ボローニア
いちごは静物画を真似た形でうず高く美しくコンポートに盛られている。側には北イタリアの片田舎ヴァルドヴィアデネ産のブロセッコが何本も並んでいる。アメリカで人のワイン本でいい評価を世界で認められてから、シャンパンにつぐ最高級品とされ、天然気泡のブロセッコはなかなか手にはいりづらくなった。招待状を出したお客にくわえて何処からともなく集まって来た人々が画廊クレーゾを埋め、ブロセッコの入ったグラスを持ってうろうろしている。画廊の展覧会のオープニングパーテーはどこも同じようにシャンパンにいちごが定番である。アレーシアは初めて自分が手がける作家の展覧会はいちごの旬にしようと決めていた。北イタリアでは苺はちょっとでも旬をすぎるとジョヴァンナ(虫のこと)が付き縁起が悪いとされるので、日にちにも細心の注意を払った。自分が一押しの作家の最初の催しにケチがつくのはアレーシアのプライドが許さなかった。画廊はボローニアの歴史地区サン・ステファーノ教会前の広場の両サイドにあるポルチコ(屋根付き柱廊)内にあった。小さな画廊クレーゾは入口がポルチコの高さから二段ほど下がったところにやや広めのスペースのフロアがあり左手にさらに狭く低い階段を二段下りると小部屋のようなスペースがあった。グラスを片手にアレーシアはその階段を踏み外し、すれ違おうとした客の洋服にブロセッコをかけてしまった。オーナーとしてのあるまじき失敗は初めての仕事に緊張していたからだろう。ブロセッコをかけた若く端正な顔立ちの男は紳士的な振る舞いでその場を取り繕ってくれたので妙に安心した。
アレーシアは画廊のパトロンの息子クラウデオの妻で、双子のエレナとフェデリコの母でありながら画廊クレーゾのパドローナァ役もこなしていた。アレーシアには身についた優雅さの中に古典的な冷静さが見て取れ、整った顔立ちに頑固な感じを漂わせているので、現代的な若者には近よりがたい強い存在を感じさせた。ボローニアの美術学校アカデミア・デ・ベル・アルテで学んだ後、ギシラルディ宮殿内の美術館で現代美術のキュレターをしていた時に義父に見染められてクラウデオと結婚した。結婚までの成り行きが前時代的であつたにもかかわらず、クラウデオは山にしか興味を示さない男だったので、父親が気にいって連れてきた美人のアレーシアに驚き信じられないほど感激して愛してしまった。二人は結婚してすぐに双子の子供をさずかりクラウデオも子供たちのめんどうをよく見てくれている。夏と冬の休暇にはアルプスの別荘に行きお手伝い二人をともなって子供たちと滞在するのが習わしになっていた。その間アレーシアはまだまだたりない美術の勉学をするために世界中の美術館を見てまわった。こんな風に二人の結婚生活はお金にまったく不自由してなくて、過剰な情熱と束縛がない分だけ透明に幸せだった。
「さきほどは、ほんとに失礼いたしました。」
アレーシアは小部屋のほうで一枚の絵を見つめている青年にブロセッコをかけた事の再度のお詫びと改めてお互いの自己紹介をした。貴公子然の容姿で身だしなみも育ちも良さそうな青年はパオロと名のった。さっそく絵を買ってもらったこともあってこの後予定しているヴィラでのパーテーにパオロを誘った。
「このあと私どもの館で食事をご用意しておりますので、ぜひお出でくださいね」
ボローニア郊外にある華麗な造りのヴィラに義父の絵画コレクションが飾られている。
