可惜夜
「はあ~、食った食った!」
ワゴンに食器を乗せて部屋の外に出した後、アシッドはどっかりとベッドに飛び込んだ。
「ほんと、全部おいしくて大満足ね」
メルチェも窓際のソファにとろけるように座っている。
外はもう暗くなっていた。海底は深く、星影はここまで届かない。時々アンコウが提灯を光らせているだけで、ちらほらと点いていた街の灯りも、徐々に少なくなっていた。
三人は順番にお風呂に入り、部屋でまったりとしていた。部屋に置かれていたお菓子を食べたり、レコードをかけたりする。次第に夜は更けていき、なんとなく寝る前の雰囲気になってきた。メルチェが「そろそろ寝る?」と聞いた。寝たら、明日が来る。明日が来れば、もうブリランテへ向かうだけだ。アシッドが「おー」と言い、二人ともベッドに入りかけたときだった。
「……あの、さ!」
レビウが突然声を上げた。
メルチェとアシッドは何事かと動きを止める。
「もう少し、起きてない?」
その言葉に思わず驚いてしまった。
いつもは二人に「もう寝るよ」と言う側のレビウが、今日は夜更かしをしたがったからだ。アシッドはきょとんとしたまま「お、おー」とまた返事をした。メルチェはこの夜がまだ続くことがなんだか嬉しくなって、「起きてる!」と大声を出した。レビウはほっとした表情になる。
「なんだよレビウ、珍しいじゃねえか。旅が終わるのが寂しくなっちまったか」
ニヤニヤしながらアシッドがレビウの長い耳を掴んだ。レビウはいつも通りその手を払いのけながら苦笑して、けれどその後で、「そうかもね」と言った。アシッドは三白眼をまんまるにして、わしゃわしゃと赤茶の髪を撫でる。
「そうと決まれば、何して過ごす?」
メルチェはベッドから降りてきて、レビウの顔を覗き込んだ。
レビウはうーんと指を顎に当てて考えた後、クローゼットの戸棚を探り始める。ボードゲームに、トランプ、おさかな危機一髪……遊びに使えそうなものが用意されているが、どれをしようか迷ってしまう。
「全部しましょう!」
すると、メルチェがボードゲームもトランプもおさかな危機一髪も全部引っ張り出してベッドの上に置いた。
「よっしゃ、いいぜ。負けたやつはコイツを一杯ずつ飲んでいくっつーことで!」
アシッドが先程ルームサービスで頼んだ強い酒の瓶を振る。
若くから飲酒のできる国であっても、まだ酒を飲んだことのないメルチェは狼の言い出したルールにぎょっとしてしまう。そんな嫌そうな顔を見て、レビウは「メルチェが負けたら僕が飲むよ」と笑った。
「おっと? ずいぶん余裕じゃねえか」
「僕はボードゲームもトランプもおさかな危機一髪も強いからね」
「言ったな! 見てろよ」
まず初めに始まったのはトランプだ。
シンプルにババ抜きで勝負することになったが、メルチェはババ抜きが苦手だった。配られたカードの中からいくつかペアを抜き出して、両手で広げる。何周か順番にカードの引き合いをしていく中でも、メルチェはなかなか新たなペアを作り出すことができない。
「はい。次、メルチェの番だよ」
カード越しに見えるレビウの顔。かっこよくて、表情を読むどころではなかった。並べられたカードのどれをとろうとしても、微笑んだままの兎の赤目はまったく色を変えない。メルチェは結局どうしてもわからなくて、毎回端にあるカードを選んでしまっていた。
「えいっ!」
それでもなんとか、ババは回避できている。
「はあ~。全然枚数が減らないわ」
けれどペアにはならず。ぼやくメルチェは手札をシャッフルした。
次の順番はアシッド。扇のように広げられたメルチェのカードを、ニヤニヤしながら一枚ずつ選ぶふりをする。その度に表情を伺ってくるので、メルチェの顔の筋肉は無意識に引きつってしまった。
「これかあ?」
「……」
「いや、それともこっちか」
「……」
「違うな。これだ!」
「……!」
「やったぜ! そーろいっ」
睨み合いに負け、メルチェは「なんでよー!」とじたばたする。
「じゃあ次は僕だね」
順番が回ってきたレビウは、にんまりと口角を上げているアシッドの手札を眺めた。端からゆっくり指先を動かしていくが、鋭い八重歯が覗いたままのその表情は変わらない。心理戦だ。あてずっぽうで引くしかないかと思われたが、レビウは自信ありげにカードを引いた。
「あがり!」
一抜けはレビウ。
「なんっでだよ!」と先程のメルチェのように悔しがるアシッドに、「アシッドならこのカードをその位置に持ってくると思った」と嬉しそうに笑った。
メルチェは自分が負ければレビウが酒を飲まなければならないというプレッシャーを感じながらも闘志に燃えていた。負けられない。レビウは一番に上がったのに、自分が負けてはいけない!
