ、これでは抱き合うというより、抱きしめられている状態です。
本当は私もイチカの背中に手を回したかったところですが、極度の緊張からか、私はタイミングを外してしまいました。
これでは借りてきた猫です。私はイチカに身を委ねることしかできませんでした。
(ああ。鼓動がうるさい・・・胸を突き破って心臓が飛び出しそうです・・・っ!)
心地よく締め付けられるその腕から感じるものは余裕か、あるいはイチカの優しさです。
今、幸せを感じているのは私だけでしょうか。イチカもドキドキしてくれていると考えるのは私の身勝手な妄想です。完全なエゴです。イチカの優しさはもらうことができても、その思いまで私がもらえるわけではないのです。
しかし、見るだけなら。その表情を確認するだけなら許されるのではないでしょうか。
イチカもドキドキしていることを確認して同じ気持ちなのだと確認したいのです。そんな甘えた考えが、甘い甘い砂糖菓子のような考えが脳裏をよぎりました。
そんな私の思惑は、しかし、イチカの胸に収まったこの状態では叶わぬものでした。
もどかしさを抱え、悶々とした時間はどれほど経ったでしょうか。あるいは、この熱に浮かされるような時間はほんの数秒の出来事だったかもしれません。
ふと、腰に回された手から力が抜けて、私たちの間に隙間が生まれました。
恐る恐るイチカの顔を見上げると、しかし、私たちの視線は合いませんでした。
「えっと・・・ごめん。」
思わず肩を震わせてしまいました。その声は背後から聞こえたのです。出所は十中八九、教室の入り口でしょう。
「邪魔する気はなかったんだ・・・その、ごめん。」
私はイチカから離れるようにして振り向きました。いえ、振り向くことはできました。しかし、イチカから離れることはできませんでした。
再び締め付けられた腰、回されたイチカの腕によって私は首を回らせることしかできませんでした。
それでも、目の端にとらえた声の主は予想通り教室の入り口に立ち、気まずそうに視線を逸らしていました。
「真紀。」
「うん・・・」
「用事?」
「・・・ごめんって。怒らないでよ・・・」
「別に怒ってない。」
こんなにも態度に表れているイチカも珍しいように思います。その話し方はいつも通りです。しかし、その端々に良からぬ雰囲気があるのは明らかでした。
「怒ってるじゃん・・・」
「怒ってない。」
「ぁ・・・」
「・・・それで、何?」
「・・・えっと、黒江先輩がコッキーポップ同好会の部室に来てって・・・」
ふとした瞬間、私の腰に回された腕にぐっと力がこもるのを感じて変な声が漏れてしまいました。
素っ頓狂な、場違いな声です。あるいは、聞く人が聞けば官能的ともとれるような声音は、それが自分の口から漏れ出たものだとは信じられませんでした。
恥ずかしすぎて顔を上げることができません。何か言い訳を口にすることも、取り繕うこともできません。
抱きしめられたことが気恥ずかしいにも関わらず、イチカの胸だけが私の唯一の逃げ場でした。
「そう。わかった。」
イチカは言葉少なに返事をして真紀さんを返しました。しばらくして足音が遠くなり、そうして教室には再びの静寂が戻ってきていました。
「・・・しぃ、行こ。」
私を締め付ける腕の力が抜けて身体が離れました。教室の入り口へ一歩前に、背を向けるイチカの表情は窺い見ることができません。
返事をして後に続きます。イチカの横に並らび、ちらと伺い見ても、どうにも視線が合いません。
ドキリと脈打つ心臓、また距離ができてしまったかと思いました。しかし、そんな考えも一瞬です。イチカの真っ赤になっている耳が目に入ったからです。
怒っているわけではないようです。悲しいわけでも。となれば、残っているものはそう多くありません。
私はつられるように頬が熱くなってしまいました。それは間違いなく羞恥からきたものです。
我ながら大胆だったとは思います。完全に自分の気持ちを優先した行為です。イチカがどう思うかなど考えてもいませんでした。
しかし、イチカの好意に甘えた後ろめたさや、ましてや後悔など微塵もありません。
横に並び、少しだけ開いた隙間に風が吹き抜けていきました。そこに言葉はありません。しかし、嫌な沈黙でもありません。
私たちの間には蟠りなどなく、ただあるのは充足と安堵だけでした。




