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躍る世界と黒兎  作者: 夢梅
第10章 王国と牢獄
65/65

本当の親子


 思えば、しょうもないことだったんだ。血の繋がりなんて、どうだってよかった。

 俺を見つめるあのまなざしだけが、ただただ本当だったのに。


 .


 地下鉄のブリランテ駅前からバスでニ十分。

 誰かさんが書いてくれた手紙にあった、俺の親父が入院しているというその病院は、郊外に近い、人通りの落ち着いた住宅街を抜けた先にあった。

 「……」

 大きな国営公園の前でバスを降りる。そのすぐ隣に建っている大学病院を見て、俺の鼓動はだんだんと早くなってきた。

 公園では病院で入院している患者や、その付き添いの看護師などが散歩をしていた。穏やかな昼下がり。広葉樹の葉の隙間からストロボのように木漏れ日が差し込んで、もし、ここで親父にばったり会ってしまったらどうしよう、と思った。

 病院のエントランスをくぐる。手紙に書かれた階数へ行って、手紙に書かれた病室番号を探した。

 緊張する。柄にもなく。

 こころの準備ができていなかった。こんなに長い間親父に会うために旅をしてきたのに、馬鹿みたいだと思った。コッツ・ブロワでレビウにも言ったように、俺はまだ、父親に会う覚悟ができていなかった。ドクドクと脈打つ心臓の音を聞いているうちに、病室の前につく。

 「ふう……」

 どんな顔をしてこの扉を開ければいい?

 どんな顔をして声をかければいい?

 どんな顔をして――――


 「あんなこと言っといて……」


 わからなかった。


 そのとき、ふと、扉の横に貼り出された患者の名札が目に入る。きっと、この病室に入院している患者たちの名前だろう。名札は五枚あった。男部屋なのか、よく聞く男の名前が羅列されている。けれど、よく見ると枠は六枠あった。けれど、書いてある名前は五つだけ。

 「……!」

 ない。

 親父の名前が、ない。


 「親父!」


 思わず、急いで病室の扉を開けた。

 病室にベッドは六台あった。カーテンが閉まっているベッドや寝たままの体勢で本を読んでいる患者たちがいたが、親父の姿は見当たらない。

 「親父! 親父……!」

 俺は病室の奥まで入ってすべてのベッドを確認する。閉まっているカーテンを開けると、全然知らない人がいた。びっくりして「誰!?」と叫ぶ患者をそのままに、謝りもせずカーテンを雑に閉め直す。

 すると窓際に、一台、空いたベッドがあった。

 「……嘘、だよな?」

 そのベッドに誰かがいた痕跡はなく、まるで片付けられたあとのようだった。洗濯されたシーツ。何も置かれていない棚。畳まれたお見舞い用の椅子。俺は知っていた。病院では、患者が死んだあと、こんなふうに綺麗にベッドが片付けられるということを。


 ああ、そうか。

 親父は死んだんだ。


 「う……う……うわああー!」


 俺はベッドに顔を埋めてわんわん泣いた。

 間に合わなかった。会えなかった。独りきりで死なせてしまった。

 俺がすぐに覚悟を決められなかったから。俺がすぐにブリランテへ駆けつけなかったから。俺自身の気持ちのことは、どうだっていい。自業自得だ。だけど、だけど親父は。親父は一体どんな気持ちで死んでいったのだろう。母親がいない家庭で、男手一つで育ててくれた親父。裕福な家ではなかったけれど、幸せだった。うちは印刷屋で、新聞やチラシや本を刷って生活していた。親父の仕事を手伝うのが好きだった。親父が一生懸命に俺のことを育ててくれているのを知っていた。なのに。なのに俺は。

 「親父……親父ー!」

 真っ白に洗濯されたシーツに大量の涙がどんどん染み込んでいく。俺のまわりでは、なんだなんだと患者たちが集まってきていた。すると、その騒ぎを聞きつけた看護師が「何やってるんですか!」と焦りながらやってくる。

 「あれ……あなた、もしかしてアルさんの息子さん?」

 看護師がそう言ったとき、俺は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。

 「お、おう……そうだ……俺は、アルの……」

 息子だ。

 そう言いかけて、またボタボタと涙が溢れ出してしまう。

 「わああーん!」

 そして再度大泣きし始めた俺に、看護師はため息を吐きつつもにっこりと笑顔を見せてこう言った。

 「死んでないわよ。お父さん」

 ……。

 ………………。

 「え?」

 俺は一瞬何が起こったのかわからなくなった。

 「だ、だって、ベッドが綺麗に片付いて……」

 「退院したのよ。一週間くらい前かしら。知らなかったの?」

 その瞬間、病室中の人が大笑いをした。さっき俺が間違えてカーテンを開けてしまった患者なんかは、手まで叩いて爆笑していた。なんだ。なんだよ。生きてたんじゃねえか。馬鹿かよ、俺は。

 俺は死ぬほど恥ずかしくなって、だけど死ぬほど安心して、また死ぬほど泣いた。


 .