その気合いあってか、メルチェはアシッドがカードを選んでいる間に目を瞑る作戦で、なんとかこの試合を勝つことができた。ババはずっとアシッドが持っていたらしく、「お前、それずりいだろ!」と手札を撒き散らして騒いでいた。
「はいはい、じゃあ飲みますよっと」
異議を申し立てつつも、アシッドはグラスになみなみ酒を注いで一気に飲み干す。罰ゲームのはずが、アシッドはおいしい酒が飲めて嬉しそうだった。
それから何回戦かして、メルチェが負けたりまたアシッドが負けたりした。メルチェはレビウに酒を飲ませてしまうことに罪悪感を持ちつつも、何杯飲んでもケロッとしている酒豪っぷりを見て少しかっこいいなと思ってしまう。
「そろそろトランプ飽きちまったぜ」
「次のゲームする?」
「ボードゲームにしましょう!」
トランプを片付け、次に開始されたのはボードゲームだ。
深海がモチーフの、この宿にはぴったりのゲームで、ルールは簡単。水色のチップを並べて道をつくったら、すごろくのようにサイコロでコマを進め、止まった場所のチップを拾うか拾わないか選ぶ。制限されたサイコロの数のうちに、初めのマスに戻ってこれればゴールだ。チップの枚数で勝ち負けが決まる。
「これオルエッタが持ってたやつかも」
「やったことあるの?」
「ううん、見たことあるだけ」
「俺、青のコマ~」
アシッドが先にコマを選ぶと、メルチェはピンク、レビウは赤のコマを選んだ。三人でチップを並べ、順番にサイコロを振っていく。
最初はみんなルールを確認するように手探りでゲームを進めていたが、流れがわかってくると白熱し始めた。メルチェはラッキーなことにサイコロの出目がよく、その上珍しくちゃんと考えながらコマを進めていたため、ババ抜きほど苦戦しなくて済んだ。
「やったやった! 勝ったわ! 一番!」
そして手に入れた初めての一番に、手を叩いで大喜びをした。
「お前、メルチェに手加減すんなよ」
「してないよ」
今宵何杯目――何敗目――かの酒を一気飲みしたアシッドは、不服そうにレビウの身体を揺さぶる。その様子を見ていると、さすがに少し酔ってきてしまっているようだ。
「よっしゃー! もう一戦すんぞー!」
気合十分。気持ちよくなっているアシッドはご機嫌でまたチップを並べる。
「次も私が勝っちゃうわよ!」
「何言ってんだ、まぐれのくせに!」
「アシッドは欲張ってコマを進めすぎなんだ。ちゃんと帰ってこれるように計算しないと!」
三人はボードゲームもまた何戦かして、メルチェが負けたりアシッドが負けたり今回はレビウが負けたりもした。
夜は深く、深く、深海のように色濃くなっていく。時計の針は十二時を跨ぎ、日付上ではもう明日が今日になっていた。けれど、メルチェたちは気が付かない。まだまだ夜は終わらない。朝日が海面に差し込むまで、今日はずっと終わらないままだ。
「おい~、もういいって!」
「あはは! アシッドの出目だけなんでこんなに悪いんだよ!」
もう何杯も飲み続けているアシッドは出来上がっている。ついさっきは、勝ったのが嬉しくてなぜか逆立ちをしていた。それに、レビウもかなり笑い上戸になっている。こんなにはしゃいでいるレビウを見るのは初めてだった。酒を飲んでいないメルチェもすごく楽しくて、二人と一緒に大笑いしながら何度もゲームをした。
「もう、アシッド! 次はおさかな危機一髪するんじゃないの?」
しばらくして、べろべろに酔っぱらってしまったアシッドが半分寝ている状態になってしまった。
まだまだ遊びたいメルチェが三角の耳を引っ張ったりふさふさの尻尾を振り回したりしてみたけれど、もう限界らしい。身体をぐわんぐわん前後させて、意識がない。
「アシッド~!」
メルチェが叫ぶと、「もう食えねえ……」と早めの寝言を言ったのを最後に、アシッドは完全なる夢の世界へと落ちていってしまった。
「はあ……仕方ないわね」