若いルチオ・フォンタナが学校の先生をしていた頃、生徒だった義父は抽象画というものの薫陶を受け、なにもわからないままにフォンタナの油絵を何枚か買ったことが絵画収集のはじまりであったらしい。義父はずんぐりした体形で髪の毛はかなり後退していたが、すっきりした目鼻立ちと広い額が頭のよさそうな感じを与えていた。義父は戦後のどさくさで誰も買い手がつかなかった1700年頃に建てられた大きなお城みたいなヴィラを購入した。何年もほったらかしにしていたが、義母の残した後莫大な遺産をつぎ込んで、五年もの年数をかけて復元しプライベートの美術館とした。1960年台のヨーロッパ中にキュビズムが席捲した折、イタリアの作家トンマーゾ・セヴェリー二・キリコ・カルロ達が未来派を立ち上げた時の絵画を網羅したコレクションは自慢するに値するものだ。新人のお客が来ると義父はおなじエピソードを話すことを楽しみとしていたふしがあった。青年は人がいいらしく義父の説明を含めた昔の話を熱心に聞いていた。キャンバスを裂いた特徴的なフォンタナの作品の所で義父は知り合いに呼ばれていなくなったのを見計らって、アレーシアは青年に近づいて話しかけた。
「フォンタナがお好きなのですか?」
「とても すきです。」
「私のアパートメントにフォンタナのデザインした家具がありますの。」
「フォンタナが家具に描いたのですか?」
「そうなの。とても珍しいでしょう。」
「今までに見たことがありませんよ。」
「よろしければ、日をあらためていらっしゃいませんか?」
「ぜひ 伺いたいです。」
アレーシアはじっとフォンタナの裂けたキャンバスの緑色を見つめながら、お客とはいえ初めての人を自宅に誘うなんて思慮深さが足りなかったかしら?頭で考えていることと別の言葉を発した自分に驚いていた。まるでフォンタナの絵画の裂け目にあいたクレパスにすっぽり落ちたみたいで体が衝撃に揺れた。
今までに感情の動きが不用意に口をついて出ることなどなかったのに。アレーシアは自分の心の懊悩を隠しながら生きてきたつもりでいたのに。
一週間後の日曜日パオロが花束を持って現れた。夫と子供たちを紹介したのち夫とともに寝室に置いてあるアルマディオ(洋服ダンス)のところに案内した。素材はあまりよくない時代のものだが、これがフォンタナ!時間と空間の関係を楽しそうに話す意思が宿っていて誰もが名品と信じるにたるデザインにパオロはしきりとアルマディオをなでながら、
「僕のおやじが見たらきっと、気絶するかも・・・父は50年間も絵をかいていますから。」
「そんなに長いこと描いていらっしゃるなんて!よほど絵がお好きなのね!」
「フォンタナと父は同時代だから、特にフォンタナが好きみたいです。」
「お父様はどんな絵をおかきになるの?」
「雪の絵です。この頃は絵筆だけ握っている感じですが。」
「かなりお歳をめされているの?」
「80歳はとうに越えていますよ。それに、体調も思わしくないし、ここからは遠いし。」
「あら、ミラノに住んでいらっしゃるではなかったのですか?」
「いえ、ミラノは 事務所だけです。」
「ミラノは騒々しくてお嫌?」
「活気があるのはいいのですが、田舎の方が好きですね。」
「ミラノの近くの町ですか?」
「父が老いていますからちょっと遠くても、田舎でのんびりと・・。」
「ミラノより遠い?」
「僕は父と二人で、ヴィットリオ・ヴェネトに住んでいます。」
「ヴィットリオ・ヴェネトですって?」
昼食のトレ―を看護婦が片付けたところだった。
「おはようママ!体の具合はどう?」
「元気よ。このとおり・・」
「お昼はどんなメニューだったの?」
「なんだったかしら?覚えてないわ。」
「そう・・・?」
「痛みもないし、もう夏かい?」
「・・・? まだ春よ。」
「空が青いね。苺にはジョヴァンナが付いたかい?」
「もう、苺は終わったわよ。」
「今年は苺を食べなかったよ!」
「えっ?・・・・・」
母はまだ60歳になっておらず十分にきれいだったが、癌をわずらっていてすこし認知症が始まっていた。父が亡くなって一年後、生きる希望を見出せず未来を失ったのだろう。ボローニア郊外の父親の祖父の代からの敷地と屋敷を売却して、カーサ・リポーザ(老人ホームのような医療所)に入居しのだ。しかも財産を全部処分した結果かなりの金額になったので半分はアレーシアに、あとの半分はシングルマザーの施設に寄付してしまったのだ。もちろんアレーシアにはなんの異存もなかったし寄付した先もうなずけた。