 病院を出てまたバスに乗る。

 バスは、さっきメルチェたちと別れたブリランテ駅前を通り過ぎ、運河にかかった橋を越え、海の方面に走っていた。

 俺の家は港からは遠い海岸沿いにあって、すぐそばには貧民窟があるような、ブリランテの中でも廃れた地域だった。王宮の城下町やブリランテの駅前にいるような、きらびやかな人たちは寄り付かない。だけど、その錆びれた路地の家に住む人々はあたたかく、優しく、俺はそんな故郷をけっこう気に入っていた。

 「……親父」

 バスが故郷へと近付き、窓の外が、見慣れつつも懐かしい景色に変わってくると、俺は昔のことを思い出してきた。親父と暮らしていた毎日や、印刷の仕事のこと。


 そして、家を飛び出したあの日のこと――


 「アシッド。また印刷がズレてたぞ。気をつけろと言っただろ」

 路地裏の、狼族の印刷屋。

 この地域の人々は、俺たちのことをそう呼んだ。

 「うるせえな。このクソ古いオンボロ印刷機が悪いんだろうが。いい加減買い替えりゃあいいのによ」

 俺は親父がせっかく行かせてくれた学校を途中で辞めて、ずっと親父の仕事の手伝いをしていた。学校で教科書を読んでいるより、家でその教科書や本を刷っている方が何倍もおもしろかった。うちにあるのは親父が親父のじいちゃんから受け継いできたクソ古いオンボロ印刷機だったけど、老舗ということもあって、ありがたいことに常連からの仕事が尽きず舞い込んでいた。

 「機械を買い換えられるお金があれば、城下町にでも引っ越してるだろうな」

 だけど、新しい仕事や大きな仕事を頼まれることはないに等しく、俺たちは細々とした生活を送っていた。

 「城下町なんていらねえよ。金持ちになってもずっとここで字を刷ってようぜ」

 それでもこの生活が楽しかった。親父がいて、印刷ができて、それ以上に望むものなんてなかった。この先もずっと、ここで二人で暮らしていくのだと思っていた。

 作業場にある、これまたオンボロ時計が歌を歌う。二十時の合図だ。それは今日の仕事の終わりを告げるものだった。俺は機械のまわりを片付けて、インクのついた手を洗った。

 家の中へ入ると、親父が先に夕飯の準備をしてくれていた。今日のメニューは魚の煮付けと、まとめ買いしたパン、芋の茎とリンゴのサラダだ。

 「うまそー! いっただっきまーっす!」

 「アシッド、膝を立てて座らない」

 「うめえ! もしかして人魚旧街地のやつか?」

 「ああ。お隣の奥さんがくれたんだ」

 「さっすが旦那が港の駅員なだけあるな。今月の新聞代タダにしてやらねえと」

 俺たちは毎日必ず飯を食べるときは二人一緒に食べていた。親子の仲はよかったと思う。男二人の家族だったけど、俺は親父を尊敬していたし、親父も俺を大事にしてくれていたんだ。あーだこーだ言う俺のしょーもない話を、親父はいつも優しいまなざしで聞いてくれていた。そんなことに気が付いたのは、家を出てからずっと後だけど。

 この日、外は雨が降っていた。

 ガタガタと家の屋根や戸が音を上げて、木造のうちは吹っ飛ばされるんじゃないかと思うほどの強風だった。天井に吊るしたランプが微かに揺れる。夕飯を食べ終えた俺と親父は、狭い寝室のくたびれた布団の上でくつろいでいたところだった。


 ――ビーッ


 突然、玄関のチャイムが鳴った。

 「ああ? 誰だよ、こんな時間に……」

 俺が無視する気満々で全然立ち上がろうとしないので、親父が仕方なさそうに立ち上がって玄関の方へ歩いて行く。

 「……」

 その背中を見て、俺は、親父は歳を取ったなあと考えていた。

 親父は、おそらく俺と同世代のやつの親よりももっとずっと上の世代で、一緒に街なんかを歩いていると、ジジイと孫だと勘違いされることも多かった。親父は薄くなった髪にも三角の耳の毛並みにもすっかり白髪が混じって、尻尾にだって何本かあるくらいだ。背はいつの間にか俺の方がデカくなって、最近は、肩幅もなんだか小さくなった気がする。咳込むことや、腰が痛いと言うことも増えた。