メルチェは、掛布団の上でいびきをかき始めた大きな身体を一生懸命動かして、きちんと寝る体勢に整えてあげる。風邪をひかないように布団をかけて、毛布もついでに被せておいた。
「これでよしっと」
ひと汗かいたメルチェが、アシッドが寝始めたあたりでぼーっとし始めてしまったレビウに「私たちもそろそろ……」と言いかけたときだった。
中断したボードゲームも、結局できなかったおさかな危機一髪も出しっぱなしのまま、レビウが千鳥足でこちらへやってくる。
どうしたのかと思ったら、赤い顔をしながら、メルチェにぴったりとくっついてきた。
「!?」
ふいうちの出来事に、メルチェの心臓が高鳴る。
「レ、レビウ? どうしたの?」
ドキドキしたままそう尋ねると、メルチェの肩に顎を置いたレビウがこちらを見てきた。
「メルチェももう寝ちゃうの?」
その顔は、まるで母親に甘える子どものようだった。メルチェが「レビウももう寝るでしょ?」とたじろぎながら聞くと、「やだ」と首を振る。
「まだ寝たくない。メルチェもまだ寝ないで」
それはやっぱり、子どものようなわがままだった。
こんなふうに、レビウが甘えたりわがままを言ったりするなんて。自分がゲームに負けまくったせいでレビウが酔っ払ってしまっているのだということはわかっていた。いくら酒に強くても、結局アシッドと二人で大瓶を三本程空けていたし、そもそもアルコールの度数も高かったし。
メルチェはいろいろなことをぐるぐると考えながら、レビウの甘えた顔を直視できないでいた。いつもと違う姿に戸惑ってしまう。けれど呼吸と鼓動を落ち着けて、「じゃあ、少しだけお話する?」とレビウに笑いかけた。
「する!」
レビウは嬉しそうに笑顔を咲かせて頷いた。
二人は窓際のソファに座り、真っ暗な夜の海中を眺めていた。
あの舞踏会の前日、コッツの山で見た青い池の光のように、眩しい灯りが現れる。海月やイカだ。透けた身体の筋を光らせ泳ぐ姿は、深海を照らすイルミネーションのように思えた。時々、夜更かしな人魚たちがランタンを持って散歩している。夜行性の大きな鮫がその隣を横切っても、まったく怖がる素振りを見せなかった。仲が良いのだろうか。通り過ぎ様に身体を撫でてあげていた。
「ほんとに素敵なところね」
メルチェは窓の外を眺めたまま、レビウに話しかける。
「そうだね……」
レビウはメルチェの横顔を見ていた。
電気を消した部屋の中、アルコールが回ってぼんやりとしてしまった意識の中で、外の灯りを映したメルチェの瞳が、いつもよりもピカピカして見える。そんなふうにぼーっとしていると、メルチェがレビウの視線に気付き、目を合わせて笑いかけてくれた。
「まるで御伽噺の中に出てくる街みたい」
可愛い笑顔。
レビウは思わずそう言葉にしてしまいそうになって、けれど上手く口が回らなかった。ふう、と一度息を吐くと、メルチェの言った御伽噺というワードでとある話を思い出す。
「そ、そういえばこのあたりって、なんか昔話があった気がする」
レビウがそう言うと、メルチェは「昔話?」と首を傾げる。
「うん、なんだっけ……前に本で読んだんだけど……」
霞む思考回路の中、自分の記憶を呼び覚ます。御伽噺、海、人魚……
「あ、思い出した!」
「ちょ、ちょっと待って!」
レビウがハッとして声を上げると、それよりも大きな声でメルチェが話を遮った。
「それって怖い話……?」
どうやら怪談話かどうかを心配しているようだ。昔話といえば、たしかに少しホラーチックな言い伝えが多いイメージがある。
レビウはふふっと微笑み、「怖くないよ。楽しい話でもないけど」と言った。そんな前置きの後で、この海に伝わる昔話を語り出す。
「昔ね、この海で暮らしていた人魚が地上の王子に恋をしてしまったんだ。魔女の魔法で自分の声と引き換えに足を手に入れて会いに行くんだけど、王子は別の人と結婚してしまうんだ」
「えっ! 自分の声を犠牲にしてまで会いに行ったのに?」
「ね、悲しいよね」
この海に伝わる話とは、人魚の恋物語のようだった。けれど、失恋の話。
