母
昔から、母のことが苦手だった。
「ディア。あなたは将来素晴らしい道を歩むのよ。そのために、今はたくさん我慢して、たくさん精進しなさい」
子供は母親を一番思っているだとか、子供は母親が絶対的だとか、そういうのを本で読んだことがあるけれど、あれは嘘だ。だってわたしは母のことが苦手で、あまり一緒にいたいと思ったことがないから。
「こんな問題もわからないの? 恥ずかしくて家庭教師と顔を合わせられないわ」
母といると息が詰まる。
母が部屋から出ていくとほっとする。
「切り絵なんて練習しても作家になれるのなんて一握りなんだから、そんな暇があるなら勉強していなさい」
母のことが好きではない。
母のことが嫌いだ。
こんなわたしは、きっとよくない娘なのだろう。
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物心ついたときから、わたしには侍女がついていた。長年ずっと母に仕えていた、年老いたメイドだ。わたしの身の回りの世話はすべて侍女がしてくれた。母がわたしに会いに来ることは滅多になく、たまに会いに来るあの女性を母だと理解したのは、少し後だったように思う。
絵本を読んでいると、主人公のお母さんはいつも主人公と一緒にいて、共に食事をしたり、共に眠りについたりする。それは、御伽噺の中だからだと初めは思っていたが、どうやら世間ではそれが普通のようだった。わたしは生まれつき身体が弱く、幼い頃はずっとベッドで過ごしていた。窓の外は憧れの世界。自分には到底手が届かない幻のようだった。一度、侍女が少しだけ中庭を散歩しましょうと言ってくれたことがある。けれど、母に止められ、身体がよくなるまでは外の世界に興味を持つことを禁じられた。悔しくて、涙が出た。
そのとき、わたしは、母はわたしを思い通りにしたくてたまらないのだろうと思った。まるで自分の代わりかのように、所有物かのように、レールを敷いて、わたしの人生を思い通りにしたいのだろうと。
「ディア」
けれどあれは、いつだっただろう。
十三年間生きてきた中で一つだけ、母との思い出深い記憶がある。
その夜わたしは寝付けなくて、そんな日に限って侍女やハイリスは忙しくて。一人でベッドに潜っていると、珍しく母が来た。わたしは母と話すのが嫌で狸寝入りをしようとした。頭のてっぺんまで布団に入り、母がいなくなるのを必死に待った。けれど、ゆっくりと毛布がめくられて、視界がまぶしくなる。咄嗟に目を瞑り、嘘寝を続行した。
「……」
母はわたしの顔を眺めているようだった。目を瞑っていても視線を感じる。
「……」
瞼がぴくぴくと痙攣しそうだ。いつまで経っても毛布はめくられたまま。
「……」
我慢の限界だった。なぜなら、目を瞑ったのと同時に、思わず息を止めてしまっていたからだ。
「ぷはあっ!」
わたしは呼吸を再開するのと同時に目も開いてしまった。一瞬にして広がる視界。母は今までに聞いたことのないような悲鳴を上げて、大理石の床に尻餅をついた。
「な、なによ。びっくりした。起きてたの?」
そう言って心臓のあたりに手を当てた母は、とても驚いているようだった。ごくんと唾を飲み、はあ、とため息を吐く。わたしは震えていた。狸寝入りがバレた上に、母を驚かせてしまった。まずい、確実に怒られる。けれど、どうすることもできなかった。黙って俯き、叱咤を回避するすべも思いつかないまま、母と目を合わせられないでいた。
そのとき。
――ぐう。
沈黙の続く静かな空間に、小さな音が響いた。
「!」
わたしのお腹が鳴ったのだ。わたしは、さらにまずいと思った。けれど……
「……お腹空いてるの?」
母の口から出てきた言葉は、予想外のセリフだった。わたしは恐る恐る顔を上げる。すると、そこにいたのは呆れたような表情をした母だった。いつも強い口調でわたしを圧倒してくる母が、いつもどんなことにも非難を浴びせてくる母が、「仕方ないわね」と立ち上がる。怒っていない。そのことに気が付いたわたしは少しの間ぽかんとしていた。けれどじきにハッとして、歩き出した母の姿を目で追う。