 このとき俺は、親父がどんどん年老いていくのをこの先も見届けて、でもそれは永遠ではなくて、いつか最期が来てしまうのだと言うことを、考えないようにしていたのだと思う。

 だって親父は相変わらず俺のことをよく叱ったし、仕事もテキパキこなしていたし……

 「……親父ー?」

 あれから玄関へ行った親父は、全然戻ってこなかった。こんな時間に訪ねて来た来客と、こんな時間に立ち話?

 俺は不思議に思った。

 だって親父は、長話をするタイプの人間ではなかったからだ。近所の人との付き合いはいい。明るく挨拶もする。だけど、どちらかというと穏やかに静かに話す方で、職人気質だし、さっき言った通りジジイだし、夕飯の魚をくれた奥さんみたいに、話題が弾むようなタイプではない。自分の感情を露にするタイプではないんだ。


 だから、このとき。


 「帰れ! 二度と来るな!」


 玄関から親父の怒鳴り声が聞こえたときは、驚いてしまった。


 「親父!?」

 俺は急いで玄関の方へ走って行った。

 「……」

 けれどそこにいたのはワナワナと震える背中を向けていた親父だけで、玄関の扉はもう閉められていた。

 外では相変わらず雨風がびゅうびゅう吹いている。誰が来ていたのか、誰が去っていったのか、足音は雨音に消されてもはやわからず、俺がそれを知るすべはなかった。

 「親父……?」

 親父はずっと玄関の方を見ている。

 「…………今日は」

 そして背中を向けたまま、絞り出すような声を出して言った。

 「今日はもう寝なさい」

 俺は納得がいかず、「何があったんだよ」「誰が来たんだよ」「嫌なことでも言われたのか」と親父を質問攻めにした。けれど親父は黙ったままで、何も教えてはくれなかった。

 その日、俺は親父に何があったのか心配でよく眠れなかった。親父は布団に入ることなく、珍しくリビングで酒を飲んでいるようだった。


 朝。

 このあたりで新聞配達のバイトをしている向かいのガキがやってきて、いつも通り、俺の刷った新聞を取りに来た。

 「アシッド兄ちゃん、おっはよー!」

 「……はよ」

 「なに? いつも以上に寝起き悪いね?」

 向かいのガキは俺よりいくつも下の男の子で、近頃は妹が生まれたからと言って今まで以上に張りきって仕事をしている。俺はそんなコイツの笑顔がまぶしくて、朝から目が開かなかった。

 一丁目と二丁目、そして三丁目分の新聞が入った箱を渡す。ガキはその大きな箱を自転車の荷台にくくりつけ、前かごにも新聞の束を入れた。「じゃー行ってくるね」とサドルに跨ると、ふと、「そーいえば!」と何やら俺に問いかけてきた。

 「昨日の夜、兄ちゃんの家に来てた人、誰?」

 俺は目を丸くした。そして、ガキの身体を自転車ごと掴む。

 「そいつ、どんなやつだった!?」

 ガキはバランスを崩しそうになったのを片足で支え切って、「おれが聞いてんだけど!」と戸惑っているようだった。けれど俺の真剣な顔を見て、んー、と、昨日の夜の記憶を辿りだす。

 「たしか、女の人だったよ。赤い傘をさしてた。髪が長くて、顔は見えなかったけど、兄ちゃんとかアルさんみたいなふさふさの尻尾があった!」

 そう言ったガキは、「じゃあもう行くよ?」と呆れたような顔をして、路地裏の道を走り抜けていった。

 俺はその後姿を見送ったまま立ち尽くす。

 うちを訪ねて来ていたというその人の特徴は、まったく身に覚えのないものだった。女? 赤い傘? 髪が長い? 尻尾? 俺たちと同じような尻尾があったってことは、狼族か? それにしても、本当に何のこころあたりもない。

 けれどそのとき、一つの可能性を思いついた。

 「母親……?」

 そう、母親だったんじゃないかということだ。

 俺の家は、俺の物心がついたときからすでに母親がいなかった。親父に聞いても何も教えてくれず、俺は勝手に親父が恥ずかしがっているだけか、めちゃくちゃ喧嘩別れして思い出したくないかのどちらかだろうと考えていた。そして、昨日の親父の怒鳴り声。きっと後者だったのだろう。夜中に酒まで飲んで、一体どんな別れ方をしたのやら。

