お引越し
数日経っての日曜日。
朝食を終えたハクトが、縁側でグリ子さんのブラッシングを行っていると、居間の小さな棚の上に置かれた黒電話のベルが鳴り始める。
ブラッシングの手を止めその側まで行って受話器を取り……「はい。はい」と何度かの相槌を打ったハクトは、短い通話を終えて受話器をそっと元に戻す。
「引っ越し先の掃除が終わったそうだ。
……グリ子さん、早速引っ越しの準備を始めるとしようか」
振り返りながらのハクトのその言葉に、ぱぁっと笑みを浮かべたグリ子さんは……早速とばかりに縁側の廊下の隅に置かれていた雑巾をその前足でちょんと掴み……廊下の板をキュッキュと拭いての雑巾掃除をし始める。
「そうだな、短かったとはいえ世話になった家なのだから、掃除もしないとだな」
と、そう言ってハクトもまたグリ子さんに負けじと引越し準備をし始める。
……と、言ってもこの家にハクトの私物はほとんど無いに等しく、着替えや作業服を旅行鞄に押し込めばそれだけで引っ越しの準備は終わってしまう。
家具も家電も、台所の調理器具なども、もともとこの家に……矢縫家の使用人達が暮らしていたこの家に備え付けられていたものであり……ハクトはすぐにでもこの家から引っ越す腹積もりであった為、新しく買った品もほとんど無い。
冷蔵庫を開けてみても余計な品は無く、風呂場にも安物の石鹸が一つあるくらいのものだ。
トイレットペーパーやティッシュは備品として倉庫にあったし、洗剤なども同様。
旅行鞄と服と靴と僅かな金銭……これだけがハクトがこの家に持ち込んだものだった。
そんなあっさりとした準備が終わったなら旅行鞄を持って出て行けば良い話なのだが……グリ子さんを見習って立つ鳥跡を濁さず、しっかりと掃除をしておく必要はあるだろう。
水やガスの元栓をしっかりと閉めて、ブレーカーを落として……各部屋や廊下、トイレに風呂の掃除をして、窓は一つ残らず曇りが無くなるまで磨いて、畳は床から外し、倉庫にあった木材の上に重ねて腐らないようにし。
しっかりと窓を閉めて雨戸を閉めて玄関の施錠をし、預かっていた鍵は……、
「これといって金目の物は無いからな、ここで大丈夫だろう」
と、玄関の郵便受けの中に入れる。
それともう一つ、両親への感謝と決別の想いをしたためた封書も郵便受けの中に入れておく。
「……まぁ、あの人達のことだ、この家がどうなろうと気にも留めないだろうし、十年二十年経ってもこれに気付くことは無いのだろうが……それでも一応な、けじめというものだ」
そうしたなら旅行かばんを手に取り、なんとも嬉しそうに「クキュン!」と鳴くグリ子さんと寄り添いながらその家を後にする。
向かうは竜鐙町の一軒家。
ここから歩いて10分程の距離。
仕事と同様にグリ子さんのおかげで知り合った大家さんから格安の家賃で住んで良いよと言われたその家は、先程までハクトがいた家とは段違いに新しい、今の時代の流行と言えるデザイン、造りをした一軒家となっている。
和風ではなく洋風、畳間も無く板張り間ばかりで……広い庭と広いリビングが特徴の2階建て。
「先程までの家と違って家具家電はなく、全て自分で買い揃える必要があるが……自分で買ってこそ愛着が湧くというものだしな……ようやく我が家という感じがするな、借家だけども。
……庭とリビングはグリ子さんの好きにして良いからな」
足を進めながら寄り添うグリ子さんにそう語りかけるハクト。
その声は今まで以上に穏やかでどこか毒が抜けたようであり……グリ子さんは首……というか、その体全体を傾げながらハクトに「クキュン?」と声を返す。
「家具家電無しで今日はどうするのかって?
それに関しては安心して良い。これまたグリ子さんのおかげで……グリ子さんが転んだ子供を助けた縁で知り合ったあの家具屋さんにそこら辺のことを頼んでおいたからな。
向こうの家についたなら早速電話をかけて、予約しておいた品々を運んでもらおう」
「クキューン!」
「週末に迷惑じゃないかって?
安心すると良い、その家具屋さんの休日は月曜日だ」
「クキュ……クキュン!!」
「なんだ、ようやく思い出したのか?
そうだとも、以前グリ子さんが一目見るなり気に入って、中々離れようとしなかったふかふかのダブルベッドが置いてあったあの家具屋さんのことだとも。
一階のリビングにあのベッドを運んでもらう運びになっているから……グリ子さんの寝床として好きにしてくれて良い。
注文した時はリビングにダブルベッドを置くのかと驚かれてしまったがな……グリ子さんが庭から出入り出来る唯一の部屋があのリビングだからな……あそこはグリ子さんの部屋ということになるな」
ベッドのある自分の部屋。
その魅力的な言葉の響きに、グリ子さんはその丸い目をくりっと見開いて歓喜し……パタパタと羽を羽ばたかせて、ぴょんぴょんと跳ねながら新しい家へ、一刻も早く自分の部屋に行きたいと逸り始める。
その姿を眺めてにっこりと微笑んだハクトは……そろそろ家が見えてくるとなって、指折り時間を数え、計算し始める。
「……掃除に時間がかかってしまってそろそろ14時……。
家具家電の搬入が終わって設置が終わったら日が暮れるかもしれないな……。
……まぁ、掃除で疲れたとはいえまだまだ体力は残っている、なんとか……なるかな」
明日は月曜日……工場での仕事が待っている。
出来ることなら今日はもうゆっくり休んで英気を養いたいところだが……そうも言っていられない。
台所に風呂にトイレに、寝室に……。
生活に欠かせない最低限の準備だけはどうにか整えておかなければ。
家具家電を運び込んだり設置したり……家具屋さんがある程度はやってくれるとはいえ、後ろでその様子を眺めての任せっきりにするという訳にはいかないだろう。
自分のことなのだから自分で出来ることはやっておかなければ……。
その性分からそんなことを想い……俯きながら更なる休日労働を決意するハクト。
「こんな時に風切君がいてくれると助かるのだがな……」
それでも体には先程までやっていた、大掃除による確かな疲労感が残っていて、思わずそんな弱音を漏らしてしまうと……ハクトの前を行くグリ子さんが「クキューン!」と、大きな声を上げてくる。
その声を受けてハクトが顔を上げると……、
「あははは、グリ子さん! こんな所でどうしたの!」
と快活な笑い声を上げる先ほどその名を口にした風切ユウカの姿が視界に入り込んでくる。
そのまさかの光景を受けてハクトは、
「……噂をすればなんとやら……なのか?」
と、そんな言葉をぽつりと呟くのだった。
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