玉国くんは春風に乗って
「どうしたの、玉国くん?」
そう言いながら肩までの髪を軽く掻き上げる、その人の美しさに俺は固まってしまう。
「何の用なのかなあ?」
少しハスキーだけど耳に心地良い声が、俺にそう聞く。いつもは教壇に立っている彼女。美しいと思っていた。間近で見るとさらに綺麗だ。笑顔が春のように眩しい。
「林檎崎先生っ!」
生物の林檎崎もも先生……。10も年上の彼女に、とても気になる質問を心に抱えて、俺は生物室へやって来た。ごくりと生唾を飲み込むと、勢いをつけて、その質問を繰り出す。
「僕に教えてほしいんです! 恋って、何ですか!?」
「えっ……と」
先生は即答してくれた。
「じゃ、一緒にいらっしゃい」
先生は俺の手を握り、優しく微笑むと、歩き出した。
学校を出た。バスに乗った。隣合って座り、太ももをくっつけ合った。先生は窓の外を見ながら、何も言わないが楽しそうだ。俺も何も言わず、ただ胸の鼓動が彼女に聞こえてしまわないか心配で、それを隠すためにずっとハァハァ言っていた。
先生は結婚している。17も年上のオッサンとだ。知ってる。もちろん知っている。だって俺は林檎崎先生のストーカ……ファンだから。
でもそんなオッサンよりも俺のほうがいいに決まっている。だって俺は若いからだ。先生が若い俺との恋のアバンチュールに興味をもってくれているだろうことを、俺は心から期待している。
バスに乗ってこれからどこへ行くのだろう。楽しみすぎて、俺は聞けなかった。一体、俺に、恋とは何かを、どんな風に、何をしながら、教えてくれるというのだろう。ムフフ、ゲヘヘ……。
「着いたわ」
降りたところは何もない国道沿いの停留所だった。先生は壁に寄り添って立ち止まり、バスが走り去ったほうを見ている。何かがやって来るのを待っているようだ。
暇だ。
先生はずっと黙っている。
なんだか不安になったので、俺は聞いてみた。
「先生……。僕に、恋とは何かを……教えてくれるんですよね?」
「うん。あっ、来た、来た!」
先生が嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら手を振った。何が来たのかと見ると、一匹の猫がこちらに歩いて来ていた。
「るっ、るっ、るー♪」
そいつは鼻唄を歌っていた。珍しい猫だ。背中にパンジーみたいな模様があり、白いところが春らしく白い。
「パンジーちゃーん! こっちだよぅ!」
先生は猫をびっくりさせないようにか、少し抑えた声で猫を呼ぶ。少女みたいに可愛い。27歳なのに。
「るんるん、るるるーん、るんっ♪」
強い春風に乗り、猫の身体が浮いた。こっちに向かって飛んで来る。
「さあ、玉国くん!」
「えっ?」
「恋とはねこが繋いでくれるものなの。行ってらっしゃいな!」
「い、意味がわかりません」
その時、急に俺の身体が軽くなった。春風に乗るように浮き上がった。慌てふためいている俺に向かって、笑顔で猫がまっすぐ飛んで来る。
「なんだこれ! 俺、飛んでる!」
「るっ、るっ、るー♪」
「行ってらっしゃいな!」
もがくように俺は手を前へ伸ばした。ゆっくり近づいて来る猫と手を繋いだ。その瞬間、竜巻に飲まれたように、あっという間に俺と猫の身体は上空3千メートルぐらいまで巻き上げられていた。
「ぎゃあああーー!」
俺は全身と尻尾の毛を総て逆立てて叫んだ。
「るんっ♪」
俺の目の前には俺の顔があって、そいつが猫のように鼻唄を歌っている。
雲を下から突き抜け、また上から下へ突き抜けた。物凄いスピードで落ちて行く。死んだな、と思っていると地上スレスレでふんわりと速度が弱まり、俺達はファサッとソフトに、お腹から着地した。