 俺は自分の母親に興味があった。どんな人なのか知りたかった。もちろん親父と二人の生活を手放すつもりはなかったけれど、ただの好奇心だった。

 「けど、親父に聞いてもぜってー教えてくんねえよなあ……」

 俺は考えた。

 そして一つの方法を思いつく。


 「見ろよこれ、宝石だぜ!?」


 俺は昨日人魚旧街地の魚をくれた、長話好きの奥さんのところへ行くことにした。

 「アシッド。アンタ馬鹿なの?」

 奥さんは誰の奥さんなのかというと、北の港町の駅で働く旦那さんの奥さんだ。まあまあいい感じの美人だとみんなから言われていて――俺に女のことはよくわかんねえけど――電車に乗って買い出しに行っていた奥さんに一目惚れした旦那さんが婿入りしたんだそう。俺はまだガキだったから覚えてないけど、当時は、まさかこんな貧乏地域に婿入りするなんて、と、随分噂になっていたらしい。

 「何言ってんだよ! ほらよく見ろ。これダイヤモンドだぞ――って、あ!」

 「よーく見なくたってわかるわよ。これはシーグラス! 硝子よ、硝子」

 奥さんは俺が浜辺で集めてきたキラキラ光る何かの欠片をバッと取り上げ、そのへんの地面にぽいっと捨てた。昨日の魚のお礼だとこれを渡して親父と母親の話を聞くつもりだったが、どうやらそんな簡単にはいかないらしい。

 「ったく。つまんないことしてないで仕事しなさいよ。し・ご・と!」

 「チッ……うるせえババアだな」

 「ババア!? アンタ誰に向かってそんなこと……!」

 奥さんは片手に持った鉄のフライパンを振り上げる。俺はこえーこえーと言いながら咄嗟に頭を守った。脅かしているように見えて、本当にぶん殴ってくるのがここの奥さんだ。旦那さんはそういう強気なところもいいと言っていたが。

 「ところで、なんかあったからこんなしょーもないことやってきたんじゃないの?」

 「もういい。どうせシーなんとかなんかあげても教えてくんねえだろうし」

 「だから何の話よ? 聞くだけ聞いてあげるけど」

 目の前で仁王立ちをしている奥さん。その顔をじっと見つめると、奥さんはショートカットをそよがせながら「ん?」と優しく首を傾げた。どうやら本当に聞いてくれる気はあるようだ。

 「……母親」

 「え?」

 「母親の話が聞きてえんだよ。俺の。親父となんで別れたのかとか」

 視線を逸らしながら俺は言った。親のことが知りたいと打ち明けるのは、なんだか気恥ずかしかった。

 奥さんは一瞬目を大きくさせて、だけどすぐに切なそうな顔で「アシッド……」とつぶやいた。同情されているのだろうか。いや、ここの奥さんはこころの底から本気で人の気持ちを考えてくれる人だ。俺が寂しがっているとでも勘違いしているのだろう。

 そんなことを考えていると、突然、奥さんは俺の肩をガッと掴んだ。

 「うおっ!?」

 俺はびっくりして耳と尻尾を逆立てる。

 「聞こう! お母さんのこと!」

 奥さんは、まっすぐな目をしてそう言った。

 「ごめんね。あたしはアンタんとこの両親がなんで別れたか知らないんだ。たしか、あたしが子供の頃からアルさんは一人で暮らしてて、あるときから急にアンタを育て始めたんだよ」

 俺は不思議に思った。ずっと一人で暮らしていた親父が、あるときから急に子供を育て始めた。どういうことだ? 俺が生まれたタイミングで母親と別れただとか、今まで一緒に暮らしてて、母親が俺を置いていっただとかであればわかるけど……

 俺が怪訝な顔をしていると、奥さんは「ほら!」と気を遣ってくれたような声を出して、

 「もしかしたら、もともとお母さんとは一緒に住んでなかったのかもね。それか途中から別居したとか」

 と言った。

 たしかに、夫婦が必ず一緒に住んでいるとは限らないか。俺が一人で納得していると、奥さんは「まあなんにせよ、あたしにはわかんないのよ」と言った。そして、はあ、とため息を吐く。

 「なーんだ。期待外れじゃねえか」

 俺はそんな軽口を叩きつつも、親のことが知れないことを残念に思った。さっき奥さんが地面に捨てたシーなんとかを片足で蹴る。シーなんとかは砂に埋もれ、その澄んだ輝きを失った。


