上空からの視線
雲ひとつ無い青空となったある日のこと。
ある男が青空の下で事務椅子に背筋を伸ばして座り、事務机の上に置いたレポート用紙にペンを走らせていた。
その黒髪をきっちり七、三に分けて固めて、黒縁の度数の高い眼鏡をして、仕立ての良い身体に張り付くようなスーツを着て、上等な作りの革靴を履いて。
真面目に丁寧に、その見た目通りといった態度で男が懸命にペンを走らせていると……ぐわりと男が座っていた椅子と机が大きく揺れる。
「……ワイヤーで固定しているとは言え、安定しているとは言い難いので気をつけてくださいね」
男がそう声を上げると男の真下……男が腰掛けている椅子と、男の前にある机を背中に乗せた巨大な生物が……蛇のように細長い体を持つ幻獣が空気を震わせるような低い声を返す。
『それはすまなんだな。
……件の目標を見つけたものでつい体をひねってしまったわ……ほれ、下におるぞ』
それには立派な角があり髭があり、蒼く輝く鱗があり、体の大きさに比べて小さな腕と脚があり……龍と呼ぶに相応しい姿をしていて、その背からスーツの男は立ち上がり、龍の背の縁に立ち、ゆっくりと眼下に広がる住宅地を見下ろす。
「……ああ、あれが調査依頼のあった幻獣ですか。
見た所特に問題も無いように思えますが……街にどうやっても入れないという奇妙な現象も起きていないようですし……。
……でもそれは上空だから、の可能性もありますか」
眼鏡のツルをしっかりと持ち、眼下に落ちてしまわないようにしながら男がそう言うと、彼が召喚したと思われる幻獣、龍はぎょろりと大きな目を動かしながら言葉を返す。
『いや、あれが構築している結界はここでも十分に機能しておる。
機能しておるというのに我らがここに来られた理由は極単純、我らがその結界の影響を受けておらんからだ。
無駄に複雑な作りをしておるのではっきりとしたことは言えんがな……恐らくあれの結界は、悪意や害意あるものだけを選んで攻撃しておるのだろう』
「そんなまさか……。
相手を選ぶ結界というだけならまだ理解できますが、相手の心の内や相手の意思によって攻撃するなんてそんな高度なことを……?
ま、まぁ、酉新宿の方の結界の方がより高度で洗練されていますし、その程度のことなら確かにやろうと思えばやれなくはないのでしょうが……そんな結界をこれほどの広範囲に展開したなら、あっという間に魔力が枯渇して結界が破綻してしまうのでは?」
『己の魔力のみで発動させているならそうなるだろうな。
先程も言ったが、奴は中々どうして複雑な結界を張っておる……。
悪意ある者を攻撃し、そうでない者に軽微な祝福を与え、祝福を受けた者が幸福感を抱いたなら、その心の力でもって結界を維持し……維持するだけでなくより強固にもしているようだ』
「……結界で祝福を与え、それで幸福感を抱いたなら結界が強化されるですって?
それは一種の無限機関なのでは……?
私が知る限りどんな結界であれ、定期的な魔力の注入と維持管理のためのメンテナンスは必須のはずですが……?」
『勿論そういったこともしておるのだろうがな……今の結界の状態であれば十日か二十日辺り放置していたとしても問題なく維持されるだろうな。
更に結界が強化されていけばその日数が百、千、万となっていくことだろう』
「それはまた……凄まじいの一言ですね。
……それで、幻獣の長である貴方から見て彼らはどうですか? 問題ありそうですか?
学院の内申書や、勤務態度に関する報告、健康診断の際の報告を見るに問題無いようですが……何しろ彼はあの矢縫家のご子息ですからね、こうして念を押しての確認をしにくる必要があるのですよ」
『問題などあるものか。
そもそもとしてあんな結界を張っておるのだ、連中に悪意や過ぎた欲望があればまずをもってあの結界が反応を示してしまうだろうよ。
まさか使い手を攻撃したりはせんだろうが、それでも決定的な矛盾をきたして崩壊するに違いない。
ああいった結界を張り、維持をし、この辺り一帯を守っているということが既に奴らの潔白の証明でもあるという訳だ。
……もしかしたらこれ程大きな結界を張ったのは、そうやって潔白たる我らを見よと、外に訴えかける意図もあるのやもしれんな』
「はぁ、なるほど。
この結界がある限り彼らであっても下手なことは出来ないと……。
しかし悪意を抱くだけで攻撃対象となるそんな結界の中で暮らすというのは、どうにも息苦しくなってしまいそうですね」
『どうだろうな。
攻撃といっても直接的なものではなく、ちょっとした不運を招く程度のものようだからな……。
邪な思いを抱いた際に、ちょっとした不運が襲ってきたとして、人がそれを何として受け止めるか。
息苦しい監視と見るか……自分に対する忠告、仏罰や神罰のようなものと思って受け入れるかはなんとも言えん所だろう。
悪意の基準も使い手の倫理観に基づいておるようだし、先住者……もともとこの街に住んでおった者達には寛容な対応をしておるようだし……息苦しいと感じる者は少ないかもしれんな。
実際どうなのだ? 連中がこの街に住まうようになって、結界が張られるようになってこの街から出ていった者はいるのか?』
「……それは……ほとんど居ないようですね。
もともと決まっていた転勤や転居はあるようですけどね……。
犯罪率も目に見えて下がっていますし、景気も良くなっていますし……それを感じ取ってか新規出店をする店舗なども増えています。
街全体の人口としてはむしろ不自然なくらいに増えているようですね」
『むしろ祝福のおかげで街全体が活気づいているという訳か。
……この国に長年忠勤を尽くしてきた者として言うが、こんな調査など必要ない程に、あれらは歓迎すべき者達であろうよ。
仮の話だがこの結界がこの国全体を包んだなら、どれだけの益があるのか想像もつかん。
あれらがそうなってくれるのか、そうしてくれるのかは分からんが、その可能性をわざわざ摘み取る必要は無いだろう。
矢縫の子息とやらも、あの腹黒との縁を切って独立独歩の道を歩んでおるようだしな……いっそのこと、あの幻獣に四聖獣の座を与えても良いかもしれん。
ほれ、空いていただろう? あの鳥野郎の後任の席が』
「……や、やめてくださいよ。
一応あれもグリフォンのようですし、その席につく権利はあるのでしょうが……あの見た目で四聖獣というのは流石に、こう、厳格さが足りないと言いますか……いくらなんでも四聖獣の座が軽くなってしまいます」
男と龍が空の上でそんな会話をしていると……眼下の道をチャカチャカとあるく、丸い毛玉がふいに、その視線を男達の方へと向ける。
それはほんの一瞬のことで、ただの偶然の出来事かもしれなかったが……男と龍は思わず体を震わせての反応を示してしまう。
「……今、貴方の力は発動しているのですよね?」
『ああ、たとえ百目の獣であっても我らを見ることはかなわんだろう』
体を震わせた後にそんな言葉を交わし合って、もう一度眼下へと視線をやった男と龍は……商店街辺りで買ったらしい、ほかほかの肉まんの袋をそのクチバシでしっかりとつまんで、早くお家に帰りたいと、早くこれを食べたいとソワソワしているその毛玉の姿を見て……両者同時になんとも言えない苦い表情を浮かべるのだった。
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