32 ねこネコ猫キャット⇄ファイト
【忍】
鼻腔を擽るフローラルな香りはスズランかスイセンか。
控えめな胸元、ほっそりとした肩、私を抱きしめる真紀ちゃんの腕の中は柔らかな春の陽気のようでした。
疲弊した心を慰めてくれる癒しのひと時。しかして、私は騙されませんでした。
「痛い痛い痛い!」
ほのぼのしたのも一瞬。私は恨み辛みを込めた締め技をお見舞いしました。
「い、イブっち!タイム!ターイム!!」
背中に回された真紀ちゃんの手が私の肩を叩きます。タップが入った私は仕方なく締め技を解きました。プロレスは紳士的でなければ。
真紀ちゃんはふらっと一歩たじろぎ、私に訳がわからないといった視線を向けていました。
しかし私はこの瞬間、直感的に理解しました。
私から距離を取ったのは忌避でも、ましてや嫌悪でもありません。
その顔に浮かぶのは純粋な困惑だったのです。
「ごめんね。ほんのジョークだよ。」
背中をさする真紀ちゃんに、悪戯に笑い舌をチロっと出しておどけてみせます。
もはや真紀ちゃんに嫌われていると思っていた考えは羞恥心と一緒に霧散していました。
「ちょっと!いきなりきて何なの!」
もう一度謝りながら真紀ちゃんの背中をさすっていると、ズンズンと人が近づいてくる気配を感じました。顔を向けると甘声さんが私をキッと睨みつけていました。
「何なのって、イブっちは約束どおりバンド練に来ただけでしょ。」
「真紀には話してない!この子に言ってるの!」
甘声さんの問いは私にあてられたものでしたが、はたして、甘声さんの問いに答えたのは真紀ちゃんでした。
息巻いて、紅潮している顔つきの甘声さんを煽るような真紀ちゃんのもの言いは、さらに顔を赤くさせることになりました。
「ていうか、あんたこそ何しに来たの?ギタボのコピー間に合わなかったって?そもそもなんでコピーもままならないような時期にスタジオ練いれてるの?」
「そ、それは・・・みんなの予定が合わなくて・・・」
「それを含めてスケジューリングするのがあんたの役目でしょ。」
「だ、だって!この子がバイト入れすぎなのよ!ほとんどこの子のせいで合わなかったようなもんなんだから!」
(それについては何も言えない・・・)
春はお花見、入学式や入社、引っ越し。春は和菓子の需要が多い分、普段より実家の手伝いが多くなりがちです。
私のせいで練習の時間が制限されてしまったのは事実ですし、そこは謝るべきなのでしょうか。
「わざわざスタジオ取らなくても、軽音部入るならいずれバンド練できるでしょうに・・・」
「だって、はやくうまくなりたかったんだもん・・・」
「パート練も終わってないのに全体練入れても意味ないって。はあ・・・まあ、間に合わなかったあんたに対して、イブっちはギタボパートは弾けるようになってたけどね。」
「嘘よ!だってこの子、初心者でしょ?初心者がたった数日で弾けるようになるわけないじゃない!」
甘声さんは私にビシッと人差し指を突き付け、真紀ちゃんを睨んでいた視線をそのまま私に向けました。
「それは・・・まあ・・・その・・・」
甘声さんの勢いに押された私はたじろぎながら曖昧な答えしか返すことができませんでした。要領を得ない私に苛立つ甘声さんの表情はまともに見ることができませんでした。助けを求め、チラと真紀ちゃんを窺えば笑顔。それはどこか誇らしげな表情にも見えました。
(この笑顔は・・・自分で答えろってこと?)
