旅の幕開け
夜遅く家に帰ったメルチェを待っていたのは、静かに激怒している叔母だった。
「馬鹿げたことを言わないでちょうだい」
今まで娘と買い物に出掛けていたようだが、家を閉め切ってメルチェの帰宅を阻止しようとしたことなど、とうに忘れているらしい。
「おばさま、お話を聞いてほしいの」
メルチェは叔母を説得しようと必死に頭を下げていた。
「この家を出たくて。私、今までお世話になったことはすごく感謝してるの。だけど……」
そんな言葉に、叔母はわざとらしく大きなため息を吐く。
「アンタがこの家をうろつかなくなるのはいい話だけど。洗濯は? 掃除は? 皿洗いは? これまで食わせてやってたのにその恩返しはどうするつもり?」
メルチェはなにも言い返せなかった。今まで寝床を与えてくれて、食べさせてもらえて、勝手に一家に入り込んで勝手に出ていくなんて、確かに恩知らずだと思う。
けれど、家を出たいというのはメルチェにとっての一大決心だった。
「別にいいじゃないの、ママ」
二人の会話に口を挟んだのは一人娘。キッチンの椅子に行儀悪く座って今の話を聞いていたようだが、ミルクを飲み終わって退屈になったらしい。
「メルチェが姫オーディションに参加するのを許してる理由、忘れちゃったの? 早く出ていってもらいたいからでしょ」
「そうだけど……姫に選ばれたら住むところだけじゃなくってお金も手に入るじゃない。それに、家政婦を雇わなくていいのはメリットだし」
叔母はやはりわざとらしく嫌なことを言い、メルチェを威圧する。シンクにたまった食器の上に、水道から一滴だけ水が落ちた。嫌な静けさを強調するかのように、雫の音は響き続ける。
「得だと思ったのに……こんなことならあのとき断っておけばよかった」
すると、叔母は続けてそう言った。
メルチェは、叔母の言う“あのとき”が自分を引き取ったときのことだとわかっていた。母子にとって、メルチェはどこまでも邪魔な存在だった。家政婦代わりで、けれどそんなふうに下に見ていた人間が、自らの意志でここから出ていきたいと主張するのが許せないのだろう。
メルチェは質の悪いカーペットを足の裏に感じながら、いつまでここに立っていればいいのだろうと思った。汚れた窓越しに夜の景色を眺め、彼はどこで待ってくれているのだろうなんてことも。
「……そういうことを言われるの、嫌だった」
メルチェが言った。
「……は?」
叔母と娘が目を丸くする。
「引き取ってもらえたこと、すごく感謝してるの。恩も返しきれないくらい。だけど、そうやって悪口を言われるの、嫌だった。家から閉め出されるのも、仲良くしてもらえないのも、嫌だった。すごく悲しくて、寂しかった」
メルチェがさっきから強く握りしめているスカートは、裾が皴になっている。手には汗。こうして素直な気持ちを伝えたのは、五年間のうちでこれが初めてだった。
「お願いします」
メルチェはこれが最後だと思った。だから言えたのだ。
「私に、自分の居場所を探させてください!」
金色の瞳が煌めいた。
メルチェは胸を締めつけられる思いになりながら、キラキラ輝くあの踊り場を思い出す。目を瞑ると見えてくるのだ。
あのライト。月の光。夜のお城。
隣町の舞踏会で、メルチェが踊り場で目を覚ましたあと、三人は銀色の螺旋階段を降りていた。メルチェがドレスの裾を持ち上げて歩いていると、後ろに来ていた兎が代わりに持つよと言ってくれた。彼は相変わらず気がまわってとても優しい。
「それにしても、どうしてまた眠っちゃってたのかしら」
窓から星が見ている中、メルチェは踊り場での急な眠気を思い出して首をかしげた。
「魔法だよ」
「えっ?」
メルチェが不思議そうな顔をすると、レビウはいつものように微笑む。二人の足元でエシャも笑っていた。
「エシャは魔法が使えるんだ」
その言葉を聞いてきょとんとするメルチェ。そういえば、と、不思議の国での出来事を思い出す。たしか迷いの庭でもエシャと話している途中に眠気がきたはずだ。
「エシャったら、どうしてそんなに私を寝かせたいのよ」
立ち止まり、メルチェがふふっとエシャの方を振り向くと、レビウがドレスに埋もれる。エシャはいたずらが成功した子供のように笑った。
「魔法なら~、昔はレビウだって~……」
「エ、エシャ!」
エシャの言葉をレビウが遮った。
メルチェは「そうなの!?」とまた振り向いてしまったが、レビウはさっきよりも何段か離れたところを歩いており、ドレスに埋もれることはなかった。
「ぼ、僕は昔使えてただけで、今はもう使えないんだ。恥ずかしいから言いたくなかったのに」
