3 オレンジ事件
【綾乃】
「綾乃いるー!」
「黒江・・・いきなり部室に来たと思ったら・・・邪魔しないでもらえる?」
音楽室のドアが勢いよく開かれたと思ったらこれだ。ずかずかと入ってくるその姿は見覚えがある。というよりこんな強烈な人間、忘れようがない。私は新歓ステージの打ち合わせの手を止め、侵入者に非難の視線を向ける。
「いやこっち睨まないで怖いから。睨むなら朱でしょ・・・」
「秋津。この子に何を言っても無駄でしょ。監督義務者の責任よ。」
「・・・」
「被告人は異議がありますか?」
「私がやりました・・・」
素直でよろしい。では有罪。被告人は罪の重さからか、ため息をついてうなだれている。秋津も苦労してるのね・・・
黒江の手綱を握るのはさぞ大変なのだろう。しかし、だからと言ってそれとこれとは話が別。打ち合わせの手を止められた抗議はしなくてはならない。もちろん黒江の方にではない。
しかしながら被告人も十分に反省しているようだし、今回は許してあげましょう。
「ちょっとちょっと!もしかしなくても私バカにされてる??ひどいなー綾乃ちゃん。」
「あなたは・・・もういいわ。で、何の用?」
「用事が無きゃ会いに来ちゃダメなのー?いけずー。」
「・・・さて、ステージ上での動きの確認でしたね。当日は・・・」
「ああ!ごめんて!ちゃんと話すから!」
黒江に背後を取られた私はそのまま肩を掴まれて前後に振られてしまった。
身体をよじり黒江の魔の手からは逃れたが、三半規管が強くないと自負している私は思わず胃酸の味を感じてしまった。幸い、寸でのところで踏みとどまり最悪を見ることはなかったが。
(危なかった・・・胃酸とともに私の威厳もまき散らしてしまうところだった・・・)
「綾乃ー?」
「ち、ちゃんと聞いてあげるから・・・何しに来たの?」
「よくぞ聞いてくれました!それはね、今キミたちが打ち合わせていることだよ!」
「新歓週間最終日にある、新入生勧誘週間における委員会及び課外活動紹介ステージのこと?」
黒江は珍しく渋い表情で「あの催しそんな名前だったんだ・・・」と言いつつ少し身を引いていた。そして気を取りなおすかのようにわざとらしい咳払いをして話を切り出した。
「いやー実は新歓ステージの軽音部の時間分けてもらえないかと思って。」
「・・・・・・さて先ほどの続きですが、ステージ上手にはギターアンプ、下手にはベースアンプが・・・」
「ちゃんと聞くって言ったじゃん!」
「ゆ、揺らさないで!ちゃんと聞いたじゃない!けど親身になって対応してあげるとは言ってないわ!」
今の今まで私の横で話をしていたはずなのに、いつの間にか背後に回って肩を取っていた黒江をなんとか振り払う。
私は手短にあった椅子に座るように言ってふたりを座らせる。私の後ろに立つな!なぜ殺し屋でもないのに背後に気を付けなくてはならないのか。
「そんなこと言わないで助けてくれよあやえもん!」
「誰が川越市市長ですか!」
「ん??」
「い、いえなんでもないわ・・・」
(は、恥ずかしい!そうよね!普通、女子高生が西武鉄道を作った人のことなんて知らないわよね!ましてやその人が川越市初代市長だなんて・・・と、とりあえず南海ラピートを見て一端落ち着こう・・・ああ、格好いい!エレガント!私の鉄人・・・しかしさすがの速さだわ。私の精神力も超特急で回復する!)
「・・・あ、綾乃?」
逃避気味にスマホの画面に食いついてしまっていたところを黒江の声で現実に引き戻される。
顔をあげると黒江が珍しい表情を浮かべていた。でもこの顔さっきも見たような?