母はけっして過去を語らないが、アレーシアはもの心ついた頃から自分が父親の子供ではないことをうっすらと、いや、はっきりと知っていた。養子の記載もなくなんの根拠もないので周囲もわずかな父方の親戚も誰も疑うことはなく実子として育てられた。子供だったアレーシアに父親にはもちろん母親はそのことらしき話題になると拒否反応を示し、いっさい受け付けなかった。だが、アレーシアは父親と似ているところが何もなかった。
髪の毛・目の色などはもちろん外見の類似点も考え方も性格も爪の生え方や耳の形と位置などにも似ているところは一つとしてなかった。アレーシアの心の深いところに残酷な疑問のひとかけらが棘となって膿み、出生を意識した時に初めて疼いた。
今日もたぶん、そのことについて何も聞けないだろうが、あまり長くは生きることができないだろうと医師から告げられていたので真の父親について少しのヒントでも得たいと言葉を選びながら、母の様子を気づかれないように伺った。
「近頃義父はちょっとぼけてきたみたいなのよ。」
「おいくつになられるの?」
「86歳だったかしら?自分の生まれた村のことが何回も夢に出てくるらしいの。なんとかという名の川があってなんとかという丘が。もう何十回いや、何百回聞いたわ。」
「そんなにもなられるの?
「そういえばママの生まれた町はヴィットリア・ヴェネトだったっけ?」
「山ばかりだった。」
静寂がシーツや掛けてある布の白にまで行き渡り、いっそう母の沈黙を長引かせていた。アレーシアは生理ダンスを開けて、中身を点検するふりしてじっと耐え、沈黙をそのままにしておいた。身動きが出来ないで呼吸すらままならない状態は何分続いたのだろうか。
「春になると色々な花が咲いてね。花を摘みながら大きな樹の所まではよく行ったわ。何という樹だったのかしら、いちごが出るころに樹冠がエメラルド・グリーンに輝くの。」
母の瞳はどのあたりの記憶をまさぐっているのだろうか。窓からこぼれる青い空と動かない雲の方向を見てはいるようだがそれらを目から消しているみたいな姿だった。
樹冠がエメラルド・グリーンに輝く樹それはアルプス一帯に自生するヨーロッパ・カラマツではないのか。ヴィットリオ・ヴェネトあたりにはプレアルプス山脈が走っていて耐寒性が強い針葉樹の森林で埋まっている。森の中でエメラルドに輝く樹冠を持った大きな樹が見つかれば何とか探し出せるかもしれない。気高いアレーシアにとって自分のルーツを知らされないことは、ほんとうの父親がわからないということは満たされていることとは反対の価値基準であり説明しがたい相剋であった。出自が不明であることは生まれる前の過去がないということだから、根がないのと同じぐらい自分の居場所が不確かで未来を絵描けないし、日常のふとしたことでも時間の中に置き去りにされることがある。過去が空白であることによって夢の中で白いおばけに押し流されてしまうこともしばしばあって、それを堰止めるすべもなかった。
感受性豊かなアレ-シアの身体には明らかにされていない出自の矛盾からしょうじる罪悪感的な感情がしつこく付きまとった。これからも生きていかねばならない人生に目に見えない出自の代償と相剋が引き起こす空虚な不安が渦巻いていた。
アレーシアの幼少期は表面上ではいちおう幸せの部類に入っていただろう。ボローニア市街から離れた郊外に生まれ育った養父はアンブラト―リオと呼ばれる地方診療所の医者でアレーシアが物心つく頃には頭髪が真っ白で灰色がかった青い目は皺でおおわれていた。友だちにパパと紹介すると皆が皆ノンノ?と聞き返すほど年老いて見えた。アレーシアを溺愛しているパパはやさしい眼差しを持つ男で村中の誰にでも好かれていた。イタリア人には珍しく無口だった養父は頭脳明晰で怒るということがなく先祖代々から医者の家系で経済的にも豊かな生活を営んでいた。アレーシアはうわべだけには何の不満もなく他者からは幸福な家庭に育ったと思われていただろう。それに何でも自分の思うまま自己顕示欲が強く傲慢に生きてきた。しかし完全でない自分の生い立ちにおける内的な劣等感が不意にむほんをおこす事を制御できないときもしばしばあった。