母は、部屋の隅に常設されている狭いキッチンのライトを点けた。寝る前に侍女が洗ってくれたマグカップを取り出し、ポットでお湯を沸かし始める。どうやら、何か作ろうとしてくれているようだ。わたしは、戸棚や冷蔵庫の中身をチェックする華奢な背中を見て、まるで、御伽噺の中のお母さんのようだと思った。憧れていた、普通の親子。思いがけない展開に、戸惑いながらも高揚する。
「できたわよ」
しばらくして、甘酸っぱい柑橘系の香りが漂ってきた。
むくりと起き上がると、母はサイドテーブルに熱々のマグカップを置く。カップの中からは、もくもくと湯気が立ち込めていた。やっぱり、甘酸っぱい香り。湯気の向こうをよく見ると、それはあたたかいレモネードだった。
「固形物を食べたら余計に眠れなくなるから。飲み物で我慢して」
檸檬の果肉とはちみつで少しだけとろりとしているそれを、母はスプーンですくい取る。ふーふーと息をかけて、冷ましてくれた。わたしは口元に持ってこられたそれを、慌てて咥えこむ。
「あつっ!」
けれど焦って口に入れたせいで、スプーンの中身がこぼれてしまった。レモネードは毛布にかかり、わたしは舌を火傷しそうになった。
「ちょっと……何やってんのよ」
母は一瞬冷たい声になったが、タオルで毛布を拭いてくれた。わたしは「自分で飲む」とマグカップを持ち、表面をふーふーした。母はその様子をなんだか不服そうに眺めていて、わたしはまたできるだけ目を合わせないようにしていた。母の機嫌を損ねたくない。失敗したくない。早く飲み切って出て行ってもらおう。そんなことをずっと考えていた。
ごくりと、レモネードが喉元を流れる。
レモネードの味は、それはもう底知れぬ甘さで、酸味なんておまけのようなものだった。胸やけがする。喉と鼻の間がカーっとなった。檸檬の種も入っている。正直、おいしくない。けれど、母に部屋から出て行ってもらうためにはこのレモネードを飲み切らなければ。そう思ったわたしは、ごくごくと急いでマグカップを傾ける。
「ゆっくり飲まないと火傷するわよ」
すると、母はわたしの唇からマグカップを剥がした。
「そんなにおいしかった?」
そして、信じられないことを言う。耳を疑うような言葉に、わたしは口の中のレモネードを吹き出しそうになった。
「うん、おいしい。とっても、おいしい」
けれど子供なりに、一生懸命おいしがっている演技をした。おいしいわけがなかったけど、何度も何度も、おいしい、おいしいと言った。母は「そう」と言い、それから何も言わなくなった。わたしはまたマグカップに口をつけ、必死に残りを飲み進めていく。しばらくそうしてわたしの喉の音しか聞こえなかったけれど、あまりにも静かなので、母が怒っているのではないかと思ったわたしは、母の顔色をチラリと横目で覗き見た。その瞬間、わたしはとても驚いたのだ。
あのときたしかに、母は優しく笑っていたから。
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昔から、母のことが苦手だった。
母のことが好きではない。
母のことが嫌いだ。
けれど、あの夜の、母の微笑みが忘れられなかった。
いつか、母はわたしの話を聞いてくれるようになるのではないか。いつか、もっと会いに来てくれるようになるのではないか。いつか、一緒に街へ出掛けたり、一緒に食事をしたり、普通の親子のように仲良くすることができるようになるのではないか。そうすれば、わたしはきっと母を愛することができるようになる。
あの夜から、そう思えて仕方がなかった。願っていたのかもしれない。
ねえ、お母様。
どうしてハイリスを死刑にしたの?
どうしてメルチェを殺そうとしたの?
わたしは女王になりたいと思ったことなんてない。そんなこと望んでない。わたしはただ、大切な人たちとずっと仲良く、外に出て綺麗な景色を見たり、おいしいものを食べたりして、穏やかに暮らしたかっただけ。お母様はずっとずっと昔から、わたしのことを何もわかっていない。わたしは、わたしは、わたしはただ、お母様に。
また、レモネードを作ってもらえれば、それでよかったのに。