メルチェはもし自分が海に住んでいて、レビウが地上にいたらどうするだろうかと考えた。たしかに、どんなことをしてでも会いに行きたいと思ってしまうかもしれない。
すっかり感情移入していると、レビウが続きを話し出す。
「それで、夜には婚約パーティーがあったんだけど、人魚は痛む足でダンスを踊ってみんなを楽しませたりもして」
「すごい。自分がつらいのに、王子の幸せをお祝いしたのね」
「そう。だけど、魔女とかわした”恋が叶わなければ泡になってしまう”という約束があった。たしか王子を殺せば自分は人魚に戻れて助かったはずなんだけど、人魚はその選択をしなかったんだ。だから、次の日には本当に泡になって消えてしまったっていうお話」
海中の泡がしゅわしゅわと弾ける。それを見ていると、なんだかしょんぼりとした気分になった。
「自分の大切なものを犠牲にして、だけど願いは叶わなくて、消えちゃったのね……」
メルチェは、もしこの海の中で、まだその人魚の泡が彷徨ってしまっていたらどうしようと思った。そんなメルチェの様子を見て、気分を下げてしまったかな、とレビウは申し訳なくなりつつも、自分の考えをぼそりとつぶやく。
「だけどそのくらい、その人のことを思っていたんだ……」
その言葉に、メルチェは顔を上げた。
レビウは、なんだか自分と人魚を重ね合わせてしまっていた。人魚には、自分の何を犠牲にしてでも、会いに行きたい人がいた。たとえ自分が泡になって消えようと、王子の幸せを願っていた。
「傍から見れば悲恋でしかないかもしれないけど、人魚にとっては、きっと王子との出会いは宝物だったんだと思う。その気持ち、僕にはわかる」
レビウがメルチェの顔を見つめる。
メルチェもレビウの顔を見つめる。
赤い瞳が炎のように燃えていた。ゆらゆらと滲んだきらめきが睫毛にかかって影を生み出す。まっすぐな目。火照った頬が赤くなっている。けれど、真剣な顔だった。メルチェはレビウから目が離せない。レビウもメルチェから目を離さない。すごく、静かだ。自分の心臓の音だけが、ドクドクと鳴っていた。
「メルチェ」
見つめられたまま、名前を呼ばれる。
「僕は、君のことが」
レビウが何かを言いかけた、そのときだった。
――コンコンコン!
誰かが部屋の扉をノックした。
「!」
思いもよらないタイミングで話は中断される。二人は勢いよく扉の方を見た。メルチェが「は、はーい!」と急いで様子を見に行くと、そこにはホテルマンが。
「ルームサービスをお持ちいたしました」
「ル、ルームサービス? 何か頼んだかしら……」
「あれ? あっ、申し訳ございません! お隣のお部屋でございました。失礼いたしました」
どうやら部屋の間違いだったらしい。ガチャリと扉を閉めた後、「部屋の間違いだったわ」とメルチェはまた窓際のソファに戻る。
「そ、そうだったんだ」
レビウはそう返事をしたきり、何も言わなくなってしまった。
また二人で窓の外を眺める。
先程散歩に出掛けていた人魚が戻ってきた。手元の灯りが点滅している。よく見ると、持っているのはランタンではなく、チョウチンアンコウだった。窓にくっついたヒトデがゆっくりと動いている。夜はまだまだ明けそうにもなかった。
――それにしても。
さっきのレビウの雰囲気、なんだったんだろう。
人魚の話の流れで、何かを言おうとしていた。なんだかいつもと違う感じで、思わず緊張してしまった。まだ心臓が高鳴っている。レビウは、何を言おうとしたんだろう。
メルチェは黙ったままのレビウの顔をチラリと見た。レビウは窓の外を眺めている。
「……レビウ」
勇気を出して呼びかけた。
「お話の続き。何か言いかけてなかった?」
言葉の先が気になって、思い切って聞いてみた。けれど。
「い、いや、なんでもないよ、大丈夫。もう忘れちゃった」
レビウは本当に忘れてしまったのか、それともはぐらかしているのか、話の続きをしようとはしなかった。メルチェは少し残念になって、「そっか」とだけ言った。