 「……ってことで。ばあちゃんに聞こう!」


 しかし、奥さんの目の輝きは失われていなかった。

 「……ばあちゃんに?」

 俺は復唱した。


 ばあちゃん。


 このあたりでは、みんなからそう呼ばれている人がいた。

 それは、紛れもないこの奥さんのお母さんのお母さん。つまり、奥さんのばあちゃんのことだ。ばあちゃんはうちのジジイよりもババアで、というか、このあたりの誰よりもババアで、言わずもがな最年長だった。いつもはこのへんから海岸までの道を散歩したり、庭に植えた植物の世話をしたり、近所の家へピクルスを配ったりしている。

 「……たしかに、ばあちゃんならわかるかもしんねえな」

 「そうよ! このあたりの誰よりも昔からここにいるんだから」

 奥さんは、あたしってばナイスアイディア! と自画自賛しながらご機嫌になって、「ちょうど今いるからあがって!」と、俺を家にあげた。

 奥さん家は、俺の家と変わらないくらいに狭くて古い家だった。

 だけど旦那さんが来てからはボロくなった部分を建て替えたり綺麗にしたりして、多少はいい家になった。それに物なんかもスッキリ片付けられていて、このあたりでは一番ちゃんとした家なんじゃないかと思う。

 「あ、いたいた」

 廊下を進んだ一番奥。昔から敷かれたままの絨毯の部屋にばあちゃんはいた。ここはばあちゃんの部屋で、ばあちゃんのベッドや、庭に繋がるバルコニーがある。ばあちゃんはよくここから庭で遊ぶ近所のガキたちを眺めたり、居眠りしたりしているのだ。

 「ばあちゃーん」

 半開きになった扉の前、奥さんがばあちゃんに声をかけた。

 そのとき、俺はハッとして扉を閉める。

 「待て!」

 すると、奥さんは「なによ?」と不思議そうな顔をした。俺は、しーっと人差し指を立てて、小さな声で「誰かと話してる」と言った。

 俺たちはそーっとしながら扉を少し開け直し、気付かれないようにばあちゃんの部屋の中を覗き見た。

 すると、やっぱりばあちゃんはバルコニーの窓の前に座ったまま、誰かと話をしていた。誰かは庭から会話をしているらしく、姿は見えない。けれどその声は、穏やかで静かな、俺が一番聞き馴染みのある声だった。

 「親父だ……!」

 俺は奥さんと顔を見合わせた。

 「ばあちゃんに昨日のこと話しにきたんだよ!」

 「それなら一緒に話を聞けばいいじゃない」

 「駄目だって。俺がいたらぜってー話してくれねえもん。このまま盗み聞きするぞ!」

 呆れ気味の奥さんを説得しつつ、俺たちはこのまま親父とばあちゃんの話に聞き耳を立てることにした。

 俺は心底ワクワクしていた。これでようやく親父の口から母親のことが聞ける。家に帰ったら、親父のことを盛大にからかってやるんだ、と。

 ばあちゃんの部屋には、バルコニーからやわらかい風が吹いていた。レースの古いカーテンが揺れて、朝の日差しが差し込んでいる。庭では毎朝水をやっているのであろう野菜たちが実りを見せて、その近くに、親父は立っているようだった。


 「……昨日、アシッドの母親がうちに来た」


 その言葉を聞いて、俺は扉の陰に隠れたまま「やっぱり!」と静かに叫んだ。やっぱり昨日の女は母親だったんだ! 興奮する気持ちを抑えつつ、引き続き奥さんと話の続きを盗み聞きする。

 「……ほう。厄介だね。それで、アルはどうしたんだい?」

 「うちの子を返してほしいと言われたから、嫌だと言った。自分であの子のことを投げだしたくせに、都合がよすぎるだろうと」

 母親が、俺を引き取りに来た? 俺と一緒に暮らしたいって言ってたってことか?

 俺はとても衝撃的な気分だった。想像もつかない自分の母親が、自分の親権を欲しがっているだなんて……。だけど、親父はそれを断ったんだ。俺を母親に譲るでも、二人暮らしを三人暮らしにするでもなく、断った。

 俺はなんだか嬉しかった。親父も俺との暮らしを大切にしてくれているのだと思った。だけど、少しだけ母親に会ってみたかったような気もした。

 「ふふふ……そうだろうよ。お前の言う通りだもの」

 ばあちゃんはおかしそうに背中をゆらゆらさせて笑っていた。のんびりと、ゆっくりと話している。けれど、親父が笑うことはなかった。低い声をしたまま、黙っている。

 そして少し間を開けた後、こう言ったんだ。


 「だけど言い返された。あの子もきっと、本当の親子で暮らしたいに決まっていると」


 ……?