アレーシアの自分が思い立つとすぐ行動に起こす性質はもしかしたら、自分に繋がる血筋に似た気質の人がいたのだろう。そのことが頭で承知しつつパオロに早速電話をしていた。
「ヴィクトリア・ヴェネトに行きたいの。いつがいいかしら?」
パオロの父親が長年絵を描いていると言ったことを思い出し、画廊クレーゾでの展覧会を計画したいと持ち出し、それを口実に絵を早いうちに見ておきたい旨を話した。パオロはまだミラノに滞在していたが、今晩遅くに帰るというのを親切にも明日にしてヴィットリオ・ヴェネトまで車で連れて行ってくれるという。帰りはコネリア―ノから電車に乗ればその日のうちにボローニアに着く、明日の朝早くに出ることを約束して電話を切った。
ヴィットリオ・ヴェネトは1918年イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍の最後の舞台となった村で、ファダルト峠を越えればもうドイツだ。山と山の間の谷間が町になったようで人影はなくアルプスから流れてくる水だけがメスキオ川を豊に満たしていた。
視界に入った小高い丘すべてがパオロの敷地らしいので、すこし歩いてみたいからと手前で車をおろしてもらった。メスキォ川にかかる木製の橋を渡って急に上がるといちめんの牧草地で青い風にのって草が涼やかに香ってきた。山か森林から吐き出される白い息が霞みのように漂っている。アレーシアはこの山間の地でママは生まれ育ったのかしらと想像しながらジグザグに地面を踏んでみた。
小高い丘をのぼりきると平らな台地がひらけていて草原の中に夢にでてきそうなオーストリア的と呼べる瀟洒な館がちいさな礼拝堂を従えて建っている。まさかこんな田舎に!と目をみはった。むかしのオーストリア・ハンガリー帝国のなごりなのだろう。正面の入口まで横に広い10段ほどの階段になっているのはかなり雪が深いせいだろう。一階といっても二階になり広間が幾つかに仕切られたような部屋になっていた。
「おまたせしました」
と声がして慇懃な老いた執事の挨拶を受けた。ピンク地に金で絵描かれた紅茶のカップ、バカラのシャンデリア、古く光沢のあるマホガニーの家具や繊細な絨毯、ガレなどの調度品が100年の期間を越えて色あせずに置かれていた。上部にステインド・グラスをはめ込んだ窓からはやわらかな屈折の光が降りてきて今まだ役割を果たしている貴物たちを照らしている。アレーシアは歴史の甘美な抱擁を受けてうっとりし、もしかしたら来客したかもしれないその時代の貴婦人みたいに緑色の革張りのソファにふんわりと座った。
パオロの父親は今朝がた体の調子が急に悪くなって近くのベル―ナ市の病院にいっていて留守だったが、絵画の作品は別室の広いフロアに掛けてあって見ることができた。どのカンヴァスも雪、雪しか絵描いていない。雪の中にこれまで見たこともないものを見つけ、それを宝物のように大切に扱いながらキャンバスに絵描く恍惚感。見たものすべてが雪という透明な空間に生きて描いていて時間の中に人生が溶けている絵だ。こんなに素晴らしい画家が世の中の喝采を受けずにいたなんて、自分の内部からの声を聞き、雪と語らいながらひたすら描く画家が埋もれているなんて、信じがたいほど嬉しかった。アレーシアはパオロに必ず展覧会を開催することを約束した。
