2、移住
享禄三年(1530年) 一月四日 美濃明智城 二の丸 明智美津
「鶴乃殿、これは一体」
「姉上、長井新九郎が私を見初め、嫁に来るように言ってきたのです」
私は息を呑んだ。義妹である鶴乃殿は私よりも三歳年上だ。女の私から見ても、見目麗しい。
「しかも身分は妾です。成り上がり者の増上慢っ、名門明智を何と心得るのでしょうかっ」
妾、側室ということね。長井新九郎、京の油商人だった男だが、美濃守護・土岐左京大夫様のお気に入りとなって、土岐家当主の座につけた。その実力は折り紙つき。押しも押されもせぬ土岐家の実力者。
ぷりぷり怒る鶴乃殿をなだめて、二の丸に向かう。二の丸には夫・光継をはじめ、ご隠居様や義弟たちが揃っていた。重臣たちもほとんど顔を出している。殺気を孕んでいる。足を踏み入れた途端にそう思った。
「彦太郎を弑逆せんとする家中の動きがある」
夫ではなく、明智一関斎宗善様が口を開く。坊主頭で頭巾を頭に載せている。
「ひ、彦太郎を、でございまするかっ」
私は思わず声を出した。彦太郎は茫洋とご隠居様を見ている。十三でお腹を痛めた明智の次期当主。彦太郎はまだ三歳。その彦太郎にはまだ過酷すぎる。
「我ら明智が長井新九郎殿に忠節を尽くさねばな。あるいは」
ご隠居様の言葉に夫や義弟たちが驚いている。嘘でしょう。三歳の子を殺めるというの。そんな。そんなひどいことは。
「長井新九郎を舐めてはならんぞ。奴は正月に長井長弘殿を刺殺した。急病と死んだというのは嘘じゃ。土岐左京大夫様の意向を笠に着て、やりたい放題じゃ」
ご隠居様の言葉に座が静まる。長井新九郎は勢力を拡大している。明智も長井に与するか、迫られているのだ。
「光継、儂は新九郎殿に従う。そなたはどうする?」
「父上の御意のままに。鶴乃を嫁がせまする。彦太郎も一緒に行かせましょう。そのほうが安全……」
「いや、彦太郎は養子に出す」
座がざわつく。私は驚いてご隠居様を見る。
「京の公家である三条西家じゃ。彦太郎が京に行ってしまえば、長井新九郎も手を出せまいて」
「しかし、彦太郎様は明智の嫡子っ、家を継ぐ御方ですぞっ」
「だからこそよ。守らねばならぬ。それには京が一番安全ではないか」
ご隠居様がおっしゃられる。三条西家は私の実家である若狭武田家と親しい間柄だ。
「京とて、応仁の乱以来、戦が相次いで起こっておりまする。今は管領細川晴元様が支配しているので、安定はしておりますが」
ご隠居様に意見を言ったのは夫の三番目の弟・光安殿。気が強く、夫やご隠居様にも意見します。長井新九郎とも仲が良い。
「細川晴元様は三好越後守や柳本弾正忠に支えられて、その勢力は摂津・山城など八ヵ国に及ぶ。この体制は盤石そのものよ。彦太郎の身に危険は及ぶまい」
ご隠居様が自信満々に言う。そして、私の方をちらりと見た。
「美津殿もその方が良いと思うであろう?」
「……はい。彦太郎の安全が保障されるのであれば」
「義姉上! 彦太郎は旅出されるなど、そんな殺生な!」
光安殿が目を見開いて、叫ぶ。
「彦太郎の身は何より大事じゃ。それくらい、土岐家の内部はきな臭い。黙って従わぬか」
座が静まる。光安殿が唇を強く噛んだ。異論は出ない。
「母上、京に行って参ります」
彦太郎が私に向かって、言う。愛おしさが胸に溢れた。私は無言で頷くことしかできなかった。
享禄3年(1530年) 二月 京 三条西実隆の屋敷 三条西実世
「宰相様、世が乱れているのはなぜでございましょうか?」
明智彦太郎、三歳の童子だが、私について回ってくる。なついていると言っていい。妻がコロコロと笑った。
「武家が自らの利のみを追い求めるからであろう。細川晴元の家臣たちなど、その典型でおじゃる」
私は吐き捨てるように答えた。彦太郎は器量が良い。真に三歳かと思う程だ。
「お爺様は足利義政殿とも親しかった。義政殿こそは文をもって、武を抑える。崇高であったな。惜しむらくは山名や細川ら、足利の家人が義政殿の志を分からなかったことだ。お家の利のみを追い求める。粗野でおじゃる」
八代将軍・義政。銀閣を作ったが、弟との後継者争いで応仁の大乱を招いた。その義政と親しかったのが祖父・三条西実隆だ。今の十二代将軍・足利義晴に至るまで、歴代将軍と交友がある一流の文化人だ。
彦太郎が小首を傾げた。
「武家だけが悪いわけではありませぬ。無力な公家にも原因があるのではないでしょうか」
「な……」
お爺様や父上には聞かせられぬ。彦太郎の毒舌は童子として許されぬ。
「彦太郎、滅多なことを申すでない。これからはその発言は控えよ」
「はい」
妻が笑い声を上げた。彦太郎は美濃明智城主・明智光綱の嫡男だ。三条西家に居候している。三条西家の借りている屋敷には彦太郎についてきた家臣たちを住まわせている。それでも彦太郎は私と妻になついている……。
「これはこれは何やら密談に及んでおるのでおじゃるか」
来客である内蔵頭の山科言継が声をかけてきた。朝廷の蔵を仕切っている。若いが、やり手の公家だ。と言っても私より年上だが。
「彦太郎は利発ですよ。山科殿も彦太郎と話してみますか」
「ほう」
山科殿が感嘆の声を上げた。興味深い、という顔をしている。この男は面白がりだ。公家にしては珍しく、庶民と交わったりしている。母親が身分の低い女官という話を聞いたことがある。他の公家たちはあまりいい顔をしないが、私はこの男を気に入っている。
「彦太郎殿、朝廷は貧窮して喘いでおるのじゃ。大名たちも知らん顔。主上もお困りよ」
「……将軍の力で何とかできぬのでしょうか」
「無理じゃ。義晴殿は朽木谷に逃げて行った。となると、管領殿だが、いささか頼りない」
山科殿と三歳児の会話が成立しているが面白い。
「細川晴元様は三好越後守殿を重用し過ぎでしょう。勇将である三好元長殿が怒って阿波国に帰ってしまわれた。元長殿こそ、畿内の要にございます。晴元様は元長殿を遠ざけたことで周りが見えなくなっている。佞臣がはびこっておりまする。武家の棟梁としては情けなや」
山科殿が笑い声を上げた。
「宰相様、面白き童子におじゃりまするなあっ。三歳でこうもはっきり申されるとは」
山科殿が笑い続けている。
「今度、彦太郎殿を麿の屋敷でもてなしたい。そうじゃな伊勢の牡蠣などをご馳走しよう」
「麿は政務で忙しいでおじゃる」
「貴方、それなら私が連れて行きましょう」
すかさず妻が言った。妻は吉田神道の当主の娘だ。妻は彦太郎を気に入っている。養子に迎えたいという希望を持っているほどだ。
私は妻に彦太郎を連れて行くように頼んだ。明日も朝廷で関白殿下に呼ばれている。また金のやりくりだ。頭が痛いな……。
三条西家登場回です。隠居・三条西実隆は天皇に古今伝授を行う程の一流の知識人です。三条西実世はその孫で細川藤孝に古今伝授した公家として、有名ですね。