夢と少年
――ここは、どこかしら。
芝生に寝かせられていたメルチェは、その地面のやわらかさで意識を戻す。
露の水滴。小鳥のさえずり。気が付けば真っ青な空を仰いでいる。手のひらを握ると、細かい草が指をくすぐった。
起き上がって景色を見れば、ここはどこかの庭らしい。赤い屋根の立派な屋敷が、小さな噴水を挟んで向こう側に建っている。
「さっきまで舞踏会のお城にいたはずなのに……」
どうして自分がこんな場所にいるのか、まったくわからなかった。ここはいったいどこなのだろうか。
不思議に思ったメルチェは、屋敷の住人を訪ねてみることにした。
「ごめんください」
チャイムが見つけられなかったため、そうっと扉を開ける。中には誰もいないようだ。
屋敷はたいへん広かった。シックな家具は統一されており、窓のそばには質のよさそうなソファが置かれている。その向こうに伸びた長い廊下。落ち着いた柄の壁紙に、たくさんの扉が貼り付けられている。
すると、部屋のどこかから、少しの物音。
メルチェはちゃんと聞き逃さなかった。廊下にある、一番手前の部屋からだった。きっと人がいるのだ。そう思ったメルチェは、ワインレッドの絨毯の上を、サクサク音を立てながら進んでいく。
「……!」
扉の前まで来ると、メルチェはドキッとした。
部屋の中には思ったとおり人がいた。けれどその人は、どうやら泣いているようだったのだ。さっきからずっと、扉を挟んですすり泣く声が聞こえてくる。それは、おそらく小さな子どもの泣き声。
心配になったメルチェは、声をかけようとドアノブに手をかけた。けれどその直後、思い直して手を止める。なぜなら、勝手に屋敷に入ってきた知らない人間が突然現れても、驚かせてしまうだけではないかと思ったからだ。
それでも、メルチェはその場を離れる気にはなれなかった。本当の意味で、この子を一人にさせてしまうような気がしたから。
いつまでも、ぐるぐると悩んでいたときだった。
「どうしてっ……!」
震えた声が響き渡る。
メルチェはハッとした。そして、胸が苦しくなった。メルチェは、一人で泣くことの寂しさを知っていたのだ。孤独に泣くことが、どれだけつらいことなのか。それを誰にも気付いてもらえないことが、どれだけつらいことなのか。
メルチェは、私はこの子と話をしなければならないと思った。一人にしてはいけないと思った。気が付けば、メルチェは扉を開けていた。
「どうしたの?」
扉の先はキッチンだった。
使い込まれていながらも清潔に保たれた水まわり。ブウンと音を鳴らす冷蔵庫は大きく、猫足のテーブルはセンスがいい。コンロの上に置かれた小さな銀の鍋には吹きこぼれた跡がある。そして、まだ空であるティーカップの前で、しゃがみ込んでいる男の子がいた。濃い香りのする茶葉の袋の封も閉じず、肩を小刻みに震わせている。
そして扉が開く音に反応してか、男の子はこちらへと顔を上げた。その姿を見て、メルチェは思わず言葉を失ってしまった。
長い耳。
赤茶色の髪に、純黒の長い耳が生えている。涙の溜まった瞳は大きく、この世のなによりも赤い光を灯していた。顔立ちはかなり幼いが、彼はたしかに――――
「……レビウ?」
つい、口走ってしまった名前。
「誰……?」
すると、男の子が不思議そうに首を傾げる。
メルチェはハッとして恥ずかしくなった。よく考えれば、こんなところにレビウがいるはずはない。しかもこの子は小さすぎる。なんだかやつれているようにも見えるし、シャツから除く腕は折れてしまいそうなほどに細いし……
「……」
メルチェは、男の子のことを見れば見るほど心配になってしまった。
「私はメルチェ」
とはいえ、メルチェはすぐにポケットから真っ白いレースのハンカチを引っ張り出した。まるで母親にでもなったかのような優しい笑みを浮かべ、それを男の子に差し出す。けれど彼は首を横に振った。
「……僕、汚いから」
その言葉にメルチェは金色の目を丸くする。男の子の身なりはどこからどう見ても貴族のように綺麗なものだった。手も髪も服も、どこも汚れていない。
「汚くないわ」
メルチェがもう一度ハンカチを差し出すと、男の子はビクッと体を強張らせ、「汚いんだ!」と一歩下がった。メルチェは、この子がどうしてそんなことを言うのかわからなかった。けれど、やっぱりつらそうに見えた。
「汚くなんかない」
メルチェはゆっくり歩み寄る。自分をそんな言葉で責めてほしくはなかった。
震えながら涙をぼろぼろと流す男の子は、メルチェを拒否しつつも、誰かに助けを乞うような顔をしていた。部屋の隅まで追いやられ、ぐっと目を瞑る。
