真実 1
朝が来た。
海底に差し込むたまご色の日差し。冷たい海の中、今日も珊瑚が鮮やかに咲いている。街も魚もすっかり起きてきて、人魚旧街地は早朝から賑わっていた。イルカが部屋の中を覗いてくる。淡い、水色の透明な光が、窓際で眠るメルチェの顔を照らし出した。あたたかくて、まぶしくて、ゆっくりと目を覚ます。
「朝……」
あれから、ソファで眠ってしまったようだった。ベッドで寝なかったからか身体中が痛い。夜更かしをして、眠っていた時間も短かったし、瞼がとても重かった。目を擦りながら、メルチェは大きな伸びをする。
「メルチェ、おはよう」
ソファから起き上がると、もうレビウが起きていた。ふと自分の身体に毛布がかけられていることに気が付く。きっと先に起きたレビウがかけてくれたのだろう。
「お、おはよう、レビウ……」
メルチェはボサボサの髪を整えながら、昨日の夜、二人で話していたときのことを思い出した。そして、なんだか恥ずかしくなった。真剣なまなざしで見つめられたこと、何度も名前を呼ばれたこと、わがままを言って甘えられたこと、全部覚えている。
いつも通りビシッとジャケットを着てリボンを結んだレビウの姿を見て、メルチェは、昨夜この人に甘えられたんだ……と考えてしまった。普段はこんなにかっこいいレビウが、子どものように甘えてくれたことが嬉しかった。思い出して、ついつい口角が緩んでしまう。
「メルチェ、朝の紅茶にミルクいる?」
しかし、レビウはなんてことのない顔だった。頬を押さえているメルチェを見て、いつもと変わらない様子で紅茶の準備をしている。
「……うん、いる」
そんな兎を見て、メルチェはなんだか拍子抜けしてしまった。なんだ、意識しているのは自分だけか。昨日の夜はあんなにくっついてきてくれたのにな。
なんて、残念に思っていると。
「……昨夜は、その。いろいろごめん」
唐突に、レビウが謝ってきた。
「えっ!?」
メルチェはドキッとして声が裏返る。
さっきまで平気な顔をしていたくせに、レビウは視線を下にやってこちらを見ようとしない。なんだか照れ臭そうだ。意識していたのは自分だけじゃなかったのだとわかると、メルチェは急に恥ずかしさが増してきた。「い、いや、そんな、謝ることなんか……」と狼狽えていると、レビウはチラリとメルチェの方を見て、
「だけど、ありがとう。幸せだった」
と言った。
メルチェは目を丸くする。思いがけない言葉にまたドクンと胸が鳴る。
そんなの、私もだよ。そう言いたかったけれど、言えなかった。なぜなら、レビウの笑顔がすごく寂しそうだったからだ。優しい微笑み。なのに、覚悟を決めたような表情だった。
しばらくするとアシッドがむくりと起きて、時計を見てから無言でまた布団を被った。チェックアウトの時間が迫っているので無理やり起こして身支度をさせる。昨日の夜しこたま飲んでいたアシッドは、こめかみを押さえていてしんどそうだった。いつもよりさらに目付きが悪くなっている。レビウの淹れた紅茶をちびちび飲んで、気だるげにマントを装着した。
「忘れ物、ないね?」
ブーツを履いて、胸元のリボンを確認する。結び目に着けられたパールがキラキラと輝いていた。
「大丈夫」
メルチェは持ち物もきちんと確認してレビウの言葉に頷いた。アシッドは話を聞かずにあくびをしている。
三人はホテルの客室を出た。エレベーターで一階まで降りて、フロントに鍵を返す。
これから、ブリランテへ出発する。
旅が終わるんだ。
メルチェはなんだか複雑な気分だった。ずっと目指していたブリランテへ早く行ってみたい気持ちと、もっともっと三人で旅をしていたい気持ちが、どちらともあった。
外に出ると、鼻に抜けるのはホテルの上品なアロマの香りから、天然の潮の香りに変わった。頭上には空のように青く透き通っている海面と、差し込む光の波紋が、網のようにリボンを作って揺らいでいる。
「じゃあ行くか」
砂の道を踏みしめながら、とアシッドが駅の方へ歩き出した。
「そうね……」