「ご、ごほん!自業自得ね。新歓ステージの計画書を出さなかった過去の自分を恨みなさい。」
「そこをなんとか!あのことは黙っておくから!そう、オレンジのことは!」
「オレンジ?なんのこと?」
「ぶ、部長!大変不本意ではありますが、黒江さんに協力してあげてはどうでしょうか!?」
打ち合わせを止められても文句ひとつ言わず状況を見守っていた部員の一人が慌てたように声をあげた。
黒江が言う、オレンジについては全く見当がつかない。ただ、軽音部でもいつも真面目な彼女が力になってあげようと言うのなら少しくらい考慮してあげてもいい気がする。
「オレンジが何かはわからないけど、力になってあげないこともないわ。」
「やったー!流石は綾乃さん度量が深い!太ももー!」
「太ももが太いって言いたいのかしら?やっぱりやめy・・・」
「え、待って。しんちゃん知らない?太っ腹って意味・・・ごめんて!感謝の気持ちを込めてプリンを献上させていただきます!」
「あら、太っ腹な三段腹、ゴンブト太ももなデカ尻女をもっと肥やさせる気?来週末までに用意しなさい。」
「え、綾乃のお尻小さかったじゃ・・・」
「わー!パンツの話はこの辺りにして!部長、軽音部の転換を巻けば時間を捻出できるのではないでしょうか!?」
(さっきからこの子、様子がおかしいわ。部内ではいつも落ち着いているのに今は慌てふためいている。何かを隠しているような・・・?)
しかし今は目の前の問題を先に片付けなければならない。私は「誰もパンツの話はしていないのだけれど」とツッコミを入れてから提案する。
「私たちの演目の前が吹奏楽部だから、吹奏楽部員が機材搬入している後ろで軽音部の機材をステージに上げさせてもらうというのはどうかしら?」
「そ、そうですね!ステージの後ろの方にアンプやドラムを置かせてもらえれば、私たちの転換は機材を前に押し出すだけになってかなり早くなります。しかし、そうなると吹奏楽部の方の許可が必要になりますが・・・」
「それは黒江がやりなさい。吹奏楽部の許可がもらえたら、そうね・・・5分間だけ時間をあげるわ。それだけあればコッキーのPRと一曲ぐらいできるでしょ?」
ステージ上でのチューニングや軽い音出しを含めれば5分では全然足りないが、そこはそれ。催しの終わり時間が延びるなんて世の常だ。幸い軽音部は新歓ライブのトリだ。どうとでもなるだろう。
黒江には「アンプなんかの機材は軽音部の物を貸してあげる」と加えて伝え、吹奏楽部に行ってくるように促す。
「綾乃様!ありがとう!さっそく吹奏楽部に交渉に行ってくる!」
話がまとまったとみるや黒江は勢いよく立ち上がり、秋津を伴って部屋を出て行った。二人が去った後にはお礼の言葉とわずかな困惑だけが残った。
「あの、良かったのでしょうか?」
「何が?」
「いえ、その、プログラムにないことをやるわけですし、生徒会や下手すれば先生にも怒られてしまうかもしれませんよね・・・?」
「怒られるのは確実でしょうね。でも心配ないわ。」
「・・・というと?」
「私たちは持ち時間を早めに切り上げるだけ。乱入してきていきなりプログラムにないことをやるのは彼女たちだもの。」
私の言葉にどう答えたものかと戸惑っているその表情に笑みを返して夢想する。
「何ら失わず、労せずしてプリンがもらえるのだから、こんな良いことないわよね。ああ、プリン楽しみだわ。」
「何も失っていないわけではないと思います・・・」
含みのある言い方に少しだけ尾を引かれつつも、さるプリン献上の日を思って私の気分は上向きに伸びていった。
【怜】
「なあ、オレンジって何のこと?」
軽音部で朱が言っていた謎の単語について聞いてみる。朱は確かにクオーターだが、ブリタニア人ではないはずだ。佐藤も同様。
「え?綾乃の今日のパンツのこと。」
「は!?」
予想の斜め上の回答につい大きな声が出てしまった。
(なんで知ってるんだよ!今日は体育はなかった。・・・まさかこいつ下着御手の使い手なのか!?)