おそらく真紀ちゃんの言葉は、グラウンド脇で私の練習を見ていたから出たものでしょう。
確かに、1番の終わりくらいまでならなんとか弾けるような気がしないこともありません。歌も同様に、歌詞のうろ覚えの箇所をフォローすれば歌えないこともないように思います。
しかし、どちらも自己判断の域を出ません。
自分では楽譜どおりに弾いているつもりですが、実は全然音が違ったなんてこともあり得ない話ではないと思うのです。それに既に一度、練習するパートを間違えてしまっているのですから、初心者である私の判断はあてにはなりません。
(弾けるなんて言って弾けなかったら恥ずかしいし・・・あ、これが真紀ちゃんの言ってたことか。)
期せずして真紀ちゃんの言っていた実力隠しのことが浮かび、真の意味で私は理解することになりました。
(ま、まあ仮に弾けるって言っても、じゃあ弾いてみせてとはならないだろうし問題はないんだろうけど・・・いやでも・・・)
どう答えたかと頭をひねっている私を睨むように見る甘声さん。その顔に怒りの感情がある気がするのは私の気のせいでしょうか。
やはり、こういうときに頼りになるのは真紀ちゃん。私は真紀ちゃんの袖を掴んで注意を引くと、耳打ちになるように顔を近づけました。私に話を振った張本人ですし、今回はあてにさせてもらいましょう。
「その顔よ!」
真紀ちゃんに話しかけようとしたその瞬間。
何かが決壊したかのような爆発力をもって甘声さんの声が部屋に響きました。
「そうやって田中先輩にアピールしてたんでしょ!今度は真紀を誑し込むつもり?」
「え・・・?」
私はあっけにとられ、意味のない言葉しか発することができませんでした。
その態度が気に食わなかったのでしょう。甘声さんは勢いに拍車をかけると口角泡を飛ばしてドンっと一歩距離を詰めてきました。
「あなたが色目を使って田中先輩の気を引こうとしていたことよ!」
(い、色目?)
まったく心当たりがありません。
田中先輩とは、面と向かって話したことは数えるほどしかありませんし、そもそもなぜ急に田中先輩の話が出てきたのでしょうか。
「もう・・・あんたいい加減その恋愛思考やめなって。なんでも恋愛に結び付けるの良くないよ。イブっちだって、別に田中って人に気があるわけでもないでしょ?」
「そ、その・・・アピールとか色目って何のこと?」
私自身、田中先輩に思うところはありません。
強いて言えばギターが上手いとか、顔が整っているなとは思いますが、ただそれだけです。田中先輩に好意がない以上、色目を向けるはずもないのですが。
「ああ、イブっちってさ、たまにあz・・・その、可愛い感じで人と話すじゃない?」
真紀ちゃんは少しだけ苦々しいような表情で応えてくれました。それは質問に答えない私の態度に気を悪くしたというよりも、もっと別の・・・
「可愛い感じ、じゃない!あざといのよ!あなたと初めて会った時もそうだった。気にかけてもらおうって気満々のオドオドした態度、上目遣い、媚びるような表情。それにあなた、田中先輩がドラム叩いてた時だってジッと視線向けてたじゃない!」
(あ、あざとい?私が・・・?)
あざといなんて初めて言われました。
いえ、面と向かって人にあざといなんて言う機会もほとんどないような気がするので、ある意味では正常なのかもしれません。
しかし、言われた側としてはのっぴきなりません。私の態度は傍から見るとそんな風に見えるのでしょうか。
「ギターだって、どうせ田中先輩の気を引けると思ってはじめたんでしょ!」
「そのへんにしときな。ほんとに怒るよ。・・・イブっち、ギター準備できる?」
何も言わない私を心配してくれたのか、真紀ちゃんは気遣うような表情を浮かべていました。
(今までのは怒ってる範疇ではなかったの・・・真紀ちゃんは怒らせちゃいけない人なのかもしれない。)
「・・・って、え!?」
最後に付け加えられた言葉、それはまったくの予想外。怒りのピークのことといい、真紀ちゃんは私の想像に収まるような人間ではないということかもしれません。
「イブっちはすごいやつなんだって、わからせてやるといいよ。」
真紀ちゃんは勝気な笑顔を浮かべています。その顔が少しだけ悪戯な顔に見えたのは私の勘違いなのでしょうか。
自信にあふれるその表情は、はたして、私に反論を許しませんでした。