アレーシアは感性のすべてに語りかけてきた雪の絵画に圧倒され、高ぶる興奮を冷まし気持ちを整えようと外に出た。パウロの父君と逢えなかったのは残念だったが、館の周りを一人で散歩したい旨をパオロに告げて風が立ち大気がざわめいている草原に足を踏み入れた。アルプスの山々が息苦しく間近に迫っくる。岩のようなかたまりが黒くかすんで見えるのは台地の下は渓谷かもしれない。青空を突き刺している樹の先端の情景がきらりと目に入ると、アレーシアは緑色の円錐形に吸い寄せられるように下に降りていった。くぼ地になったところに枝が曲線をえがいて垂れている、5メーターほどの高さがあろうかと思われるカラマツの樹があった。太くてすこし黄色がかった幹に触れると肌触りがあたたかく、樹に待ち続けきた気配が感じられた。
アレーシアは優雅なしつらえの館の時への回帰に身をおいて、くらくらした。探り当てた樹が語る時間に旋律し、二つの感情が身体の内で脈打ちもつれていった。
「ママ調子はどう?ちょっと香りが強いかしら・・」
自分の感情の動きをさとられないように黄色いフリ―ジヤの花をいっぱい持って母親のもとを訪れた。ゆるやかに屈折した光がフリ―ジャの強い香りを可視化状態にしているせいか、母はしきりにかぶりを振っている。
「フリ―ジャの匂いがきつかったかしら?」
「食べ物の味もはっきりしないし、匂いも、憶えも悪くなったみたいだね。」
はっきりしないどころか、なにもかもわかっている母は軽く頭を振る仕草で問いを拒否しているのだ。母は健康を害してなお娘の唯一つの疑問を解く過去を打ち明けずに葬り去ろうとしているのだ。ヴィットリア・ヴェネトで見つけた大樹の話をして何か手掛かりになることを聞き出そうと思ったのに母は何かを予感していたのか、目は光の中のフリージャが立てた香りを空ろに追っている。こんなに母がおびえているのに過去をほじくり出して母を責めるのはよそう。アレーシアは純粋に母を愛おしく思いしっかり抱きしめた。
画廊にもどりアシスタントにあれこれ指図している時パオロから電話が入り、病気が落ち着いたパオロのパパが近いうちに逢いたいと予定を聞いてきた。アレーシアは自分が発した答えに自らあっけにとられた。出生の秘密を探るのはひどく嫌がっている母のために止めようとさっき決心したばかりなのにパオロのパパに逢って聞かなければならない事があると、その機会は今だと、自分の父を凝視するのは自分の権利だと、正当化していた。
明日の予定をすべてキャンセルするようにアシスタントに指示を出しながら、突然のヴィットリア・ヴェネト行きを夫に話して置くべきだと思い電話をとった。
「明日、ヴィットリオ・ヴェネトに行ってきたいの。」
「ずいぶん性急な計画だね。もしかしたら、パオロに恋したのかな?」
「まさか!あら?嫉妬?」
「そうかな?君が綺麗だからね。」
「パウロの父君の調子がいいらしいの。御病気で、またいつ入院するかわからないから、」
「・・・このあいだ感じたのだけど、君とパオロは横顔と雰囲気が似ているね。」
「何をいってるの?雪の絵が素晴らしいのよ。お元気なうちに展覧会を開きたいのよ。」
「わかっているよ。でも、他者に距離を置く君はめずらしく気に入ったんだね。」
夫の観察にドキッとしつつ、そう言われてみれば自分はあまり他者と親しく交わるということがなかった。小さかった時も学生時代もおよそ友達といわれる人は誰もいなかった。結婚も周囲のひとたちから時代錯誤的な選択だとか、金持ちだから結婚しただとか色々言われたが、アレーシアにとって美術にかかわることが出来るということだけでよかった。パオロとは夫が誤解するような恋愛感情などなかったが、ワインを引っかけた時の対応と笑顔はとても気にいった。いままで誰にも心を開かなかったのは父親が誰であるのか知られたくなかったし何より話題になることを避けてきたためだった。
捜しに行くチャンスが今だと性急に思え、何を?どういうふうに?を抱えながら、青いマゼラッティを走らせた。
