楽園
ハクトの新生活が始まって、三週間程のときが過ぎた。
本格的な春が始まり、ユウカは新学年に進学し……ハクトもユウカも新生活の中で慌ただしくも平和な時を過ごしての三週間。
ただただ日常が流れるだけのその三週間は何の変化もなく、語るべきことも特に無いもので……そんな日々のありがたさをハクトは改めて噛み締めていた。
今の家はハクトが自身とグリ子さんの縁でもって手に入れたもので、安定した職で稼いだ賃金でもって家賃もしっかりと納めている。
法的にも世帯主はハクトであるし、幻獣が住む住居であるとの届けもしっかりと提出してある。
自分の家で、自分のテリトリーで。
突然追い出されることのないという安心感のあるハクトにとっての聖域で。
そんなことを想い噛み締めたハクトは、改めて自分が家を追い出されたということに、思っていた以上に大きなショックを受けていたことを思い知る。
そしてそのショックが大きければ大きいほど、借家ではあるものの我が家への愛着と安心感が湧いてきて……この日々を守っていこうという覚悟が確かなものとなる。
職があって我が家があって、何もかもが安定している毎日。
近くにはグリ子さんがいて、ユウカという友人がいて……ご近所さんも良い人ばかりだ。
……だがそれはあくまでハクトの想いである。
ハクトと共に我が家に住まい、毎日を過ごしているグリ子さんはどうなのだろうか?
グリ子さんは同意を得た上でとはいえ、突然こちらの世界にやってきた訳で、懐かしき我が家と家族と離れ離れの生活をしている訳で……それは不安を抱えて当然のはずの、我が身が突然そうなったらと思うと恐怖を覚えてもおかしくないはずの出来事で……。
この三週間の日々でそんなことに思い至ることになったハクトは、夕方過ぎの工場からの帰路で、隣を歩くグリ子さんにそのことを問いかける。
「グリ子さんは……この世界のことが好きか? この世界のことをどう思っている?
……元の世界に帰りたいと思うことはないのか?」
幻獣が望んだ場合、その幻獣を召喚した者は相応の儀式を経た上での送還術でもって幻獣を元の世界に送り返さなければならないというのは、この社会の常識であり、幻獣関連法にもしっかりとその旨が記されている。
もしそれに反したなら、かなりの厳罰が処されることになっていて……そう問いかけたハクトの表情は、これでもかと強張り、冷や汗を浮かべていた。
「クキュン! クッキュン!」
そう返したグリ子さんはいつものように声を弾ませて、そのつぶらな瞳を輝かせていて……そしてその声に込められた意味が理解出来なかったハクトは、今までの人生でしたことのないような渋面を浮かべる。
召喚された幻獣と、召喚者は魔力による縁が繋がれてその言葉が通じなくとも、その内心でもって想いを通じ合う事ができる。
それによってハクトとグリ子さんは今まで会話をしてきたのだ……が、その話法にはいくつかの欠点があった。
心と心で会話する以上、お互いの持っている知識が重要となってくるのだ。
たとえばグリ子さんがこちらに来たばかりの頃『これは何?』とテレビを指してハクトに問いかけたことがあった。
それに対しハクトは『これはテレビだよ』と返したが、グリ子さんはテレビが何なのか、テレビという単語が何を示しているのかの知識を有していなかった為、聞き取ることすら出来ない訳の分からない単語を投げかけられたような状態に陥ってしまっていたのだ。
ハクトはテレビを知っている。
ゆえに『これはテレビだよ』と投げかけることが出来る。
しかしグリ子さんはテレビを知らない。
ゆえに『これは○✕△だよ』としか受け取ることが出来ない。
と、こんな具合になってしまう。
他にもグリ子さんの世界には、グリ子さんの体の大きさの『リンゴ』と呼ばれる果実があり、ハクトの世界にはハクトの手のひらに乗る程の大きさの『リンゴ』という果実があった。
こんな認識の状態のままハクトとグリ子さんが『リンゴ』について語り合ってしまうと……お互いリンゴに対する認識が混じり合い、心での会話が複雑に絡み合い、混線しお互いに何が言いたいのか、何を言おうとしているのかが分からなくなってしまうのだ。
そして今ハクトに起きているのは、その後者に近い現象だった。
(今グリ子さんはここには『楽園』があるから帰りたくないと、ここにずっと居たいとそんなことを言おうとしていたようだ。
だがしかし楽園とは何だ? 一体どこに楽園があるというのだ? しかも今グリ子さんが抱いていたイメージは楽園でも何でもない、我が家への帰り道だったような?)
我が家が楽園だと言うのならまだ納得できるのだが、ただの道が楽園とは一体……?
あちらの世界には楽園という道が存在しているのだろうか? それともあちらの世界の楽園という言葉には道という意味が込められているのだろうか?
そんなことを考えながらハクトが足を進めていると……ちょうど先程グリ子さんが抱いていたイメージの光景へと……商店街の通りへと差し掛かる。
この時間の商店街は書き入れ時。
夕食のおかずを買い求める主婦と、学校帰り塾帰りの子供達が行き交って、楽しげに弾む会話と、賑やかに行き交う商談の会話と、出来たての惣菜の良い匂いと小気味良い小銭の音が通り全体を支配している。
『いらっしゃいませ、竜鐙商店街へ』
なんて文字が書かれた古ぼけた看板を掲げるゲートをくぐったなら、まるで別世界に入り込んだような感覚に陥るような独特の空間で……そこに入った途端、グリ子さんがその目をランランと輝かせて……パタパタパタと小さな翼を激しく振り回し始める。
振り回しぴょんぴょんとその場で跳ねて……そうしてからチャッチャと爪を鳴らしながら足を進め、ケーキ屋さんがこの時間にだけやっているお店の前に設置された屋台……ソフトクリーム売り場へと足を進める。
するとハクトがすっかりと慣れた仕草で、がま口財布をポケットから取り出し、一つ100円の支払いを済ませ……受け取ったソフトクリームをグリ子さんのクチバシの側へと差し出す。
するとグリ子さんはここ最近毎日のように食べているそれを見るなり嬉しそうに目を細め……ふわふわで冷たくて甘いソフトクリームをぱくり、ぱくりと、そのクチバシで少しずつ、ゆっくりと楽しんでいく。
一口食べて、
「クキュン!」(私の毛皮よりふわふわだ!)
もう一口食べて、
「クキュン!」(冷たくて甘くて美味しい!)
なんて声を上げながら。
そんないつもの光景をなんとなしに眺めながら、尚も悩んでいたハクトは……そこで突然グリ子さんから、
「クキュン!」(こここそが楽園だ!)
なんて声が上がったのを受けて心底から驚愕する。
どうやらグリ子さんにとってこの商店街こそが『楽園』であるらしい。
ソフトクリームが食べられて、美味しい惣菜がいくつも並べられていて……それらが毎日毎晩の食卓をそれらが彩ってくれる。
ありとあらゆる国の、ありとあらゆる料理があり……どれを食べても美味しく、そのどれもがグリ子さんの世界では味わえないものばかりだった。
そしてグリ子さんはこの楽園がある限りは、この世界に居続けたいと思ってくれているようで……そのことに気付いたハクトは、なんとも言えない脱力した表情となり……そうして大きなため息を吐き出してから、
「すいません、もう一つソフトクリームをください」
と、そう店員に声をかけて……自分もこの楽園を味わってみるかと、受け取ったソフトクリームにかぶりつくのだった。
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