メルチェが頷きついて行く。
「あの、ちょっと待っ――」
その後、二人の背中に向かってレビウが声をかけようとした、そのときだった。
「あれ!? 三人とも!」
聞き覚えのある朗らかな声。
レビウが振り返ると、そこには黄色いスーツをバッチリ着こなした三月兎がいた。
「オルエッタ!」
オルエッタだった。
「一昨日ぶり!」と目玉をくるくる回して踊り始めたエンターテイナーに、まわりの人たちが視線をやる。メルチェとアシッドも足を止めて、その変な踊りに吹き出してしまった。
「ちょ、ちょっとオルエッタ! みんなが見てるわ」
笑ってしまいつつも、メルチェは騒ぎになる前にとりあえずオルエッタのダンスを止める。
「三人とも、人魚旧街地に泊まってたの?」
芸を中断されたオルエッタは、ずれたシルクハットを元の位置に戻しながら尋ねた。その質問にメルチェが「そうよ」と返事をしようとした瞬間、アシッドがドヤ顔で前に出る。みんなきょとんとしていたが、そんなことは気にも留めずにマントを払い、仁王立ちをした。
「驚くなよ。俺たちはなあ……」
そしてしばらく間をためて、
「ここに泊まったんだぜ!」
今出てきたばかりの高級ホテルを指さした。
「ええええ~! すご! すごすぎるう~!」
するとオルエッタはアシッドの期待していた何倍ものリアクションをとってくれる。ふふん、と思ったも束の間、また「すごい! すごい!」とはちゃめちゃなダンスを踊り出されるはめになり、再度焦ってその動きを止めることになった。
「ところで、オルエッタはどうしてここにいるんだい?」
ようやく動きが落ち着いてきた頃、レビウがオルエッタに聞いた。
オルエッタはニパッと笑って、「買い出しさー!」と長い手足を広げてみせる。その両手には買い物袋。
「買い出し?」
「そそ! コッツ・ブロワの教会づくりのね。ペンキとかー、貝殻とかー、ピカピカの石とか!」
オルエッタはこれからブリランテにあるエンターテイナーたちの本部へと戻る予定だそうだが、買い出しをするために途中で人魚旧街地へ寄ったらしい。買ったものはこれから水色トラックへ積み込んでおくとのことで、かなりの量を買い込んでいる。
「トラックってどうやって海渡んだ?」
「船に運んでもらうのさ! 今は港に停めてあるよん」
狼の質問に元気に答える三月兎。薄紫の長耳がぴょこんと跳ねた。
メルチェはさっきのコッツ・ブロワという言葉を聞いて、胸がチクリとした。今も半壊した町で過ごす住民たちのことや、死んでしまった兵士のことを思い出して、指先が冷たくなってくる。
「みんな、メルチェが次に来てくれるまでに完成させようと張り切ってるよ!」
けれど、黙って俯いてしまっていたメルチェに、オルエッタはぐるぐるの瞳で笑いかけた。明るい笑顔。メルチェは、オルエッタが自分を励まそうとしてくれているのだとわかった。またコッツ・ブロワへ行ってもいいのだと、言ってもらえた気分だった。
「……ふふ、嬉しい。楽しみだわ!」
メルチェも笑顔で返事をする。その言葉は本心でも、笑顔だけは多少の無理をして作られているものだと、笑顔のプロであるオルエッタは気付いていた。けれど前に進もうとしている。そのことだってちゃんとわかっていた。オルエッタはブイサインを構え、またにっこりと笑う。
「それはそうと、三人はこれからどこへ行くの? 雪山の方? それともカタラクス高原?」
ブイを二つに増やして蟹歩きを始めたオルエッタの問いかけに、レビウが「ブリランテだよ」と首を振る。
「なーんだ、ブリランテかあ!」
思ったよりも近い場所が目的地だったと知り、オルエッタは拍子抜けしたような顔になった。しかしその次には「オイラと一緒じゃーん」と笑顔で一回転する。メルチェはオルエッタを見て、本当にころころと表情が変わる人だなあとこっそり考えていた。
「それじゃあ、レビウは王宮に戻るんだね」
しかし、オルエッタが次に放った言葉を聞いて、思わず固まってしまう。
王宮に戻る?
王宮って、ブリランテの?
