7、将軍辞職
天文四年(1535年)一月 京 山科家 明智彦太郎
「まずいことになったでおじゃる。急ぎ参内せねば」
「まさか将軍解任とは」
将軍義晴が解任されたという噂が乱れ飛んでいる。十三代将軍に弟の足利義維が次期将軍という。この四年も波乱の四年だった。三好元長が四国に退却したのち、本願寺が大暴れした。管領細川晴元は本願寺討伐に乗り出すも、本願寺の一揆勢の強さに京を退却。淡路島に逃げた。
また京は荒廃した。細川晴元は河内飯盛山城主の木沢長政らと協力。一年で京を取り戻した。山科本願寺は焼かれ、宗主の証如は大坂に逃れた。一揆勢はそこかしこにいる。危険すぎて京から出れないほどだ。俺はそんな中、山科東荘に取り組んでいた。備前や播磨の山科の荘園とも交易し、利益を上げていた。家臣たちを養うのにも今は余裕がある。
事件が起こったのは今月に入ってからだ。力を蓄えていた三好元長が阿波より出陣。四万の大軍を率いて、京を包囲した。木沢長政や紀伊畠山も加わるという合同軍である。さらに北方より、播磨の赤松軍二万が襲来した。弱体化した本願寺はそれぞれの拠点に逃げ込んで、息を潜めている。
三好元長は細川晴元に将軍義晴の辞職を求めた。クーデターだな。後奈良天皇は三好元長から多額の献金を受けており、三好の肩を持った。義晴解任は時間の問題だ。
「解任ではなく、将軍職を朝廷に返すよう求めておじゃる。解任では外聞が悪いでおじゃるからな」
山科言継が言う。解任よりも辞任で義晴の花道を飾るつもりだろう。帝も元長もその方向で調整していると見える。
「とにかく参内じゃ。彦太郎もついて参れ」
俺は返事をすると、言継の後をついていく。
内裏は公家たちでごった返していた。俺は脇の方にちょこんと座る。
「義晴さんが辞任を申し出たでおじゃる」
広橋兼秀が駆け込んできて、言った。公家たちがざわつく。
「脅されたのでおじゃりましょうか?」
「怖や怖や。三好筑前守殿も恐ろしいことをするでおじゃ」
「大変なことになっているわね」
俺の前に幼い姫が現れた。目々(めめ)典侍。十二歳で広橋兼秀の娘だ。本名は広橋国子という。帝に仕える女官である彼女は俺の側に座る。
「一揆の連中もよく暴れた。京は滅茶苦茶だ。三好筑前守様が京を治めてくれて良かったよ」
「あら、三好びいきなのね。三好は仕返しで何をするか分からないと言われているわ。細川高国、浦上村宗……一体いくら血が流れれば気が済むのかしら。これでは近江や大和に人が移り住むのも無理もないわね」
目々(めめ)典侍は頭が痛いという感じで溜め息をつく。
「主上の義晴殿解任は当然ね。細川晴元殿たちでは役不足よ。三好筑前守殿ならば、畿内も安定するでしょう」
解任ではなく、辞任なのだが、突っ込む気力は失せてくる。
「それと主上はあなたのことを事の他、お気に入りだわ。一国を任せるに足ると私たち女官にも申されているもの」
「俺は表舞台に出る気はない。今は山科の領内の牧場で馬を育てている。女たちは働き者だ。俺の方が疲れてしまう。目々(めめ)様も来るといい。今度、案内する」
「よく次々と考えが浮かんでくるわね。あなたは武士というより、商人よ」
「そうかもしれない。公家とも言われる。俺は何者になりたいんだろうか。民が苦しまぬ世にしたい。わがままかな?」
「いえ、女子はそういう男に惚れてしまうものです。主上も同じよ。綺麗事を追い求めておられる……。でも、力さえあれば、京の女子たちも安心するでしょう」
「力か。三好筑前守様が持っておられる。だが、あの御方は周りから妬まれる。凡愚たちには筑前守様が金の亡者、足利に背く逆臣としか見えぬ。困ったことだ」
「山科の荘園は播磨と備前に荘園があったわね。赤松と手を組むことを考えないの?」
「赤松は会ったことがない。だが、いい奴であると聞いている。いい奴は権力闘争に勝てない」
「そうね。私もいつ殺されるかもしれない……」
「主上に俺が言ったことを伝えるのか?」
「あなたが良ければ。主上はあなたに期待している」
目々が立ち上がった。香のいい匂いがする。甘い匂いだ。