「カバンでスカートが捲れてたから見えた。まったく、パンツを見せるのはベースの役目なのにね。」
困惑しているこちらのことなど構いもせずに、朱はマイペースに頭の後ろに手を回しながら答えた。
(思考を読んだ・・・?こいつもしかして多重能力者なのか?独身能力も使えるとは・・・)
先行して歩く朱の背中を見ながら、とある妄想を繰り返すことでようやく平静を取り戻した。そして朱に追いつくように歩幅を広くして肩を並べる。
「それで部員ちゃんはあんなに取り乱していたのか・・・部長をこの悪魔から守るために必死だったわけだ・・・部員ちゃん健気・・・」
「誰が悪魔だ!こんなに可愛くて天使な朱ちゃんに向かってなんという・・・まあいいや。今は機嫌がいいから許してあげよう!吹奏楽部も転換の件は承知してくれたし、これで一件落着!」
「吹奏楽部の部長、半泣きでしたが天使な朱さんは何やったんですかね・・・」
ツッコミを無視して歩く朱は満面の笑みだった。本当に機嫌がいいのだろう。
「まー、そんなことは置いといて、曲は何やるー?」
だからこそ、朱に現実を伝えなくてはならない。
「いや、その前にやることがあるだろ。」
きょとんと小首を傾げている朱の表情に少しだけ鼓動が早くなった気がしたが、でもきっとそれは事態の把握ができていない朱に対する心労の賜物なのだろう。佐藤が言っていた監督責任という言葉が重たくのしかかってきた。
「つまりだな・・・ドラムとベースだけで何やるんだよ?」
「・・・・・・り、リズム隊バトル?」
「それ一般生徒には全く刺さらないだろ!」
苦し紛れの発案は到底許容できるものではなかった。
「というかお前、ベースが一般人にどう思われてるか知らないわけじゃないよな。」
「べ、ベースって聞こえないよね、とか・・・?」
わかってない。一般人にとってのベースの認識はそんなもんじゃない。
「違う!ベースってボンボン鳴ってて何やってるかわかんなーい。秋津のギター聞こえなーい。ベースっている意味あるのー?なんか地味・・・だ!」
「お、おう・・・」
わかっている。楽器をしない人間にとって楽器の違いなんてそんなものだ。ギターとベースの違いもわからないし、ドラムのように役割が見た目にわかりやすいわけでもない。
しかし、言わなければならない。
「いる意味あるのかだと?あるに決まってんだろ!お前それ、サッカーのゴールキーパーって必要なの?突っ立っててボール来たらキャッチするだけじゃんって言ってるのと同じだからな!」
「だ、大丈夫!私はベーシストの役割を知ってるから!ステージで転んでパンツを見せるこt・・・私が悪かったよ・・・」
朱には珍しくしおらしく謝る姿に、怒りのバロメーターが急激に減少した。
しかして一度上がった熱は冷めにくいらしく、頬には未だ熱を感じた。今日は調子が狂うことが多い気がする。
朱の反応から流石にヒートアップしすぎたと若干反省しないこともないが、ベースを貶す奴らが反省しない限りこちらも反省しないと心に決めているので絶対反省しない。絶対にだ。うん。だいぶ調子が戻った。
しかし復調とは裏腹にベースを貶す連中への怒りは未だ燻っており、熱い感情が腹の奥底で沸き上がっている。愚痴の一つも言いたくなる。
「そっちがなんか弾いてって言うからやったのに、地味ってなんだよ。ベースはそういう楽器なんだよ・・・」
「悪かったって!リズム隊バトルはなし!あんなもん大衆の面前でオ○ニー晒すようなもんだしな!」
「そこまでは言ってねぇよ。あと女の子が往来でオナ○ーとか言うんじゃありません・・・」
(こっちが恥ずかしくなるからやめてほしい。まあ、女子の下ネタってド直球なこと多いしな。男は夢見がちだけど。)
「怜どうしよう!部員がいないからリード取ってくれる人がいない!」
「バッキングもいないし、詰んだな。」
「部員を集めるために曲をやるのに、その曲をやるための部員がいない!なんてパラドックスだ!OMG!」