レビウの顔を見ると、無表情な顔に口だけが笑っているような、そんな不自然な微笑みをしていた。その後アシッドの方も見上げると、アシッドもメルチェと同じように真顔で固まっている。
「……うん、そう。王宮に行く」
「そっかそっか! じゃあまた遊びに行くよ! ハイリスとディア様にも言っておいて!」
「……」
オルエッタの嬉しそうな言葉に、レビウは何も返さなかった。
それから、オルエッタはまだ買い出しがあるということで、挨拶をした後、ぶんぶんと大きく手を振りながら去っていった。
三人は手を振り返し、オルエッタの後ろ姿が行きかう人の波に消えていくまで見送っていた。けれど、薄紫の耳が見えなくなってからも、しばらく突っ立ったままだった。誰も何も言わない。レビウはまっすぐにオルエッタが走っていった道の向こうを見つめていた。
メルチェはそんなレビウを覗き見て、彼の説明を待っていた。レビウのことを知りたかった。旅が終わるまでに、レビウの話を聞きたかった。
「……レビウ、お前、王宮に住んでたのか?」
そんな中、沈黙を破ったのはアシッドだった。その言葉に、レビウは「そう、だね。数年だけ」と返事をする。
レビウは王宮に住んでいた。
それを聞いて、メルチェは少し驚いた。ブリランテという世界の中心となっている王宮にいたなんて――けれど、レビウの整った身なりやハイリスと知り合いだったことを考えると、あまり不思議な感じもしなかった。
「メルチェ、アシッド」
メルチェがレビウを見つめていると、レビウがはっきりとした口調で二人の名前を呼んだ。そして目線を合わす。
「僕は、人魚旧街地を通ってブリランテへ向かう」
迷いのない赤い瞳。それを聞いたアシッドは、「はあ!?」と声を上げた。
「なんでだよ。わざわざ海底を徒歩移動すんのか? バイト代もあるし、列車で行けばすぐ着くだろ」
「違うんだ」
「何がだよ」
「僕は、王国が経営している交通機関を使えないんだ」
レビウは予想もしていなかった理由を口にした。アシッドは口を開けたまま返す言葉を失う。
メルチェは、だからか、と思った。だから南の港町から列車に乗らなかったんだ。ほとんどが個人経営の馬車とは違い、列車やバス、船などの街を跨ぐ交通網はほとんどブリランテが経営している。だからお金があってもレビウはここまで歩いて旅をしてきたんだ。
「二人に、言っていないことがある。いつでも話せたことなのに、こんな遠くに来るまでにずっと言えなくてごめん。とくにメルチェ。君には……絶対、先に言わなければいけなかったのに」
レビウは朝見たときと同じ、覚悟を決めたような顔をしていた。赤い目がキラキラと波模様を反射する。メルチェも強いまなざしでレビウを見つめ返す。
「今更だけど、話を聞いてほしい。僕の話を聞いたら、二人は列車でブリランテへ行っていいから」
そしてその言葉を聞いて、レビウは、このまま話をしたら消えるつもりだったのだと思った。だから昨日、最後だと言っていたのだと。
「駄目よ!」
それに気が付いたメルチェは、思わず大きな声を出してしまう。
「私はレビウと旅がしたくてここまで来たのよ。あなたと一緒に行く!」
メルチェも、レビウに負けないくらい迷いのない瞳をしていた。メルチェが言いだしたら聞かないということはレビウもアシッドもわかっていた。揺るぎない、強い気持ち。
「レビウが何を知っていようと、何を話そうと、私はあなたのことを嫌いになったりしないわ。だから、だから……大丈夫!」
メルチェはレビウの手を取った。
両手で握った手は、昨日の夜とは違いとても冷たかった。
「だけど、僕は……」
「はあ~」
メルチェの顔から目を逸らして言い淀んだレビウ。それを大きなため息でアシッドが遮った。
「そんなしょぼくれた顔すんじゃねえ。今更別行動なんて水臭いだろうが」