「おかえりー」
林檎崎先生がにこにこ笑っている。
「るるるーんっ♪」
俺の身体が俺の目の前で立ち上がり、猫の声で言った。
「あ……あれっ!? 俺、猫になっちゃった!」
自分の肉球を見ながら、俺は猫の口から俺の声を出した。
「猫じゃないよ」
先生が俺をたしなめる。
「ねこだよ」
林檎崎先生のしなやかな手が俺を抱き上げる。
「あっ……」
彼女の柔らかな胸に抱かれると、俺は頭の中が真っ白になってしまった。
先生は俺を抱いて学校に戻った。下校する女子生徒達ににっこり微笑みかけると、抱いている俺を見せびらかす。
「わー、ねこー!」
「可愛いー! 先生、そのねこ、どうしたの?」
女子達の黄色い声に、先生は桃色の声で答える。
「可愛いでしょー? 貰い手を探してるんだよ。誰かこの子、貰ってくれないかな?」
「えー?」
「わー、ウチ来る? ねこたん」
俺は可愛いねこの姿だったが、出来るだけ自分を可愛くないように見せた。可能な限り目つきを悪くして、彼女らを睨んでやった。先生の白いスプリングセーターの胸をぎゅっと掴み、牙を見せて、声は出さずに威嚇してやった。
「うわっ」
「ごめん先生、やっぱこの子、ムリ」
「恋のお相手、見つからなかったねー」
残念そうに話しかけて来る先生の胸に顔を埋めながら、俺は喉をゴロゴロ鳴らして大変満足していた。よかった、誰にも気に入られなくて。
「ただいまー、俊」
はっと我に返ると先生のアパートだった。いつもビルの屋上から双眼鏡で見ていたので見知っていたが、入るのは初めてだ。やったぜ! 第一希望の場所に到達だ!
「おー、お帰りー。もも」
青いはんてん姿で出迎えたこの汚いオッサンが林檎崎先生の旦那だ。44歳だという。
こんな男とももたん先生が結婚しているなんて、俺は信じない。許さない。先生も若い俺とのアバンチュールのほうが好きなはずだ。俺は旦那を鋭く睨みつけると、声を出して威嚇してやった。
「シャーッ!」
「おお、ねこじゃん。久しぶり」
旦那が俺の頭を撫でて来た。
「何? 中に誰か入ってんの? もしかして女子高生?」
「玉国光くん。ウチの男子生徒だよ」
「なんだ、男かよ」
すけべそうに俺を撫でていた手を、旦那が引っ込めた。
「で、何? 今晩ウチで面倒見んの?」
「うん。恋のお相手が見つかるまで」
そう言うと先生が旦那に俺を預ける。
「とりあえずご飯、食べよう。とろとろ卵の親子丼、作っといてくれた?」
先生の手料理がよかったな、と思いながらも、旦那が作ったという親子丼が凄まじく旨かったせいで、俺は猫用に冷まされたそれを、食卓の上に立ってガツガツ食った。
「いやー、いい食べっぷりだなー」
どんぶりに頭を突っ込む俺を、旦那が惚れ惚れするように見つめる。
「うまいかー? どんどん食ってくれよー? ……おっと」
旦那が俺の顎をつまんで、くいっと上を向かせた。まっ黄色になっているらしい俺の口をティッシュで優しく拭いてくれる。
「なんか息子が出来たみたいだよね」
そう言って林檎崎先生が幸せそうに微笑む。
「そうだなー。いいもんだよな。どうだ、もも。今夜あたり、本物作っちゃわないか?」
許せんことを旦那が言う。
「今のあたしの生徒達が卒業するまでは作らないって言ったでしょ」
先生がほっとするようなことを言う。
「とりあえず玉国くん。ごはん済んだら一緒にお風呂入ろうね」
「え。男子生徒なんだろ? 俺が入れるよ」
「大丈夫だよ。だってねこなんだから」
「でも中身は……」