「……」
僕はさっき、何を言おうとしていたんだ。
あくびをするメルチェの隣、レビウは必死に心を落ち着かせていた。
さっきは危なかった。本当に危なかった。つい感情が高ぶってしまって、自分の気持ちを言ってしまうところだった。そもそも、まだ大切なことを何も話していないのに、自分のことばっかり考えて。お酒のせいで変なテンションになってしまっていた。本当に気を付けないと、酔った勢いで気持ちを伝えてしまうなんて最悪だ。いくら今夜が最後になるからって――
酔いが完全に醒めてしまったレビウは、チェイサーとして置いてあったグラスの水をごくごくと飲み干した。急にそんな行動をとったレビウに、メルチェはびっくりして「大丈夫?」と尋ねる。レビウが「大丈夫」と口元を拭くと、グラスに残った小さい泡が潰れて消えてなくなった。
「……」
それを見ていたメルチェは、隣にボスッと座り直したレビウに、数センチだけ近寄ってみせる。
「だけどやっぱり、消えちゃうなんて悲しいわ」
そして、人魚の話の感想の続きらしいことを言った。
「え?」
「だから、泡になって消えちゃうっていうの」
きょとんとするレビウに、メルチェはにこりと笑いかける。
「レビウは消えちゃったりしないでね」
そう言うと手を握った。レビウは驚いて何も言えなくなる。
「私、レビウがいたからこうしていられるのよ。旅についていくことを許してくれて、いつも私を守ってくれて。……コッツ・ブロワでのことだってそう」
チクタクと、時計の針が時間を進ませていた。深夜、ついに海の生き物たちも眠りについて、窓の外は本当に真っ暗だった。人魚も家に帰った頃だ。今日が本当に終わろうとしていた。アシッドが寝返りを打つ。シーツの擦れる音がして、毛布が一枚床に落ちた。
「あの祝賀会の日からずっとね、こんなふうに笑ってていいわけない、楽しい気持ちになるべきじゃない、幸せになったりする資格ないって、そう思ってしまってたの」
メルチェはレビウの手を握ったまま、そして微笑んだまま、レビウの瞳を見つめている。優しくて、やわらかなまなざし。
レビウは「そんなこと……」とメルチェの言葉を否定しようとして、けれどその表情は落ち着いたものであることに気が付いて、途中で口を閉じた。
「町が燃やされて、みんなが死んでしまって、すごく悲しかった。悲しかったけど、それは自分のせいだし、自分なんかが悲しんじゃ駄目だと思った。だけどレビウが言ってくれたでしょ。覚えてる?」
握られた手があたたかい。レビウは少し考えた後、「……悲しんでいいって?」と自分が言ったセリフを思い出す。
「そう。同じように悲しんでいいんだよって。それから」
「僕がいる、だよね」
「そう! 僕がいるって言ってくれたの」
さっきまで優しく微笑んでいたメルチェは、次はとびきり明るく笑った。その顔を見て、レビウは胸がぎゅっとなる。
「すごく、すごく嬉しかった。初めに言われたときはまだぼんやりとしてたんだけど、夜に抱きしめてくれたとき、ああ、レビウはここにいてくれてるんだなって思えたの。それで、私もここにいるって。だから、自分を責めてばかりじゃなくて町のために何かしなきゃって」
薄暗い部屋の中で、金色の瞳が光を帯びる。
「レビウがいてくれると、私は強くなれるの」
それは海面を貫いた強い月の光だった。美しい波模様が窓際でゆらめいている。泡がいくつも沸き上がり、上へ上へと浮かんでいった。
「だから、レビウは消えちゃったりしないでね。ここにいてね。私もずっとここに、レビウのそばにいるから」
にこっと笑ったメルチェ。レビウはなんだか泣きそうになってしまった。
ここにいてね。
その言葉は、レビウがずっと覚悟してきた決断を一瞬で持っていってしまう言葉だった。今日は、最後の夜のはずだった。なのに、どうして、メルチェはこんな簡単に僕のすべてを攫っていくのだろう。
「でも、ずるいわよね」