呆れた様子で腕を組む。ニヤリと笑い、「アシッド……」と呟いたレビウに八重歯を見せる。その顔を見て、メルチェも笑顔で「そうよ!」と言った。
「だって、約束したじゃない。ずっとそばにいるって! だから――」
「あら、こんなところにいた」
強く、レビウの手を握り直したときだった。
「……?」
メルチェは首を傾げる。
知らない声。
冷たい声。
見たことのない女の人。
会話を割って入ってきたのは、豪華なドレスを着た女だった。
女は数人の従者に囲まれて三人の前まで歩いてくる。一歩進むたびに大ぶりのイヤリングが揺れていた。口元を派手な扇で隠し、顔の中で唯一見えているエメラルドの瞳を細める。笑っているのだとわかった。けれど鋭い目つきでもある。短い髪の銀色が、頭に乗せられた冠と共に輝いた。
「久しぶりね、レビウ。仕事をほったらかしにして、旅をするのは楽しかった?」
メルチェとアシッドが状況を飲み込めず困惑していると、女は兎の名を呼んだ。すると、握っていたレビウの手が激しく震えはじめる。
「レビウ……?」
メルチェがレビウの方を見ると、その顔はひどく強張っていた。血の気がなく、まるで、コッツ・ブロワの戦争の夜、魔法使いが魔力の小瓶を取り出したときに見せていたような、怯えた表情だった。いや、それとは比べ物にならないくらいに、レビウは取り乱しているように見えた。
「デティ、シラ、様……」
レビウにデティシラと呼ばれた女は、扇を畳んでにっこり笑った。真っ赤な紅を引いた唇が弧を描く。
「あれからねえ、あなたがさっさと仕事をこなさないから大変だったのよ」
デティシラはゆっくりとレビウの方ににじり寄ってきた。メルチェは震え続けるレビウの手をぎゅっと握る。けれど、レビウの手はどれだけあたためても冷たくなっていく一方で、安心させることはできなかった。
チラリと、デティシラがメルチェの方を見る。
バチっと目が合って、その瞬間、メルチェは蛇に睨まれたような気分になった。鼓動が脈打ち、身体が動かない。デティシラがまた不敵に笑う。
するとそのとき、レビウがメルチェの手を強く握り返した。そして、メルチェを庇うように前へ出る。レビウの身体はまだ震え、強張ったままだったが、赤い瞳はデティシラを睨んでいた。その目を見て、デティシラは「ふーん」と冷たくつぶやく。
「随分と反抗的な態度……まるで、わたしへの恩を忘れてるみたい」
彼女は長い指先でレビウの頬に触ろうとする。レースの手袋から尖った爪が透けていた。
「や、やめなさいよ!」
レビウが動けなくなってしまっていると、今度はメルチェがレビウを庇うように引っ張った。金色の瞳で精一杯デティシラを睨み、なんとか対抗する。その後ろで狼も気を張り詰めさせていた。どこからどう見ても怪しい女。何かあったときにいつでも二人を守れるよう、威嚇するように牙を覗かせる。
「……あなた、メルチェよね?」
すると、デティシラは仮面のような笑顔を貼りつけてメルチェに話しかけてきた。メルチェは自分の名前を知られていたことにドキッとする。
「そうだけど……」
警戒しながら返事をすると、デティシラは胸元に片手を置いて自己紹介をした。
「突然のことで驚かせてしまってごめんなさいね。わたしはデティシラ。ブリランテ王国の妃で、ディアの母よ」
そしてさらに口角を上げる。
「ディアの……?」
メルチェはというと、ディアの母親だという言葉にびっくりして、思わず固まってしまった。
だって、誰もそんなこと思わない。思うはずがない。たしかに髪の色や瞳の色は同じだが、ただそれだけで、二人はまったくと言っていいほど似ていなかった。表情の感じも、放つ空気感も、ディアとは全然違う。ディアはもっと柔らかくて、儚げで、穏やかな雰囲気を持った人だ。こんなに鋭くて圧の強い雰囲気じゃ――