 俺はまた奥さんと顔を見合わせる。


 「なんだいそれ。自分で育てられないから、赤子だったあの子をこの街に捨てたんじゃないのかい」

 「ああ……だけど、どうやら今は城下町のマンションで暮らしているらしい。生活にも余裕があって、だからアシッドを返してほしいと言っていた」

 ばあちゃんはそれを聞いて「身勝手な女だね」と言った。そして、さっき笑っていたのが嘘だったかのように機嫌が悪くなっていた。だけど親父は母親との会話を淡々と話すだけ。

 俺は、二人の会話を聞きながらいぶかしげな表情をすることしかできなかった。それは奥さんも同じで、俺と一緒に眉を顰めながらばあちゃんの背中を見つめている。

 「思わず……二度と来るなと、怒鳴ってしまった」

 「それでいいんじゃないのかい?」

 「だけどそれから……あの言葉が離れないんだ。本当の親子という言葉が……」

 親父は、穏やかに、静かに、冷たく、落ち着いた声で、そう言った。それは、何かを諦めているような、受け入れているような、そんな言い方だった。

 「たしかに、俺とアシッドは血が繋がっていない。本当の親子じゃないんだ。俺が拾ってきただけの子だ。もしもあの子がそれを知ったら……知った上で、本当の親と暮らしたいと言ったら……」

 俺はその瞬間、自分の中の何かが崩れる音を聞いた。

 親父は、俺を本当の息子だと思っていなかったのだ。そして、実際にそうだったのだと。俺は、昨日うちに来た女に捨てられた可哀想な子供で、親父はそれを拾っただけ。俺たちに血の繋がりはない。

 ショックだった。

 だけど、俺は自分が捨て子だったという事実以上に、親父が俺たちのことを本当の親子だと思っていなかったということが、何よりも悲しかった。


 「なんだよ……それ」


 俺はつぶやいた。そして思わず扉を開ける。

 「ちょっとアシッド……!」

 奥さんが止めようとしてくれたが、もう遅かった。


 「なんだよそれ!」


 ばあちゃんが振り返る。

 庭にいた親父が「アシッド!?」と驚いているのが、柵越しに見えた。

 「親父! 今の話、どういうことだよ!」

 「アシッド、なんでここに……」

 「俺は親父の子じゃねえのかよ!? 拾ってきただけってなんなんだよ!」

 惨めだった。

 親父は、俺が親父との生活をどれほど幸せに思っているかなんてわかっていなかったんだ。俺が事実を知ったなら、親父との生活を捨てて、見ず知らずの母親のことを選ぶかもしれないと思ったんだ。俺は、親父がそんな可能性を考えていることが不服だった。胸を張って、アシッドは俺と暮らすと言ってほしかった。自信をもって、アシッドは俺の子だと言ってほしかったんだ。

 「アシッド、話を聞いてくれ。俺は……」

 親父がバルコニーからこっちへ来ようと身を乗り出してくる。

 だけど、だけど俺は――


 「親父なんてもう知らねえ! 血も繋がらない、赤の他人だ! この偽物の親がよ!」

 

 俺はそのままばあちゃんの部屋を飛び出した。

 「アシッド!」

 親父がどんな顔をしていたのかなんて、思い出したくもない。


 そうして俺は、なけなしの小遣いを掻き集めてブリランテを出て行った。

 とにかく、とにかく遠くへ行きたかった。できるだけ遠くまで行って、もう一人きりになりたかった。俺は、誰の子でもない。俺は、俺一人だ。

 ブリランテを出た後も、一度も家へ戻ることはなかった。森で暮らした数年、親父を思い出さなかったと言ったら噓になる。けれど、帰る勇気はいつまで経っても持てなかった。

 俺は逃げ出したんだ。今まで育ててくれた親父の話を聞くこともなく、それどころかひどいことまで言って――


 .