俺は一言も喋らなかった。可能な限り、ねこであることに努めた。
「いい子だねぇ、玉国くん」
シャワーの音が夢のように響いている。
先生の気持ちいい指が俺の毛に泡を立てている。
上を向くと、ももたん先生が俺だけを見つめながら、にこにこと笑っていた。白い水着姿だが、構わなかった。
ちょうどいい温度のお湯があったかく俺を包み込む。ぬるぬるとした先生の手が俺の全身を撫で回す。
ももたん……。ももたん……。好きだ。
ちゃぷん、たぷんと浴槽の湯を揺らしながら、俺達は見つめ合った。先生のピンク色の頬にかっこいい皺が寄る。
「可愛い……、玉国にゃん」
桃色の唇が、俺のおでこにキスをした。
ああ……、これが。ああ……、これが。
大切なことを一つ、俺は知った。
「ほらっ、じっとしてろ」
風呂から上がると旦那がバスタオルで俺の身体を捕まえようとして来る。
「いーよ! 自分で舐め取るから」
「あんまりペロペロペロペロやると毛玉が胃ん中入っちまうぞ。あらかた俺が拭き取ってやる」
ふふふと笑いながら、ももたん先生が俺達を見つめている。どうやらじゃれ合っていると思ってるようだ。
「よし、乾いたな? じゃ、マッサージしてやる。こっち来い」
逃げようとしたが、捕まった。このオッサン相当な猫好きだな。キモい笑顔で膝の上に仰向けにさせると、俺の両手を持ってニギニギ、ニギニギし始めた。
「じゃ、あたし、お茶淹れて来るね」
ももたん先生がそう言って台所に消えたので、俺は旦那に聞いた。
「ねぇ、なんで俺、ねこと身体が入れ替わっちゃったの? なんでアンタも先生も、これを不思議がらないんだ?」
「コイツはな、恋を繋ぐねこなんだ」
旦那が俺の顎の下をさすりながら、教えてくれた。
「もう10年も前になるが、俺とももを繋いでくれたのもコイツだったんだよ」
そうだったんだ? と思いながら、顎の下から俺はだんだんと気持ちよくなって来た。自分の意志に反して喉がゴロゴロと鳴り出す。
「そしてコイツに恋を繋がれてから10年間、俺はずっともものことが大好きだ。変わらず愛してんだ」
ウンウン、と俺は笑ってしまいながら、うなずいた。このオッサンとももたん先生が愛し合っているらしいことが、なんだかとても嬉しかった。
「お前ももものことが好きなんだろう?」
旦那が俺のお腹を優しくさすりながら、言う。
「大好きなんだろう? ガキのくせに、生意気に。恋しちゃってるんだろう?」
俺は笑いながら、ウンウン、とうなずいた。
「へっ。いいことだ」
旦那が俺の頭をぽんぽんと優しく叩く。
「俺の大好きなももを好きになってくれて嬉しいぜ。ありがとな。3人で仲良くやろうな」
マッサージを全身に受けながら、俺は幸せに眠たくなり始めた。
旦那たん……。旦那たん……。好きだ。
「可愛いぜ? 玉国」
旦那たんが俺の顔を至近距離から見つめて、そう言ってくれた。
ああ……、これが。ああ……、これが。
とても大切なことをまた一つ、俺は知った。
一つの布団に3人並んで眠った。ももたん先生と旦那が顔をくっつけ合って眠るその胸元に、俺は丸くなって寄り添った。
ああ……。幸せだ。
このまま一生ねこでいたい。
俺は恋とは何かを知ったばかりか、それを一気に飛び越えて、愛を知ったのかもしれなかった。
もう、人間に戻れなくていい。
こんな恋の気持ちになれるのなら、俺は一生ねこのまま、この2人の間でゴロゴロしていたい。
ふと、そういえば俺の身体に入ったねこはどうしているのだろう? と思ったが、心地良い眠気にそんなこともどうでもよくなって行った。
ももたん……。
旦那たん……。
好きだ……。
愛してる……。