「……おい」
メルチェがそんなことを考えていると、後ろにいたアシッドが、デティシラに気付かれないよう小さい声で話しかけてきた。
「アイツら、銃持ってるぞ」
思いがけない言葉にメルチェは「えっ」と声を上げる。
見ると、たしかに従者の一人が拳銃を持っているのがチラリと見えた。銃は国を治める王族や貴族のみ所持が許されているもので、メルチェは生まれて初めて実物を見た。
「メルチェは、たしかディアとお友達なのよね?」
三人が無意識に後ずさる中、デティシラは会話を続けながらじりじりと距離を詰めてくる。その顔はずっと満面の笑みのままなのに、なんだか偽物のようで怖かった。
「お友達なら、ディアのことが大切でしょう? ディアに幸せになってほしいでしょう?」
そう言って、どんどんメルチェに迫ってくる。
「そ、それは、そうだけど……」
メルチェはだんだん足が動かなくなってくる。
「……メルチェ、話さなくていい」
レビウが消え入るような声で言った。けれど、メルチェはデティシラの鋭い目から視線を逸らすことができない。
「あなたはディアのことが大切で、ディアの幸せを願ってる」
「え、ええ……」
「そうよねえ。そうなのねえ。それなら、話が早くて助かるわ」
「何が……」
デティシラが何を言いたいのかさっぱりわからず、メルチェが疑問を口にしかけたときだった。
「あなた、死んでもらってもいいかしら?」
「やめろ!」
レビウが思い切り叫ぶ。
それと同時に、デティシラの隣に立っていた従者が銃を上げた。
「メルチェ!」
銃口を向けられたメルチェの身体をアシッドが咄嗟に引っ張って、ぐらついた視界の端でレビウが従者に跳びついているのを見た。
白い砂の道に倒れたメルチェとアシッド。すぐに二人が顔を上げると、レビウがステッキを振るっていた。相手の従者は銃を取られないようになんとか攻撃を避けていたが、兎の手ぶりは素早く、空気を斬りながら回るステッキの先端が、従者の手から拳銃を叩き落とすのには、それほど時間はかからなかった。従者たちは落ちた銃を拾おうと必死に手を伸ばす。けれど、一番早かったのはレビウ。地面に転がりながら銃を拾い、黒いジャケットに白砂がたくさんかかった。
従者が剣を抜いてレビウの首元に刃先を向ける。
すると、レビウはデティシラに銃口を向けた。
「おい、なんの騒ぎだ?」
「ショーでもやってるの?」
いつも賑やかで煌びやか、そして優雅でもある人魚旧街地。そんな場所に似つかわしくない不穏な騒ぎに、道行人たちはなんだなんだと集まってくる。みんな、王族の女に銃口を向ける少年を見て、何かのイベントだと思っているらしい。それもそのはず。まさかここにいるのが本物のブリランテの妃で、少年の持っているものが本物の銃だなんて、誰も思いはしないだろう。
「……ちょ、ちょっと」
緊迫した空気の中、先程からずっと困惑したままのメルチェが口を開いた。
「一体、あなたは……何が目的なの?」
その言葉を聞いて、銃口を向けられたままのデティシラは吹き出した。馬鹿にするように笑い、その後レビウの顔を見て、嘲るかのようにまた鼻で笑う。
「……はーあ。ふふふ。ああ可笑しい。レビウったら、本当に何も説明してないみたいね」
メルチェとアシッドは何の話か意味を理解できないでいる。二人はいまだ地面に尻餅をついたまま。
レビウは、デティシラを睨みつけたまま唇を噛んでブルブルと震えていた。
「こんなに時間があったのに、何をやっていたの? ほんとに仕事ができない子。やっぱり育ちが悪いからかしら」
デティシラはレビウを罵倒する。
レビウは悪い顔色を変えることなく、相変わらず身体を震わせたままだった。けれど何も言い返したりはしない。従者が構え続けている剣先が、白い首筋にぴたっとくっついていた。レビウも銃を下ろさない。
