1、退場
天正五年(1577年) 十月 大和信貴山城 松永久通
「殿、お逃げ下さりませっ」
家臣の一人が書院に駆け込んできた。どうやら城もこれまでのようだ。
「鍋は逃げたか?」
「はっ、既に十市へと落ち延びられましたっ」
「ならば良し」
俺は笑みを浮かべた。妻である鍋だけは助かって欲しかった。子供たちはもう駄目だろう。信長は冷酷に処刑するはずだ。
家臣が目を見開いている。
「鍋も良き夫を見つけてくれると嬉しい。俺は信長のことを見誤った。天下を私せんとの企み、神仏をも恐れぬ所業。それだけではない。足利将軍家に弓引くとは」
俺は父・松永久秀に言わるがままに信長に謀反した。勝てると思った。毛利も北条も上杉も本願寺も味方だ。毛利に亡命した足利義昭様を担いで新しい足利の世を作る。そのはずだった。
信長はやり過ぎた。公家の勧修寺家の娘・晴子様に言い寄ったという。晴子様は親王殿下の寵姫だ。信長は暴君だ。手が付けられない。止めるべきだと思った。
上杉謙信が七尾城で駐屯したまま、動かなかった。上杉軍の上洛によって織田軍は都を追われる可能性も十分にあった。父上も俺も謙信は動くと見ていた。
北上した柴田勝家の大軍が上杉軍と対決する。信長は長男の信忠率いる四万の軍を南下させた。北陸方面に釘付けになるはずだった織田軍はうまく分散した。仮に上杉軍が南下したとしても、もう松永は終わりだ。もう助からない。
あまりにも上杉謙信の動きが鈍すぎた。すぐに南下しても良かったのに。北条が上杉領に攻め込んだことが原因だったと父は推理している。関東地方の情勢を気にしたのだと。俺にはよく分からない。他の大名を当てにしたのが致命傷になった。そう反省するしかない。
爆音がした。父が史実通り、自害したのだろう。既に城には火がかけられていた。
「太郎丸、もはやこれまでだ。俺は自害する」
「殿……」
思わず、家臣を幼名で呼んでしまった。家臣がわずかに笑みを浮かべた。
「それがしも冥土までお供致します」
「すまぬな」
それしか言えなかった。介錯は家臣に頼んだ。また爆音がした。もう終わりだ。すべてが終わる。
脇差を手に取る。三十五年の人生が走馬灯のように駆け抜ける。さて、行くのは天国か地獄か。薄れゆく意識の中で妻の顔が浮かぶ。鍋、また新しい夫を見つけて、幸せになってくれ……。
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