メルチェは「なーんだ!」と笑顔に戻る。
魔法は生まれつき使える人もいれば、訓練を重ねてようやく使えるようになる人もいる。しかしそれは一掴みの人たちだけで、魔法が使えるのはかなり珍しかった。幼い頃は使えても成長するにつれ使えなくなってしまったり、どれだけ訓練しても魔力を得られないのが一般的で、メルチェはレビウを「そんな恥ずかしがらなくてもいいのに!」とからかった。
レビウは複雑そうな顔でエシャを見る。エシャは知らぬ素振りで尻尾をくねらせた後、透明の光りに包まれて空気に溶けていった。
「レビウ! エシャが……」
「平気だよ。猫は気まぐれだから。きっとまたなにもなかったような顔してまた僕らに会いにくるさ」
レビウの言葉に安心したメルチェは、再び足を進め始める。レビウもまた後ろからついていく。歩くたび、レビウの長い耳がふわふわと揺れていた。
「ねえレビウ」
二人きりになったメルチェとレビウ。「なんだい?」と返事をする兎に、メルチェは「やっぱりあなたって不思議よね」と笑いかけた。
「どうしていつも私のことを助けてくれるの? まさかこれも女王に頼まれたの?」
その質問を聞いて、レビウは夕方自分が言ったセリフを思い出す。女王に頼まれて。けれど、メルチェはその言葉が嘘だということに気が付いていた。だってよく考えれば、あの自分勝手な女王が人のことを気に掛けるとは思えない。それに、オーディションが終わったあとまで面倒を見てくれるなんておかしかった。
「……ふふ。違うよ。そんなに不思議かい?」
レビウはなんだか寂しそうに笑った。
メルチェは、やっぱりレビウはとても優しい人だと思った。女王に頼まれてもいないのに、困っている人がいれば手を差し伸べられる。話し方もやわらかくて丁寧だし、所作も綺麗で、それにかっこよくて……
「どうしたの?」
無意識にレビウを見つめてしまっていたメルチェ。それに気が付き、「なんでもない!」と慌てて前を向き直した。なぜだか、途中から変なことを考えてしまっていた。
邪念を掻き消すため、メルチェは長い階段の終わりが見えると、足早に降りていってみせた。最後の一段をぴょんと軽やかに跳ぶと、レビウは思ってもいなかった行動に少しバランスを崩した。けれど、同じように最後の段差を降りきった。
「長い階段だったわね」
魔法使いのせいで落ち込んでいたメルチェがすっかり元気になったのを見て、レビウはまた笑みをこぼす。
「もう、レビウってば笑ってばっかり」
そう言うメルチェの顔だって笑っていた。だけどわかっていた。このあと、レビウがどんなセリフを口にするのか。いつだって自分が困っているときに助けに来てくれる彼は、自分が平気になると、必ず姿を消してしまうのだ。
「ごめんね。僕、もう行かなきゃ」
やっぱり――
今日、レビウとさよならをするのは三回目だった。別れは何回あっても慣れず、何回あっても悲しかった。きっとまた、この人は知らない間に行ってしまう。私が瞬きした瞬間に、いなくなってしまうのだろう。メルチェは黙ってレビウを見つめる。一瞬も目を逸らさない。瞬きをしないまま、メルチェは言った。
「私も一緒に連れてって」
レビウはその言葉に驚いた。
メルチェの金色の瞳が金色のライトに照らされて、とても眩しかった。チカチカする。彼にとってそれは夢のようなことでも、夢を見てはいけない。だからはっきりと首を振った。もちろん横に、だ。
「メルチェ、それは」
「できない? どうして。レビウはいつもどこへ行くの?」
差し込んだ月光が、シャンデリアや白い壁に乱反射する。ああ、メルチェの瞳の金色を、一層美しくさせる。赤目は思った。
「僕は……」
レビウは何も言うことができなかった。メルチェの眼差しがあまりにもまっすぐで。偽りがなく、だからこそこんなにも綺麗だ。
「行かなければいけないところがある。長い旅になると思う」
「じゃあもう会えないの?」
「……そうだと思う」
メルチェの顔が暗くなっていく。レビウはそれをずっと見ていた。
こんな顔をさせたいんじゃない。こんな悲しみをプレゼントするために、彼女に会いにきたわけではない。
レビウの胸は激しく揺らいでいた。城の出口、大きな門がレビウの決断を待っている。このままあそこを通り過ぎれば、きっともう二度と、メルチェに会うことはできないだろう。
それで、いいのか?
夜は遠く、遥か彼方まで続いているような気がした。
「……わかった」
レビウがささやく。
「メルチェ。僕と一緒に行こう」
そしてゆっくりと跪いた。僕の負けだ。彼の表情は呆れ顔。だけど、とても嬉しそうだった。
.