「伝えてもらって構わない。俺も土岐の端くれだ。私は天下静謐に向かって、進んでいく。そう主上にお伝えしてくれ」
目々が笑んだ。誰からも愛されるであろう笑顔だ。最近、いつも前世の妻だった鍋姫の夢を見る。胸が痛くなる。目々に相談したかった。口からは言葉が出てこない。
天文四年(1535年)一月 京 山科東荘 明智彦太郎
将軍辞任より一夜明けた。俺は山科東荘の厩舎の中にいた。馬たちといると心が落ち着く。
「鍋か?」
「はい。殿。鍋です」
澄んだ声が聞こえた。よく書道をしていた妻が目の前にいた。二十二歳だった妻がいる。品の良い女だ。幻なのか。目を擦った。鍋が相変わらず立っている。
「いつも私は殿を見守っていますよ。可愛らしいお姿になられましたね」
俺は鍋に手を触れた。暖かい。血が通っている。
「信貴山城から無事落ち延びることはできたか」
「もちろんでございます。その後、十市の家に嫁ぎ、子を産むこともできました。その後は旦那様に愛されてずっと幸せに生きました」
「そうか。大事なかったか。良かったわ」
馬がむずむずとしている。目を開いた。起こしてしまったか。
「鍋。そなたは幽霊なのか」
「いえ、実体として、ここにおりますよ。理由は深くは申し上げられませぬが」
「そ、そうか。そなたは俺の側にいろ! 眠れぬのだッ、そなたがいなければ」
「はい。いつでも側にいます。殿が呼べばいつでもお側に。だからそんなに辛そうな顔をしないでくださいませ」
俺は鍋に抱き寄せられ、頭が胸の辺りに当たる。
「彦太郎様!」
気づくと、鍋は隣にいなかった。目の前には佐江がいた。美しい娘だと思う。だが、やはり鍋とは違う。
「また鍋姫様の夢にございますか?」
「うむ。どうやらそのようだ。私はあの女子に囚われている」
佐江が笑わずに辛そうな顔をする。佐江には前世の話をした。夢物語としてだ。武将の名前も変えて、異国の話として話した。佐江は真剣に聞き入っていた。良い娘だ。十九歳だが、夫はいない。そろそろいい男を見つけてやらないといけない。
「働き過ぎでございますよ」
佐江が頭を撫でてくる。子供扱いだ。佐江によって、厩舎を連れ出された。もう日は高くなっている。
俺は荘園を見て回る。不正はあらかたなくなった。それでも傭兵たちを雇って、警備は厳重にしている。明智の家臣たちには体を鍛えておくように言ってあった。三好元長の天下になったが、油断はできない。これまでも一向一揆の襲撃はあった。一揆の農民たちは武士よりも鍛えている。追い返すのは骨だった。
不正は残してある。長老たちも儲けたいのだ。馬鹿息子たちもいる。賭け事もしている。風紀は決して良くない。それでも許容していくしかない。それぞれの人の生き方を否定するべきではない。
荘園の入り口には柵が立ててある。そこに弓兵や足軽たちがいる。東荘は明智の城。近隣からはそう呼ばれている。女たちでも身を守れるように武術や弓術を教えていた。
「敵にございます!」
住民たちがびっくりしたように顔を見合わせた。法螺貝だ。敵襲の合図だった。俺は駆けだす。佐江が小走りでついてきた。
荘園の西門。櫓の上に池田久兵衛がいた。俺の家臣だ。
「殿、赤松次郎殿にござるッ」
赤松か。赤松次郎晴政。赤松家当主だ。三十は越えているだろう。三好元長の同盟相手で浦上村宗を討った後、播磨・備前・美作の三ヵ国を束ねている。大物だ。
「殿が話がしたいと言っておりまするーーーーーっ」
久兵衛が大声で櫓の上から、報告してくる。よく聞こえる。デカい声だ。
「赤松は武装しているかーーーーっ」
「しておりまするーーーーーっ」
家臣たちがざわついた。赤松は四十人ばかり率いているという。荘園を攻めに来たのか。俺は櫓への階段に足をかける。安易に通すわけにはいかない。
彦太郎「いや、前世での妻に未練たらたらの八歳とかツッコミどころ満載ではないか」
目々典侍「作者は馬鹿なのよ。でも彦太郎可愛い」
彦太郎「にゃ、にゃにをするっ、目々、頬を引っ張るなっ」
鍋「……旦那様の頬をつつくのは私の特権ですのに」