 バスが停まる。

 そこは、腐るほど見た故郷のそばのバス停だった。

 

 海岸の堤防脇。整備されていないタイルの道に降り立つと、さざ波の音がした。バスが行き、風が吹く。うっとおしいくらいベタつく潮風は、とても懐かしいにおいがした。

 しばらく石畳を歩くと、古くて小さい建物が立ち並ぶ路地裏の住宅街が見えてくる。路地へ入ると道はタイルから土へと変わり、俺のブーツを砂で汚した。ブーツは土道を一歩ずつ歩くたびに音を鳴らし、まるで自分もこの道を懐かしんでいるかのように思えた。


 ああ、帰ってきた。

 帰ってきてしまった。


 自分の家が見えてきて、印刷屋の看板を見た瞬間、俺は心臓のあたりがぎゅっと握りつぶされるような感覚に襲われた。ドクドクと血液が脈を打つ。呼吸が乱れ、息がしづらくなる。

 どうしよう。俺、帰ってきたところで親父にどんな顔して合えば……

 そう思ったとき、後ろから「兄ちゃん?」という声が聞こえた。振り向くと、そこには身長が二十センチ程伸びた、新聞配達のガキが立っていた。


 「やっぱりそうだ! 兄ちゃん! アシッド兄ちゃんだ!」


 ガキは泣き出しそうな顔をして、俺の背中に抱き着いた。

 「うおっ!」

 俺はその衝撃にバランスを崩したが、なんとか片足で身体を支え切った。

 「兄ちゃんどこ行ってたんだよ! おれ、おれ……寂しかったよー!」

 デカくなったガキはしゃべる声も低くなっていて、もうガキという感じではなかった。だけど、俺に抱き着く姿は数年前と何も変わっていない。無邪気で、まぶしい、あの頃のままだ。

 俺はガキの頭を撫で、「悪かったな」とつぶやいた。ガキはこれまたデカい声で「うわーん!」と言った後、「アシッド兄ちゃんが帰ってきたー!」と叫びだした。

 「ちょっ……お前やめろって!」

 焦って止めようとする俺のことなんて無視して、ガキは馬鹿みたいに騒いだ。そのせいで、なんだなんだと路地の家々から人が覗いてくる。

 そのとき、俺の隣の家の扉がバンと開いた。

 見ると、女の人が立っている。エプロンをした、スッピンの女の人だ。


 「アシッド……?」


 それは、あの日夕飯の魚をくれた、隣の家の奥さんだった。


 「アシッド!」


 奥さんは靴も履かないでこっちへ走ってきた。そして勢いよく俺のことを抱きしめる。

 「わっ!」

 間に挟まれたガキが声を上げる。

 俺も最初はその勢いに圧倒されてびっくりしていたが、しばらくそうされていると、奥さんの身体が震えていることに気が付いた。奥さんの腕の中はあたたかく、やわらかく、まるで布団の中にいるみたいな感覚だったけれど、微かに、それは震えていたんだ。

 「奥さん……」

 このときになってようやく、俺は親父だけじゃなく、いろんな人に心配をかけてしまっていたのだということに気が付いた。

 俺は、俺なんかがいなくなったところで何も変わりやしないと思っていた。だけど、この優しい奥さんやガキは、ずっと俺のことを気にしてくれてたんだ。それなのに、俺はそんなことにも気が付かなかった。自分のことばっかり考えて、何もわかっちゃいなかったんだ。

 「……悪かった」

 精一杯の、小さな声で謝った。これ以上声を出すと、泣いてしまいそうだったから。

 「謝らなくていいんだ……いいんだよ。よく帰ってきたね。本当に、よく帰ってきてくれた……」

 奥さんは俺とガキを抱きしめたまま首を振った。そしてようやく身体を離し、涙ぐんだ瞳でまっすぐに俺を見つめる。

 「ほら……アルさんも、待ってるよ」

 俺は、その言葉に少し身体が強張った。けれど、さっき抱きしめられた感覚が俺の気持ちを落ち着かせてくれる。

 自分の家の玄関の前に立つと、あの頃の記憶が一気に蘇る気がした。

 ゆっくりと深呼吸をする。隣の奥さんと向かいのガキが、少し離れたところで静かに見守ってくれていた。扉に手をかけると、その感覚を身体が覚えていた。

 何も忘れていない。何も変わっていない。ここは、あの頃のままだ。


 「ただいま……」


 家に入ると、懐かしいにおいに包み込まれた。

 これは、インクと、紙のにおいだ。俺はこのにおいが大好きだった。


 「……おかえり」


 玄関を入ってすぐの作業場。印刷機の横の椅子に、親父は腰かけていた。

 親父は、あの頃とまったく同じように、なんてことのない顔でおかえりと言うと、手についたインクを洗いに壁際の水道へと歩いて行った。蛇口をひねると水の流れる音がして、数秒経つとまた蛇口が閉められる。