レビウが何も答えられずにいると、メルチェがぼそっとつぶやいた。
「今でもコッツ・ブロワのみんなは苦しんでるのに、私はこうやってレビウに支えられて……」
負い目を感じて、少し落ち込みかけてしまっている様子のメルチェ。それを聞いたレビウは、思わず大声を出した。
「そんなことない!」
咄嗟に出たセリフだった。驚くメルチェに、レビウは続ける。
「メルチェはずるくない。戦争だってメルチェのせいじゃないよ」
勢いよく話し出したレビウに対し、メルチェは「あ、ありがとうレビウ」と戸惑い気味で返事をする。
「そもそも!」
しかしそれでも収まらず、レビウは握られていた手を強く握り返した。
「メルチェがずるくてもずるくなくても……違うけど、ほんとに違うけど、たとえ、コッツ・ブロワの戦争がメルチェのせいだったとしてもだ。メルチェはメルチェで、僕の大切な人に変わりはない!」
レビウは強い口調で言い切った。ぱちくりとしているメルチェは、握られた手が痛くなる。
「僕はメルチェが大切だ。メルチェがどんな人でも、これからどんな人になっても、ずるくても、何でも、メルチェがメルチェである限り、それでいいんだ。僕はメルチェのことが大切なんだ。メルチェはメルチェで、どんなメルチェでもそれはメルチェで、だから、だからえーっと、メルチェも、自分がどんな自分でも、受け入れてあげてほしくて……」
いつになく饒舌な兎を見て、メルチェは困惑した。けれど、一生懸命に言葉を紡ごうとしてくれている姿を見て、とても嬉しくなった。どんな自分でも受け入れてあげてほしい、か。なんだか心のつっかえが取れた気がした。レビウは、自分のすべてを肯定しようとしてくれているのだと、そう思った。
「……うふふ。こんなに一度に名前を呼ばれたの、初めてかも」
メルチェは思わず笑ってしまう。
「だ、だって。えっと、だから」
「ふふ。大丈夫よ、伝わったから。ありがとう、レビウ」
くすくすと笑うメルチェを見て、果たして本当に自分の思っていることが伝わったのかわからないままのレビウだったが、それはなんだか嬉しそうな顔にも見えたので、もうこれ以上何も言わないことにした。
時刻は午前三時半。
海の底、まだ起きているのはきっと自分たちだけだと二人は思った。みんなが寝静まった真夜中は、何よりも青く、深く、どこまでも続いているようだ。
「……もう寝る?」
けれどそんな感覚は幻で、すぐに夜明けがやってくる。
明日は朝からブリランテへ向かわなければならない。もう寝なければならないことはわかっていた。けれどメルチェの問いかけに、レビウはわかりやすく渋ってしまう。
「……寝たくない…………」
レビウの酔いはとっくに醒めていた。けれど、まだ酔っているふりをした。まだいたい。まだ、二人でこうしていたい。叶うことなら永遠に。
レビウはメルチェの肩にもたれかかる。頬をすり寄せて、思いきって甘えてみせた。
「メルチェ……」
「なあに、レビウ」
「メルチェ」
「もう。どうしたの?」
「メルチェ、メルチェ……」
メルチェはというと、さっきから顔が赤くなってしまっていた。そんなに名前を呼ばれると照れてしまう。繋いだ手と、密着した片側の身体があたたかかった。いつもはかっこいいレビウのことが可愛くて、愛しくて、どうしようもない。赤茶の髪をさらりと撫でた。ドキドキするのに、なぜだか安心する。居心地がよくて、ずっとこうしていたくなる。
「メルチェ、あのね」
「うん、なあに?」
「ずっとそばにいるって言ってくれて、ありがとう」
黒い長耳がメルチェの耳に触れた。
「……ううん。レビウも、ずっとそばにいてくれる?」
触れ合った耳はどちらも熱くて、けれど離れたりはしなかった。メルチェの質問にレビウは黙っていたけれど、しばらくして、肩のあたりに顔を埋めて小さくつぶやく。
「うん。いたい。ずっとここに、メルチェと一緒にいたい」
深い、深い、海の底。
朝が来るまで、いつまでもそうして寄り添っていた。