(なんでちょっとアメリカナイズなんだよ。)
朱は頭を抱えて唸っている。どうせ大した案は出ないだろうが。
(しかしながら、本当にどうしたものかね。)
【注釈コーナー】 下ネタであって下ネタではない
「~古今東西~知恵の泉へようこそ!今回は私、朱と・・・怜どしたの?」
「いや、その~古今東西~ryの件いる?鬱陶しいよな。」
「なんてことを言うんだ!ない頭絞って考えた奴がいるんだぞ!」
「メタすぎるだろ・・・」
「いいんですー!元々よりリアリティのあるバンド事情を伝えたかったし、ここではシビアな音楽業界の事情を取り扱うこともあるから現実世界と距離が近いんですー!」
「おまえがそれでいいのならもうなにもいわない・・・」
「ごほん!うるさいのが黙ったので質問へGO!」
「はあ・・・バンド音楽におけるリズム隊バトルとはなんですか?」
「まずリズム隊とは!バンド内で主旋律をほぼ取らないベースとドラムですが、翻ってリズムをとっているのでリズム隊と呼ばれます。」
「その言い方だとドラムみたいな打楽器に音階があるみたいだろ・・・」
「それは・・・確かに。ドラムに音階はないね。でも、打楽器全部に音階がないわけじゃないよ!」
「え、そうなの?」
「木琴や鉄琴、ハンドパンあたりも打楽器だし、分類によればピアノだって打楽器だよ!」
「ピアノは違うだろ・・・?」
「ピアノの元になったチェンバロという楽器は撥弦楽器といって弦をはじいて音を出しているけど、ピアノはハンマーで弦を叩いてるからね。私の感覚からすればピアノは打楽器って言われても違和感はないかな。ちなみにピアノって言うのは略称で、正式にはクラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテというよ!」
「・・・ハンドパンって綺麗な音するんだな。」
「ちょっとなんでスマホ見てるの!私の解説聞いてた!?」
「・・・そのリズム隊がするバトルとはなんですか?」
「後で覚えてろよ・・・主旋律がない状態でベースとドラムだけで演奏しようとしたら、リズムを中心に「俺こんなことできるんだぜ」という互いの技術をぶつけ合うか、べーズがメロディ(リード)を弾きながらリズム(バッキング)もとることになるんだ。」
「どっちもマニアックで一般人には縁遠いかもしれないな。」
「そうだね。楽器をやっている人からすれば見どころもあるんだけど、そうでない人からすれば「あ、なんかやってる」くらいにしか認識されないんじゃないかな。」
「それは言い過ぎ・・・ではないか?」
「そして、前者の演奏をデュエルとかバトルと言うんだ。」
「バチバチやってそうだもんな。」
「ちなみに、バンド演奏においてステージで自分の技術を無用にひけらかしたり、自分だけ音が大きかったりと、ひとりだけ悦に入っている人のことをオナ〇ーをしているといいます。」
「ただの下ネタじゃないってことだな。」
「まーね。全国どこでも共通じゃないかな?知らんけど。」
「また適当なことを・・・」
「ただわかるのは、そんな独りよがりなプレイは嫌われるので気を付けましょうってこと!」
「それは真実。」
「ちなみにバンド音楽ではしばしば下ネタが飛び交うことがあるので得意でない人はそんなもんかと流せる技術を身につけよう!」
「謎の文化だよな。」
「謎、ではないのだよ!」
「え?」
「ロックとは古来よりアルコール、ドラッグ、セッ○ス!それは切っても切り離せないんだ!そして私はそれらを包み隠さずお伝えしようと思っているのだよ!」
「おまえの趣味ではないと?」
「そう!」
「まあ、そういうことにしておくか・・・」
「今回はここまで!ピアノの正式名称を憶えてみんなに自慢しよう。次回もお楽しみに!ガッチャ!楽しいデュエルだっt・・・」
「そこまでにしておけ!」
20230216サブタイトルの附番を変更しました。
20230806サブタイトルの附番を変更しました。