すると、スカートの砂をパッパッと払いながら、メルチェが立ち上がった。
「さっきから、あなたは何なの? お妃様か何か知らないけど、どうしてレビウのことを悪くいうの? 私に用があるなら話を聞くから、乱暴なことはしないで!」
威勢よく前に出たその姿に、アシッドはぎょっとする。
「お、お前、銃が一挺とは限らないんだぞ!」
それでもメルチェは怯まない。強いまなざしでデティシラを見つめ、彼女の返事を待つ。
レビウが泣きそうな顔でメルチェを見上げたとき、デティシラが小さな声を出して笑ってみせた。閉じた扇で口元を押さえ、可笑しそうにメルチェの目を見つめ返す。
「……そうね。それじゃあレビウの代わりにわたしが説明してあげる。レビウはわたしの従者だったのよ。ブリランテの王宮で働いていたの」
デティシラはにこりと笑い、扇の先でレビウを指した。
メルチェとアシッドは先程レビウに聞いた話を思い出す。王宮に数年住んでいたというのは、そういうことだったのか。レビウはブリランテ王国の妃であるデティシラに仕えていたのだ。
「それで、五年前の列車事故。あなたは覚えているかしら?」
二人が納得していると、デティシラが唐突に別の話題を出し始める。
メルチェは自分の身に覚えのある話題を出されたことに多少びっくりしつつ、けれどゆっくりと頷く。
「それ、私が乗ってた……」
「そうそう。さすがに覚えてるわよね」
デティシラは満足げに微笑みを見せた。
五年前の列車事故。
それは、メルチェが幼い頃に巻き込まれた事故だ。両親と乗っていた列車が、山間部の土砂崩れに飲み込まれ、車両が半分埋まってしまった。その事故で両親は死に、メルチェは南の港町の家に引き取られることになったのだ。
「それが、何か……」
メルチェの心臓がドクドクと鳴っていた。
なんだか嫌な予感がして、鳥肌が立った。
アシッドも怪訝な表情をして黙っている。
騒ぎで集まってきた人たちが、コソコソと話をしながらメルチェたちを囲んでいた。けれど、そんな話し声も、頭上の海の波の音も、メルチェには聞こえなかった。自分の鼓動と、呼吸の音と、デティシラの声しか聞こえない。一瞬だけ、レビウの喉がヒュッと鳴ったのは耳に入った。
「あなた、あの事故で人生がめちゃくちゃになっちゃったのよね」
そんなメルチェに、デティシラは語り続ける。エメラルドの瞳がギラギラと光っていた。メルチェはやっぱりこの瞳から目を逸らせない。
「あの列車事故を起こしたの、誰だと思う?」
そんなことわからない。
わからないけど、ずっとずっと嫌な予感がしていた。
「ねえ、レビウ」
ドクンと、跳ねた、鼓動が、
「どんな気持ちでこの子のそばにいたの?」
その瞬間止まった。
「メルチェ。あなたの親を殺したのはレビウなのよ」
時が止まる。
思考が止まる。
この世界の、何もかもが止まる。
「……」
メルチェは言葉を失った。
何も言えなかった。
ゆっくりとレビウの方を見ると、しなだれた黒い長耳が、死んだように垂れ下がっていた。銃を構えたまま俯き、目を大きく開いて瞬き一つしない。その横顔にはだらだらと大量の汗をかいていた。
「ディアを幸せにするために、あなたにもあなたの母親にも死んでもらう必要があったから、レビウに協力してもらったの。それから生き残ったあなたを始末するためにあの魔法使いを雇ったのもわたし。そのことだって、レビウも知っていたはずよ」
デティシラがつらつらと言葉を並べるが、すべての言葉に理解が追い付かなかった。アシッドが「メルチェ……」と顔を覗き込んだが、メルチェはレビウを見つめるだけ。
レビウがあの列車事故を起こした?
どういうこと?
私の両親を殺すために?
レビウが?
魔法使いの目的も知っていた?
ずっと前から?