アルプスの山並みを背にした丘の上館の外に出て二人はアレーシアをむかえてくれていた。
髪の毛も髭も白くなった背の高い老人はたじろぐことなく真っ直ぐにアレーシアの全部をとらえていた。いつもはいやでもしなければならない習慣とあきらめ、おざなりにしているハグだが、老人の大きな体に包みこまれ捕らえられたようなハグにくすぐったさと不思議な親しさを感じた。珈琲を一杯だけ飲んですぐに絵を見始めた。激しい雪、降りやまない雪、光を浴びる雪どれもこれも白一色なのだが、白色に塗りこめられた様々な感情、埋もれている雪の中に隠されている宝物の情景がありありと浮かんでくる油絵。一枚一枚に感じたことをアレーシアは独り言のように言葉にしていった。心のこもった批評と感想に老人は有無を言わせない返事やうなずきを繰り返しながら、始終誇らしげに優しい眼差しでアレーシアを見つめていた。一人の人間が六拾年もの時間を費やして絵描いた雪を素晴らしいと思えて絵にのめり込み選別しがたく、そこから30点を選び出す作業は事の他手間取った。すっかり予定の時間は過ぎてしまいパオロがしきりに帰る時間を心配して、契約事は後日ということになって母のことを言い出すきっかけがないままに辞することになった。この場で絵と異なる質問はそぐわない発言だと観念したが、最後に思い切って頼んでみた。
「お若い時に誰か好きな人にあげたいと思った絵がおありですか?この中に・・・。夫と義父にも見せたいので、できればその一枚をお借りしてまいりたいのですが。」
アレーシアは自分自身が一呼吸するために、三日間の猶予をとり借りてきた雪の絵を病室には持って行かなかった。ここまで黙ろうと決心をしている母への背信はとりかえしのつかない過ちを犯しているのではないかとの後ろめたさがまとわりついてきているためだった。なんとしても話したくない母の神経を逆なでするようなことは止めよう。母に対して不安によって導かれる行動は慎まなければとの理性もはたらいた。
その感情を制御出来なくしたのは医師のひと言だった。母の命はあと三カ月だと・・。
急に訪れたイメージは母の死によって宙ぶらりんの自分の存在に対する恐怖だった。実父が存在しなければいつまでも幻の形を追い続けて虚にたえられなくなるだろう。この時しかない。この機を逃したら一生問うことが出来ない。
一晩考えたあくる日、アレーシアは雪の絵を持ってそっと病室のドアをあけた。母は自分の死の時期を推し量っているように窓からのぞく青い空に浮かぶ雲を見ていた。
「ママ、今日のご機嫌はいかが?」
「ママ 素晴らしい作家が見つかってね。この秋に画廊で展覧会をしようと思って。」
「そう。 そんなに素敵な絵画なの?」
「そうなの。田舎に埋もれていたのを見つけたのよ。」
「よかったわね。」
「ママに見てもらいたくて、絵画・・持ってきたから、気晴らしにでも見てみて。」
「アァ・・・フェデ!・・フェデ・・・」
「ママ!ママ!誰か来て!」
どうしよう!なんと私は悪い娘なのだろう。あまりの母のとりみだしようにアレーシアの脈拍も制御不能に近くなった。突然母は噴火口びぶつかったときのようにのけぞって、全身から涙があふれとりつくしまがない。緊迫感が漂い母に懸ける言葉などは恐ろしいまでに無力だ。あまりの動揺に意識も混濁し医者がモルヒネを打って眠らせた。
アレーシアは我ながら娘であることのもっとも忌まわしい残酷さを思い知った。医者からは冷たい眼差しで軽蔑されあなたのお母さんに対して絶対興奮は禁物とのお叱りを受けた。
雪の絵からの反応を予測はしていたにせよあまりにも大きな母の興奮にアレーシアの感覚は憶測をせざるを得なかった。あんなに強く反応したことはあの絵を知っているに違いない。ヴィットリア・ヴェネト、大きなカラマツの樹、フェデと言ったこと。よほど親しくないとフェデとの愛称では呼ばない。そしてパオロのパパの名前はフェデリコだ、偶然か必然か、アレーシア自身が名づけた双子の子供の名前はエレナとフェデリコ。おばあさんの名前をもらうのは珍しいことではないが、男の子の名前をどうして、何を思ってすんなりフェデリコにしたのか。母に名前を付けたと告げた時どんな反応をしたのか思い出せなかった。