結局、逃げ出すように家を出た。しかしメルチェは、レビウがどこにいるのか、夜がどこまであるのか、何もわからずにいた。
誰もいない広場のベンチに腰を下ろし、夜を見る。オレンジ色の街灯が、一本、隣に立っている。涼しい夜風がその下を通り抜け、メルチェの頬を冷やした。真夜中の町は驚くほど静かで、ポツポツとわずかな光が浮かんでいるだけ。長い坂の行く先に海の音が反響している。
「はあ……」
メルチェは息を吐いた。なんだか急に肩が軽くなって、大量の涙があふれだす。今までずっと我慢していたものが流れていくようだった。
それなのに、とても怖くてたまらない。なんだかこの夜がずっと明けない気がした。暗がりに一人でいると、闇夜の色を覚えてしまいそうだ。
押し寄せる孤独に負けそうになったとき、やっぱり彼は現れた。
「頑張ったんだね」
そう言って隣に座ったのは、黒くて長い耳の――
「レビウ……!」
メルチェは両手で涙を拭い、嬉しくなって笑顔を咲かす。ベンチから素早く立ち上がり、レビウの前に立って手をとった。
「ありがとうレビウ、迎えに来てくれたのね!」
そして力いっぱい握りしめる。レビウは困ったように笑いながら、メルチェの手を握り返した。
森の木々がざわめいている。フクロウたちの低い声がこだまして、遠くの波音と共鳴した。メルチェが手を離すと、レビウはジャケットの内側からいくつかに折った紙を取り出した。石のタイルに大きく広げ、見てごらんと言う。
地図だった。
海や砂漠や雪原、高い山脈の連なりが広く広く描かれている。メルチェは自分がとてつもなく大きな地面に立っていることを改めて知った。
まずレビウが指を指したのは南に位置する港町。今、メルチェたちがいる場所だった。それは地図の中では信じられないほどに小さく、ビスケットの欠片と大差はない。
「僕たちの目的地は」
レビウの指が動く。長い直線を伸ばしていく。メルチェは釘付けだった。
「ここだよ」
そして、指先は北の方に位置する街の上で止まった。面積からして、とても壮大な街であることがメルチェにもわかる。ビスケットで例えると、三枚分くらいだ。
「ブリランテ王国。聞いたことあると思う」
ブリランテ――――
それは世界中でも有名な、大きな都だった。たくさんの大きな建物に囲まれて、大勢の人があふれかえりこぼれてしまいそうになっている情景を、新聞の一面で見たことがあった。
「すごい、すごいわ! こんなところへ向かうのね!」
メルチェが興奮気味に手を叩く。その笑顔と言葉を聞いてほっとしたように、レビウもつられて微笑んだ。
「夜が明けたら森を通って最初の街へ行こう。シャロイっていう、愉快な街に出るんだよ」
メルチェはレビウの言葉の一つ一つをとても楽しみ、夜が明けるのが待ち遠しくなった。さっきまで夜が明けない気がして泣いていたというのに、今では胸のワクワクがおさまらない。
「それから砂漠を越えて、また街を潜って、ブリランテまで……」
しかし、レビウが地図から顔を上げると、メルチェはすっかり眠くなっているようだった。うつらうつらと首が上下している。きっといろんなことがありすぎて、疲れてしまったのだろう。無理もなかった。
レビウはメルチェの背中に腕を回した後、優しく立たせてベンチに座らせた。自分もその横に座り、半分起きているのか寝ているのかよくわからない彼女を、膝の上に寝かせてあげる。
「ゆっくりおやすみ」
頭をふわりと撫でられた。なんだか安心して気持ちがよくて、夢と現実の境目を行ったり来たりしながら、レビウの体温を感じる。やわらかくて、あたたかい。頭を撫でてもらっている間に、メルチェはすとんと眠りに落ちてしまった。
やわい夜風は相も変わらず二人の頬を撫でる。レビウの耳が、ゆるく揺らされる。まるで優しく抱きしめられているようだった。
「メルチェ」
レビウは彼女の穏やかな寝顔を見て、くすりと微笑んだ。
檸檬色の髪に触れ、そっとささやく。
「君は僕が守るよ」
なんてことない独り言。誰もその声に気付きはしない。それでいい。彼にとっては好都合なことだ。
紺碧の空が、薄くなっていく。真っ白い画用紙の上に、水彩絵の具を引っくり返したような青。淡く輝くその中で、黄色や朱色のコントラストが滲んでいる。微かな肌寒さを感じる中、フクロウの鳴き声はいつからかやんでいた。その代わり、可愛らしい小鳥のさえずりが、森の奥から挨拶にやってくる。まばゆい光。赤の瞳に差し込んでいく。
朝日が昇った。
「メルチェ、起きてメルチェ」
「うーん……」
声になっていないけだるそうな返事に、レビウは寝ぼけ顔を覗きこむ。そしてもう一度、大声で名前を呼んだ。
「メルチェ!」
ふいうちの目覚ましに、メルチェは「えっ!?」と跳び起きる。
「痛っ!」
すると、いつかのように額と額がぶつかった。重たい音がしたあと、少しの間、お互い額を押さえて痛さに悶もだえていたが、ふと目が合い、無邪気な笑いが起こる。
「さあメルチェ、旅の幕開けだよ」
歩き出したレビウの後ろ、メルチェが笑顔で追いかけて行った。