「ねえレビウ。さっきからずっと黙ってるけど、なんとか言ったらどうなの?」
メルチェも、レビウも、アシッドも黙り込んでしまった沈黙の中で、デティシラがため息交じりに言った。それでも、誰も何も言わなかった。
「……まあいいわ」
デティシラは仕方なさそうにつぶやく。
「ほら、早くこの娘を殺しなさい。そうすれば、今までのことは許してあげる」
レビウの手がカタカタと震えていた。銃口はずっとデティシラに向けられたままで、けれどその焦点は定まらない。震えのせいでゆらゆらと揺れていた。膝をついた足元の砂に、汗の雫が何滴も染みこんていく。
「早く。銃口をあっちに向けなさい」
レビウの呼吸が乱れてくる。はあ、はあ、と、肩で息をしている。
「まだわたしを殺す気があるの? そんなの、あなたにはできないわよ」
レビウはだんだん過呼吸になっていき、彼もまた、すべての音が聞こえていないようだった。デティシラはいつまで経ってもそんな様子のレビウの前まで歩いていき、垂れた頭を見下ろした。そして顔を近づけ、その長い耳元で、
「レビウは、わたしを殺せない」
と、ささやいた。
すると、レビウが絶望したような、すべてを諦めたような表情で、ついに顔を上げた。
「……」
呼吸の乱れが収まった。
レビウはデティシラを見つめた後、しばらくして、次はメルチェとアシッドの方に顔を向ける。
「……メルチェ」
そしてメルチェの名前を呼んだ。
「ごめん……ごめんなさい……さっきの話は、本当、で……」
かすれた声。乾いた唇。メルチェはそれを聞いてどうすればいいのか、何を言えばいいのか、自分がどう思っているのか、何もわからないままレビウを見ていた。
「それでも……それでも君は……僕を、救ってくれた人だった……メルチェに貰った思い出も、リボンも、この気持ちも、全部が僕の……宝物だったんだ……なのに本当に……ごめんなさい…………」
襟元のリボンが、いつも以上に真っ赤に見えた。固く結ばれたそれが、解けることはないだろう。
「……レ、レビウ」
メルチェは何も言えないのに何かを言おうとした。
「アシッド」
けれど、すぐにレビウがそれを遮る。
「君にも……たくさん世話になったね。君は本当にいいやつだ。どうか、メルチェのことを……よろしくね」
「レビ――――」
アシッドがレビウの名前を呼ぼうとしたその瞬間だった。
――パアン!
甲高く、銃声が鳴り響く。
わあっと人々の叫び声が広がった。
どの部分を撃ったのかはわからないが、レビウはデティシラの身体に弾丸を命中させたようだった。デティシラが倒れ、そのまわりを数人の従者たちが急いで囲み始める。周辺には血痕が滴っていた。
「この反逆者がー!」
従者の多数がデティシラに駆け寄る中、他の数人がレビウを取り押さえに向かっていった。人に埋もれていく兎の姿を見て、「レビウ! レビウ!」とメルチェが叫ぶ。レビウを救出しようとアシッドがその中に飛び込もうとしたとき、人混みの隙間からレビウの姿が見えた。
「レビウ!」
メルチェが手を伸ばす。アシッドがたくさんの人を掻き分ける。そのとき、レビウが二人の顔を見てにこっと微笑んだ。唇が動く。何を言っているのか、喧騒で声は聞こえなかった。けれど二人にはわかった。
”さよなら”
そして、持っていたままだった銃の口を自身のこめかみに当てる。
「レビ」
――パアン!
二度目の銃声が鳴り響いた。
「レビ……ウ?」
メルチェとアシッドの足が止まる。
「……嘘でしょ。嘘よね。ねえ、レビウ、レビウ!」
さっきまで何かのショーだと思って集まっていたギャラリーは悲鳴を上げて散り散りになっていく。その波に押され、メルチェとアシッドはどんどんレビウから遠ざかって行ってしまう。そうこうしている間に、レビウもデティシラも従者たちに群がられ、脇に停めてあった馬車へと素早く運ばれていってしまった。馬車は颯爽と砂の道を走っていき、メルチェとアシッドが追いかけようとしても無駄だった。一部の人が警備を呼んできた。しかしそのころにはもう、砂に染みこんだ血痕が生々しく残っているだけだった。
「そ、そん、な」
メルチェはガクリと膝を落とす。
レビウが自分のこめかみの横で引き金を引いた。
どうして? どうして? 死のうとした? さよならって言った? どうして? どうして……
「……おい、顔上げろ」
メルチェが青い顔をして腰を落としたままでいると、アシッドが言った。レビウを乗せた馬車の走って行った方向を見つめたまま、「大丈夫だ」と言った。
「大丈夫だ。大丈夫なはずだ」
その瞳はこの海底よりも深い青をしている。
「な、何が……」
「アイツが、引き金を引くギリギリのところで人に押されてこめかみを外しているのを見た。だから、死んでない。レビウは死んでない」
メルチェはアシッドの目を見て泣きそうになった。アシッドの瞳はまっすぐだったけれど、強く握りしめた両手の拳が震えていた。二人は少しの間立ち尽くしていたが、途中、警備の人が現場を調べるためここをどけるよう言ってきたので、そばの広場のベンチでしばらく座っていた。