二日ほどして病院から患者さんが落ち着いたと知らせがはいり、くれぐれも興奮させないようにと念を押された。
病室の空気は絶対的で侵しがたい白い沈黙に包まれていたが、母の表情は比較的明るく、善意に満ちた微笑みが戻っていた。もしかしたら自分自身の終わりを知っていて、自然の死にゆだねる用意をしているのかもしれない。まるであらゆる魂と会話出来ているかのように穏やかな表情の日々をすごしていた。小康状態で安らかそうだったが、夏を過ぎたころからほとんど食べられない状態になった。慰めはどこにもなかった。母の死はあらゆるところを捉えていた。カーテンのすきまからかすかな光が漏れている。
「怖がることはないわ。」アレーシアは心のなかで母と応答していた。すると母から答えが返ってきた。母は視線をからませてアレーシアにはっきりした声で言った。
「あの人に私のことは決して、言わないで! 展覧会を成功させてね。」
まもなく母は逝ってしまった。
母の葬儀がすんで二週間した時、弁護士に託したのだろう死者からの手紙が届いた。
愛する私のひとり娘アレーシアへ
アレーシア!生まれてきてくれてありがとう。あなたの胸に刺さっている棘を取り除く時がきました。母性という感情なしにあなたを存在させてしまった重みと誕生の経緯を知らせることなくこの世に送り出し、過去を知ることからあなたを締め出して育ててきたことを後悔はしていません。なぜなら出生の秘密を知ればまた別の棘があなたの心に刺さることになるからです。真実というものは人を殺すことにおいて最悪な恐るべき凶器だからです。わたしはこの苛酷きわまりない真実に束縛されて生きてきたからです。それでも事実を話さなければと思ったのはあなたからフェデリコの雪の絵を見せられた時でした。あの雪の絵に直面し、今思えば異常なほど恐れおののいたのはあなたの持つ危険なほどの純粋な性格のことでした。聡明なあなたは自分の思いや感情、感覚を正しいと思い込むと、きっと何かをしでかすからです。はっきり言いましょう。フェデリコは私の初恋の人でしたが、彼はあなたの父親ではありません。実はあなたの父親が誰であるか私も知らないのです。
戦争が終わって10年ほどたった頃、ひとりのドイツ人の男がヴィットリオ・ヴェネトにやってきました。その男は真っ直ぐに我が家をめざしていました。戦争中はパルチザンが終結して惨い殺し合いの中心になった村がヴィットリオ・ヴェネトの周辺でした。
その男はその時少年兵で、食べ物を盗みに我が家に忍びこんだ時七才の私を見たのだそうです。そして世の中が落ち着いた10年後私を迎えにきたと言うのです。父は怒りもちろん門前払いでしたが、次の日、両親の目を盗み私をかついで連れ出しレイプしたのです。
すぐに父に見っけ出されその場で父はその男を殺しました。私は失神していたのでそのことはいまだにまっ白いかたまりが脳に残っているばかりです。父親と姉たちはユーゴへ、母は私を連れて母の妹の住むボローニア近くの村へ置いて父のところに帰って行ったのです。父にとっては純潔を失った娘は捨てるしかなかったのでしょう。その後妊娠に気づいた叔母の取り計らいで私を診察に来ていた医者の養父とすぐに結婚したのです。あの人は本当に良いひとでした。もちろんあなたのことを真から愛してくれたことはあなたも承知しているでしょう。深い知性あるあなたのお父さんと結婚出来てあなたが生まれて私は本当に幸せだったと話してください。ヴィットリオ・ヴェネトのあの思い出の樹冠がエメラルド・グリーンに輝く樹に。 エレナ