メルチェは、男の子が言った汚いという言葉が物理的なものではなく、自分自身の存在を指すものであることに気が付いた。それでもやっぱり、メルチェは彼を汚いだなんて思わなかった。何も知らないけれど、そう感じた。
「大丈夫、こっちを見て」
笑いかけるメルチェ。その穏やかな声に、男の子は恐る恐る顔を上げる。
「ほら、汚くないじゃない」
メルチェは男の子を優しく抱きしめた。
「えっ、あ……」
彼は抵抗することなく、メルチェの腕の中で大人しくなった。震えが治まり、大粒の涙はメルチェの白いブラウスに染み込んでいく。
「大丈夫よ。綺麗だから」
細い体をぽんぽんとなでると、男の子はメルチェの腕の中に少し顔をうずめ、体を預けてきた。メルチェは胸がぎゅっとして、もうちょっとだけ抱きしめる力を強くした。
少しの間そうしていて、しばらくすると、メルチェは「これ使って」と再びハンカチをひらつかせた。すると、男の子はメルチェの体からゆっくりと離れる。
「……ありがとう」
微かに笑い、ハンカチを受け取った。その表情は、やっぱりすごくレビウに似ていた。
「それじゃあ、私もう行くわね」
男の子の涙が治まった頃、メルチェはそう言って立ち上がった。キッチンを出ていこうとしたとき、ハンカチを持ったままの彼が片耳を垂らして口を開く。
「……き、綺麗って」
喉の奥からしぼりだすような声だった。
メルチェは踵を返すのを中断し、無意識にその赤目をじっと見つめる。男の子はそのあと深く息をつき、また深く息を吸った。
「言ってくれてありがとう。こんな……」
少しの沈黙が続いた。
男の子はそれを言ったきりなにも言わなくなって、メルチェもただ突っ立ったままでいた。ゆっくりと時が流れるのを肌で感じながら、お互いに黙り込んで動かない。
「僕なんか」
震える息を吐く。必死に言葉を探しているのが伝わってくる。
メルチェは胸が張り裂けそうだった。金色に澄んだ瞳で、ずっと男の子を見つめている。つらい顔をするこの子が埋もれてしまわないように。キッチンの静けさや茶葉の香りに埋もれてしまわないように。
「生きていても仕方がないのに……」
真っ赤な目から涙がこぼれた。
「そんなことない!」
そうして張り上げた声。
「そんなことない。あなたはこの世界に必要よ」
まっすぐと彼を見つめて言い切ったメルチェは、ただ自分に言い聞かせているだけなのかもしれないと、あとから思った。居場所がない自分を、重ね合わせて抱きしめてしまったのかもしれないと思った。
男の子は一瞬驚いた表情を見せたが、また少し笑いながら「ありがとう」と小さく言った。そんなふうに、寂しく笑うのはやめてほしい。どこかの兎にそっくりだった。
――メルチェ
すると突然、どこかから優しい呼びかけが聞こえた。
窓の外を見たが、噴水と胡桃の木が三本あるだけで人の姿は影すら見えない。だけど聞き覚えのある声だった。ふわふわしていていい気持ち。メルチェはこの声や話し方、優しい息づかいすべてに包まれていった――
「メルチェ!」
瞬間、メルチェは我に返る。
大理石の床がある。銀の階段、金のライト。月光が相も変わらずこの踊り場には冷たく感じた。
「私……」
どうやらまた眠ってしまっていたようだった。たしか舞踏会に来ていて……メルチェは自分の記憶を巻き戻す。
ゆっくり顔を上げると、シルクハットの少年がメルチェの肩を支えていた。御者だ。御者だけど、メルチェはなにか不自然な感じがしてならない。わかりそうでわからない。
まだはっきりとしない意識の中で、メルチェは彼の顔をぼーっと眺めていた。
目が、赤い。
「……レビウ?」
御者はクスッと笑い、シルクハットを脱ぐ。純黒の長い耳が飛び出した。
「おはようメルチェ。やっと気が付いたね」
にっこりと笑ったレビウは、シルクハットをメルチェの頭にかぶせる。
しかし、メルチェは驚いた様子もなく、ただただレビウを見つめている。その反応に少し残念そうな顔をする兎。
「私たち、さっきまで一緒にいたわよね?」
すると、メルチェが言った。金色の瞳を煌めかせ、どうしてか、ひどく切なげな表情で訴えかける。
「馬車の中や踊り場でのことじゃなくて、私たち、今までほんとに話をしてた」
もちろん、驚いたのはレビウの方だった。メルチェが真剣にそんなことを言うものだから、大きな目をさらに大きくしてしまう。けれどすぐに微笑む兎。メルチェを優しく見つめた。
「そうだね。僕はずっとメルチェのそばにいたよ」