 まるで、あの頃に戻ったかのようだった。数年ぶりに帰ってきたというのに、この家を出ていったのが今朝のことのようだ。

 「……病院から、電話があったよ。一週間前まで俺が入院していたベッドで息子が大泣きしてたってな」

 親父はそう言うと顔を上げ、手洗い場から俺の方に振り向いた。目が合って、思わずドキッとする。

 親父の顔には皴が増え、髪や毛並みにも白髪が増えてしまっていた。家を空けていた数年だけで、親父は随分と老け込んでしまったような気がする。この一緒にいなかった少しの期間を、悔やむときがいつか来るのかもしれないと思った。

 俺は病院での出来事を知られていたのが恥ずかしくて、「うるせえよ」と言いながら合っていた目を逸らした。親父は咳を数回したあと、「お前は本当にせっかちなやつだよ」と少し笑う。

 作業場は、とても静かだった。

 クソ古いオンボロ印刷機は止まっていて、あの頃は動いていた時計も電池切れなのか動いていない。文字が刷られたあとの紙と、刷られる前の紙が分かれて机に置かれている。その隣に、裁断機などの器具も出しっぱなしになっていた。

 「……体調は大丈夫なのかよ」

 インクのついたタオルで手を拭く親父。俺はいまだ玄関口に突っ立ったまま、気になっていたことを問いかけた。

 「ああ。もうなんてことない。でもまあ、歳だからなあ……」

 親父はそう言うと、家の中へ続く廊下の扉を開けて、「飯、できてるぞ」と言った。

 俺は目頭が熱くなった。もう、本当に痛いくらいだった。


 「親父」


 俺は部屋に入ろうとする親父を呼び止めた。

 「親父、ごめん。悪かった」

 そんな俺の言葉に、親父は目を丸くする。

 「俺、嫌だったんだ。親父が俺のことを本当の親子じゃないって言ったのが、すっげー嫌だった」

 それを聞いて親父が「違う、あれは……」と言いかけたのを、俺は「わかってる!」と遮った。

 「わかってる。そういう意味で言ったんじゃねえってことくらい。だけど、だけど俺は、親父に胸を張って、俺は親父の息子だって言ってほしかったんだ。血が繋がっていなくても、拾ってきた子供でも、なんでも。俺と親父の生活は城下町のマンションで暮らすのなんかより何倍もいいもんだって……言ってほしかった……だから……」

 ガキだなあ、と、思った。

 俺は初めて自分の気持ちを言葉に出した。そうしてみると、今まで自分を苦しめていた気持ちなんて、とてもくだらないものだったんだと気付いた。思えば、しょうもないことだったんだ。血の繋がりなんて、どうだってよかった。俺を見つめるあのまなざしだけが、ただただ本当だったのに。

 「……あのとき。お前が出て行ったとき。とても後悔した」

 俺が俯いていると、次は親父が口を開いた。

 「俺は、自信がなかったんだ……今まで一人で暮らしてきて、結婚もしていない、家も裕福ではない。そんな俺が、まともに親をやれているかなんて、わからなかった」

 親父は穏やかに、静かに、ゆっくりと言葉を紡いでいた。俺は目線だけを上げて親父の顔を見る。俺たちの間に、俺たちだけの空気が流れている。

 「俺はお前がいなくなってしまうのが嫌で、ずっと本当のことを黙っていた。血が繋がってないと知られたら、お前がいなくなるかもしれないと思った。そう思うと言えなかった。本当に、すまなかった」

 すると、親父も顔を上げた。俺の顔を見て、真剣な表情をする。

 「だけど本当は、今思えば。お前をよそへ、本当の母親のところへ受け渡す気なんて、なかったんだ。お前と暮らせなくなることなんて、考えられなかった。お前は、俺の子だよ。紛れもなく、俺が育ててきた子なんだから」

 俺はたまらなくなって泣き出した。

 しゃがみこむと、親父がそばまでやってきて、頭をぽんと叩いた後、くしゃくしゃと撫でてくれた。それは俺がレビウやメルチェにやってたみたいな、そんな感じだった。

 俺は、無意識に親父がやってくれていたことをアイツらにもやっていたんだ。まるで、繋がっていないはずの血を感じるような感覚だった。俺は、親父の息子だ。俺たちは、本当の親子なんだ。そう思った。

 「……腹減った」

 ひとしきり泣いた後、俺はずずっと鼻をすすってそう言った。親父は仕方なさそうに微笑んで、「今日は煮魚だぞ」と言った。俺は肉の方が好きだけど、親父が作る料理では煮魚が一番好きだった。

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